遊びの姿とマゾヒズム

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 遊びは必ずしも遊びの姿をしておらず、苦しみは苦しみの相貌を持っているとは限らない。

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 昔、コピーライターの糸井重里であったか、「まじめ・ふまじめ、ふまじめ・まじめ」と言ったもので、不真面目な態度で真面目ぶるくらいなら一生懸命に不真面目をやったほうがまだしも……、というような意味のことを言っていたように思う。

 そこからすると、マジメはマジメの姿を持っていない場合があり、同様にして不真面目は不真面目なように見えない場合もあるということになろうか。

 民主的で自由そうな雰囲気を持っているくせに、その実、内容は抑圧的でファッショなもの(野球などのスポーツとか)も、世の中には多い。モノもコトも、見たまま感じたまま聴いたままの姿をしていないのだ。

 耳鼻舌身意(じびぜっしんに)(これ)を疑えなどとまで言ってしまうとあまりにも抹香臭くなって来るから、そこまでは言うまい。だが、官能と真意が乖離することは大して珍しいことではない。さなきだに、われわれは表向きエコだ平和だと言っておきながら、電気も油も使いまくり燃やしまくり、グローバルと称して特定の国家に依拠することによって片側では戦争による殺戮に(くみ)している。

 そんなちぐはぐで出鱈目な人間だからこそ、苦しみや悩みの中に意味を見出すストイシズムだって(うべな)ってよい。それはマゾヒズムとは違う。マゾヒズムは官能へ語るが、ストイシズムは精神に語る。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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