MS-IME用歴代天皇辞書

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 このブログの右側の、「読書リスト」にもあるとおり、私は最近、日本書紀を読んでいる。

 感想をFacebookなどに書き込むことが多いが、そのたびにイライラすることがある。「歴代天皇の名前がほとんどかな漢字変換できないこと」である。

 常々、MS-IMEを使っているが、本当に日本語の語彙に乏しく、不自由する。いやしくも「『日本』語変換」をするのならば、畏し、日本の歴代天皇くらい最初から全部登録しておいたらどうだ、と思う。

 何も、1万語の専門用語を載せておけ、などと言っているのではない。日本の歴史上の、著名人の範疇に入る人名リストがたった126人ぶん、北朝を入れても131人ぶんではないか。それしきのものが入っていないというのは、なにか特別の理由でもあるのかと、言いたくもなるではないか。

 それとも、Microsoftごとき外資系企業から見ると、日本の天皇などばかばかしくて入れる必要がないとでもいうことなのだろうか。…いやまさか、考えたくもないが、またしても「アジア近隣諸国への自主的配慮」か!?

 まったく、いきどおろしいことである。

 そこで、不肖・佐藤、意を決し、自ら歴代天皇の登録用テキストを作って公開しておくことにした。

 必要とされる向きは、次のリンクからダウンロードして辞書登録するとよろしかろう。天皇の御諡号がサクッと変換できるようになり、まことに具合がよくなる。

 登録のしかたは簡単だ。

  1.  上のファイルをダウンロードして、PCの適当な場所に保存する。
  2.  IMEの「ツール」のボタンをクリックし、「単語/用例の登録」を選ぶ。
  3.  表示されるツールダイアログの一番下に「辞書ツール」ボタンがあるからそれをクリックする。
  4.  ウィンドウの上部にあるメニューを「ツール(T)」 → 「テキストファイルからの登録(T)」の順でクリックし、適当な場所に保存しておいた上のファイルを選ぶ。
  5.  歴代天皇がすべて登録される。既に登録されているものがあれば、自動的にスキップされる。

 なお、漢字の異体・旧字体は両方登録してある(例えば、「いとくてんのう」で、「懿徳天皇」・「懿德天皇」(徳・德の違い)の両方が候補に出るようにしてある。)。また、「じんむ→神武」も、「じんむてんのう→神武天皇」も、両方「人名」の品詞で登録してある。

繼體(けいたい)天皇紀

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 今日の休みは転がり込んできた幸運みたいなもので、もともと今日は仕事のつもりをしていた。今日の予定の仕事が午前中に終わったら、国会図書館へ行って、読みそびれている本をいくつか読むつもりだった。国会図書館は永田町にあり、職場からすぐの隣街なのだ。

 しかし、そういうついでがなくなってしまったので、引き続き日本書紀第十七巻、「繼體(けいたい)天皇紀」を読み進む。

 畏し、今も皇室では、天皇陛下が初夏にお手ずから田植えをあそばし、皇后陛下が蚕に桑を飼われるが、その由来がこの巻に出てくる。

 名前の通り仁政をしき、人々に聖帝と慕われた仁徳天皇の子供たちは、だがしかし、「アカン人」が二人ほど出てしまった。その中でも、九代後の武烈天皇は、中国・殷の紂王をして顔色をなからしめるほどのグロ系残酷天皇になりはててしまった。

 そんな始末で、ついに仁徳天皇の子孫は武烈天皇で絶えてしまい、総理大臣・大伴の金村は困り果てて、皇室の子孫を探す。仁徳天皇のお父さんの、応神天皇から五代あとの子孫に、大変賢く、人格のすぐれた「男大迹(おおどの)のみこと」という人がいることがわかった。だが、この人は五十過ぎて独身のおっさんである。しかしそれでも、大伴金村は、使いを出して、礼儀を尽くして、どうか天皇に即位してくださいと頼み込む。

 男大迹のみことは何度か断るが、ついに大伴金村の頼みを入れて、天皇として即位する。繼體(けいたい)天皇である。

 そういう経緯であるから、前天皇の武烈天皇とは大違いで、質実剛健の方である。

「国の基本に立ち返り、まず農業を盛んにすることからスタートしよう。そのためには、皇室自身が奢侈に流れていてはいかん。男は自ら田植えをし、女は蚕を飼って紡績に励むことで、国の宝である農民たちもそれに倣うようになるだろう」

…と、天皇・皇后がまず自ら農耕・養蚕をやってみせることにしたのである。

 これが、今なお連綿と皇室に続くお田植え・親蚕の行事の起源なのである。

 繼體天皇はこういう立派なかたであるが、だがしかし、気の毒な一面もある。

 繼體天皇は即位したとき、五十歳を過ぎて独身・子なしのおっさんだった。だが、大伴金村に

「陛下の血筋が絶えてしまうと、天皇の血筋がなくなり、日本の国柄がおかしくなって、荒れ果ててしまいます。どうか、すぐに子供を作ってくださいッ!」

と言われ、あわせて9人もの正室・側室をあてがわれ、せっせとハゲむことになったのである。

 まことにお疲れ様でございます、というほかはない気がする。


南越谷のレストラン「イタリアの台所・クローチェ」は嫌な店である。

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 先週、5月31日の金曜日、南越谷のホテル「サン・オーク」B1階にあるレストラン「イタリアの台所・クローチェ」(越谷市南越谷1丁目22−1)でイヤな目にあい、この店にはもう二度と来るまいと思ったので、悪口を広めておきたい。

 本当は先週すぐに書こうと思ったのだが、忘れていたのだ。しかし、先ほど近くを通りかかって思い出した。

 店をやろうと言う人は、ネット時代であるから、気をつけて置くが良かろう。私も男だ、ちょっとググれば私の顔も住所もわかる、特段逃げも隠れもすまい。

以下、事実---------

 店がオープンして2~3分ほど経った18時過ぎ頃、店に入った。「OPEN」の札が出ているし、「本日貸切」とも「ご予約ダレソレ様」とも、張り出されてはいない。

 客は誰もいなくて、席は全部空いていた。

私  「えーっと、かまいませんか?」
店の人  「はい、いらっしゃいませ。…何名様でしょうか?」
私  「あ、一人なんですが…」
店の人  「すいません、今日は予約のお客様で一杯でして。」
私  「…。はあ、そうですか。お邪魔しました。」
店の人  「またのお越しをお待ちしております。」

 そのまま素直にきびすを返して、私は店を出た。

 帰り際、入り口周りをもう一度良く見たが、「本日貸切」とか「ご予約ダレソレ様」とも何も書かれておらず、単に「OPEN」の札が出ているだけだ。

 私の服装は、半そでの白いワイシャツに、ベージュのスラックス、通勤かばんを持ち、髪は真っ黒の短髪である。

---------事実ここまで

 ここからは推測と、悪口だ。

 店がオープンして2~3分後の、誰も客がいない店に、たった一人の客が入ってきて、「予約で一杯」などというバカな話があるだろうか。ただ一人の客も座れない、カウンター席すらない、というほどの満席ということではないか。

 それなら、なんで、店の中ほどまで私が入ってくるのを漫然と見ていて、

「何名様ですか」

と聞くのだ。本当に予約で一杯で、早い時間のたった一人の客も入れることはできないなら、

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でいらっしゃいますか?」

となぜ聞かないのだ。人数を聞いて、「ゼロ人です」と答えたら座らせてもらえる、ということはありえないし、そんな答えなどあるはずない。だから、これは「一人以上」の答えを期待してする質問だ。

 そもそも、「早い時間のたった一人の客」すら座らせられないというなら、店の前に「本日満席」とでも書いておくべきである。

 私はヤクザのようななりをしていたわけではないし、一人で入ったからと言って追い出されるような乱暴な言葉遣いをした覚えもない。

 おおかた、「金曜日のかきいれ時に、一人客にテーブルを占領などされてはたまらない」というような気持ちで私を追い出したのだろう。私が4人連れででもあれば、座らせるつもりだったに違いない。そうでなければ、人数を聞いてから「今日は一杯です」などという言葉が出てくる説明がつかない。

 一人の見慣れない客だからと言って追い出すようなメシ屋など、看板を上げて商売をする資格がない。それならそうと看板に書くか、看板など出さず、高級店然として、人づてに紹介される有名人だけ相手にでもしておけばよかろう。

 数年前にこの店で飲食したことがあるが、このご時勢に店内がきちんと「分煙」されておらず、「禁煙席、喫煙席どちらになさいます?」と聞かれて「禁煙席を」と言ったにもかかわらず、背中合わせの真後ろの席でプカプカと煙草の煙を立てられて非常に迷惑した。

 その時に「イヤな店だな」と思ったのに、また入ろうとした私がバカだ、と言えばそれもそうだ。

 なので、私より知性のある人は、この店には行くべきではない。

 腹が立つから、店の名前をもう一回、特筆大書しておいてやろう。南越谷のホテル「サン・オーク」B1階にあるレストラン「イタリアの台所・クローチェ」(越谷市南越谷1丁目22−1)である。場所は次のURLのとおりだ。

http://maps.google.com/maps?hl=ja&ll=35.876363,139.792652&spn=0.000004,0.001725&t=m&z=19&layer=c&cbll=35.876266,139.792658&panoid=q1jK8AoNEImcOtT2DuhJWw&cbp=12,45.59,,1,1.87

仁德(にんとく)天皇記

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 日本書紀第十一巻「仁德(にんとく)天皇記」を出勤時の電車の中で、第十二巻「履中天皇・反正天皇記」を帰りの電車の中で読み終わる。

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 仁德天皇は私の故郷にある「仁德天皇陵」をもってゆかりを感じ、歴代天皇記を読むにつけても、ことさら興味を覚えるところである。

 仁德天皇はその諡号に「仁德」とある通り、仁徳の人である。ある日高台から村々を見下ろしたところ、ひっそりとして炊爨(すいさん)の煙がなかった。人々が貧に窮していることを見て取り、三年間租税を免除した話は良く知られる。無税にしたため、仁德天皇の衣はほころび、当時大阪にあった御所の屋根は破れて雨漏りがした。それでも、役を取らず我慢したと言う。

 三年後、再び高台にのぞんだ。今度は村々に煙が上がり、活気付いていることがわかった。仁德天皇は喜び、そばにいた皇后に、「おお、だいぶ金持ちになったなあ。よかった」と言った。皇后は「あらまあ、こんなにほころびた衣を着て、雨漏りのする家に住んで、貧乏そのものなのに、何がお金持ちなものですか。」

 仁德天皇はすかさず、「おいおい、国民が富めば、帝である私たちも金持ちとイコールじゃないかね」と言ったという。このくだりは古事記もだいたい同じで、たいへん有名な話だ。

 そんな質実剛健の人である反面、「愛の人」でもあって、若い頃からロマンスである。浮気が皇后にバレて別居生活を余儀なくされたり、なにかと「そのへんの亭主」と変わらない妙味もあって、まことに愛すべき天皇と思う。

 私の故郷の仁德天皇稜は、いろいろと考古学説もこれあり、ほんとうに仁德天皇稜かどうかわからない、などと言うようだが、いいではないか、科学は科学、歴史は歴史、仁德天皇稜と言うことにしておけば(笑)。

應神(おうじん)天皇記

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 日本書紀第十巻「應神(おうじん)天皇記」、帰りの電車の中で読み終わる。

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 次は第十一巻、いよいよ「仁徳天皇記」である。

 なぜ「いよいよ」なのか。

 私は、大阪府・堺市の、「田出井町」というところで生まれ育った。東京に府中刑務所ができるまでは、東洋一の規模と言われた「大阪刑務所」のあるところだ。私はその大阪刑務所の刑務官の息子で、刑務所の官舎で育った。

 この田出井町と、そのとなりの町、「三国ヶ丘」というところが私の生まれ育った町と言っていい。

 ここまで書けば、ピンと来た人もあるかもしれないが、この三国ヶ丘というところは、「百舌地区」と呼ばれる平らかな地へとつながり、ここには「百舌古墳群」と呼ばれる一大古墳群がある。

 私が通った幼稚園や小学校、中学校のそばには、当時住んでいた家から近い順に「反正天皇稜」「仁徳天皇稜」「履中天皇稜」と、巨大な前方後円墳がいくつも並んでいる。

 仁徳天皇稜は、いわずと知れた世界最大の墳墓である。その大きさは優にエジプト・ギゼーのピラミッドを凌ぐ。

 うんと小さい頃は、この、宮内庁の管理地として厳重に柵で囲われている天皇陵の濠端に、柵の破れ目なぞ見つけては勝手に入り込み、蛙を釣って叱られたりしたもので、まことに懐かしい土地の風物なのである。

 古い向きは、──と言っても、私の年齢層ではない、昭和ヒトケタから11、12ごろまでの生まれの人のことだ──子供の頃「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク…」と暗唱させられたのであるが、この古代の天皇の名の、なじみのなさ、それゆえの覚えにくさと言ったら…!。だが、大阪・堺出身の者は、「ジングウ・オウジン…」まで来て、とたんにシャンとなるのだ。「ニントク、リチュウ、ハンゼイ…」、だ。この三人だけは、どんなことがあっても忘れようがない、間違いなく言えるのである。

 「仁徳天皇記」は、以前、古事記を読んだときに弁えてはいるが、読んだのはだいぶ前だ。自分の故郷につながる記憶とともに、日本書紀で読むのは、また格別の楽しみだ。

神功皇后記

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 通勤電車の中で、日本書紀第九巻、「神功皇后記」を読み終わる。

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 さて、以下のことは、学校の日本史の授業や、国語の授業ですら習った覚えがまったくないので、あらためて記しておきたい。

 日本書紀では、「魏志」を参照文献として取り上げ、その記述を引用している。(このこと自体、知らない人も多いだろう。)

 この「引用」に関しては、日本書紀はさすが、現代の役所の仕事にも通じるものがあり、読み飽きてしまうくらいしつこい。念入りである。「ある書に曰く…」と、考えうるあらゆる参考文献の記述を列挙してやまない。

 そんな日本書紀の中で、外国文献の引用があるのは、この「神功皇后記」が最初である。

 その引用部分は、私たちが学校の授業で耳慣れた、「倭の女王が朝貢をしてきた」という部分である。

 読めば分かるが、その引用の態度は冷静で、淡々と、「この年にあったこととして、『魏志』にはこう書かれている」と、潤色も何もなく書かれているだけだ。

 ところが、である。学校では、この、「魏志」の方ばかり教え、日本書紀にそう書かれている、ということは、決して教えない。

 ついでに書けば、日本書紀に沿うなら、魏志に言う「卑弥呼」は、明確に「気長足姫尊(おきなが たらしひめの みこと)」こと神功皇后である。「ナントカひめのみこと」というのが当時の呼び名であったわけだから、つづめて「ヒミコ」にもなろうというものだ。日本書紀第九巻、神功皇后記の中で魏志が引用されているので、朝廷はそのように歴史を検討・整理したのであろう。

 なぜ、学校では日本書紀を引かないのか、ということを人に聞くと、「そりゃあ、日本書紀は国家による捏造が行われていて、疑わしいからだよ」という。

 それを言うなら、私たちがまるで、絶対の真実が書かれた第一級の歴史資料のように崇め奉ってやまない中国の書、「魏志」だって同じではなかろうか。

 日本書紀について語る人はたくさんいるが、「日本書紀は嘘交じりで、国家による捏造が行われている」と、皆異口同音に言う。だが、私の身の回りでそう言っている人で、日本書紀を通して全部読んでみた、という人に、私は会ったことがない。皆、誰かからの伝聞や、せいぜいWikipediaの記事をもとにそう言っている。

 また、「魏志」についても、学校でそう習うから、皆そう言っているだけで、この書のことも、多くの人は知らない。魏志倭人伝が、何の本の中に出てくる、何の章か知っている人は、はたしてどれくらいいるだろう。

 書いておく。

 有名な「三国志」を書いたのは、陳寿(ちんじゅ)と言う人だ。この三国志全六十五巻の中に魏王朝にかかわりのあった諸族の記があって、その中に「東夷伝」という蛮族の記録があり、更にその中の「倭人条」というものを、我々は今、「魏志倭人伝」と呼んでいる。

 正確さなどどっちをとったって似たり寄ったり、というものが二つあって、それぞれ「自分の国で昔書かれたもの」と「外国の作家が昔書いたもの」であるとき、「外国の作家」のほうを「正確な歴史」として採用する、というのは、どういうことであろう。

 戦前、神功皇后は「お札」の肖像に使われていたのだが、なんで、それをあわてて否定するようなことをするのか。

 改めて書いておこう。「神功皇后という人がいて、それは、中国の参考資料には『ヒミコ』と記載されている」のである。

 たしかに、大昔のことだから、本当にいたのだかなんだか、わからない。だが、現代の私たちがああでもないこうでもないと推定するより、近い時代の昔の人が推定したことのほうが、マシな精度があるのではなかろうか。

コッチ側のEA

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 GISを取り巻く基調の印象も、「スマホファーストでサービスオリエンテッドでクラウドでSNSでビッグデータでBYODで東北関東大震災でフクシマだッ!」なのであるが、それは、他のIT構成要素を語る際のキィ・ワードと何が違うのかと言うと、何も違わない。

 なので、ユーザとしてはあえてそこから眼を離し、冷静かつ地味ぃ~に、「コッチ側のEA」をとらえ続けることが大切、と思うのであった。