成人の日

投稿日:

天皇陛下万歳

 祝日「成人の日」である。

 曇天だが、軒先に高々と国旗を掲揚する。

 長女がようやく成人式を迎えることができた。まだ学生の(すね)(かじ)りだが、なんとかここまできた。

 長女は気分が乗らないらしく、今日は特に衣装を整えたり盛り場に出かけたりと言ったことはしないようだ。せっかく準備していた振袖も、キャンセルしてしまった。それもよい。いろいろな成人式があるということなのだろう。

 私自身も、30年前、自分の成人式に出ていない。これは、長女と違って、その日は仕事をしていたからである。

 だから、数年前まで「荒れる成人式」というようなニュースを見聞するたび苦々しく思っていた。しかし今は、そういうふうに思っていない。自由に喜べ、と思う。乱痴気騒ぎをする無軌道な若者も許され、また、長女のように、静謐に成人式を送る喜び方も、また許容されるのだ。

 成人式だけではない。いまや、人のあらゆる()り方を許容しなければならなくなった。挨拶をしない、性を転換する、ホモ、レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、別姓の夫婦、一生独身、子供を作らない、子育てをしない、学校へ行かない、仕事をしない……私などからするとこうしたことどもは生理が許容しないのであるが、しかし、そこを、「理性で許容せよ」と社会が求めているように思う。なかなか許容は難しいが、しかし、寛容はできる。許容と寛容は違うし、寛容されている側の立場になれば、今風な言い方をすれば「上から目線で憐れむのはやめろ」ということにもなるだろう。だが、許容できないのなら寛容するより他にない。

 たとえ苦しくとも、間尺に合わないと感じようとも、これまで自分が我慢し、それを受け入れてきた、というようなことを、相手も同様に受け入れられる、相手もできるはず、それを相手がしないのは、相手が怠けているからだ、相手に忍耐の精神がないからだ、相手の努力不足だ……などと思うのは、自分の思い上がりと言うものなのだろう。

 私などは、国民たるもの、(すべか)らく「一旦緩急あれば義勇公に報ず……」べき、というふうに考えているが、そんなの、断じて嫌だ、と言う人だって、世の中たくさんいる。というか、そんな人ばかりである。

 私は、それをも寛容しようと思う。

 しかし付言しておけば、だから、逆に、かつて「一旦緩急あれば義勇公に報……」じてきた人々、というものも、相手に受け入れられ、寛容されなければならない、というのは自然の流路と言える。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください