感想補遺

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(これは、平成26年(2014)6月28日に国立博物館へ台湾の「故宮博物院」展を見に行き、Facebookにその感想を書いて、補遺として「玉琮(ぎょくそう)」を見た感想も書いたものである。)

 もちろん、工芸美術の世界的傑作、「翠玉白菜」を見れたことは楽しかったが、私は別の宝物に撃たれたように感じ入るところがあった。

 それは、「玉琮(ぎょくそう)」という、玉(ぎょく)で彫り出された斎器である。それ自体、 雄渾かつ厳格、断固としたつくりで、そして約50cmの高さがあって大きい。また精密に作られていて、素人目には狂いや歪みといったものは見られない。まるで最新のNC工作機械か、3Dプリンタででも作られたように見える。この名宝が、例えば現代の日展の工芸品の部に出品されていたとしても、何らの違和感も抱かせないばかりか、他の作品を圧倒し去る存在感を放つであろうことは疑いない。そういう逸物であった。

 無論、その工芸的、美術的な価値は上述のようなもので、なかなか私の語彙で書き足りないことが慚愧にたえないのだが、それだけでは驚くには当たらない。

 私が衝撃を受けたのは、その名宝が「石器時代の作品」だということだ。

 いかに、私は中国が4千年の歴史を誇る世界の古豪地域であることを頭では理解していても、やはり芯から底からわかってはいなかったのだと思う。実物でそれを見ると、痺れたようなショックを受けたのである。

 石器時代ということは、この「玉琮」は約5千年前に作られたということだ。

 日本の誇る博物館の所蔵品の、大変古いものだと、例えば弘法大師空海の「風信帖」などを見て、「千年以上前とは、古いなあ」と感銘を受けたり、あるいは千七~八百年前の「埴輪」などを見て茫漠たる時間のボリューム感に我を忘れる、というようなことがある。

 単なる歴史の認識、ということなら、日本もなかなかどうして、異論はあるだろうが二千年を越える歴史を誇り、それはギネスブックやCIAのデータベースにも載るという挿話すら生んだ。

 逆にいうと、せいぜいそれが精一杯、二千年くらいが関の山、その程度、なのである。

 まして欧州、アメリカの昔においてをや、である。

 日本の石器時代の遺物などというと、崩れかけた石製の「鏃(やじり)」などがたまさか出土することがあるのがせいぜいで、それこそ文字通り「石器時代」だ。

 こうしたことに意識を向けてから、もう一度この国立故宮博物院所蔵の「玉琮」を見ると、中国大陸の文明度、底の知れなさに、身震いする思いが沸き起こってこないだろうか。

野次と議会と女とスコープ

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 いやはや、大騒ぎになった。申すまでもないが、東京都議会と塩村文夏議員の一件である。

 このことは、「よいことか悪いことか」と言うと、間違いなく「悪いこと」であり、是正されなければならないところだと思う。

 そのことをまず初めに断り置く。その上で、私には世間様とは別の見解がある。

 仕事をしていてもよく感じることなのだが、何か行き詰まりや問題を抱えている人たちがいるとする。よくその状況を観察すると、「異なる何種類かの問題をごちゃまぜに扱っているために、問題が解決できない」という場合が多い。

 例え話だが、「じゃんけんの一番強い手は何か」という問題を考え続けているようなものだ。三つの手がぐるぐる回って、いつまでも「いや、グーのほうが強い」「違うだろう、パーだ!」「バカ野郎、チョキはパーより強いんだぞ!」…と、出口がない。こういう出口がない議論は感情を呼び、挙句人々は怒鳴り始め、「犯人を捜せ!」と、様相はさながら燔祭(はんさい)の如きものとなって高い炎が上がりだす。

 このじゃんけんの例え話は、「問題の定義」がそもそもおかしいし、問題の解き方にも誤りがある。定義がおかしいのは例えが単純だから自明だし、解き方も、3つをごちゃまぜに同時に考えようとする誤謬を犯している。この問題がもし「パーより強いじゃんけんの手は何か」というふうに分解され、特定部分のスコープが取り出されれば、問うまでもない易しい問題になり、たちどころに解決する。

 じゃんけんの例えにまでいかなくても、問題の定義がおかしいということは、非常によくある。

 私は、都議会の一件は、相異なる複数の問題をごちゃまぜにして、興奮のうちに感情を交えて燔祭をはじめようとする、未開人の宗教に似ると感じる。

 部分スコープを取り出してみよう。

 大人が、法で定められた公論、すなわち整斉粛々たるべき議会の場で、大きな声で不規の私語、つまり「野次」を飛ばしていいのか、悪いのか。

 もっと簡単に言おう、「野次はいいことか悪いことか」。

 私は、悪い、と思う。これは、内容に関係がない。もし、叫ばれたのが「塩村いいぞ!そのとおり!」という野次であっても、である。

 何が内容に含まれていようと、例えば結婚とか出産とか、そんな問題以前に、野次なんてものがすでにダメなのである。

 もちろん、「野次というものは、多くの人々に選ばれた議員が、議場の雰囲気や声なき声を代弁するためのパフォーマンスとして古くから認められてきた慣行だ。野次は政治家にとっての重要なツールであり、それ自体を封殺しようとすることは民主主義そのものへの疑義に等しい」なる、一掬の採るところなしとはしない意見があることは、私もこれを知っている。

 だが、許されていない場でぺちゃくちゃ喋る奴が世の中多すぎる。野次もこれと同じだ。

 今、これを機会と声の大きい女の人たちにしたって、自ら他山の石と反省するところは本当にないだろうか。例えば子供の授業参観で、授業中にぺちゃくちゃ喋る女の人のなんと多いこと。卒業式入学式で、ずーっと喋っている女の人も、世の中たくさんいる。

 野次なんてものは私語の一つであるとするなら、授業参観中の私語だってこれと同断であろう。

 次いで、別のスコープを取り出そう。「独身の女の人に、衆人環視の面前で『早く結婚しろ』などと言う侮辱をしていいのか」。

 もっとスコープを小さくしよう。「人を侮辱してもいいのか」。

 いかんでしょう、これも。男によらず、女によらず、だ。だが、この「いかんこと」は、「野次というのはいいことか」ということとは別の、次の問題だ。

 「議会における野次」について、強い検討と分析がなされぬうちは、「早く結婚しろ」という侮辱発言自体は「どっかの下品なオッサンが、淑女を侮辱した」という、「当人同士の問題」であり、公器である議会の制度を利用して解決するべき問題ではないと私は考える。

 この一件からは、こうして、「小さいスコープ」をほかにもたくさん取り出すことができる。

 多分、新聞記者やネットの発言者はみな頭が良いから、そんなことぐらいとうに気づいていると思う。だが、「わざと言わない」。

 それは例えば、柔道で言えば、「寝技の泥仕合」みたいなものを引き起こして、負け試合をなんとかうまく好転させてやろうという算段にも見える。嫌な言い方をすれば、旧帝国軍隊が沖縄やニューギニアの泥濘で「彼我紛戦の状況」を作り出してどうにかしようとしたようなもの、と言えるだろうか。

 そういう言説にのせられて、公器の上で感情的に燔祭の炎を上げてはいけない、と私は思う。感情は当人の間で始末させるべきである。