靖国神社へ

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 昨日、やっとこさ靖国神社へ行ってきた。女房子供連れていった。

靖国神社参拝記念のパンフレット等(PDF文書・要Adobe Reader)

 もちろん、家族揃って遊就館も拝観した。日露戦争100年記念の展示をしていた。大人300円。

 「私たちは忘れない/感謝と祈りと誇りを」という映画をやっている。以前参拝した折には、この映画を半分ほどしか見ることが出来なかったが、昨日は全部見ることが出来た。

 靖国神社のサイトは、今日現在、見ることすら能わぬ。おそらく、中国人・朝鮮人が低劣なるDoSアタックを執拗に繰り返しているのだろう。ま、勝手にすれば、とも思う。

靖国神社のサイト

パグウォッシュ会議は結局何の意味もなく、核兵器をなくすことなどできはしなかった。

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 表題のとおりなり、もって銘ずるべし、瞑すべし。

コメントを頂いた。

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 無責任かつ好き勝手な放言を繰り返すことが増えてきたブログなので、コメントを貰ったり、トラックバックがついたりすることはほとんどない。

 まぁそれでもいいかな、と思ってはいるものの、コメントを頂いたりすると、そこそこ、ホノボノと嬉しかったりする私である。

 さて、「傘地蔵」さんという見知らぬ方から、丁重にコメントを頂いた。先日、「煙草」という記事から「禁煙ブログ」というところにトラックバックをつけたからだと思う。

「煙草」についていただいたコメント

 本当に、「禁煙」と一口で書くものの、また自分のせいとは言うものの、禁煙は生半可なことではない。自分の主人は自分だ、と、ただただ、そのことを念ずるのみ、そして、禁煙に失敗する人に、「自分の主人は自分」という、その言葉を送る。

「クズ野郎アインシュタイン」について頂いたコメント

 私の放言に、一定の理解を示しつつ、少しばかりのクギも刺してくれることに好感を持った。

 ただただ、良心、平和、それよりもなお、事実と真実、そういうものが力を持ってくれる世界でありさえすれば、などと妄想する。

 だが、巷間、日本軍が中国大陸で、殺戮を繰り返したなどという妄想が、しかし事実の罪とされて──実際、妄想であるにもかかわらず──許されることがないように、真の科学者とは言えない殺人鬼どもが、広島で、長崎で、数多の人を殺戮したことは永遠・永久に許されるべきではない。

 たとえ神の手によって許されても、日本人から許されるべきではないのだ。

 ここに、例えば強盗かなにかで殺された人と、殺した者がいるとする。国はそれを裁くだろう。そして、時満ちて、国が殺人者を許すことはあるだろう。がしかし、殺された人の父、母、兄弟、そういう家族が殺人者を許せば、それは殺された家族を低く置くことになろう。

 もし、大量殺人爆弾を作成した科学者どもが、ほんとうに人類の幸福に寄与する科学者であったのなら、どんな手段、どんなことを尽くしてでも、殺人兵器の開発に寄与すべきではなかった。力足らずそれを許してしまったのなら、自分の命を差し出してでも、多くの命を救うためにそれを止めるべきであった。それが出来なかったのは、「殺人者」だったからである。「科学者」ではなかったのだ。

 殺人者は、裁かれねばならぬ。日本の殺人者が裁かれたように、等しく裁かれ、低く置かれねばならぬ。

 それが無理だとするなら、せめて、偉人の地位に甘んじるべきではない。

 繰り返し思うことには、大量殺人非道爆弾(あえて原子爆弾などと書くまい)は、言うまでもなく日本陸軍が投下したのではない。

 アメリカ合衆国が投下したのだ。

 アメリカ人のパイロットが、アメリカ人科学者の作った大量殺人非道爆弾を、アメリカの市民が選んだアメリカ人の大統領の命令によって、投下したのだ。

 繰り返し書くが、多くの善良なる日本の市民からなっていた日本陸軍(思い見るべし、当時は現代の多くの諸外国と同じく、徴兵制であった。)が大量殺人非道爆弾を投下したのではない。