わがことをまたぼんやりと木の芽和へ

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 職場の建物の周りの植栽に、早春から今時分にかけて黄色い小さな花を咲かせる木本性のものがあり、なんという花か判らずにうちすぎていた。

 昨日、意を決して写真を撮り、図鑑などを繰ってみた。

 その結果、どうやら、「支那連翹(シナレンギョウ)」という花らしいとわかった。

 リアル、ネットを問わず、私を知る人は、私が日頃俳句をよく詠むものだから、私のことを季節や花に詳しい人だと思っているふしがある。だが、実際の私は逆で、植物や鳥に(くら)い。俳句も、天象や人事(行事や生活のこと)、時候、地理などはよく詠むが、植物は苦手で、あまり詠めない。せいぜい、春に桜や梅を詠むくらいだ。だから、この「支那連翹」も、私にはわかるはずもないのであった。

 私が育ったのは、大都会とまでは言えないものの、ある程度の街なかだ。つまり、そんなには自然に親しむ暮らしでもなかったのである。

 先日も、目白と鶯を間違え、「街路樹の梢に鶯を見た」などと言って憫笑をかった。鶯のような臆病な鳥が街路樹を飛び回るはずはない。少し自然の暮らしが身についている人なら知っているようなこんなことが、私にはわからなかったのである。

 昨日、帰宅すると、山椒のいい香りがする。キッチンのカウンターにゴマメを煎り付けた御菜の鉢があって、そこからの香りだ。これはどうしたの、と妻に聞くと、姑から「木の芽」が届いたのだと言う。見ると青い木の芽と一緒にからりと煎り付けてある。一つつまんで見ると、口じゅうに春の香りが広がった。

 姑は私の家から歩いて30分ほど離れたところに住んでいる。姑の住まいの庭に、去年なぜか山椒が小さな芽を出した。住宅密集地の小さな庭に、どうして山椒が生えたのかはまったく不明だ。ともかく、その山椒が一年たって少し育ったらしく、芽を採って分けてくれたのだ。

 この採りたての「木の芽」を煎り付けて御菜にしたのだから、美味くないはずがない。

 年寄りと言うのは、そういうところが素晴らしい。私なら、それが山椒とはわからず、雑草と一緒に引き抜いてしまったことだろう。姑は小さな芽であるにもかかわらず、香りと葉の形で「あら、こんなところに山椒が」と、むやみに引き抜くことなく、その芽を取り分けたのである。

 私は日常、日本人ぶったり、愛国者ぶっている。そのくせ、茶道も華道も知らないし、和服も着たことがない。と言って、今更あわててそれらの知識を渉猟したところで付けやいばに過ぎないから、すぐに馬脚が出てしまうだろう。

 日頃「ぶって…」いても、実は私は日本の四季と自然が身についていない、似非日本人なのかも知れない。

 だが、私のような人は、実は、多いのではなかろうか。

 私の姑のような、街中に暮らしてはいても、小さな山椒の芽に目をとめることのできる、四季と自然が気張らずに身についている、そういう人からよくものを学ばねばならない。年寄りは、失礼だがうかうかすると寿命が来てしまう。そうなる前に、なんとかその精神を引き継ぐことはできないものか。

 そうしていくうちに、身の回りの草花も、たとえば「支那連翹」と、覚えることができるのではあるまいか。

ピアノとハゲとデブとダイエットと目標とEVMと血

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 ピアノの腕前の上達は、今の歳の、しかも40過ぎてからはじめた私のような者にとっては、まことに遅々として捗らぬものだ。

 ものごと、何につけても目標を持ってやるように子供たちを指導していきましょう、とは、昨日長女の高校の入学式で、校長先生も担任の先生も言われていたことだ。これはこれで立派なことであり、若者をそのように指導することは、有益なことである。

 だが、私は、ことピアノに関する限り、目標を持たないことにしてきた。「今の『練習』を楽しむ」ようにしている。

 そうしないと、目標と自分の腕前の懸隔に絶望し、続けることができなくなる。幼稚園の頃からほんの数年、レッスンしただけの、自分の次女のような小娘にすらかなわない、ということが情けなくなり、稽古がバカバカしくなってしまうのだ。

 つまり、突然山の麓に立たされて、山頂を見上げてウンザリする感じ、だろうか。

 地面と、ごく周囲の景色だけを見ながら漫歩していて、ふっ、と顔を上げたら、相当高いところまで登ってしまっていた。…そんな行路だって、あっていい。

 だから、私のピアノの稽古は、まことに進歩が遅く、薄紙を一枚一枚、貼り重ねていくような緩慢さである。

 このようなやり方で物事に処していくには、ただひとつ、「時間」を味方にすることだ、と今のところ思っている。

 これは、ダイエットなどにも言えると思う。逆に、肥満の状態も、「時間」が敵だったはずだ。

 どういうことか。

 ダイエットに悩む人は、何も最初から、醜い姿だったわけでも、醜い姿になりたかったわけでも、ないはずだ。

 一日に、ほんのごくわずか、薄紙を貼り重ねるように、肥満していったのである。また、一日に、ほんのごくわずか、薄紙を貼り重ねるように、「余分なひとくち…」を食っていったのである。

 これは、「ハゲ隠しに珍妙な髪形をしている人」も同じだ。亡くなった軍事評論家のエバケンこと、江畑謙介氏の極端な例を見てみたい。

 何も、エバケンさんだって、若い頃、最初っからこんな珍妙な髪型を目標にしていたわけでは、決してあるまい。今日少しハゲたぶんを、ごくわずか、櫛で隠しただけであったはずだ。その次の日も、そのあくる日も、少し櫛を使っただけだ。そして、1ヶ月、1年、10年。こういう時間の経過が、あのエバケンスタイルを作り上げていったのである。

 思うに、ダイエットも、「無闇ヤタラな目標」など、持たないようにしては如何か。今日、ちょっぴり「食わない」。その効果なんか、はっきり言って、1日やそこらでは出るはずなんかない。

 私はこの30年ほど、毎日、少しづつ肉体の練成に励んでいる。しかし、スポーツ選手のように強靭ではないし、ボディービルダーのようなマッチョでもない。今日腕立て伏せをしたからといって、明日マッチョになるわけではないのだ。才能や体質もある。

 そこに見出したいのは、エバケンさんの「逆」だ。

 ピアノの稽古にしても、私は、エバケンさんの「逆」をつかみたいのだ。

 社会で仕事をしていると、日々、EVMだの指標だの株価だのケイツネだの本日FP実績だの、そんなものに溺れそうに塗れて生きることに慣れてしまい、また、上下左右の周囲からも必ずどれだけできたかを問われる。だから、社会人は、ついつい、そんな論理を家庭生活などにも持ち込みがちだ。しかし、そんなことは、仕事だけにしておくのがいいと思う。

 去年、職場の健康管理指導がずいぶんとうるさいものだから、

「じゃあ、普段実績だの効果だのなんだのガタガタ言ってるんだから、毎日、減量のEVMでもやったらどうですか(笑)」

…みたいなちょっとした皮肉もこめて、プログラムを書いた。それは「ダイエットのEVM」をやる「鬼痩~Devil Diet~」という、フザケたアプリだ。

 これを盆休暇にPHPで書き、職場に持ち込んでやった。中身は、国立健康・栄養研究所の「EX~METs」の指標を使い、日々のダイエットをEVMにしてくれるというものだ。エクセルでもできるが、ふざけてPHPで書いたのだ。毎日、「今日は駆け足なら何キロ、歩くんなら何時間、水泳なら何キロやれ。そうすりゃ何グラム痩せる。目標の何月何日までに何キロの体重に痩せたけりゃ、今日絶対に何キロ走れ」という計画表が出てくる理屈である。それがEVMグラフとなって出る。PVのガイドには、リニアと対数、それから自然な計画ができるように、レイリー分布を積分した、S字計画などが選べるようにした。

 自分でこれを検証した。

 まことに、国立健康・栄養研究所の理論はよくできていて、その表の通りに痩せる。もっとも、私はあまり「切りしろ」のない体をしているので、自分でこれを試すのは、非常に苦痛であった。

 だが、EVMで痩せることはできる。

 公表したところ、私の皮肉もあって、「こ、これは本当に、『鬼』じゃあ!!」という評判になった。

 実際のところ、人間は金属とか棒、石などではないのだ。「今日何カロリー摂って、何キロ走り、何グラム痩せろ」なんてことを、レイリー分布に沿って言われたって、そんなことができる位なら、肥満なんかしないのだ。私の作ったアプリのEVMのとおりに運動して痩せようとすると、人によっては、「3ヶ月後まで、毎日休まず、一日4時間全力で走れ」などというムチャクチャな命令が出力されるのである。普段数字にうるさい人ほど、無茶な計画を浴びせられるような塩梅式になった。

 本当に、人間は木とか石ではない。切れば赤い血の流れる、矛盾と怠惰と勤勉と精神とウンコを一緒くたに内包した血袋なのだ。

 だから、そんなガンガンガンガン、目標だ実績だと言われたって、そこまでできるもんか。

 毎日、「なんのために」という目標もなく、ピアノの稽古をしたって、いいじゃないですか、楽しいんだから。

 だから、毎日、「誰のために」という目標もなく、ダイエットしたっていいと思う、痩身が美しいと思うのなら。

 目標なんかない、勉強が好きだから勉強している、という勉強も、場合によってはいいんじゃないですかね。

 ENIACを建造したエッカートとモークリが、何も、今の高度情報化社会を目標にして毎日図面を引いたわけじゃなかったとも思いますしね。

 ただ、そうはいうものの、間違いのないように、ひとつ申し添えたい。「目標なんかいらん」とまで、私は言ってない。それは、目的と場合によるのだ、ということが言いたいのだ。