フォン・ブラウン略伝

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 フォン・ブラウン――正しくはヴェルナー・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル・フォン・ブラウン Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun という名前だそうだ――はロケットの父として有名だ。少年時代からロケットづくりに打ち込み、ついには人類を月面にまで送り込んだ稀代の技術者である。

 その人生は劇的で、記すに余りある。

 フォン・ブラウンは、明治45年(1912)、プロイセンの男爵家に貴族の子として生まれた。

 少年時代はガラクタを収集してはこれにロケットを取り付けてぶっ飛ばすという、世界中の多くの男性が身に覚えのある、工学少年を地で行く子であった。廃品置き場から自動車の壊れたのをくすね、これに火薬ロケットを取り付けて点火、爆走するガラクタは八百屋の店先に飛び込んで騒ぎになり、賠償だの父の仕置きだの、大変な少年時代だったという。

 その一方で、堅信礼(コンファメーション)(子供の宗教的な節目で、無理に例えるなら七五三とでも思えばよかろうか)のプレゼントに貰った天体望遠鏡で星を眺めては、宇宙に思いを馳せる思惟的な一面のある少年でもあった。

 算数が苦手な彼だったが、中学生の頃、「惑星空間へのロケット」という本に出合う。この本に載っている方程式を理解できなかった彼は、教師の勧めに従い、一転、数学に打ち込むようになった。はじめ「数学不良点」の評価であったにもかかわらず、1年間一心不乱に数学に打ち込んだ結果、教師の代役で数学の授業を受け持つまでに至った。

 勉強の甲斐あって学校を繰り上げ卒業したフォン・ブラウンであった。第1次大戦の敗戦後の復興期にあたるこの頃、ドイツにはSF小説などの影響で一種の「ロケット・ブーム」が到来しており、「ドイツ宇宙旅行協会」なる団体が結成されていた。「ロケット」という雑誌がこの協会から発行され、人々の夢をかき立て、実際に小さなロケットを組み立てて発射することが行われていた。これは今の「メイキング・ムーブメント」にも少し似ている。

 フォン・ブラウンはまだ高校生なのにこの協会に入会し、級友たちを糾合して手作りの天文台を建設するなど、活発な青春時代を送った。この頃、ある公開実験の説明スピーチで、彼が「皆さんが生きている間に、人間が月面で仕事をするのを見ることができるでしょう」と言ったとする記録があるという。

 ところが、不況のため、こうした趣味のことはあまり自由にはいかなくなっていった。日本でいえば昭和ひと桁、1930年頃のことである。この頃、フォン・ブラウンは周囲に「もう、陸軍の援助を貰うしかないかな……」と漏らしている。すでに戦争の世紀なかば、世界のいかなる国も、莫大な予算を使えるのは軍隊のみであった。

 不況のために学費もままならず、貧乏学生となった彼は、それでも余暇のすべてをロケットづくりに打ち込んでいた。いつの日か、幼い頃からの確信、宇宙旅行を実現するためである。

 貧しいため、学費を稼ぐのにタクシーの運転手をするようになった彼は、ある日声高にロケット談義をする二人の客を拾う。客どうしの論議についくちばしをさしはさんだフォン・ブラウンだったが、この客たちこそ、リッター・フォン・ホルスティヒ大佐と、ヴァルター・ドルンベルガー大尉の二人で、陸軍のロケット開発の中心人物たちであった。

 「君、明日、参謀本部へ来て、ちょっと話を聞かせてくれないか」

 運命の出会いである。

 フォン・ブラウンの話を聞いたドルンベルガー大尉は、彼の上司のカール・ベッカー大佐を連れて協会を訪ねてきた。軍と宇宙旅行の利害は急速にその辻褄を整えていった。

 この頃、ドイツは敗戦による厭戦気分の只中にあった。「軍隊の援助など……」と、宇宙旅行協会の人々が軍との関係を嫌うのは当然である。今の日本でも、あらゆる科学技術は軍事への応用を嫌う。この頃の敗戦ドイツもそれは同じだ。ところが、フォン・ブラウンは決然として軍と手を結ぶ。20歳の若者のことだ。夢のためなら思想的な頓着などどうでもよかったのであろう。

 はじめ難航し、陸軍も渋い顔をしたロケット開発だが、フォン・ブラウンの熱情は怯まず、何度目かのロケット実験はついに成功した。A-2と呼ばれるこのロケットの成功で、陸軍から多くの予算を引き出すに至る。昭和10年(1935)頃のことだ。

 こうして貧乏なロケットマニアの学生は、一躍ドイツ陸軍の隠し財産となったばかりか、空軍からも注目され、破格の予算が与えられたのである。フォン・ブラウンは、水を得た魚のようにロケット開発にいそしむことができるようになった。

 フォン・ブラウンの母、エミーからヒントを得て、後世知られる僻村「ペーネミュンデ村」というところに、ドイツのロケット開発の本拠が設けられた。

 しかし、彼の思いと戦争は表裏一体である。軍の目的は兵器を開発することであり、宇宙旅行とは違う。彼もまた時代の子であり、古今未曽有の兵器「弾道ミサイル」の開発に自分の夢を仮託せざるを得なかった。

 科学技術に優れたドイツは、大戦前・大戦中を通じて、驚くべき技術開発を行っている。既にテレビ放送があり、お料理番組などが放映されていた他、街頭公衆テレビ電話などという信じられない物までベルリンの街なかにはあった。電子顕微鏡も既にこの頃ドイツで作られている。もちろん、軍でも今日(こんにち)の地対空ミサイルの原型など、多くのものを開発していた。さまざまな無人兵器も開発されていたが、その中の一つに、今日(こんにち)の「巡航ミサイル」のさきがけ、「V1」がある。

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米国アラバマ州ハンツビルに展示されているV1号

 V1は無人の有翼機で、パルスジェットエンジンにより時速600kmで飛行する。対気速度を積分して飛行距離を測定し、敵国の上空に達したと判断するや、自動的に落下して、1トン近く積んだ多量の爆薬により大被害をもたらす。

 古今未曽有の新兵器ではあったが、無人で、自律式、慣性誘導のいわゆる「打ち放し」方式であるため、敵の戦闘機に迎撃されてしまうことが防げない。多くのV1はイギリスの名戦闘機「スピットファイア」に追撃され、あるいは高射機関砲による対空砲火で撃墜された。

 ところが、ロケットにはこうした欠点がない。ロケットは垂直に打ち上げれば、戦闘機などが追及可能な高度をたちどころに突破し、上空数万メートルの宇宙空間にまで達することができる。自由弾道をもって落下し、再び戦闘機や高射砲が効力を持つ大気圏内に入って来た時には、その速度は音速の数倍から十数倍にまで達し、空気との摩擦によって赤熱しつつ、落下音よりも先に地表に達して炸裂する。これを巧みに制御して敵地に落下させれば、度を外れた高速のため、火器によっても戦闘機によっても迎撃は不可能である。

 これが「弾道ミサイル Ballistic Missile」の本質だ。現代においてなお、安全保障上私たちを悩ませる弾道ミサイルの脅威は、すでにしてこの頃、科学技術に優れたドイツと、夢に憑かれたフォン・ブラウンによって構想・実現されていたのであった。

 しかもなお、当時は「加農(カノン)砲」と言われる大砲が長射程火力の主流であり、この砲はベルサイユ条約によってドイツには保有数に制限がかけられていた。だが、条約には、その頃存在しなかった兵器である「ミサイル」については触れられていない。つまり、ロケットによる長射程火力は、条約の抜け道でもあり、陸軍にとって都合がよかったのである。

 なればこそ、ドイツ陸軍はフォン・ブラウンの開発するロケットに大いに期待した。

 昭和17年(1942)に発射に成功したロケットは高度8万5千メートルに達し、190キロメートル彼方のバルト海に狙い通り落下した。電波誘導システムを備え、液体酸素冷却装置、ターボポンプなど、近代的ロケットが備えるべきすべてを備えていた。

 少しばかり成功した技術には、虫のように権力者が群がる。武装親衛隊や空軍が群がってきて、彼の技術獲得のための駆け引きが始まった。とうとう、どうにもならぬ成り行きのどさくさに巻き込まれ、フォン・ブラウンはゲシュタポに逮捕され、収容所に放り込まれるという憂き目まで見た。しかし、この危機は、大尉から順調に少将にまで栄進していたドルンベルガーの働きによって回避され、なんとか釈放された。ドルンベルガーは陸軍の高官筋から党に働きかけ、ついにはヒトラーの口添えまでとることに成功し、フォン・ブラウンを釈放させたという。

 こうして、フォン・ブラウンの手によって完成された必殺兵器、世界初の弾道ミサイル「V2」はイギリスを襲い、大被害をもたらした。一説に、1万人を超える死者があったと言われる。あの戦争中のことだから、数字の上では東京大空襲や原爆の比ではないが、現代の9.11同時多発テロ事件の死傷者数と比べれば大変な人命が損なわれているということは間違いなく言える。

 しかし、これはフォン・ブラウンの本意ではなかったことも、後世よく喧伝されるところだ。彼曰く「ロケット・システムは完璧に作動した。しかし、間違った惑星に落下した」と。

 新型兵器を用いた優れた戦術も、誤った戦略に振り回されれば畢竟(ひっきょう)戦勝には寄与しない。このような未曽有の兵器をもってしてもドイツの敗色を拭い去ることは不可能であった。歴史のとおりドイツは敗北し、フォン・ブラウンは自らの去就を選ばねばならなくなった。

 彼は知恵を巡らせ、ソ連ではなくアメリカに投降するというシナリオを作って実行した。きわどい行動で、彼が500人ものロケット技術者と、疎開・隠匿した膨大な技術資料を引っ提げて米軍に投降したことも知られるところであるが、実際にアメリカに渡ることができたのは100人を超える程度であったという。

 あっさりとアメリカに投降したフォン・ブラウンは、変節を(なじ)られるのもものかは、彼が有するロケット技術が何を可能にするかを供述調書にしたため、嬉々として提出している。いずれ人工衛星も、月旅行も火星旅行も実現する、それが如何に人類を進歩させるか。……何、軍事技術への応用?そんなものは、惑星旅行のおまけにいくらでもこぼれ落ちる、くだらん枝葉末節だ、私の言う事を信じておとなしく待っておればよろしい、……と。

 だが、戦後というのは簡単なものではない。大戦争が終わった後のアメリカも、軍事に金をつぎ込む余裕はなく、フォン・ブラウンの夢も一時は遠のいた。しかも、フォン・ブラウンもまた、現代の日本で見られるように、ナチスに苦しめられた人々に対して責任を負い、しかるべく賠償を負担すべしとの論に、長い間苦しめられた。一つ一つの難詰(なんきつ)に、また彼も、時間を割いて一つ一つ応えていかなければならなかった。

 朝鮮戦争が始まり、宇宙旅行につながる大出力のロケットよりも、中射程の精度の良いミサイルが求められた。「レッドストーン」と呼ばれるこのミサイルを開発するため、フォン・ブラウンは彼のチームとともに、後世知られることになるアラバマ州ハンツビルに引っ越した。

 当時のハンツビルは、「アメリカの哈尔滨(ハルビン)」みたいなところだ。大戦中は「レッドストーン兵器廠」と呼ばれる広大な軍用地で毒ガス製造が行われていた。南部の寂れた田舎町だ。

 ここで開発された弾道ミサイル、「レッドストーン・ロケット」は、電波誘導を持たず、ジャイロを使った完全な「打ち放し」の慣性誘導ミサイルである。射程約300キロ強、核弾頭を搭載できた。

 次いで、予算不足にもめげず、ロケットを多段化し「ジュピターC」として順次発展させ、大気圏再突入による高温加熱の問題を「アブレーション技術」により解決した。アブレーション技術とは、熱に頑固に抵抗するのではなく、保護材を計算の上で少しずつ溶損させ、これによりかえって内部の重要物を熱から守ろうとするものだ。この技術で一挙に2000キロメートル近い射程が実現された。

 勿論、思うに任せぬ障害もあった。この頃、アメリカのロケット開発は、陸・海・空軍がそれぞれバラバラに行っており、似たようなものを複数の予算で冗長に開発していた。フォン・ブラウンは陸軍所属であったから、海軍・空軍の軍事力整備も図らねばならない国防総省の采配に悩まされることもあった。同時にそれは、アメリカ全体の宇宙開発の足枷でもあった。

 こうした内部牽制で曲折するうち、敵国ソ連が着々と宇宙に布石を始めた。

 アメリカの宇宙開発情報は基本的に公開され、ソ連もその状況をつぶさに入手可能である。しかし逆は違い、ソ連は手の内を簡単には明かさない。

 鉄のカーテンで閉ざされたソ連の宇宙開発状況がどのようになっているのか、アメリカにはよくわからぬうち、突如、怪電波と地球軌道を周回するその発信源の詳細がソ連から発表されたのだ。人工衛星スプートニク1号の成功がそれである。昭和32年(1957年)のことだ。

 後世よく知られるとおり、これは「スプートニク・ショック」と言われる一種のパニックをアメリカに引き起こした。不倶戴天の敵、共産主義者の巣窟、ソビエト連邦は、好きな時にいつでも、迎撃不可能な大陸間弾道弾によって、アメリカ合衆国の頭上に、史上最悪の巨大水爆「ツァーリ・ボンバ(Царь-бомба)」を叩き込む自由を得た、というのと、地球軌道をぐるぐる回るスプートニクの存在は、技術的には(ほぼ)等義だからである。ヒロシマ・ナガサキの惨劇を見るのは、次はニューヨークかワシントンか、というわけである。

 こうしたことも動機となり、ソ連への対抗意識から、次第にアメリカの宇宙開発は一枚岩になっていった。無論その中核に、フォン・ブラウンはいた。

 先行するスプートニクに目にもの見せんと猛追を開始したフォン・ブラウンたちではあったが、走り出しは拙速に過ぎた。大急ぎでとにかく打ち上げた「ヴァンガード1号」は、数センチも飛ばずに地上で爆轟、四散した。

 ロケットが火を吹いた途端、発射がうまくいったと勘違いしたアナウンサーが、「アメリカの誇る人工衛星第一号、美しい打ち上げです。目に見えぬほどの速さで宇宙に向かって飛んでいきました!」と実況中継してしまった、という笑い話が伝わる。地上で爆発炎上してしまったロケットが目に見えるわけがないのは当然だが、今でも「人工衛星・光明星1号」などと称して北朝鮮当局が似たようなことを言っているのを思い起こしてしまう。

 昭和33年(1958年)の年明け、フォン・ブラウンたちのチームはようやく「ジュノーI」と呼ばれるロケットにより人工衛星を軌道に投入することに成功した。成功してから、この衛星は「エクスプローラー1号」と名付けられた。

 陸・海・空軍がそれぞれ勝手にロケットを作っては飛ばすという無駄の多い宇宙開発を集約・一本化し、今も知られる「NASA」が新編されたのもこの年である。そして、この次の年(昭和34年(1959年))、ドイツ・ペーネミュンデ村以来の同志を含むフォン・ブラウンたちのチームは、丸ごと陸軍からNASAに移籍することが決まったのであった。ドイツからやってきたのは100人前後であったが、この頃には5000人近い強力な集団に膨れ上がっていた。陸軍としては「陸軍の国防予算を使いつぶすこの連中」が出て行ってくれてせいせいした、などという話もあったようだ。

 それまでフォン・ブラウンは、建前の上では「陸軍のミサイルを開発し、技術の余力をもって宇宙旅行の研究も黙認される」という立場でしかなかったが、NASAは軍と密接な関係を保つとは言うものの、非軍事の宇宙開発の中心だ。ついにフォン・ブラウンは堂々と胸を張って、少年時代からの確信、「宇宙旅行」を追及していける立場を得たのである。そして、引き続き使われることになったアラバマ州ハンツビルの彼らの本拠地は、新たに名将軍ジョージ・マーシャルの名をとって「マーシャル宇宙飛行センター」と名付けられた。そのセンター長は、もちろんフォン・ブラウンである。

 だが、それから数年の間、アメリカは常にソ連の後塵を拝しつづけた。月に探査機を最初に到達させたのはソ連である。ソ連は悠々として月の裏側に探査船「ルナ3号」を送り込み、人類がいまだ一度も見たことのなかった月の裏側の写真を撮って全世界に発表した。ついには「ルナ9号」を月面に軟着陸させ、月面のパノラマ写真を撮ってみせた。この間、フォン・ブラウンたちのロケットは失敗続きで、爆発炎上ばかりしていたのである。どれほど悔しかったか思いやられる。

 それでも、フォン・ブラウンたちはじりじりと間を詰めていった。

 有人宇宙飛行を行い、その延長として月へ人間を送り込む。この過程を()むことはもはやアメリカとソ連の、言外の競争コースとなっていた。

 ケネディが大統領になったのは、昭和36年(1961年)のことである。この頃、フォン・ブラウンたちは有人宇宙飛行に向けて着々と研究を積み重ね、宇宙飛行士を訓練し、準備を行っていた。

 そこへ突如、またしても宿敵・ソ連の驚天動地の成果がニュースとなって世界を飛び回る。

「赤軍中尉ユーリ・ガガーリン、有人宇宙飛行船ボストーク号に搭乗し、地球を一周、無事帰還」

 また出し抜かれたのだ。もちろん、フォン・ブラウンたちも黙ってはおらず、すぐに、(かね)て訓練済みの宇宙飛行士アラン・シェパードを、実績があり安定しているレッドストーン・ロケットに搭乗させて打ち上げ、弾道飛行の後、無事帰還させている。しかし、「打ち上げて落ちてきただけ」の弾道飛行と、地球周回軌道を一周することでは、その意義は大きく異なる。如何にせん、ソ連との差はこれでは覆うべくもない。

 この事態が若い大統領の尻を痛烈に殴打したため、かの有名な施政方針演説がなされたのである。「10年以内に人間を月に立たせる。カネに糸目はつけぬ」と。

 これを受け、ついにフォン・ブラウンは、その人生最大の作品、人間を月に送り込むための超巨大・超強力ロケット、「サターン」の建造に着手することを得たのである。

 フォン・ブラウンはサターンを「I」「IB」「V」と順次進歩させた。最終型のサターンV型は、高さ100メートルを超えるロケットであり、I型の2倍の高さ、6倍の重さを持っていた。運搬能力に至っては10倍に達し、129トンを地球軌道に投入する能力があった。

 ケネディ大統領は昭和38年に撃たれて死んだ。だが、はずみのついたアメリカの宇宙開発計画は、もう止まらない。

 フォン・ブラウンたちは、月を目標にしたサターン・ロケットの建造と並行して、有人宇宙飛行の成果をマーキュリー計画・ジェミニ計画と、着々蓄積していった。無論ソ連も猛然と仕掛けてくる。ついにはソ連、次いでアメリカと、人間の宇宙遊泳が行われた。また両国とも、宇宙空間でのドッキング技術を確立していった。

 しかし、ソ連は少しづつ疲労してきた。それは、ソ連の宇宙開発をただ一人で牽引してきた不屈の男、セルゲイ・コロリョフが昭和41年(1966年)に死去したことが大きく影響している。求心力を失ったソ連の宇宙開発は、徐々にアメリカの追随を許すようになった。

 爆発事故で何人もの人命を失いながらも、フォン・ブラウンたちは前進し続けた。ついに、アポロ8号では月の軌道を有人で周回することに成功し、ソ連に水をあけることができた。

 ソ連はあたかも人間を月に送り込むことは目標としていないように装いながら、それでも実は人間を月面に送り込もうとしていたことが、ソ連崩壊後の資料公開で判明している。しかし、次第に技術でアメリカに後れを取るようになり、失敗が目立つようになっていった。

 昭和44年(1969年)7月20日。3人の大男を乗せたフォン・ブラウンの作品は、無事に月への往還を果たすことを得た。人間が月に降り立ったこの有名な一部始終は、もはやここに書くことを要しないだろう。当時3歳だった筆者も、おぼろにこの時のニュースを記憶している。

 アポロ計画はこの後3年間にわたって行われ、終了した。しかし、これで前進にピリオドを打つフォン・ブラウンではない。逆風の中、スペース・シャトルの基本構想を確立し、それを練り上げていった。しかし、生粋の技術者である彼は、徐々に自分の考えと、政府の宇宙政策とのずれを覚えるようになった。また、次第に意思決定の場から遠ざけられるようになったのである。

 フォン・ブラウンは昭和47年(1972年)、アポロ計画終了の年にNASAを退職し、民間企業で通信衛星を手掛けるようになった。巨大なアポロ計画とは違い、世界の隅々に知識を送り届けることのできる通信衛星は、彼のあらたな生き甲斐となった。だが、この頃からフォン・ブラウンは体調がすぐれなくなったようだ。

 昭和52年(1977年)、フォン・ブラウンはバージニア州アレクサンドリアの病院で癌のため死去した。65歳であった。

 彼が多年にわたり働き、月面に人類を送り出した地、アメリカ合衆国アラバマ州ハンツビルの宇宙センターに、その人生のすべてを賭した作品「サターンV型ロケット」の実機が国宝として手厚く保管されている。また、書斎の復刻や胸像がここに記念されている。

フォン・ブラウンの胸像と筆者
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ハンツビルの宇宙センターにあるフォン・ブラウンの書斎の記念展示
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ハンツビルの宇宙センターに展示されている実物大のサターンV型ロケットの模型
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ハンツビルの宇宙センターには実物のサターンV型ロケットが丸ごと記念館の中に保管され、国宝に指定されているが、大き過ぎて全容を写真に収めることは難しい。下の写真はエンジン部分を根元から見上げて撮ったものだ。

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来世と意識の高い層

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 善行の正しいありかたが奈辺にあるか、できるだけゲスっぽく考える。

 日本人のトラッドな宗教観からすると、古来の自然信仰道に神道と仏教がほどよく入り混じった考え方になる。しかもなお、日本人の場合、仏教にも大乗と小乗がほどよく入り混じり、善行の発露のしかたに影響している。なおかつ近代はキリスト教の裁きの日を恐れる気持ちなどまで流入して、一種独特の考え方になっていると言える。

 善行による結果の取得先が自か他かで多少議論はあるだろうが、シンプルに書けば「よりよい来世を得るため、他に善行を施し、自に徳を積む」ということでだいたい合っているだろう。

 よりよい来世が得られるかどうかというのは、一種の確率である。六道輪廻転生などと言えば、確率×確率×確率……、つまり確率の6乗ということで、一種の確率過程で屁理屈をこねて遊べるかもしれない。善行のマルコフ過程、などと専門用語をちりばめると、私もいかにも頭が良い人に見え、実力以上の尊敬が得られることは疑いない。

 話を戻す。まず、最初の「来世なるものが存在するか否か」というのが確率で言えるのであるが、これは言い出すとハナから話にならぬから、とりあえずアッチへうっちゃる。

 次に、「よい来世」というのが何かということの定義である。指標を持ち出して言える定義はなかなかないので、不本意ながらゼニカネで言ってみる。ここがまあ下司な話で、「金持ちに生まれ変わる」というのを仮に「良い来世」とするわけだ。

 では、「金持ちとはなんですか」という、金持ちの定義ということになる。

 こんなものは相対的なもので、100万持ってるから金持ちとか1億持ってるから金持ちとかいう絶対量では言う事はできない。所詮、「人より金を持っている」という比較論でしかない。ちなみに仏教用語ではこうした相対論を「戯論」といい、逆に絶対論でいう事を「金剛論」という。宗教家が金持ちをさげすんで見せるのはそういうところにも原因がある。ま、多くの宗教家はお金が大好きですけどね。

 また脱線した。

 ここで、いわゆる「意識の高い層」の考え方を借りようではないか。世界の人口は今、ざっと72億人と言われている。彼らによるとそのうち1%が世界の富を独占する富裕な人々であるという。昔の共産主義者めいた憎悪を込めると、「悪しき連中」だ(笑)。なんにせよ、彼らゼニカネ独占貴族を除けた、それ以外の99%、71億人は貧乏人と言ってしまおう。アナタもワタシもドイツもフランスも、いや違った、ドイツもコイツも貧乏人、である。

 カネとか富裕とか貧困とかいうこと「だけ」でいえば、よりよい来世が得られる確率は、その1%にもぐり込める確率である。つまり、0.01である、ということになる。

 これを期待値ということで考えると、自分が善行に使えるリソースにこの確率を乗ずれば、使ってもよい量が出る。

 具体的にしてみよう。今、誰かのために喜捨をする、それに使ってもよい捨てガネが100万円ある、そして、期待するのが自分の来世だとする。そうすると、

100万円 × 0.01 = 1万円

 まあ、1万円ほど喜捨をしておくのがせいぜいのいいところ、だ。

 多分であるが、捨ててもよいカネが100万円もある、という人などあまりいない。例えば私あたりの凡百の貧乏人は、募金箱に入れているのは5円だの1円だの、そういうあさましい額でしかない。独身の頃、5万円ほど寄付したことがあったが、これはもう、一世一代の多額であった。

 逆にいうと、募金箱に喜捨する額を0.01で割れば、その人がその人自身の「金持ちに生まれ変わる来世」のために捨ててよいと考えている額が推定できるということになる。

5円 ÷ 0.01 = 500円

 我ながら、まったくしみったれている。情けなくなるほどだ。

 某富豪は、自分の来世のためと言うわけではなかろうが、大震災の時には100億と言う途方もない金員を寄付した。しかし彼のことだ、そこには単純な浪花節やら人類愛、郷土愛なんかではなく、期待値や確率に基づく冷厳な計算がなかったとは言えぬ、いや、なかったとは言えないどころではない、ひょっとするとそればかりだったかも知れない。

 どういう確率を寄付できる総額に乗じたのか、恐れ入ってしまうのはここである。

 私ごとき、500円ほどの額を動かすことで金持ちに生まれ変わりたいなぞ、虫が良すぎると怒鳴りつけられるだろう。

 してみれば、金持ちとしての来世を確率(イコール「運」(笑))で願う者のめでたさには一警をとなえざるを得ない。

 これには逆がある。

 「今と変わらぬ暮らし、凡百の貧乏人」に生まれ変わる率が0.99なら、期待値で考えれば、さっきの500円のうち、495円まではつぎ込んでよいのである。

 つまり、はやく言えば生まれ変わって金持ちになることに現世のリソースをかけるなどムダなのだ。今と変わらぬ不易のほうへ費やす方がよっぽど賢い。

 なんにせよ、金持ちになりたいなどと、下司な来世など願わぬのが賢にして明というべきであろう。

建国記念日

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天皇陛下万歳

 建国記念日である。国旗を揚げ、拝礼する。

 皇紀元年元旦、神武天皇が即位されたことをもって、今日が建国記念日と定められてある。旧暦の元日なので、ちょうど今の時期なのだ。ちなみに、旧暦は年によって新暦とのずれが変動するから、今年の旧暦の正月は来週、2月19日だ。

 悠久二千六百七十四年の昔ということになっているが、なにしろ文字すら存在しなかった昔のことであるから、一応形の上ではこのように定めた、ということなのである。「日本と言う国が出来たのはあんまりにも昔のことなので、いつできたのかもはっきりとはわからない。気が付いたときにはもう国があった。ただ、中国の文献などからは千数百年以上前からあるということはだいたいうかがい知れるし、伝説・伝承をよく整理すると、もう少しさかのぼるようだ。多く見積もると二千六百年という数字も出ることは出るので、一応それを採用している」というのが正直なところだと思う。

 このように、いつできたのだか昔過ぎてわからない国柄のわが国だ。共産主義革命の日にちを建国日にしているとか、誰かが独立宣言をした日を建国日にしているとか、そういう、人工的に作られた外国との比較は、できないのである。仕方がないから神話や伝承をもとにした日にちを採用するのだ。それが我が国のオリジナルである。

 さて、せっかくだから、日本書紀にはどう書いてあるか、抜き書きしてみよう。

「辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語稱之曰「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彥火々出見天皇焉。」初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。」

(佐藤俊夫奉訳

 かのと・とりの年の春、元旦に、神武天皇は橿原宮で即位された。そこでこの年を皇紀元年とした。同時にお妃も皇后に即位された。カムヤイのみこと、カムヌナカワミミのみことが皇子として生まれた。このため、古い伝承には「畝傍(うねび)橿原(かしはら)に、大いに宮を造営し、高天原(たかまがはら)を高くまつり、はじめて即位された天皇はカムヤマトイワレビコ・ホホデミのすめらみこと、と名乗ることになった」とされている。また、国のはじめのこの日に、大伴氏の先祖のミチノオミのみことがオオクメたちを連れてきて、秘密の唱えごとのまじないをし、災いを除いた。このとき「倒語(さかしまごと)」というまじないが世の中ではじめて使われた。)

 とある。

 古事記ではこのあたりはアッサリと簡単で、

「故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。」

(佐藤俊夫奉訳
 神武天皇はこのように不穏な情勢の有力者たちをうまくとり収めて和平を実現し、従わない者を退け、畝火の白檮原宮(畝傍の橿原の宮)で即位した。)

 となっている。

 いずれにしても、遠い遠い昔のことだから、「ホントに2千何百年も昔に建国したの?おとぎ話でしょ?」などと文句を言っても、言うだけ詮無いことで、はっきりしないのだから仕方がない。

極端から極端へ走る

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 極端から極端へ走る思想は危険だ。ナチス・ドイツや、共産主義各国の粛清の嵐、文化大革命、カンボジアのキリング・フィールド、ルワンダ、現在のイスラムの連中、またアメリカ人も、どいつもこいつも極端なのである。

 「正義」や「平等」などの、いいようでいて悪いもの、ウィルスのように人をむしばむ毒がこれらを先導する。

 欧米白人の大好きな「革命」は、言葉はかっこいいが、その中身をつぶさに観察すれば、血みどろのホラー映画やスプラッタームービーも真っ青のエログロ滅茶苦茶、狂気と妄想の現実化である。その当事者たちは皆、「これが夢か、映画かなにかであってくれたら」と願いながら死んでしまったであろうし、また現在も死につづけている。

 そこには、「統一」「シンプル」と言った、耳への感触はよいけれど人間性に逆行する憎むべき何かが含まれている。

 こんなコミュニケーションがあった。ある人が、

「もう、和暦がピンと来ない。『平成ウン年』と言われても、計算しないとパッと出ない。もう、西暦で統一したらどうか」

 ……と書いた。得たりや応とばかり、私がふざけて混ぜっ返す。

「そんな、みなさんね、西暦なんてものは宗教上の聖人の生誕日を元にした宗教上の数値ですよ。今、喫緊の人命がかかっているのだって、元はといえばそれが原因ですよ。だから、いっそ、西暦も和暦も全部やめて、UNIX時間などの技術上の数値か、天文学上の、何か、キリのいい、例えば惑星が並んだとか、そこを0年0月0時0分0秒と定義するとか、そういうものに変えたらどうですか」

 多少ウケ狙いでした発言だから、もちろん真面目にこんなことは言っていない。このような極端なことは、恐れるべきことだからだ。

 この妄想を拡張してみようではないか。

「ことは暦年だけのことではない。通貨だって、なんで為替なんか気にしなくちゃならんのだ。もう、ユーロも元も円もドルも、全部廃止して、全部ドルに統一したらどうか」

「いや、それをやるとまた戦争になってしまう。いっそ、ビットコインとかに世界で一斉移行したらシンプルだ」

「世の中に男や女がいるから、男女格差などの問題が生じるのだ。もう、生物学の研究を推し進めて、遺伝子から男や女を取り去り、単為生殖可能な『中性』にでもしたらどうか」

「イスラム教やキリスト教や仏教があるから殺し合いになる。もう、いっそのこと、全部混和して、なに教とかいうのはやめて、単純に『教』ひとつだけにしたらどうか」

「言語がよくないよ、言語が。『英語で統一』は一見合理的だが、これはまた諍いのもとになる。そこで、情報技術を高度に推し進めてだな、プログラミングに使う『中間コード』のような『中間言語』に各言語を落とし込み、伝送路上はこの中間言語を流すのだ。コミュニケーションはそれを使うとか」

「もうね、多様性がよくない。人間は多数の細胞からなっているが、これが多様性を生んでしまう諸悪の根源である。細胞を全部バラバラにして混合し、個人の人格など全部一体化させて、そう、70億総員、『黴菌』にでも進化したらどうなのだ!」

 ……ダメだな。私は人よりお金を稼いでほくそえんだり、逆に損をして悔しがったり、恋をしたり、いろいろな肉や野菜などのうまいものを食って喜んだり、色々な国へ旅行して、その違いに感心したり、英語ができなくて悩んだりしたい。円高のときにアメリカ旅行をしてニヤニヤしたいし、逆の時には面白いアメリカ製品を買って喜びたい。神社仏閣に詣でる一方でキリスト教の寺院を訪れて感嘆したい。黴菌に進化するのは究極の合理性だが、黴菌になんかなるのはいやだ。人として悩み苦しみたい。死にたくはないが、もし死ぬべき時がきたら、その死の意義など問うまい、ギャーっ、痛いよう、たすけてー!と叫びながら苦痛のうちに死ぬだろう、だが、そうしたい。非合理だがそうしたい。西暦と和暦を計算して「ちっ。ああ、七面倒臭い!」と愚痴を言いたい。

 それが、薄汚れていて、あまり綺麗ではないにもせよ、人間の織りなす壮大な曼荼羅、ペルシャ絨毯の模様のような、楽しい生活というものなのだ。

擎天(けいてん)

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 私は共産主義や社会主義なんか大嫌いだが、共産主義者や社会主義者の中には好きな人物もある。ホーチミンや、ボー・グエン・ザップ、カストロ、ゲバラなどは好きだ。これらは男の中の男である。

 共産主義者ではないが、韓国の元大統領、朴正熙もそんなに嫌いではない。彼には毅然とした、立派なところがあった。

 そんな中で、金擎天という活動家も少し好きだ。心をひかれる。きん・けいてん、キム・ギョンチョンと読む。

 金擎天は知る人ぞ知る、「金日成の本物のほう」である。今の糞デブ、金正恩のジイサンである金日成は、実は偽物なのだ。このニセ金日成がソ連人であったことはよく知られている。明治時代から大日本帝国に抵抗してきた不屈の霊将という触れ込みで政治集会に華々しく登壇した金日成であったが、それならば当時、(よわい)70から80にはなっていなければならない筈なのに、現れたのは30そこそこのニイチャンであった。我々が知っている方の金日成である。

 この偽物がかっぱらった伝説の抗日英雄、本物のほうの不屈の男の本名を金擎天というのである。金擎天になりすました金日成は、実際には戦闘なんか大してしておらず、ソ連語しか喋れないエリートぼんぼんなのであった。

知性と朝日

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 私がかつて熱心な朝日新聞の読者であったなどというと、ごく最近の私を知る人は、「嘘は泥棒の始まりですよ佐藤さん」と真顔で私を(さと)そうとするのだから参ってしまう。

 だが本当だ。

 どころか、一時期は仕事上の都合もあって、朝日・読売・毎日・産経・日経はもとより、数紙の地方紙まですべての記事に目を通さねばならなかった。朝の忙しい時間にこれだけをこなすのは、苦行に近いものがあった。その頃を思い出すとホロ苦いものが去来する。

 今は、新聞はとっていないし、テレビもほとんど見ない。我ながら極端だ。

 一般認識として、「新聞は読めば読むほど賢い人だ」みたいな空気が日本にあることは否めない。「知性と報道は表裏一体、ともにある」というわけだ。

 そのことを言い立てて、元来新聞をよく読んでいた私がもともと知性のある人間だ、などと主張したいわけでは、もちろんない。むしろ私は知性など糞食らえだと思っているような変な男である。

 どうしてそんなふうに思っているかというと、日本人にとって情報の流入源が単一に近かったことはまことに悲しむべきことであった、と常々考えているからだ。知性と情報の流入が比例するのだとしたら、私が「糞食らえ」なぞと書くのも、無理のないことではないか。

 なぜか。

 朝日新聞が「立派な人は兵隊になる」と書くと、そうだそうだと皆兵隊になった。

 朝日新聞が「立派な人は大陸に攻め込み、武勇の手柄を立てるのだ」と書くと、そうだそうだと皆大陸に攻め込んだ。

 朝日新聞が「天皇陛下万歳」と叫べば、皆で天皇陛下万歳と叫んだ。

 朝日新聞が「マッカーサー様ありがとう」と落涙切々とものすれば、立ち去るマッカーサーに皆で手を振り涙を流した。

 朝日新聞が「立派な人は共産主義を学ぶ」と書くと、そうだそうだと皆共産主義者になった。

 朝日新聞が「立派な人は従軍慰安婦問題を生んだ自らを()じるべきだ」と書くと、そうだそうだと皆反省した。

 朝日新聞が「すんません従軍慰安婦全部ウソです」と書けば、皆そうだそうだ、あれ全部ウソだ!…である。

 これが流入する情報と知性の姿だ。

 こうした姿、態度を間違っているとまでは言うまい。皆が読んでいる同じ文字、同じ記事を同じように読み、そこに書かれていることを広めるように言うことが正しいと、私たちは育てられているのである。今も形を変え、「ツイッターやSNSで皆が韓国なんか嫌いだと言っているから私も嫌い」と、皆が言うことにそうだそうだと口を揃え、誰も何の疑問も持っているまい。

 単に実用上や他人との付き合いということもある。自分の考えがどうとかいうより、家族を食わせるためには己を虚しゅうしてお客さんや出先の論調に合わせなければならないという都合ももちろんあるだろうし、自分がどう思っていようと社員を食わせなければならない、そのためには正しい正しくないではなしに、世の中の潮流に敏感に社の方針をあわせていかなければならない、という経営者のとるべきドライな姿勢もあるだろう。それは生活者として正しい姿勢だ。

 たとえば私が今ここに、「英語でビジネスをすることは間違っている」などと書くと、どうしてそう思うのか、なぜそう考えるのかといった理屈などすっ飛ばして、直ちに、そして反射的に、私はキチガイ扱いされるだろう。「グローバルに日本人が飛躍しなければならないこの時代に、何を言ってるんだ馬鹿め」というわけだ。しかし、グローバル云々というその考えは、本当に自分で考えたことだろうか。

 ひょっとして、朝日新聞に「英語を身につけ、外国人と仕事をすることが正しいことだ」と書いてあったからと違いますか?

 私は知能が低いので語学は身につかず英語は喋れない。にもかかわらず、私自身の考えは前記したこととはほぼ逆である。すなわち「英語を身につけ、外国人と仕事をしていくことも重要なことだ」というのが私の考えである。だが、朝日新聞に書いてあったからそう思っているのではない。

 顧みれば、日本人は世界にもまれな識字率を誇っていた。それは入念に整備された教育制度のしからしむるところである。明治以降だけを見ても、

日本 参考・英国
明治5年(1872) 学制発足 小学校就学率28% 40%
明治33年(1900) 小学校就学率81% 81%
明治43年(1910) 小学校就学率100%、中等教育進学率12% 100%、4%

とあり、明治末年の中等教育では、当時教育先進国であると考えられていたイギリスをさえ抜き去っている。日本では文字で意識を揃えることの困難が早期にとりはらわれていたということだ。ヨーロッパより100年も後にはじめた工業化が目覚しいスピードで進捗したことは、あずかってこれが大きな要因となったことは言うまでもない。

 当のイギリスでは、日本よりもまだなお封建的であった身分制度、つまり貴族エリート、中間、底辺という3層型のヒエラルキーが教育にまで影を落とし、なかなか中等教育が普及しなかった。これはアメリカの事情も同じである。

 昔から文字による情報取得に困難のない人びと、それが日本人であった。

 だが、痛々しいのはそこから先である。少ない情報源から情報を流入させることが識字率の高さにより可能になってしまったのだ。

 もし文盲が多ければ、そうはならなかったろう。マルチメディアを指向しなければならなかったはずだ。すなわち、音にも映像にもたよらなければ、人々に情報を流入させることができず、それには技術の進歩と普及を待たねばならなかった。そう、アメリカのように……。

 印刷物配布による情報普及は、一方通行だ。フォアグラのガチョウが餌を飲み込むように情報を飲み込まされる。ガチョウの存在意義はうまいレバーを肥らせることにあるのと同様、誰かが書いた記事をそのまま飲み込んで自分の脳を他人と同じ色に染め上げるのが知性の意義の一面だ。

 世界一の発行部数を誇る朝日が書けば、まず過半数の日本人は書いてあることを飲み込む。

 もしここに、「特定の主義や主張に日本人を誘導しよう」という勢力があったとすれば、ほかの国とは違って、いろんなところをイジる必要はないから楽なものだ。日本人は賢いから、文字に書けばみんな読む。そして、みんなが読んでいるのはかの大朝日だ。朝日さえいじっておけば、それで日本人に対する工作は終わりだ。そういう時代が何十年と続いた。悲劇である。

 ネットの陰謀論者はそれは中国でしょうロシアでしょういや半島でしょうと言いたがるが、私などは終戦直後のGHQから引き続いてアメリカだろう、と踏んでいる。実際はいろんな国が複雑に関与していて、特定のどこの国の諜者がどうとかいう妄想スパイ小説みたいな単純な話ではないのだろう、とも思っている。

 知性と朝日の短絡が、日本の無意識をねじ枉げる、ということだ。

 だが、ここで、あえてくだくだしく述べよう。私は直ちにそれが排除されるべきだとは思っていない。別に、朝日と知性が短絡してたっていい。新聞をよく読んで考え込むということだって、あっていい。ネットに入り浸って考え込むことがあっていいのと同様に、それは許される。

 私は一度くらい朝日はつぶれたほうがいいのではないかと思っているが、反面、朝日が永久に排除されるべきだなどとも思っていない。一度つぶれて官僚的な社内の諸問題をきれいに片付け、エリート高学歴至上主義の鼻持ちならない空気を一掃したら、また新たにやるといいと思っている。しかも、以前よりもまして、もっとキチガイに、狂信的に、サヨクでエテ公でぶっ飛んでいて、ロックで知性ゼロのヨダレでのたくったような記事が垂れ流されたフザけた朝日になるといいとすら思っている。

 そうでないと、日本のマスコミが日本らしくなくなって、面白くないではないか。キチガイ新聞万歳だ!

 もう20年も朝日なんか読んでいない私が言うことでもないか。