【妄想】システム開発・設計基本指針第九項

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 例のアレをシステム開発で例えるなら、コーディング規約や設計規約よりも上位に置かれる「開発・設計基本指針」といった高レベルのルールと言って良いだろう。

 その会社は、無理なシステム化戦略によって一度は倒産寸前にまで傾いた経営をようやく立て直し、まさにこれから、というところであった。全社員が路頭に迷うかと思われたあの恐ろしい時代の経営の第一の反省点は、技術的にエレガントとは言えない開発・設計基本指針にあると考えられた。

 とりわけ、旧開発・設計基本指針では、ハードウェアへの直接アクセスについては最高経営責任者がこれを判断するとされていたため、結果的に総合的な経営陣の合議判断が排除される状況となり、ついには技術陣の専権事項となって、メンテナンスが不可能となるほどの複雑なハードウェア・アクセスがソースコードに埋め込まれていく状況となってしまっていた。

 新しい開発・設計基本指針ではこうしたことを深く反省し、技術的なエレガントさが追求された。株主の要求により、会社再生のおり経営陣に加わって再建に尽力した権威ある社外専門家達を招聘し、その意見を取り入れた。結果として、開発・設計基本指針の第九項に「ハードウェアへの直接アクセスを禁止する」という内容が盛り込まれた。また、ハードウェアにアクセスするための技術やノウ・ハウ、ハウ・ツーも、研究したり保持したりしない、と付記された。

 だが、経営立て直しから間もなく、いよいよ自社の基幹システムをこれにより刷新しようとしたとき、システム開発を取り巻く技術的トレンドは変わってしまっていた。標準化によるシステム・ライフサイクルの一元管理が新たなシステム開発パラダイムだと見なされるようになったのだ。そこで、会社の経営判断は、工場の生産ライン制御だけでなく、工場建屋管理システムの制御や、通風や採光、また給与、会計、人事システム、フィジカル・セキュリティなどの異質なシステム群をも単一システムとして一元管理し、これによりシステムの安定的な保守とコスト削減を実現するに決したのである。

 経営陣は商機に投じたシステムの早期完成を至上命題とした。このため、システム開発における技術的な適切性は、今回は二の次とされた。

 技術者たちは可及的速やかにシステムを完成させた。工場のラインを制御するとともに、給与や会計、フィジカル・セキュリティなどまで標準化・一本化することにより総合的で高速な経営判断が可能になった。またこのシステムは大幅なコスト削減も実現しており、会社の経営に大きく寄与することとなった。

 建屋管理システムのうち、特にフィジカル・セキュリティシステムはドアや窓の施錠機構、警報・監視装置などまで制御するため、ハードウェアへの直接アクセスが必要だったが、これは「最小限必要とされる矮小な事項に過ぎず、技術陣が当時当時の状況で判断して実装すべき事項である」とされ、技術陣の奮闘により最小限のハードウェア・アクセスでうまくシステム化された。

 一時期倒産寸前であった会社は、このシステム開発の成功もあって業界でも2位か3位の時価総額規模を回復し、有数の技術企業となっていた。

 このシステムはなんとはない不明瞭さと不安を(はら)みながらもその後長期間運用される結果となった。

 ところが、現在も稼働し続けているこのシステムのうち、特にフィジカル・セキュリティサブシステムのハードウェアへの直接アクセスが問題視されるようになった。

 ハードウェアへの直接アクセス部分は、はじめは規模も小さかったが、システムがメンテナンスされる際にソースコードもリファクタリングされ、個別にその場その場で書かれた間に合わせのコードでは既になく、気が付けばハードウェア直接アクセス用ライブラリとなって、全システムで最大のソースコード行数を費やす一大サブシステムとなっていた。

 だが、開発・設計基本方針の第九項には、「ハードウェアへの直接アクセスは、これを認めない。その技術は全社的にこれを保有しない」と書かれてあることには変わりがないのだ。

 当時の状況はこうだ。

 ハードウェアへの直接アクセスが禁じられているのに、ハードウェアの制御を実質的に命じられたプログラマたちは、

「ハードウェアアクセス用の海外製COTS利用ライセンスを購入してもらうしかない」

「だけど、海外製COTSは滅茶苦茶に高いし、それにウチの会社のフィジカル・セキュリティのハードウェアには合致しないから、特注カスタマイズしてもらうしかない」

「海外製COTSへロックインされる問題も怖い」

「だいいち、以前ウチの会社の経営が傾いて倒産寸前にまで追い込まれたのは、あの海外製COTSのメーカーにやられたようなものだ。だから、社内にはあの海外製COTSに対する感情的なしこりもある」

「これは上の方にかじ取りして貰うしかないよ」

……と、開発を暫時(ざんじ)停滞させざるを得なかった。

 そこへ、システムの早期完成を督励するため、本社から企画本部長が乗り込んできた。彼は

「君たちは何を屁理屈を言って手を(こまぬ)いているのだ?やるべきことであれば、テクニカルな規約や方針なんか、そんなもの、なんだというのだ。今すぐ技術者としてやるべきことをやれ!」

などと、いかにも琴線への触れ具合がいいようなことを言って技術者たちを鞭撻(べんたつ)した。

 技術者たちはこの本社企画本部長の容喙(ようかい)に従った。C言語で書かれたプログラムに、躊躇(ちゅうちょ)なくインライン・アセンブラのコードを埋め込み、ハードウェアに直接アクセスすることで問題を打擲(うっちゃ)ってしまった。まあ、ゆくゆくは経営トップから何らかの判断がなされ、そのうちにこの問題も整理されるだろう、それまでは辻褄(つじつま)の合わぬことは先送りだ。

 ところが、それから年余の時間が経つというのに何の判断もなされぬまま、このハードウェア・アクセス部分は、前述のように「社内申し継ぎ」の壮大なライブラリに成長してしまい、のみならず会社の資産にまでなったのだ。ところが、この大資産は経営トップの認めているものではない。

 中間管理層は困った。プログラマ個々が勝手にハードウェアにアクセスするコードをこっそり書いたと言うなら、それはプログラマの責任にして、露顕すれば個々のプログラマを叱責するなりして処分してしまえばよい。しかし、大きくなってしまったライブラリは、実質上会社の資産となっており、今更もうどうしようもない。それどころか、そのライブラリはもともとファクトリ用に書かれていたのに、パッケージ化されて社外に販売された金融などの大システムや、一般向けのホーム・セキュリティにまで組み込まれ、役立てられるようになってしまっているのだ。

 仕方なく、「このハードウェア・アクセスライブラリは、開発・設計基本指針には合致している。それは、ハードウェアにアクセスするための必要最小限の方法しか用いていないからである」という解釈が本社経営会議で議決された。全社が曖昧な薄笑いのうちにこれを聞き、受け取った。あの壮大なサブシステムが、「必要最小限」とな……?

 社員たちは、ひそひそと「どう考えたって開発・設計基本指針に違反しているよな、ウチのシステム」と言い合った。新入社員を教育するとき、教育係は

「このライブラリのコードは、ハードウェアへの直接アクセスを行っていない。素人がパッと見ただけならそのように見えなくもないが、これは、経営目的を達するため、必要最小限の処理を行っているのである。したがって、開発・設計基本指針の精神には合致している。……このコードがそう見えない者は、精神力でそのように見えるようになるまで頑張れ」

……などと教えるので、新人の失笑をかう始末である。

 社員一同、特に技術陣は釈然とせぬながら、ハードウェアに直接アクセスして迅速に目的を達することができるこのライブラリの恩恵に(あずか)るしかなかった。

 何度か、

「おかしいじゃないか、現にうまく動いているシステムが数多くあるにもかかわらず、これらは全社的な開発・設計基本指針とはまったく一致しておらず、経営トップもこれを資産として認めていない。ならば、開発・設計基本指針を変更すべきではないか」

という発議が行われたが、

「そのような現実路線は、技術的にエレガントとは言えない。技術至上主義を社是とするグループ会社全般の方針に違背する。この問題には、多くとも、コーディング規約などの部分的な改正や、パッケージ化して社外に販売しているものについては納品物メンテナンス規約などの新設により、限定的に対処すべきだ」

などという変ちくりんな理由で発議は認められなかった。枝葉で限定的に対応するなどということの、どこが技術的にエレガントなのか。

 だが、たしかに経営トップレベルの苦し紛れな判断回避も(もっと)もなことである。それはそうだろう。「できてしまったシステムに合わせて設計を変更する」などということがエレガントであるはずはない。それは出てきたバグを修正せずに、テストケースのほうを変更するようなものだ。設計に合致していなければ、そのシステムは作り直すべきなのだ。

 無論、現実には設計が間違っている場合もある。部分的な間違いが製造中に見つかり、設計を修正するということはあるだろう。だが、問題はそのような部分部分の誤りとは異なる。全員が薄々開発・設計基本指針の欠陥に最初から気づきながら誰もそれを言い出そうとはせず、本社の監査と株主が怖くて、開発・設計基本指針の欠陥をその場その場でうまくかわしながら大システムを製造してしまったのだ。

 もともと、この開発・設計基本指針は、一度は倒産寸前にまで傾いてしまった経営の反省点から生まれたものであり、トップからボトムまで、社員全員、倒産して路頭に迷うあの恐怖がトラウマとなって胸底に残り、この現状と乖離(かいり)した開発・設計基本指針に手が付けられないのだ。

読書

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 今読み終わった「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」を図書館へ返しに行き、入れ替えに別のを借りる。

 同じ岩波の、先に読んだ「新訂 魏志倭人伝……」の続きの一冊、「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」。

 それから、なんとなく手に取った「知っておきたい日本の神様」。

 もう一冊は「そばと私」という題だ。これは、私が蕎麦屋に行くと季節ごとに貰って帰ってくる「季刊・新そば」という蕎麦業界のPR誌があるのだが、その中のエッセイの集成らしい。いつもこの「季刊・新そば」のエッセイは、各界の有名人が良い文章を載せているので好きなのだ。それをまとめた本があるとは知らなかったが、図書館の書架にこれを認めて、すぐ借り出した次第である。刊行も去年(平成27年(20016))の9月と新しく、本は文庫本ながら初版である。

読書

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 「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」、昼過ぎからの読書で読み終わってしまう。

 解説・()み下し文・現代語訳、付録として原文(百衲本(ひゃくどうぼん))の影印・日本書紀や高句麗広開土王(好太王)碑銘などをも含む参考文献・年表が収められている。

 面白いな、と思った点は、魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝の四書ともに共通して、

「倭には女が多いが、(みだ)らではなく、嫉妬(やきもち)をやかない。倭人は従順で、争いごとや訴え事が少なく、盗みも少ない。酒が好きで、長生きし、80歳や100歳になる者もいる」

……というような記述が見られることだ。

 残念な点がある。本書には参考文献として、日本書紀のうち「巻二十二 推古天皇」が全文引用で挙げられている。他方、日本書紀のほうでは「巻第九 神功皇后」の四十三年の条で魏志が参照されて記載されているのだが、これに関する考察や記載が全く見当たらない点である。戦後の学際は、戦前の皇国史観を嫌うあまりこのようになっているのではないかなどと感じてしまう。

 特に付録の影印などは興味深く、所有して資料としてとっておきたいが、図書館で借りたものなので、返さないと仕方がない。

読書

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 吉村昭の短編集「羆」を読み終わる。

 吉村昭と言えばノンフィクションに題材をとった緊張感のある作品が持ち味だが、この作品集は違っていて、様々な動物に関わる人間たちを描いている。

 5種類の動物が題材だ。仔から育てた羆に裏切られる猟師を描いた「(ひぐま)」。金魚の飼育に関わる周囲の男女たちを少年の目から描いた「蘭鋳(らんちゅう)」。闘鶏にかける青年と、その虚無を描いた「軍鶏(しゃも)」。苛酷な伝書鳩レースにまつわる男女を描いた「鳩」。豊漁に湧く寒村と、それに背を向けざるを得ない悲しい親子を描いた「ハタハタ」。

 どの作品も、どこかに、何らかのエロチックな要素を持っていて、それが生命というものを連想させ、かつ、人間臭い哀感を高めている。吉村昭の腕前の凄さ、作家のテクニックが味わえるのは、この中では「蘭鋳」だろうか。

 さて、次は図書館でなんとなく手に取った一冊。「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」である。

立夏

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 今日は「立夏」である。たまたま、今年は祝日「こどもの日」と一致する。

 「角川俳句歳時記」の文庫版をいつも鞄に入れて持ち歩いている。今日まで「春」巻を入れていたがこれを取り出し、カバーを「夏」巻にかけ替えて、ふたたび鞄に収める。

 初夏らしい、いいお天気だ。梅雨の前の初夏は好きだ。

こどもの日

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天皇陛下万歳

 祝日「こどもの日」である。玄関に国旗を掲揚する。

 民主党政権時に「子供の日」から「こどもの日」に表記が変更された。いわく、「『子供』というのは差別語である」という、サッパリ理解できない理由だった。「子供」という単語が差別なんだったら平仮名(ひらがな)で書いたところで差別は一緒だろう、と思う。「支那人」を「しな人」と書いたって、朝日新聞流に言わせればやっぱり差別だろう。

 自民党政権に復した時にこの「こども」や交ぜ書きの「子ども」が、清々と「子供」表記に戻らないかな、と思ったが、わずかに「こども手当」が「子ども手当」に変わったのみである。半分だけ戻す、て、一体もう、もはや何が言いたいのかしたいのか、全然わからない。交ぜ書きも気持ちが悪い。

 しかし、祝日法を改正までして法定の名称を律しているのであるからには、どうにもしようがない

 繰り言はさておき。毎年同じことを書いているが、この「こどもの日」は、実は法定の「母の日」でもある。祝日法には次のように記されてある。

祝日法第2条抜粋

こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。

 自分の子供たちの母である妻に感謝したいと思う。