読書

投稿日:

 「御松茸(まったけ)騒動」(朝井まかて)、楽しく読み終わる。

 主人公の尾張藩士、小四郎の19歳から28歳までの9年間を描く。ああ、いるいる、こういう奴、30になっても40になっても、いや、場合によっては50を超えていても、こういうわかってない馬鹿、愛すべき野郎、いるなあ……と思った。

 いわゆる、「意識高い系」というやつだ。俊秀なのに抜けている。読者としてはこの主人公を目の前に据えて、諄々と説き語りたい、父になり母になり、あるいは上司になり先輩になり、主人公を心配してやりたくなるのだ。あるいはまた、主人公を自分と照らし合わせ、ああ、俺もそうだと共感する若い人もいるかもしれない。

 そんな風に思わせるほどに、現代のサラリーマン社会をもチクリと、あるいはグサリと風刺している。

 さておき、この小説の表題に目を引かれたのは、以前、岡本綺堂の「半七捕物帳」の中に、綺堂の別の作品「三浦老人昔話」の主人公三浦老人が出てきて、半七老人・三浦老人ともどもに昔話をするという一話があり、その一話が「松茸」であったからだ。江戸時代の将軍家献上のための松茸にともなうドタバタが面白おかしく描かれている。その内容が印象に残っていたのだ。

岡本綺堂「半七捕物帳」のうち「松茸」から引用(平成30年現在著作権消滅)

 三浦老人も笑いながら先ず口を切った。

「お話の順序として最初に松茸献上のことをお耳に入れて置かないと、よくその筋道が呑み込めないことになるかも知れません。御承知の上州太田の呑竜(どんりゅう)様、あすこにある金山(かなやま)というところが昔は幕府へ松茸を献上する場所になっていました。それですから旧暦の八月八日からは、公儀のお止山(とめやま)ということになって、誰も金山へは登ることが出来なくなります。この山で採った松茸が将軍の口へはいるというのですから、その騒ぎは大変、太田の金山から江戸まで一昼夜でかつぎ込むのが例になっていて、山からおろして来ると、すぐに人足の肩にかけて次の宿(しゅく)へ送り込む。その宿の問屋場にも人足が待っていて、それを受け取ると又すぐに引っ担いで次の宿へ送る。こういう風にだんだん宿送りになって行くんですから、それが決してぐずぐずしていてはいけない。受け取るや否やすぐに駈け出すというんですから、宿々の問屋場は大騒ぎで、それ御松茸……決して松茸などと呼び捨てにはなりません……が見えるというと、問屋場の役人も人足も総立ちになって出迎いをする。いや、今日からかんがえると、まるで嘘のようです。松茸の籠は琉球の畳表につつんで、その上を紺の染麻で厳重に(くく)り、それに封印がしてあります。その荷物のまわりには手代りの人足が大勢付き添って、一番先に『御松茸御用』という木の札を押し立てて、わっしょいわっしょいと駈けて来る。まるで御神輿おみこしでも通るようでした。はははははは。いや、今だからこうして笑っていられますが、その時分には笑いごとじゃありません。一つ間違えばどんなことになるか判らないのですから、どうして、どうして、みんな血まなこの一生懸命だったのです。とにかくそれで松茸献上の筋道だけはお判りになりましたろうから、その本文(ほんもん)は半七老人の方から聴いてください」

 江戸時代の松茸というものは、ことに将軍家にかかわるものはこれくらいに血眼になったものなのだ。朝井まかての「御松茸騒動」では、このように大仰で、現代人から見れば滑稽ですらある松茸の扱いと、それにかかわる人々の哀歓、愛すべき主人公の成長を描いている。

そりゃそうだろうよ。

投稿日:

 そりゃあ、こんな糞拭き紙みたいなものを高値で売ってこいと言われれば、死にたくもなるだろうよ。気の毒である。

 一度、東京の朝日新聞本社の高い階でふんぞり返っているいけ好かないブン屋なぞのほうが、倒産してプライドを失って路頭に迷い、死んでしまうといいと思うね、腹の底から。

 ブン屋にいい人なんかいないもの。

読書

投稿日:

 「大黒屋光太夫 上」を読み始める。

 大黒屋光太夫が最初に漂着したのはアリューシャン列島の「アムチトカ島」である。この島の名を見てふと思い出すのは、アメリカが行った「カニキン」水爆実験の現場がこのアムチトカ島であることだ。

(ふき)(とう)

投稿日:

読書

投稿日:

 最近はなんだか、本代をケチるようになってしまい、市立図書館南部分室へばかり通うようになった。

 先日、高田屋嘉兵衛が主人公の小説「菜の花の沖」(司馬遼太郎)を読み、とても面白かった。それで、その中にもたびたび取り上げられる、高田屋嘉兵衛より二回りほど前の時代の人物、「大黒屋光太夫」にも興味を持った。

 この「大黒屋光太夫」については、私が好きな作家の吉村昭に作品があることも、前から知っていた。有名な作品なので書店の文庫の棚によく見かけるし、図書館の棚にも確か、ある。

 先月頃だったか、図書館でさっそく借り出そうとして吉村昭の棚に行ったら、「大黒屋光太夫」上下巻のうち、貸し出し中なのか、上巻だけがなかった。

 最近「こだわり」のようなものがだいぶなくなってきた私は、まあ、しばらく待てば返却されるだろう、どうでもいいや、と、下巻だけの「大黒屋光太夫」の隣にあった「ニコライ遭難」をヒョイと手に取り、借り出した。

 この「ニコライ遭難」がまた、面白かった。丹念かつ膨大な取材に基づいて史実を淡々と追い、忠実・正確に物語を進めつつ、しかし、随所に文学的創作と潤色が光るのである。吉村昭の本を読むことは「プロの仕事」に酔うような感じで、楽しい。

 読んでいる最中にインフルエンザに罹ってしまったのだが、病臥中「ニコライ遭難」を読むことで丁度その無聊を紛らわせることもできた。

 昨日はインフルエンザ後の病み上がり出勤だった。さすがに体力の衰微著しく、きつかった。

 帰りに図書館に寄った。今度は「大黒屋光太夫」が返却されてきているだろうと思い、棚に行ってみたのだが、今度もない。

 前から読みたいと思っていた別の本でも借りるか、と思い、昨年NHKのドラマで放映されていた「(きらら)」の原作を探す。江戸時代の浮世絵師、北斎の娘で、その腕前は父北斎をも上回るのではないかとすら言われる女流、葛飾應為(おうい)をモデルにしたものだ。朝井まかてという作家の作品である。

 以前これを探したとき、図書館の端末で調べて「在架」だったので、棚に行ってみたら実際は不在架だったということがあった。別にこんなことで窓口にいちいち苦情めいた確認を入れるようなキチキチ不寛容の私ではない。市立図書館の運営ごとき、このくらいのことはあるだろう。

 待っている間にそのうち戻ってくるだろう、と思っていたのだが、今日はひょっとすると「眩」が在架かも、と思って朝井まかての棚へ行ってみた。

 先日は不在架だった朝井まかての作品がたくさん戻ってきてはいたが、相変わらず「眩」は不在架である。そんなに読みたきゃ予約しろよ、という話もあろうが、これがまた、そういうこだわりも私には希薄なのである。

 ところが、ふと棚を見るうち、気になる作品が目に付く。同じく朝井まかての作品で、「御松茸騒動」という中編である。パラパラっ、とめくってみると、冒頭から楽しい描写が2ページほどあり、これは面白そう、と思って借りることにした。

 それにしても大黒屋光太夫がないなあ、と少しばかり残念だ。ふと、そうだ、一応端末で調べてみておこうか、と思い、カウンターのキオスク端末に向かってみた。そうしたら、文庫本の上巻は貸し出し中で確かに不在架だが、単行本のほうは上下そろって在架である、と出た。

 ああ、そうか。気づくのが遅かったなあ、と思う。何も本は文庫だけではない。文庫がだめなら単行本、ということに気が付かなかった。書店で探すとき、単行本は高いので、最初に候補から外す、というあさましい癖がついてしまっていたのだ。図書館では単行本も文庫もどっちも「タダ」である。正確に言えば住民税を払っているのだから、読まなきゃ損々、てなものだ。

 そういうわけで、「御松茸騒動」(朝井まかて)の文庫と、「大黒屋光太夫・上下」(吉村昭)の単行本を借り出した。