應神(おうじん)天皇記

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 日本書紀第十巻「應神(おうじん)天皇記」、帰りの電車の中で読み終わる。

 次は第十一巻、いよいよ「仁徳天皇記」である。

 なぜ「いよいよ」なのか。

 私は、大阪府・堺市の、「田出井町」というところで生まれ育った。東京に府中刑務所ができるまでは、東洋一の規模と言われた「大阪刑務所」のあるところだ。私はその大阪刑務所の刑務官の息子で、刑務所の官舎で育った。

 この田出井町と、そのとなりの町、「三国ヶ丘」というところが私の生まれ育った町と言っていい。

 ここまで書けば、ピンと来た人もあるかもしれないが、この三国ヶ丘というところは、「百舌地区」と呼ばれる平らかな地へとつながり、ここには「百舌古墳群」と呼ばれる一大古墳群がある。

 私が通った幼稚園や小学校、中学校のそばには、当時住んでいた家から近い順に「反正天皇稜」「仁徳天皇稜」「履中天皇稜」と、巨大な前方後円墳がいくつも並んでいる。

 仁徳天皇稜は、いわずと知れた世界最大の墳墓である。その大きさは優にエジプト・ギゼーのピラミッドを凌ぐ。

 うんと小さい頃は、この、宮内庁の管理地として厳重に柵で囲われている天皇陵の濠端に、柵の破れ目なぞ見つけては勝手に入り込み、蛙を釣って叱られたりしたもので、まことに懐かしい土地の風物なのである。

 古い向きは、──と言っても、私の年齢層ではない、昭和ヒトケタから11、12ごろまでの生まれの人のことだ──子供の頃「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク…」と暗唱させられたのであるが、この古代の天皇の名の、なじみのなさ、それゆえの覚えにくさと言ったら…!。だが、大阪・堺出身の者は、「ジングウ・オウジン…」まで来て、とたんにシャンとなるのだ。「ニントク、リチュウ、ハンゼイ…」、だ。この三人だけは、どんなことがあっても忘れようがない、間違いなく言えるのである。

 「仁徳天皇記」は、以前、古事記を読んだときに弁えてはいるが、読んだのはだいぶ前だ。自分の故郷につながる記憶とともに、日本書紀で読むのは、また格別の楽しみだ。