アレルギー性鼻炎

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 私の家には畳がない。理由は、私が昔からダニによるアレルギー性鼻炎だからである。
 これまで住んできた家には、最低でも一部屋は畳敷きの部屋があった。これはしかし、なかなかつらいものがあった。畳はダニの養殖場のようなものだからである。薬品などでこまめに駆除していたが、それも限界がある。
 自分が建てた家は、思い切って畳を全部なくした。ひょっとしたら不便な場面もあるんじゃないかとも思ったが、まったくそんなことはない。
 「ゴロリと横になるとき困るじゃないか」と思う向きもあろうが、板敷きでもゴロリと横になることはできる。「痛い」?・・・薄物か座布団かソファーにでも横になればよろしい。
 「日本人たるもの、威儀をただして畳に座する時ってものを大切にすべきじゃないの」と思う向きもあろうが、心配いらない。日本人の圧倒的大多数が畳に座ることができるようになったのは、せいぜい江戸末期から明治ごろのことで、それまでは日本人の多くは板敷きや土間に住んでいたのである。百人一首の挿し絵のお公家さんは畳に座っているが、それは彼らがごく一部分の特権階級だったからである。昔、畳は手間ヒマかけて作られた超高級マットであった。シモジモの者がおいそれと座れるようなものではなかったのである。つまり、コンセサスとしての「和」は畳ではあるものの、現実の「和」は、板敷きなのだ。したがって、日本人ならば、「畳に座して威儀を正し瞑目する時」よりも「板敷きに座して威儀を正し瞑目する時」を大切にしたほうがよろしい。
 「年寄りがいたら、畳を懐かしがるんじゃないの」って?実は最近の年寄りは正座をし慣れてない。畳に座りたい云々と一応口にする年寄りはいるが、ではというので畳と座布団を用意して座ってもらうと、そういうことを言う年寄りに限ってやれ膝が痛いの腰が痛むの、10分とはもたない。現実は、年寄りのほうが実は椅子を恋しがるのである。「正座が一番ラク」なんてのは、実はあれは、そう言っているだけの場合が多いのだ。
 そんなわけで畳レスの我が家であるが、アレルギー性鼻炎の調子はすこぶる良い。本当に畳ナシにしてよかった。
 それともうひとつ。アレルギー性鼻炎に関しては、ここ最近、少々うれしいことがある。近年花粉症の人が増えたことだ。
 私が子供の頃、周囲にアレルギー性鼻炎の子というのはあまりいなかった。当時の子供たちに多かった鼻の疾患は「蓄膿症」であった。アレルギー疾患の本を読んでもらうとわかるが、化膿というのは人の免疫に関するリソースを消耗するため、時としてアレルギー症状を緩和することがあるそうだ。最近「青洟」をたらしている子が少なくなり、それに反してアレルギー性鼻炎の子が増えているように見える。これは、そうしたアレルギー症状と化膿の反向性のようなものが作用しているらしい。
 さておき、当時くしゃみばかりしているのはクラスでは私だけで、故にか、「ハクション大魔王」などというありがちなあだ名をつけられたものだ。四六時中鼻水とくしゃみに悩まされるため、勉強していてもちっとも集中することが出来ないし、スポーツなども、たとえば球技なんか、タマが飛んできてもくしゃみばかりしているから、ちっともうまくならない。子供ゆえ、強い薬も服用できない。この苦痛はアレルギー性鼻炎にかかった者しかわからないものだが、当時は大人や先生でもアレルギー疾患に関する知見は少なく、「精神的なものじゃないか?」などと言い捨てられ、それが、「佐藤君は精神が脆弱だからくしゃみばかりするんだ」などというわけのわからない方向へ論理が進み、実に不愉快であった。あのな、精神でどうやってくしゃみなんか出すんじゃ!!できるか、そんなもん。
 しかも、当時、今思えばそれこそダニだらけの家に住んでいたのだが、親も不勉強で、どうも「しっかり環境に慣らしていくことでアレルギーが『鍛えられ』、抵抗力がついて治る」みたいな考えだったらしい。あのな、ほかの疾患ではそういうものも多いが、アレルギーは違うんじゃ!!親のこうした非科学的な思い込みのため、当時私のアレルゲンは医師の検査により「ダニ」であることが明らかであったにもかかわらず、私の親はダニに関する対処をまったくしなかったのであった。アレルギー疾患はアレルゲンを除去しなければ、体がますます抗体をつくるから、ますますひどく重くなっていく。私のアレルギー性鼻炎はどんどんひどくなり、なのに当の親までが「精神的なものだ」などと言い捨ててすましている始末であった。どころか、くしゃみの飛沫をいやがり、文句ばかり言うので、子供の私もなんとかしようと一生懸命くしゃみをこらえて止めるようになった。そうしたらしたで、今度は「見ていて気分が悪い。全部出せ」などとムチャを言う。子供なりになんとかしようと、ダニを少なくするため自分で掃除をしてみたら、「ナニよ、あてこすりみたいに!!」と怒り出す。ああ、本当にイヤな子供時代だった。よく、「子供に帰りたい」などと言う人を見かけるが、私はまったく逆である。どんな代償を払っても、子供にだけは帰りたくない。ああ、本当に良かった、今は大人で。
 そんな私ゆえ、身の回りで今までなんともなかった人が花粉の季節に急に花粉症になり、くしゃみと鼻水で苦しそうにしているのを見ることほど気分の良いものはない。テキトーに「大変ですねぇ、お大事に」なんて励ましておき、その人がすっかり参っているころあいを見て、「なかなかよくなりませんねぇ。・・・ひょっとして

精神的なものなんじゃないですか?

と、たびたび言ってやるのは実に愉快である。こっちは子供の頃からの筋金入りのアレルギー性鼻炎ヤミであるから、くしゃみの10回や20回、鼻水の1リットルや2リットルが出たところで、対処法も心得たもの、自分にあったよく効く薬もちゃーんとあるし、何より鼻炎なんか私にとっては日常のことだからなんでもない。しかし、昨日今日のにわか花粉症どもには、これはつらかろうねぇ。私は残念ながら花粉アレルギーはまったくなく、ダニのみである。花粉の季節はむしろさわやかに晴れた日が多く、乾燥してダニがすくなく、私は快適なくらいなのだ。

コメントを頂いた。

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 「ワシはプータローなんかキライじゃ!!働け!!」みたいな意味の記事というか放言(これ)を書いたところ、思いがけず暖かいコメントをいただいた上に、「気になるブログ」としてリンクまでしていただいた。
  ↓
いただいたコメント
この方のブログ(goo-suke 身近な環境問題を考える人)
 この方は環境問題に関する立派なブログを書いていらっしゃる方であり、私のごとき、気にしていただくとは恐縮汗顔の至りである。
 私には環境がらみの知見はほとんどないが、ムリヤリこじつけるなら、この方に興味を持っていただけそうな記事は、これだろうか。
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自宅建築誌 居住編2・猫よけ

どこにも一切

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 「自宅建築誌」では、どこにも一切住所などの情報が出ないように心がけ、出来るだけ私の自宅がどこかわからないようにしてある。しかし、わかる人にはわかるのだろう。
 某S県だし。
某S県
 いっそ、某S県のキャッチフレーズは、そのまんま「某S県」ではどうか?

私が最も嫌い、蔑むものは

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 私が最も嫌い、蔑むものは、フリーターだプータローだなどと称して、勤労をせぬ輩である。
 いかにも脳の足りなさそうな輩がやれモラトリアムだやれ自分探しだなどと聞いた風なことをぬかして、何もせずすましているのも大嫌いである。こうした輩は、ナリはいっぱしの大人のように見えるが、頭の中は子供以下である。
 働け。勤労せよ。己を虚しゅうして務めよ。モラトリアムなどと称して意味のない捨て時間を過ごすより、勤労は多くのものを汝からとり、それを汝以外の者に与えるであろう。家族に与えるところ大なるものがある男は、社会にも与えるところ大である。

ハゲと虐待

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 「ハゲた人のハゲの隠し方を笑ってはならぬ。『時間の経過』というものに思いを致すべきである。あの珍妙なるバーコードは時間の経過によって作られていったものなのである。その人の年齢のことを言っているのではない。バーコードやトグロ頭は今日少し、明日少し、と、少しづつ少しづつ隠して行っているうちにあのようになったものなのだ。おそらく、はじめは分け目の幅が少し広くなった程度でもあったろう。そこに少し、分け目をずらして頭髪をかぶせたものかも知れぬ。誰が『よし、明日から俺はバーコード頭にしよう』と、あんなヘンな頭を目標にするものか。」

 ・・・という意味の論をどこかで読んだ。誰か有名な人の書いたものであったと思う。

 一方、ここに、児童の虐待に気づいてすぐさまその処置を取る教員が大変少ない、という新聞記事がある。

 家庭における児童・幼児の虐待が果たして教師の与るところか否かということはさておく。問題は時間、である。昨日までツルっとしてピカッとしていた健康な小児が、今日突然ギプスをはめて頭に包帯を巻き松葉杖で登校して来て、それを見て驚いた教師が「いったいどうした、何があった!?」と聞くや「・・・お父さんに殴られました」とボソッと答えれば、そりゃ誰だってしかるべき公的機関なり警察なりに通報し、児童を保護するに決まっている。これだけ世間がやいやい言っていることでもある。

 しかし事態は単純ではない。そこには時間の経過がある。

 ある日、子供は、腕か肩か、体のどこかに小さな青あざか、タンコブのひとつもこしらえてくるのかも知れない。人あって「そのコブはどうしたの?」と聞いたとして、「ご飯をこぼしてお父さんに叩かれました」と子供が答えたとして、さて誰がこれを不自然な虐待などと思うものか。今日のあざは明日のやけど、明日のやけどは来年の骨折、と、次第次第に事態は進むのだ、一足飛びにではなく。

 子供を育てる親として、時間に弄ばれぬ精神力を持したい。そうした精神力は、実に住環境によって保たれうるところが大きいと信ずる。