トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その1.7

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 いよいよ明日は次女のピアノ発表会である。主役は次女だが、連弾で登壇する私にとっては大げさに言えばステージデビューである。

 今日も土曜日で休みだから、直前の稽古ということで、次女のピアノの先生が見てくださることになっていた。あいにくと東京近辺は朝から嵐だったが、うきうきと教室にお邪魔する。

 今日は直前ということもあってか、たくさんのご指導はいただかなかった。だいぶ自信がついたように思う。

 しかし、より高度な演奏を目指すなら、という意味を込めてか、私にとってはかなり難しい「終盤のピアニッシモの弾き方」をご伝授くださった。その内容は多分に体感的なもので、文字で表すのは非常に難しい。グランドピアノのキーを押し下げていくと、ある点で手ごたえがあり、ピアノのハンマーが、トン、と弦を叩くところがある。デジタルピアノのカタログに見る「エスケープ」のところだが、そこのところで手首を一緒に下げて力をやさしくしながら、ハンマーに弦を叩かせるのである。これはなかなか加減が難しく、一朝一夕にできるものではないと思った。

 また、左手が伴奏的で、右手が「歌う」ような曲のとき、「左手は少し弱く、右手は強く」弾く、ということがあるが、これは初歩の段階で練習することで、またそれほど難しくない。ところが、先生によると、「左手右手のバランスだけではなく、和音を弾いている片手の中でも、『小指を強く、親指を弱く』というような差をつけて弾く」のだそうで、実際に右手のドミソの重音の和音を、ソが強い場合、ミが強い場合、ドが強い場合と弾き分けて聞かせてくださった。それは、音感のない私にも明確な違いの感じられる弾き分け方で、さすがはプロ、ほれぼれと聞き入るような美しい響きである。小指を強くしたものには澄んだ意志のようなものが、中指が強いものには複雑な味付けが、親指が強いものには揺るぎのない安心感が感じられた。

 これは私にとってはかなり難しく、思わず「エエッ、無理ッ」とつぶやくと、「ムリじゃない、ムリじゃない」と先生。ピアノをきちんと習っている人には基礎的な事柄のようである。

 こういったところが、先生に習うことと、独習することとの違いなのであろうな、と感じ入った次第である。

 風邪気味であるが、ひどくならないように心がけ、今日は早く寝て明日に備えたい。

レコード2枚のこと

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 昨日、川口駅前「そごう」の中の楽器店をうろついていて、ワゴン積みのなかにウラジミール・アシュケナージ演奏のショパンがあるのを見つけた。デッカのレーベルで吹き込まれたもので、値段はたった千何百円である。当然買いである。

別れの曲~ショパン名曲集 別れの曲~ショパン名曲集
価格:¥ 1,800(税込)
発売日:2003-06-25

 更に店の中をうろつくと、グールドのゴールドベルグ変奏曲のCDがあった。なぜか2種類ある。よく確かめてみて驚いた。

 グレン・グールドの「ゴールドベルグ変奏曲」は、バッハ演奏の不滅の金字塔として有名だが、グールド自身は今私たちが入手可能な新しい録音に不満を持っていたらしく、昭和30年(1955年)に出したモノラル録音のもののほうを気に入っていたらしい。

 このモノラルのものは今はもう入手できないと聞いていたが、どうやら再び発売されたようだ。昭和56年(1981年)の新しいほうの録音と一緒に、たった1600円でそれが置いてあった。もちろん買いである。

バッハ:ゴールドベルク変奏曲(55年モノラル盤) バッハ:ゴールドベルク変奏曲(55年モノラル盤)
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2008-11-19

 さっそく携帯電話に入れ、ピアノにつないで聞いてみる。どちらのCDもうっとりするようなすばらしいものだ。自分が最近ピアノなど弾き出したものだから、よけいにそう感じる。

NTTドコモ携帯電話 Primeシリーズ「SH-03A」のこと

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 暮れに、訳あって大金を投じ、携帯電話をNTTドコモの最新シリーズ「Prime」の、「SH-03A」に換えた。快適であり、おおむね満足している。だが、2~3の不満足な点もある。良し悪しを綯い混ぜて、ここに書き留めておきたい。

  •  電子メールを書いている最中に、写真を撮って添付したくなることがままある。前の「D901is」だと、添付ファイルをつけるときに「新規に写真を撮って添付する」という選択肢が出て、手軽にこれができた。だが、今度のSH-03Aはそのへんは簡単ではない。マルチタスク機能を使ってやることになり、少々煩雑だ。×。(よく見るとできることがあとでわかったので訂正。2008年2月7日)今度のSH-03Aもそれはできるのだが、選択肢がサブメニューの後ろのほうにあるため、メニューを1ページ送らなければならない。ともすれば「その機能がないのではないか?」と勘違いしてしまう。サブメニューのよく使う機能は前のほうに送られてくるなどの工夫はなかったものか。
  •  ブルートゥースが組み込まれており、ワイヤレスヘッドフォンとの相性は抜群である。満員電車で通勤していると、不快を紛らわすのに音楽は卓効があるが、ヘッドフォンのコードがあっちこっちにひっかかったりしてややこしい。私はソニーのBRC-BT15というハンズフリー通話機能つきのブルートゥースレシーバーを秋葉原のヨドバシカメラで8900円ほどで買った。
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    これは実に快適なもので、この小さく軽いレシーバーのスイッチを入れると、携帯電話の音楽プレーヤーが連動して立ち上がり、前回スイッチを切ったところから続きの音楽再生が始まる。電話がかかってくれば、側面にある小さなボタンを押せば良い。内蔵マイクで快適な通話ができる。人ごみで突然、ポケットに手を突っ込んだままハンズフリー通話をすると、さすがに周りの人が引きますがね(笑)。

 普通、ヘッドフォンを携帯に接続するにはいわゆる「平形」のコネクタでつなぐものだが、平形コネクタは繊細なつくりで、強度はあまりない。ポケットなどに無造作に入れておくと、ともすれば折れてしまう。その点でも、このブルートゥースレシーバーは実にオススメで、ワイヤレスであるから、脆弱なコネクタ類が出っ張るということもなく、携帯を壊すことがない。

 また、どうしたわけか、FOMAの以前の「平形ヘッドフォンコネクタ」はなくなってしまっており、以前に買ったコネクタは使えなくなっている。このシリーズでは、ヘッドフォンをつなぐところは、充電のコネクタと一緒になってしまっているのだ。したがって、別売りの「充電スタンド」を使わないと、充電しながら音楽を聴くことはできない。だが、このブルートゥースレシーバーを使えば、充電しながら支障なく音楽が聴ける。充電スタンドにセットした状態でも、ブルートゥースは5メートルや6メートルはまったく問題なく飛ぶから、同じ部屋の中であれば大丈夫である。

  • Img_0668_3 この機種の音楽機能はピアノとベストマッチである。 前述のブルートゥースレシーバーを愛用のデジタルピアノ「Roland FP-7」のヘッドフォンステレオ用端子にステレオミニプラグで接続し、携帯でアシュケナージのショパンなどを再生して聞けば、FP-7とSH-03Aは実に文句なしのステレオ装置に早変わりする。色を黒で統一したのは意識したわけではなかったのだが、こうして組み合わせてみると実に良い。
  •  音楽機能はWindows Media Playerと非常によくリンクし、音楽データの転送も簡単である。
  •  音楽機能の不満点がひとつある。8GBのmicroSDを入れれば、我が家にある全てのCDを飲み込んでまだ余りあるほどの容量があるのだが、残念ながら曲の数は1000曲が上限である。説明書には1000曲とあるが、999曲でエラーが出る。1000曲というのは意外とすぐにいっぱいになってしまうものなのだが、上限が1000曲までという説明もわかりにくいところにある。しかも、1000曲を超えたときに表示されるエラーは「1000曲でいっぱいです」という意味のものではなく、ただ「失敗しました」とだけパソコン側に表示されるので、なぜ失敗したのかがわからない。少々改善の余地が感じられる。
  •  タダで地図アプリが最初からついており、ナビゲーション機能もある。徒歩や電車移動時の道案内は、「次の交差点を右へ曲がれ」等と音声で教えてくれ、実に快適だ。地図はネットの向こうから最新のものをそのつど持ってきて表示してくれる。だが、「パケホーダイ」等の契約をしないで、ナビゲーションしながら電車などに乗ってしまうと、大変な量の地図をスクロールしつつネットの向こうから持ってくるので、莫大なパケット代がかかる。要注意である。私はそんなことにならないよう、しっかりと「パケホーダイダブル」を契約しておいた。
  •  カメラは高機能だが、反応はデジカメほどには速くないので、それほど期待はしないほうがいいと思う。
  •  標準でついているフルブラウザは、一度使うとやめられませんというくらいのすばらしい出来である。だが、これでYouTubeなど見るとき、ブルートゥースに音が出力されないのはメーカーの千慮の一失といえ、残念である。 

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その1.6

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 引き続き連弾用のトルコ行進曲の練習を進めつつある。

 今日の午前中は、特に連弾のレッスンということで、次女のピアノの先生にかねて約束があった。次女と二人、教室に伺って稽古をつけていただいた。

 やはり、専門の先生に稽古をつけていただくということは、独りで弾くのとは次元のまったく違う、刺激の多い、すばらしいことであった。

  •  「p」「pp」などは、この曲の場合、「小さい音」で弾くことではない。「遠くの音」で弾く。頭から?マークの出た私に、「『遠くの音』で弾くには、例えば、実際に遠くを見てみるといいです」と御教示くださった。実際に試してみると、本当に遠くで鳴っているような音になったので驚いた。
  •  「f」や「ff」は強いからといって強く弾いてもだめで、逆に手の力を抜く。教えられたとおり手の力を抜いたら、本当に非常に大きな音になった。また、「『バーン』ではだめです。いわば、『ドンッ』と弾いてみてください」と言われた箇所があり、いわれるままそうしてみたら、これも本当に「ドンッ」とした音が出た。
  •  終盤の弾き方について、「お父様のはレガートで、オーケストラのチェロが低音を滑らかに弾くように。そのときのコツは、手を動かさず、低く抑えるように弾くこと。智香ちゃんのスタッカートは、オーケストラのバイオリンがスタッカートを弾くように」とおっしゃった。うまいこと例えてくださるものだなと思った。

 レッスン後、先生に手の格好はどのように考えるべきかを尋ねてみた。私は手首がどうも下に下がる傾向があるようで、それが前から気になっていたからだ。そうしたら、意外なご教示を下さった。すなわち、「音中心」で考えよ、とおっしゃるのである。

 子供の場合は、基本を身につけさせるため、あくまで、例の「卵を握るように」という手の「型」を重視して教える。(『ちかちゃんにもそう教えています』と先生)だが、それはそれであり、大人の場合は必ずしもその限りではない。つまり、「ある演奏」や「ある音」を追求した結果、「その演奏」「その音」を出すための「ある手の型」になるのであり、逆に「手の型」に拘泥して「要求される音」が出ないのは主客転倒である。

・・・とのことである。なるほどなあ、と非常に納得のいくところ大であった。

 得たところが非常に大きかったので、この先生のピアノのレッスンに通えたらなあ、と思った。だが、仕事をしているとなかなかそうもいかない。ここ一番の緊要な段階で、単発で稽古をつけてもらえないかと考えた。そこで、帰り際に、

「きょうスグ、いまスグ、というわけではありませんが、『単発』で稽古をつけていただくというわけにはいきませんでしょうか。応分の謝礼をいたしますので。仕事をしていますと、なかなか、週1回とか通うのが難しいもので・・・」と言ってみたら、快く「そのつど言ってください、ご相談に応じます」と言ってくださった。

 来週も連弾の稽古をしてくださる。その次の日にはいよいよ発表会である。楽しみだ。

 レッスンに行く前にも帰ってからも、次女ともども、相当気合いを入れて稽古をした。弾いた回数を楽譜に「正」の字で記していたら、エラいことになっている(笑)。

Img_0669

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その1.5

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 次女との連弾の練習を進めつつある。

 緊張下で練習するため、ビデオにとり、YouTubeにその動画を上げた。

「バイエル」

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 いつも近所の島村楽器で買い物をする。ふた月ほど前、メトロノームを買った折、書籍コーナーを見ていると、子供向けの音楽家伝記シリーズの漫画があり、ベートーベンやモーツァルトに混じって「バイエル」という題のものを見つけた。

 先週、それを買ってみた。 

バイエル―マンガ音楽家ストーリー〈8〉 (マンガ音楽家ストーリー (8)) バイエル―マンガ音楽家ストーリー〈8〉 (マンガ音楽家ストーリー (8))
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発売日:2004-02-04

 それなりに面白いものの、残念ながら、ほかの音楽家と違ってバイエルのことはほとんどわかっていないらしく、このマンガはオールフィクションである。

 だが、今日これを取り上げたのはほかでもない。あとがきに非常にいい調子で「バイエル肯定論」が書かれてあったからである。

 巷間、「バイエル否定論」を探すことはたやすい。「バイエル ピアノ」でググれば、子供の頃ピアノがものにならず、挫折した人のルサンチマンやら恨み節をこめて、「バイエルなんてクソだ!!やめちまえ!!」というようなページが目立つ。

 だがこの本のあとがきは、そうした「バイエル否定論」に、真っ向から、ひとつづつ反論している。かいつまんで記せば、

  •  よく知られた子供向きの曲がない。 ← よく知られた子供向きの曲が豊富な「メトード・ローズ」は、ピアノ初心者には読譜も演奏もむずかしい。
  •  ポリフォニーがない。 ← ある。よく見てないだけ。
  •  曲がきれいでない。 ← 初心者用の教則本なので、初心者の演奏ばかり聞くことになり、そんなふうに感じる。ピアニストが弾いたバイエルの録音を聞くと、びっくりするくらい美しい。
  •  バイエルは古臭い。 ← なら、モーツァルトやバッハは?
  •  両手ト音記号ではじめるのはおかしい。 ← 別段おかしくない。
  •  ヨーロッパで使われていない。 ← ヨーロッパのピアノ教師は、そもそも練習曲に重きを置いておらず、バイエルが使われていないんじゃなくてツェルニーやクレメンティも使われていない。ところが、「バイエルはヨーロッパでは使われていない」という人に限って「ツェルニーは大事」などという。

 ・・・等々である。

 なんにせよ、私は、オッサン面下げてバイエルを一生懸命練習しているので、「その練習にはとても大事な意味がある」というふうに書いてあることはとてもうれしい。

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その1.2

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 今日は成人の日、祝日で仕事は休みだったが、月曜だから、次女の通常のピアノのレッスン日である。発表会が近いので、無論私が連れて行く。

 レッスンの後半、連弾を先生に見ていただき、まずまずあまりたくさんのご指導はいただかなかった。今日の段階では可はなし、而して不可はなし、というぐらいの感じである。

 ただ、私はどうも、次女を置いていっている感じがある。もう少し次女とあわせたい。

 この曲のテンポは、楽譜に書いてある「♩=112」だと、私にはたいへん速く感じられる。このテンポのことを先生に伺ったところ、

  •  数字にはそんなにこだわらなくて良い。
  •  それよりも、「Allegretto」という標語の意味をよく考えること。
  •  「行進曲」という題を考え合わせる。速いものといえばベートーベンの頃には最速でも馬車程度であったはずだから、かつての行進曲はそんなに速くはなかったはず。
  •  2/4拍子で、右足に拍をおきつつ、歩いて歌うのもよい。実際に歩いてみながら、階名で歌ってみるとよくわかる。

 ・・・等と、実に該博な知見でご指導くださった。

「昔の行進曲は、こんなふうに(手のひらで足の運びを擬しながら)右足を出しては一旦両足を揃え、左足を出してまた両足を揃え・・・と、いう具合だったそうですよ。」

とおっしゃる。そういえば、トルコ軍楽「メフテル」の映像の中で、メフテルハーネたちがそんな歩き方をしていた記憶があって、そう申し上げると先生も頷いておられた。

  •  トルコ軍楽「メフテル」の名曲「ジェッディン・デデン」

 モーツァルトもベートーベンも、その活動時期には既にオスマントルコのウィーン攻めは伝説の時代劇であったはずである。だがしかし、曲の抑揚のつけ方、時々出てくる短音階の怖い感じ、やや滑稽味のある珍しいところ、装飾音・前打音の「小ぶし」感などに、ウィーンの人たちの民族の記憶としてどれほど強くトルコ軍がその軍楽とともに刻み込まれていたかが感じられる。

 当時のウィーンの人たちは皆殺しをもってなるトルコ軍をどんなにか恐れていたことだろう。異文化、異人種、そして近づいてくる今までに聞いたこともない変な音階のラッパ、複雑な巨太鼓のリズム。

 それまで、行進曲や軍楽というものはヨーロッパにはなく、音楽の都を自ら称するウィーンといえども、トルコ軍のメフテルは、かつて見たことも聞いたこともないものだったのだ。か弱い市民たちがその耳を聾する響きにどれほど腰を抜かしたか想像に難くない。まして今の軍隊とは違う、女は蹂躙され、子供は連れ去られるか老人とともに虐殺、財貨も食料もひと舐めだ!!

 だが怖いもの見たさ、物珍しさで地下のワイン倉にでも隠れて戦々恐々、小窓から半分眼を覗かせて、やかましいメフテルが恐怖とともに近づいてくるのを待ったに違いない。市民がトルコのイェニチェリの、精強にして、だが、珍妙でもある装束を、怖さ半分面白さ半分、息を殺してしみじみ覗き見る姿が眼に浮かぶ。

 ウィーン攻めをあきらめて遠く去っていくトルコ軍楽の響きを、運良く生き残った市民たちは、胸をなでおろして聞き入ったことであろう。

 滅亡を免れたハプスブルグ朝は、オスマントルコの旗印の「日月」の形のパンを焼いてそれを喰らい祝うよう市民たちに命じたという。「トルコごとき、何ほどのことやある」と、事が済んでからの空威張りも、なにやらほほえましく感じられる。

 この時の「日月」の形のパンは、ハプスブルグ家とフランス・ブルボン家との結婚外交によって自然フランスに入り、しゃれたデニッシュの一種類「クロワッサン」となって今に残る。

 ・・・そんな感じが、この子供用の簡単な編曲にも横溢していると私は思う。

成人の日所感

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 成人の日、祝日である。朝から我が家の玄関先には日章旗を掲げて祝意を表した。

 だが、本心を言えば、私はあまり喜ばしく思っていない。

 テレビや新聞は、どうせ今年も荒れる成人の日、などという面白くもないニュースで塗りつぶされているのだろう。見る気もしない。電気代や新聞代を自腹で払って不愉快な思いをする必要などない。

 20年以上前、自分の成人式の日、私は仕事をしていた。だから、いわゆる世間一般の人が言う「成人式」というものには出ていない。その日は朝からなぜか一日中忙しかった。職場の下の者に私と同い歳の者が何人かおり、午前中、時間になると彼らを成人式に送り出してやった。私は職場に残ってなんやかやと深夜までコマのように働いて、自分の成人式がどうとか言っている暇はなかった。深夜1時、職場のきしむベッドにもぐりこみながら「ああ、成人式だったな。日がまわっちゃった。俺、成人じゃないか、ハハ」と、ひとりごちたものだ。

 社会人として責任を果たした、自分なりの成人式だったと思う。いや、そのずっと前から、私は社会の一員としての責任を果たしていた。だから、既に成人だったのだと思う。何ぞ我を他人が祝うことやある、と言うぐらいの内心を私は抱いていたようにも思う。

 親の金で高校や大学を出てぬるく生きている者には、成人の日における私の行動など、知能の低い者が自業自得によって仕方なくとった愚かさの代償に見えることだろう。2ちゃんねる流の言い回しなら「ドキュソ」である。「そうなる前になんで勉強して大学出るなりしないわけ?バカじゃねぇの?」とでも言い捨てることだろう。

 自分のことや当時のことをわかってもらおうと他人に説明する気など私にはない。親兄弟、妻や子供にすらわかってもらおうと思わない。理解などできまい。こんな話をすれば、「大げさだ、ウソだ」と言う。言わば言え、なんとでも。哀れまれたいと思っているわけではさらにない。

 自分のことをどうこうではない。ただ私は、高等教育を受ける機会を与えられておきながら、モラトリアムだのニートだのフリーターだのと称して怠け、寧日をむさぼっているスネ齧りの馬鹿者たちを腹の底から軽蔑し抜いているだけだ。

 手放しで誉められ、甘やかされてきた若者たちは、祝福されるにふさわしい人間となれるよう、自分たちを責め抜き、鍛え上げ、懺悔しなければならない。そうしなければ、今日という日は永久に、誰からも本当の本心からは祝ってもらえない、ゴミか痰唾のような蔑まれるべき成人式のままである。

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その1.1/他/YouTubeで遊ぶ

投稿日:

 YouTubeに動画をいっぱい上げて遊ぶ。

 他に、

次女の「悲しい」

投稿日:

 ショパンの「別れの曲」をイ短調に移調したやつが次女(小1)のキーボード付属の楽譜集の中にあり、それを拾い読みしつつド~ファーミファソ~♪と爪弾いて遊んでいた。

 そばに次女がいたので、「オイ智香、この曲、どんな風な感じがする?面白い?暗い?悲しい?気持ちじゃなかったら、色とか味とかでもいいぞ?」と聞いてみた。それは先日、ピアノの先生がショスタコービッチのワルツの稽古を次女につけつつ聞いていたことだ。芸術の才能の優れた者には、「共感覚」とて、色彩や音階から味を感じたり、音階から色が見えたりするそうで、そういう者は知能が高いということをどこかで読んだことがあるのを思い出した。

 さておき、私のこのブログには今まで書かなかったが、次女はわが子ながらたいへん面白い子である。時折その突拍子もない感性に爆笑してしまうことがある。私の質問に少し思案してから出した答えが、

「転校生だと思う」

 というのである。

「・・・?転校生?この曲が?・・・転校生がどんなふうなんだ?」

「転校生が悲しいの。その転校生はブスだから。ブスで友達がいなくて、悲しい。」

 次女がわりと真剣な顔でそう言っているのにもかかわらず、思わず吹き出しそうになった。

 が、改めてそういう気持ちで「別れの曲」を聴くと、沈鬱に悲しんでいるブスの転校生の心みたいな感じもしなくもない。だが、悲しむブスの映像を思い描きながら、そのビジュアルのBGMに「別れの曲」を脳内で流してみると、なんだかメッチャ笑えるのであった。