「風立ちぬ」の文語文法

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 一昨日、宮崎駿のアニメ「風立ちぬ」を見た。そこから連なって、堀辰雄の同題の代表作「風立ちぬ」を読みつつある。

 宮崎アニメ「風立ちぬ」は、この堀辰雄の代表作の主人公を、零式艦上戦闘機の設計者として知られる堀越二郎氏に差し替え、叙情高く描き上げた傑作である。

 全編をつらぬいて、フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩の一節が通奏低音のように潜んでいる。「風立ちぬ」のテーマだ。

Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
(Paul Valéry – Le Cimetière Marin (The Graveyard by the Sea))

 英語で語を()って書けば

The wind is rising, we must endeavor to live.

…となる。

 堀辰雄はこれを

「風立ちぬ いざ生きめやも」

と訳した。

 名訳である。

 だが、堀辰雄が用いた「風立ち いざ生きめやも」という文語の表現は、読んでもわからない人がほとんどだと思う。まして、こういう言い方・書き方で自分の言いたいことが言え、書ける、という人は今の世の中にほとんどいないだろう。

 私は多少、文語や旧仮名遣いを用いて創作をする。俳句をよく()むのだが、作品はほとんど文語・旧仮名遣いで詠む。口語で作るものは百句読んで一句あるかないかだ。だから、ごく一般の方に比べれば、少しはこの詩句を文語文法の面から評論できる資格もあると自負する。

 そこで僭越ながら、この「」「めやも」について記しておきたい。


○ 風立ちぬ

 まず、「風立ちぬ」の「ぬ」から書いてみよう。

 「風立ちぬ」を装飾なく書けば、普通に動詞の終止形は「風立つ」であり、口語文法とあまり変わらない。では、なぜわざわざ「風立ちぬ」などと書くのか。

 「ぬ」というのは、文法で言うと、「完了および強意の助動詞」である。助動詞というからには、文字通りこれは動詞を助けるものだ。

 助動詞は動詞とくっつかなければ役に立たないから、付属語というものに分類されるが、そのうちでも「活用」、すなわち場合によって形が変わる語を助動詞という。

 「完了の助動詞」という面から見ると、「向こうのほうで勝手に動いてしまっている、自然な動詞(自動詞)につなげて、それが完全に終わったことを言いたいとき」に使う。

 「強意の助動詞」という面から見ると、「非常に強くそれが完了したことを言いたいとき」に使う。口語にはこれがない。もし口語で言うと「非常に」とか「かならず」とか、若者言葉なら「ゼッタイ」とか、そういう言葉で文章を彩りたい場合に、文語ではこれを使うと見ればいいだろう。

 一例を挙げてみよう。

卯の花の匂ふ垣根に
不如帰(ほととぎす)早も()鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は()

(佐々木信綱「夏は来ぬ」、下線筆者)

 「ああ、本当に、本当に、夏が来たなあ」という、詠み手の感激が、しみじみと伝わってくるではないか。

 つまり、「風立ちぬ」を口語訳する際、「風が吹いた」と普通に終止形にしてしまうと、原文に含まれる、この一文の作り手が感じ取った促されるような風の意思、決然とした、それでいて静かな、しみじみとした感じが出てこないのである。大げさに訳せば、「ああ、なんと、風が吹いた…!」ぐらいの感じが、この簡潔な文語体の一文「風立ちぬ」には含まれている。だからこそ、堀辰雄は「強意の助動詞『ぬ』」を用いたのである。

 さて、この「ぬ」を使うときは、接続する動詞は連用形につなげることになっている。

 連用形につなぐ、ということを述べる前に、活用形について思い出してみよう。文語の活用形を考えるときには、注意すべき点が一つある。

 文語の文法は口語と違って「仮定形」がない。そのかわり、「()然形」という、「既にものごとが終わり決まった形」がある。ここだけが変わる他は、学校で暗記させられた「未然・連用・終止…」というのとほぼ同じだ。

 私の場合は、「ズ・テ・コト・バ」なぞと文語動詞の活用を覚えている。すなわち、「未然・連用・終止・連体・()然・命令」の活用語尾の接続の形だ。この「立つ」でいうと、

活用形 接続
未然 「ズ」に続く 立たズ
連用 「テ」に続く 立ちテ
終止 何にも続かない 立つ
連体 「コト」に続く 立つコト
已然 「バ」に続く 立てバ
命令 命令する 立て


…などとなる。したがって、「ぬ」という助動詞を使うときは、連用形の「立ち」にくっつけて「立ちぬ」、「風立ちぬ」になるのである。

○ 生きめやも

 次に「生きめやも」だ。

 これは、最初に書いておくが、大変難しい。堀辰雄の屈折がこめられて文学的反語が二重にかかり、原文を更に高く翻案したとも言いうる、アンニュイな詩性を持つ超訳だからだ。

 「めやも」は、「め」と「やも」を組み合わせてある。

 「め」は推量の助動詞である。推量の助動詞は、非常に意味の幅が広い。なぜかというと、日本語には動詞の「過去形」や「未来形」があまり強く決められていないからである。そこで、それらのことは助動詞をもって助ける。ところがこうなると、助動詞には過去や未来がごちゃまぜに入り、意味が広くなる。今、教科書どおり推量の助動詞「め」について挙げれば、「推量・意思・適当・勧誘・仮定・婉曲」の意味がある、となる。

 これは蛇足だが、文語体でよく使われるものに「係り受け」というのがある。一種の定型文だ。この「め」は、「~こそ」にかかって受けることが多い。誰でも知っている使い方に「蛍の光」の一節「今こそ別れ」や、「海ゆかば」の一節「大君の 辺にこそ死な」などがある。

 この「め」は、活用形だ。何の活用形かと言うと、基本形「む」を、「已然形」に活用したものだ。この助動詞「む」は、活用は3種類しかなく、終止・連体・已然のみであり、それぞれ「む・む・め」である。

 先に少し記したが、文語体の活用形には「仮定形」の代わりに「已然形」が入る。これは、「ミゼンケイ」でも「キゼンケイ」でもない。「イゼンケイ」と()む。よく見ると漢字が違うことに気づかれるだろう。「己」とも「巳」とも違う、左側のところが、少し突き抜け、なおかつ上にくっつかないところのある「已」という漢字であり、意味も訓みもまったく違う。これは「已(ヤ)む」「已(オワ)る」と訓む。つまり「已然形」は、「しかり、やむ」と言う意味で、ものごとがしかるべく終わった形をあらわす。形は口語の「仮定形」に似ているが、意味が全然異なる。

 已然形のわかりやすい例に、正岡子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句の「食へば」がある。口語なら「もし柿をたべたなら…」という仮定形と言うことになるだろうが、柿を食べたことによって鐘が鳴らされるなどという、イタリアン・バールじゃあるまいし、そんなことはありえない。これは、「柿を食べおわった。そうしたら、やおら鐘が鳴った」というような、しかるべくものごとが終わった形、「已然形」なのである。

 つまり、「俺は、生きるのであーる!」という、「すでにしかるべく決まった意志」が、この「生きめ」までのところに入っている、と言ってよい。

 推量の助動詞の役割の幅について考えてみる。普通、推量の助動詞の意味は人称で見分ける。この「生きめ」には主語が省略されているが、もし、言っている本人「私」が主語なら、これは「意志」となり、「いざ」に着目して、誰かに呼びかけているならこれは「適当」「勧誘」になる。

 「適当」というのは、ズサンにテキトーにやる、というテキトー、ではもちろんない。「…するのがもっとも良い!」という意味だ。つまり、「生きるのが一番いい!」という意味にもなる。

 この「生きめ」は、一緒にいる人への呼びかけ、すなわち、「勧誘」にもとれる。

 実際に味わうためには、この三つの意味「意志・適当・勧誘」を同時に文意に認めても面白いのではないか。

 さて、最後に「やも」だ。ここが一番難しい。注意深く検討しなければならない。

「やも」は「反語の終助詞」だ。学校で習う言い方なら「XXすることがあろうか、(いいや、ない!)」というような局面で使う。

 この「やも」を分解すると、「や」と「も」でできている。この、「や」の直前に已然形が来たときは、これは反語になる。「思はめや」で、「思うなんてことがあるだろうか(いいや、ない)」と言う意味になる。

 ここに、さらにそれを強める「詠嘆の助詞『も』」がつく。例えば「恋ひめやも」なら、「恋するだなんて、ああ、そんなことがあるだろうか(いいや、ない)」というぐらい、しみじみとした気持ちが「も」に入る。

 さて、大切なところだ。ここで我々は、細心に堀辰雄の訳を味わって見なければならない。

 なぜと言うに、私が挙げた

「XXすることがあろうか、(いいや、ない!)」

ではなく、

「XXしないことがあろうか、(いいや、ない!)」

の意味にするためには、

「生きざらめやも」

と、もう一度否定しないと、変になるのだ。「生きざらめやも」、つまり「生きないだなんて、そんなことがあるだろうか(いいや、ない)」として、はじめて「さあ、生きましょう」という意味になるからだ。

 「いざ生きめ」までだと、「め」の意味を「勧誘」の助動詞に取れば「さあ、生きましょう」となり、そこに「反語」の終助詞「やも」がつくと、

「さあ、生きましょうなんてことがあるでしょうか、(いいや、ない!)」

 これでは、そのままだと「一緒に死にましょう」ということになってしまう。

 ここが、難しいところだ。

 私たちは、これが「詩」だ、ということに注意を払って鑑賞しなければならない。そして、元の文章、

Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
(英語逐語:The wind is rising, we must endeavor to live.)

を、もう一度、味わって見なければならない。

 堀辰雄は、ここに、言外の、さらなる否定を付け加えたのだ。

 この、二重の否定「やも」に、更に堀辰雄が強くつけくわえた言外の否定を補って、むりやり現代語にすれば、次のようになる。

 「(当然、生きるに決まっている僕たちが、あえて、)「さあ、生きましょう」なんてことを言う必要が、はたしてあるでしょうか(いいや、ない!)」

 これが、堀辰雄の採った、原詩の超・日本語訳なのである。

 堀辰雄の「超訳」である、と私が言うゆえんは、ここにある。堀辰雄のように、原文のフランス語をここまで超訳してこそ、やがて死することを予感しながら手に手を取る二人を描いた「風立ちぬ」の全体像にこれが合致する、と私は思う。

 これだけの意味を、この、たった一行のフランスの詩の引用と翻訳に含ませようとすると、これは、口語では不可能なのである。

 堀辰雄が、簡潔に

「風立ちぬ いざ生きめやも」

と以外に、書きようも表現のしようもなかった気持ちが、私にはよくわかる。


 堀辰雄の訳が正しい、ということを言うために、私は、自分の文語文法に関する素養を開陳する必要があった。それもあって、少し詳しく記した。