一杯

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 YouTubeに「今日の酒肴」という動画を上げるのが面白く、いくつも作った。

 今日は揚げ出し豆腐を作ったが、片栗粉じゃなくて蕎麦粉をまぶして揚げるというのをやってみた。うまかった。

YouTubeの古いアカウント

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 10年前にYouTubeに匿名でアップロードした動画がある。実はこの動画には少しばかり人気があり、30万回以上再生された。今は何百万回ものアクセスがなければ人気があるとは言わないが、当時はこれは少し多い目の再生回数だった。

 私はそういうコンテンツを作った「詠み人知らず」の作者として少しほくそ笑むところがあった。当時は米国発のSNSは日本ではまだまだで、ネットは匿名と言うのが当たり前だったこともある。

 その動画は長いこと放置していたのだが、自分の手に取り戻したくなった。

 ところが、その動画を公開後、YouTubeはGoogleに買われ、Googleアカウントでの統一認証に変わり、古い匿名アカウントではログインできなくなっている。

 どうしたものか、と思ったが、すぐに処置方が見つかった。

 まず、普段使っているGoogleアカウントでログインし、次に「Google の傘下に入る前の YouTube チャンネルへの申し立て」というYoutubeのページに行く。

 そうすると、こんな画面になるから、古いアカウントとパスワードを入力し、画面の案内に従って進める。

 すぐに、Googleから「XXさんがあなたを〇△□のオーナーにしました」というメールが来て、メールに記載の「ご利用開始」というリンクをクリックすると、いつものアカウントから古いアカウントへ切り替えて動画が管理できるようになる。

一杯

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 胡瓜をいろいろな薬味で肴にして、一杯呑み、動画に撮ってYoutubeに上げた。

 面白い。

敗荷(やれはす)

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()きてゐるや上野の敗荷(やれはちす)   佐藤俊夫

#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha

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 舗装道路の脇にひと(むら)の花が咲いている。水仙の種類かな、と思ったがさにあらず、これは玉簾(タマスダレ)という花で、毒があるそうだ。雨後にまとまって咲くそうで、さればこそ、今年の秋には似つかわしい。

 雨の多い秋だ。一雨ごとに涼しくなる。肉体は正直で、食欲を減退させる暑熱が去った途端、空腹を覚えるようになった。

 とはいえ、春に痩せ、夏に痩せ、秋に痩せして冬に痩せる、という(たち)の私は、まあ、食欲の秋でも(ふと)ることはない。(うま)年生まれではあるが、天高く馬肥ゆる秋、とはならぬ。これは簡単な理屈で、20代から40代、特に30代~40代を筋トレばかりして過ごしたからである。最近運動しないが、基礎代謝はなかなか落ちず、脂肪がつかない。

 コーヒーをよく飲むことも多分関係しているだろう。勿論無糖だ。コーヒーは脂肪を脂肪酸にし、中性脂肪を分解するという。

 ウィスキーを好むこともあるかも知れない。ウィスキーは糖が少なく、加えて酔うのが早い。早く酔うと体温が上がってむしろ痩せてしまう。

敗荷(やれはす)

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読書

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 「変見自在 マッカーサーは慰安婦がお好き」(高山正之著)。書店で平積みになっていたのをヒョイと手に取った。

 平積みの本を買うことなどめったにないが、パラッとめくったらなかなか面白かったので買った。

 私は右翼であるから、こういう内容の本がぴったりくるのである。

一杯

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 今日も飲酒動画を撮ってYoutubeに上げた。

 珍しく、ウィスキーの動画。

無月(むげつ)

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 このところ涼しく、まことに秋らしくなった。ご近所の柿がうっすらと色づいている。ようやく秋も半ばというところか。昨日はお彼岸、秋分であった。

 今夜はお月様だが、私の住む埼玉県越谷市の天気予報はあいにくと曇りで、今夜はどうやら無月(むげつ)となりそうだ。

 妻に「今夜はお月さんだよ」と言うと、「15日頃なんじゃないの」と言う。ああ、旧暦のな……、と答えると、ふうん、と興味もなさそうである。

 天文学上の満月は明日の昼頃だが、暦法上は今日が旧暦八月十五日、夜は十五夜で、いわゆる「仲秋の名月」である。しかし、七夕同様、季節の変わり目で天候不順、また二百十日も過ぎたばかりで嵐が来ることもよくあり、月が隠れていることも多い。

 そこで、「雨月(うげつ)」「無月(むげつ)」というような言葉が生まれた。雨月は誰にでもすぐわかる言葉だが、無月というのはなかなか味わい深い言葉で、少し難しい。出ていない月がそこにある、ということで、「ないものが、ある」と言っているわけだ。

 富安風生に

いくたびか無月の庭に()でにけり

……という名句がある。単に「月」と言えば秋の季語だが、「無月」も秋の季語で、しかも月の傍題ではなく、れっきとした「見出し季語」である。

 無月のたびに、その昔理論物理学の泰斗(たいと)アインシュタインとインドの大哲人タゴールとの間で交わされたという対談のことを思い出す。

 目をつぶろうと人類が死に絶えようと、原子の集まりである月はそこにあることは科学が証明している、とするアインシュタインに対し、タゴールは、人間がそれを月であると認めなくなれば月はなくなる、人間の意識の中にしか月はない、と述べて譲らなかったという。

 私は科学者でも哲人でもないからどちらが正しいのかはわからない。それより、この対談をどちらが正しいとかどうとかいう評論の的にするのもあたるまい。しかし、名月の価値は人間が決めたものであろうし、反面、雲の裏に見えない月がある、というのも真実ではあろう。

 してみると、無月と言う言葉は、詩人タゴールの側にあるようにも、アインシュタインの側にあるようにも思える。ないものを認める、というのは、死者の霊魂をどう扱うか、ということにも似ている。