名代・あんこう料理専門店「いせ源」・甘味処「竹むら」

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 このブログに、このような記事を書くことは非常に珍しいが、ちょっと楽しい飲み食いをしたので書きとめておきたい。

 秋葉原の駅を出て「中央通り」を南にゆくと、靖国通りに向かう途中に「万世橋」がある。ここから眺めると左手に萬世の通称「肉ビル」、右手に旧中央線の古色蒼然とした煉瓦造りの高架がある。

 「以前交通博物館のあったところの裏の一画」と言えば、ピンとくる方も多いと思う。

 秋葉原のカラフルなイルミネーションはすぐそこなのに、この万世橋の右手の、煉瓦造りの高架の一画だけ突然時代が遡ったように見えるのはなぜか。それは、あの一画だけ戦時中の空襲の被害をどうしたわけか免れ、戦前のままに街が残されたからである。しかし、米軍側の資料でも、どうしてあの一画を標的にしなかったのかはよくわからないという。

 さて、そんな万世橋と靖国通りに挟まれた秋葉原南西の一画、正確には神田・須田町と、同じく淡路町にまたがるところだが、「大人の人たち」は戦前への愛惜を込めてそのあたりを「連雀町」と呼ぶ。江戸時代、背負子を背負うための肩掛けに使う「連尺」を作る職人がここに住み着いていたので連雀町というようになったのだそうな。

 このあたりには、空襲の被害を免れたため、戦前の建物がゴロゴロと残っている。有名な蕎麦店の「神田・藪」や「まつや」も、この一画にある。

 その「神田・藪」にほど近く、あんこう料理の専門店があり、なんと創業180年(!)と言う老舗ぶりを誇っている。それが名代の「あんこう料理・いせ源」だ。この店は「知る人ぞ知る」名店で、他の料理もあるにはあるが、冬の「旬」になると「『あんこう料理』一本!」で勝負している。店舗は昭和5年築で、戦災を免れたため、東京都の「歴史的建造物」に指定され、保護・保存されている。

 一夕、この「いせ源」に行ってみた。

 あんこうは「七つ道具」と言って、身のあらゆるところがおいしく食べられることもよく知られる。グロテスクな姿態にもかかわらず、食味は繊細・淡白で、食べ飽きることがない。「肝」も俗に「アンキモ」と言われて、フォアグラに匹敵する珍味と言う人もいるほどだ。

 いせ源のあんこう鍋は、このあんこうの「いろいろなところ」を、秘伝の濃いめの割下で炊き上げて食する。仲居さんが何人もいてこまめに面倒を見てくれるから、私のような素人でも心配なかった。

 あんこうの「いろいろなところ」には、コリコリしたところやヌルヌルしたところ、ホクホクしたところや、プルプルしたところ、甘いところなどいろいろな身があり、とりわけ「アンキモ」のうまさと言ったら…!。菊正宗・上撰の熱燗が、それこそ「どこに入ったかわからぬ…」くらい、すいすい飲めてしまう美味しさである。

 あんこう鍋を堪能した後は、あんこうの身の「いろんな味」がじっくり溶け込んだ出汁にご飯を入れ、刻み葱をたっぷりと載せて、煮えばなに溶き卵をかけまわした「雑炊」がこたえらない。これも仲居さんがすばやい手際でこしらえてくれる。

 値段のほうは、あんこう鍋一人前3400円~と、「滅茶苦茶に高いわけではない」値段だ。むしろ、江戸時代から続く暖簾の、戦前から大切に保存されている店舗で、青森産の「本格のあんこう」を食って、和装の美しい仲居さんにお世話してもらってこの値段は、安い方と言えるだろう。

 さて、あんこう鍋で程よく飲んで酔った後、「甘味が欲しくなる」のもままあることだ。「酒後の甘味は体に毒」なぞと言うようだが、なに、言うヤツには言わせておけばよろしい(笑)。

 おあつらえ向きに、いせ源の向かいに、これも戦前からの老舗の甘味処「竹むら」がある。ここも戦災を免れ、都の歴史的建造物として保存指定を受けた、「なんともいえぬ風情の」店舗だ。

 「竹むら」では、最初に出される桜湯をゆっくりと味わい、それから迷わず「粟ぜんざい」をオーダーしよう。700円しない程度だ。ほかほかに蒸し上げた淡白な「粟飯」の上に、品よくこしあんをかけ回した味わいは、一緒に出される濃いめの煎茶ととけあって、「左党」のオッサンでも思わず膝を叩く美味しさだ。

 そして、土産に、老舗・竹むら自慢の「揚げ饅頭」。これは二つで450円。揚げ饅頭のふんわりとした軽い甘味は、家で待っている女子供を喜ばせること請け合いだ。

 いずれの店も、作家の故・池波正太郎が愛してやまなかったことでも有名である。秋葉原から歩いて5分、スグであるので、一度「ハードディスク代金をチト削って…」試してみては如何。

乳守(ちもり)」片聞

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 同窓生と雑談チャットをしていて、「堺・乳守(ちもり)」というゆかしい地名を聞いた。

 私は大阪・堺、世界最大の陵墓として有名な伝・仁徳天皇陵や、東京・府中に次ぐ規模の巨大刑務所、大阪刑務所に程近い、田出井町というところの生まれ育ちである。

 乳守。乳守と書いて「ちもり」と読む。たしかに、聞き覚えがある。昔、大人たちの雑談の端にあらわれていた。「堺の旦那衆」の御大尽な遊びの話の中に「戦前にナ……」などという前置きとともに語られていたものだ。

 だが、忘れていた。だから、「乳守」は、同窓生にほとんどはじめて教わった地名と言ってよい。

 遊里である。同窓生によると、京・祇園よりもまだ古い、鎌倉・室町のむかしにまでさかのぼる遊郭(正しくは花街(かがい))であったそうな。堺の古い遊里は高須、乳守の両地区が渾然一体となっていたようだ。

 だがさきの大戦は由緒にも容赦なく、乳守は戦災で壊滅し、今はその片鱗すらもない。現在の地図ではこのあたり(Google Maps)である。

 かの一休禅師宗純が傾城(けいせい)地獄太夫に会ったのは、乳守の(くるわ)であるようだ。一休は堺の名刹・南宗寺に住んだので、乳守の遊里に遊んだとしても不思議はなかろう。「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という歌や、「聞きしより見て美しき地獄かな」「生き来る人の落ちざらめやも」という歌が乳守と一休の由緒として伝えられてあるようだ。

 上方落語に「すみよし茶屋」という噺があり、その中に、この地獄太夫と一休禅師の話がでてくるらしい。また、「三枚起請(きしょう)」という(はなし)にも出てくる。三枚起請のほうは、舞台を吉原に直して、東京でもかかるという。手元の蔵書「上方落語」(ISBN4-06-203330-5)を繰ってみると、「すみよし茶屋」は載っていないが、「三枚起請」は載っている。だが、この蔵書では由緒のある乳守ではなく、「堺の新地から難波(なんば)の新地へ移った(こども)」ということになっているようだ。

 この「三枚起請」のサゲは、「別に(からす)に怨みはないけども、あたいも勤めの身。世界中の烏を殺してゆっくり朝寝がしてみたい」となっている。東京では高杉晋作の作と言われている都都逸「三千世界の烏を殺し(ぬし)と朝寝がしてみたい」にからめて語られるようだ。

 子供の頃の私などが度々耳にすることがあった遊所というと、旧軍隊の衛戍(えいじゅ)地にはつきものの「新地」(『青線』であったろうか)、「信太山(しのだやま)新地」などである。乳守は、いわゆる「新地」の信太山などとは比べものにならぬ、「一見さんはお断り……」の、由緒と格式を持ったれっきとした遊里であったものであるらしい。