思いがけず花火

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 あんまり花火を見に行かない。混んでるし、暑いし、蚊に喰われたりするし、立ち疲れたりトラブルに巻き込まれたり、やくざ者や不逞の若者に迷惑をかけられたり、散々なことが多いからだ。

 今日は妻と映画を見るため、越谷レイクタウンに行った。妻に晩飯を奢ろうと思って早めに行ったら、どういうわけか浴衣の人がたくさんいる。なんでだろ、と思った。

 晩飯に「くに」でステーキを食って店を出てきたら、何やら屋上のほうから歓声が聞こえる。なんだろうと行ってみると、草加、吉川、遠く千葉の方向の三か所で、花火がどんどん揚がっている。

 レイクタウンの屋上は土日は無料の駐車場だ。浴衣を着た人たちがひろびろと場所をとって花火に見入っているではないか。

 こういう穴場が近所にあるとは知らなかったなあ。

 妻と二人、上映までの間、悠然と花火見物をした。思いがけないことで、楽しかった。

TOO YOUNG TO DIE!若くして死ぬ

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 話題の映画を見に行った。去年の、あのバス事故のために封切が危ぶまれたと言ういわくつきの映画だ。

 いやもう、笑うどころか、あまりの純愛に号泣しちゃったよ私ぁ。

 号泣したので、とてものことに、理屈っぽい感想など書けやしない。感想を知りたい人は、映画館へ行って映画を見てくれ。

 宮藤官九郎は天才だ!!

(翌日付記: 感想に代えて、こんなことを引用しときました。)

見たい映画があるので

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 見たい映画があるので、かかっている映画館は、と探すと、だいたいどこでもかかっているのだが、ところが、ほとんどが20時頃以降上映のレイト・ショウである。

 どうしようかなあ、と思ったが、休みだし、見たいし、妻に「見に行かないか」と誘ったら行く行くというので、予約した。

アレッ、これ読んだんだった(笑)

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 千一夜物語を読み終わったので、7月17日から古川ロッパ昭和日記に戻ったつもりでいたのだが、読み始めてすぐに、「アレッ、これ、読んだことあるなあ」と、すぐ気が付いた。去年の6月に読み終わっていたのである。

 でも、せっかくだからというので、そのまんま再読してしまった。

 最近、「再読」が多いなあ。

 古川ロッパ昭和日記の昭和16年以降を早く読みたいのだが、青空文庫の発表によるとまだ作業中である由である。

今週

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男前・小池百合子

 「都連のドン」。馬鹿だぜコイツ。もう終わっちまわァ。小池百合子をナメ過ぎだよ。なにしろ、防衛大臣時代はアンタッチャブル中のアンタッチャブル、余人をして防衛省の天皇とまで言わしめた守屋武昌次官を馘首し、あまつさえ免職、訴追、家族まで起訴に追い込んだという、そういう小池女史が相手なんだぞ。多分こんな爺議員ごとき、ユリコ先生は小指で弾き飛ばしてしまうぜ。

 いずれにせよ、都連というのが土台の腐りきった納屋みたいなものだと言うことにされつつある。こんなものは「男前」小池百合子がドカッと一発蹴飛ばせば、ドミノ倒しのように音を立てて崩壊してしまうだろう。

 その後、東京オリンピックに関する諸問題を片付ける時には、全部「こ奴らが悪いことをしていたからだ」と罪をなすりつけてしまうのがよい。都連が何をするどういうところか、なんてことは、この際どうだってよろしい。ユリコ先生にとって必要なのは、「わかりやすい敵」なのである。

 しかも、さっさと首相に面会し、笑顔で写真に納まってしまうと言う機動力の高さ。返す刀で幹事長から鷹揚な言質をとり、手打ちですかと詰め寄る報道陣に「そんな、『手打ち』だなんて、ヤクザじゃないんですから、おーっほっほ」と悠揚迫らざる余裕。その間、内田をはじめ爺ィ連中は別室にこもってヒソヒソと爾後談義、手を(こまね)いて内攻してただけなんだから。カッカッカ、笑わせるぜ!

 イケイケ百合子先生、ひーっひっひ……。

 あ、私、埼玉県民で、東京都民じゃないんで、全然関係ないことなんですけどね、全部。

右翼・稲田朋美防衛大臣

 さて、この人は右翼中の右翼だが、よりにもよって防衛大臣に。普通弁護士出身の人なんてものは、福島瑞穂なんかもそうだが、だいたい左翼と相場が決まってるモンだがね。

 この8月15日はどうするのか、注目されるところ。いつもの年は、これでもかってくらい、靖国参拝を欠かさぬ人だからねえ……。

訃報

 またしても昭和の残照が一つ、消えてしまった。恐ろしいほど完璧な無敵ッぷり、おっかねェ「ブラックまわし」が懐かしい。

 連続張り手の奇策に出た寺尾を頭っから真っ逆さまに投げ飛ばした相撲など、いろいろと面白い一番もあったなあ。まだ若いのに、惜しい。祈冥福(めいふくをいのる)

【暴言】だから野球はダメなんだッ

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 こういう差別的・抑圧的・前時代的・軍隊的スポーツであるから、野球はダメなんである。

 この時代に多様性(ダイバーシティ)が認められないと言うのなら、野球なんぞいっそ廃止・禁止してはどうか。

ゲイヲシノビズ

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 私の上司──と言っても、私は向こうを知っているが、向こうは私ごとき低位の者を永久に知る筈もない、というほどの大上司──は、一昨日をもって職を去った。辞するにあたって「韓非子」を引いた。いわく、

巧詐(こうさ)拙誠(せっせい)()かず」

……と。

 上司はこれを、昨年来の苦心惨憺の議論当時の、自らの心構えを表白(ひょうびゃく)するために引いた。

 このこと、まことに味わい深い。

 上司の辞を解説・敷衍(ふえん)したりすると、周囲からは「エラブツが知った風なことを」「ゴマスリ野郎がエラブツにお追従(ついしょう)していやがる」なぞと殊更(ことさら)斜めに構えられてしまう。

 しかし、今回ばかりは、それが残念でならない。まことに味わい深い引用だったからだ。

 それで、自分自身の私的リソースであるこのブログを使って、この上司の辞について解いておきたい。

巧詐不如拙誠(こうさはせっせいにしかず)

 巧詐は拙誠にしかず。これは韓非子の「説林(ぜいりん)」の中にある言葉である。以下に白文を写す。

 楽羊為魏将而攻中山。其子在中山、中山之君、烹其子而遺之羹。楽羊坐於幕下而啜之、尽一杯。文侯謂堵師賛曰、「楽羊以我故、而食其子之肉。」答曰、「其子而食之、且誰不食。」楽羊罷中山。文侯賞其功而疑其心。

 孟孫猟得麑。使秦西巴載之持帰。其母随之而啼。秦西巴弗忍而与之。孟孫帰至而求麑。答曰、「余弗忍而与其母。」孟孫大怒逐之。居三月、復召以為其子傅。其御曰、「曩将罪之、今召以為子傅、何也。」孟孫曰、「夫不忍麑、又且忍吾子乎。」

 故曰、「巧詐不如拙誠。」楽羊以有功見疑、秦西巴以有罪益信。

()み下し

 これは()み下せば次の通りだ。

 楽羊(がくよう)魏将(ぎしょう)たりて中山(ちゅうざん)()む。その子中山(ちゅうざん)()り、中山の(くん)、その子を()てこれを(あつもの)にし(おく)る。楽羊、幕下(ばっか)に於いて()してこれを(すす)り、一杯を尽くす。文侯(ぶんこう)堵師賛(としさん)()いて(いわ)く、「楽羊、我を(もっ)ての(ゆえ)に、その子の肉を(くら)えり。」答えて曰く、「その子を食らう、()た誰をか食らわざらん。」楽羊、中山を(まか)る。文侯その(こう)を賞するもその心を疑う。

 孟孫(もうそん)(かり)して(げい(こじか))()秦西巴(しんせいは)、使いしてこれを()せ持ち帰る。その母、これに()きて()く。秦西巴、忍びずしてこれを(あた)う。孟孫、帰りて麑を求む。答えて曰く、「余、忍びずしてその母にこれを与う。」孟孫、大いに怒りこれを()う。()ること三月、()た召して以ってその子の()()す。その(ぎょ)曰く、「(さき)(まさ)にこれを(つみ)し、今()して以って子の傅と為す、何也(なんぞや)。」孟孫曰く、「()れ麑を忍ばざる、且つまた吾が子を忍ばん()。」

 (ゆえ)に曰く、「巧詐は拙誠に如かず。」と。楽羊は功有るを以って疑われ、秦西巴は罪有るを以て(ますます)信ぜらる。

現代語訳

 現代語にすれば次の通りとなる。(佐藤俊夫訳)

 魏の国の将軍・楽羊(がくよう)は中山国を攻略していた。中山国王は、脅しと挑戦を込め、中山国にいた楽羊の子を捕えて殺し、その肉で(あつもの(シチュー))をこしらえ、楽羊のところへ送りつけてきた。しかし楽羊は本陣に座って、この羹を平らげてしまった。本国・魏の王、文侯(ぶんこう)はこれを聞いて感嘆し、部下の堵師賛(としさん)に、「私のためとは言え、自分の子の肉まで食うとは……。」と言った。しかし堵師賛はこれに答えて、「我が子の肉まで食うような者は、今度は誰を食うか知れたものではありませんよ。」と言った。こうしたことがあって、中山国から凱旋してきた楽羊は、文侯から軍功を賞されはしたものの、逆にその心を疑われるようになってしまった。

 別の話。ある時、孟孫(もうそん)という魯の王が狩猟に行き、仔鹿を捕まえ、部下の秦西巴(しんせいは)にこれを持ち帰るように命じた。そうすると、母鹿が現れて、仔鹿のために鳴いてついて来る。秦西巴は鹿の親子がかわいそうになり、仔鹿と母鹿を逃がしてやった。帰ってきた孟孫が「仔鹿はどうした」と聞くと、秦西巴は「可哀想になってしまい、逃がしてやりました」と答えた。孟孫は激怒し、秦西巴を追放処分にした。ところが、三月ほど経ったあと、秦西巴を呼び戻して、自分の子供の傅育(ふいく)官(養育係)に任命した。孟孫の側近は不思議に思い、「不服従の罪状で追放処分にしたものを、今また召し戻して傅育官などになさるとは、どういうことですか?」と聞きただした。孟孫は「仔鹿を可哀想に思わないような者が、どうして私の子供を大事に思うか?」と答えた。

 だから、「巧詐(こうさ)拙誠(せっせい)()かず」と言うのだ。楽羊は手柄を立てたのに疑われるようになり、秦西巴は罪があるのに逆に信用されるようになった。

簡単なたとえ話のようで、実は理屈が込み入っている

 上司の、漢籍への深い素養が感じられた。

 さて、私が味わい深いな、と思うのは、この話の流れ、特に二つの例話から導き出される結論として「巧詐は拙誠に如かず」にはならないのじゃないか、流れに無理があるのではないか、どうしてそうなるのか……等と、少しわかりづらいことと、それをあえて引いた上司の心についてである。

 この出典のどこがわかりづらいかというと、読む人には自明の通り、「自分の息子を食うというような、血を吐くような行動でもって君主に仕えた楽羊こそ、むしろ拙誠と言えないか」というところである。自分の息子を喰らってまで、敵国の調伏につとめたのだ。むしろ軍人の鑑であるとも言い得る。しかし、おそらくそう思う方は、中国の途方もなく分厚い、古い古い文明史を解っていない。

 自分の息子の肉をすら食って見せるという赤誠であっても、それは王の立場から見れば、「自己PRのキッツい軍人馬鹿のパフォーマンス」に過ぎないという一点にこそ、楽羊の例話が「巧詐」として位置づけられる理由がある。

 思えば、かつての「カミカゼ」が、こうした「軍人パフォーマンス」の一つですらあったといえば、私は英霊から袋叩きにされるかもしれないが、しかし、あえてそう言ってみれば、「仔鹿と母鹿のことを思いやる」、つまり「弗忍麑(ゲイヲシノビズ)」という簡素で美しい慈悲心こそ、むしろ「拙誠」に見えてこないか。

 時下、中国との関係は誠に遺憾である。しかもなお、我が国の防衛は明確に解き得ざる混沌複雑のただ中にあり、ややもすれば人々がミリタリーのパフォーマンスに惑わされかねぬ状況にあるのは、むしろ事実と言える。

 しかし、私の上司はそれを踏まえた上で、楽羊我が子を喰らうの一話、そしてこれが「巧詐」であると喝破する、難解な韓非子・説林の一説を引いた。

 これぞ熟読玩味、銘肝すべし、というところであろうか。

 また、そこまでひねくり回さず、この上司の説をまっすぐにとらえるとすれば、テクニカルでいかにもインテリに受けるレトリックよりも、誠心誠意よりする腹の底からの行動で示すことこそ衆人をして従わしめるであろう、という素直な理解も勿論ある。

 その二つをもって、韓非子を引いた上司への、私なりの理解並びに讃嘆としたい。

本当に腹の底から悲しめ原爆忌

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 原爆忌である。

 思うだに、考えるだに、いたましい(かな)、悲しい哉。多くの人が(こうべ)を垂れ、遠いかの日に思いを致している。

 だが、本当のところを喝破(かっぱ)すれば、実は(ほとん)どの者が悲しんでもいなければ(いわん)や反省などしてはいるまい。

 その証拠に、本当に悲しみ、本当に反省しているのならば、核兵器で死ぬ者が二度とないように現実の物理的努力をしているはずだ。だが、殆どの者はそんな物理的努力などしていない。政治家から学者、有名人、金持ちから貧乏人、一般人に至るまで殆どが、だ。

 日本は中国・ロシアという核兵器保有国に隣接している。日本に向けて照準を定め終わり、いつでも発射可能な核弾頭の数は数百を下らない。それらはポチッとスイッチを押せば、地獄の業火となって私たちの頭上に降り注ぐ。軍事施設ではない、無辜(むこ)の一般市民の頭上に降り注ぐのだ。かてて加えて、新興核武装国にして敵国、北朝鮮は、この凄惨な兵器の開発を()めぬばかりか更なる増産増備の構えを強めてさえいる。

 この冷厳な事実に対抗するための具体的で物理的な努力に関して、人々はあまりにも冷淡である。はっきり言えば「何もしていないし、何も考えていない」のが実際である。それが、私たち共通の悲劇のこの日、広島原爆忌に、多くの者が悲しんでいるフリを実はしているだけだと、露悪的に私が()所以(ゆえん)だ。

 日本はある程度の弾道ミサイル防衛の実力を持ってはいる。だが、1発2発なら器用に撃ち落とす見事な腕前くらいは見せられても、20発30発と撃ち込まれれば、もう弾切れになり青息吐息だ。これを「飽和攻撃」と言う。そうなれば広島どころではない。何十万、いや、何百万もの人が焼け爛れて死に、中性子線による放射線障害でのたうち回って死に、遺伝子に対する甚大な影響で子孫までがおかしくなってしまうのだ。

 中国もロシアも、50発でも60発でも核兵器を日本に打ち込む実力を潜在している。戦争は弱い者いじめだ。中国もロシアも、アメリカ本国に撃ち込めば苛烈な仕返しに遭って自分たちが困る。核戦争を開始するなら、まず弱小な敵国・やる気も覇気もない日本に数十発がところを撃ち込み、その親分アメリカの出方を見るだろう。ま、本当にやるかどうかは別問題として……。

 まして、仮に、仮にだ。今もってなお世界一の軍事国家、水爆の殿堂にして核兵器の巣窟、かのアメリカ合衆国が、万が一にも日本の敵となる日が来たら、どうなるか。

 反省するなら、悲しむなら、ポーズやフリではなく、本当に反省し、本当に悲しんでほしい。情緒的に悲しんで見せるのなど、中学生以下の子供でもできることだ。

 ただし最後に言おう、本当の反省は、情緒よりする悲しみから出発する。だから、まず腹の底から慟哭(どうこく)し、悲しまねばならぬ。それがスタートだ。