引き続き60年前の古書を読んでいる。平凡社の「世界教養全集」だ。目下3冊目の「第3」を読んでいる。
「第3」には収載作品が五つある。その内、倉田百三の「愛と認識との出発」、鈴木大拙の「無心ということ」、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の三つを読み終わった。
「侏儒の言葉」は、子供の頃にこの本で一度読んだことがある。その頃は皮肉な感じが好もしく感じられたが、今はそれを、あまり魅力とは感じられなくなっている。子供の頃の読後感に比べると、どうしても、自殺直前に書かれたという作品の性格の方が、皮肉さよりも気になってしまう。
作品の後半に向かって「芥川龍之介が堕ちていく感じ」が、大人になって芥川龍之介の自殺のことを、子供の頃よりも深刻な事件として再認識している私には、何やら薄ら恐ろしく感じられ、寒々とした荒涼を覚えざるを得ない。
言葉
綵衣
「美しい模様のある衣服」とか「種々の色で模様を施した衣」等と辞書等にはある。
しかし、どうやらそれだけの意味ではないようだ。漢籍に「綵衣以て親を娯しむ」などとあり、これはある人が老年になっても親を楽しませるために子供の服を着て戯れて見せたという親孝行の故事である。
そこからすると、この「綵衣」という言葉には、「幼児が着る明るい色の衣服」というような意味合いがあるようだ。
筋斗
「筋斗」と聞いてすぐに思い浮かぶのは西遊記だ。孫悟空が乗る自由自在のエア・ビークルが「筋斗雲」である。
しかし、今「筋斗雲」で検索すると、大ヒットアニメ「ドラゴンボール」に関することばかりが出てくる。
「ドラゴンボール」については、私はよく知らないから話を戻す。
単に「筋斗」という場合は、これは筋斗雲のことではない。
「筋」というのは「觔」の別字だそうな。筋斗雲も本当は「觔斗雲」と書くのが正しいらしい。で、この「觔」というのは、木を切る道具のことだそうである。「頭が重く柄が軽い道具」らしい、ということまではネットでわかるが、どのような形のどういう物かまではよくわからない。
さておき、この道具は頭が重いために「くるくるとよく回る」ものだそうである。回して使う物なのかどうかもよくわからないが、ともかくそういうものだそうだ。そう言えば、頭が大きくしっぽが小さいオタマジャクシのことを「蝌斗」と書くが、このことと関係があるかも知れぬ。
ともあれ、上述のようなことから、「とんぼ返りを打つ」ことを「筋斗を打つ」と言うそうな。「筋斗」とだけ書いて「とんぼ」と訓ませる例もあるようだ。
(『侏儒の言葉』(芥川龍之介)から引用。他のBlockquoteも特記しない場合同じ。)
わたしはこの綵衣を纏い、この筋斗の戯を献じ、この太平を楽しんでいれば不足のない侏儒でございます。
文脈から推し測るに、「侏儒」というと辞書的には「こびと」とあるが、ここで言う「侏儒」は、お祭りや盛り場で軽業を見せて生業にしているような道化者、ピエロとか芸人などのことを言っているようだ。これが派手な「綵衣」を着て、「筋斗の戯」、つまりとんぼ返りなどの軽業を見せているわけである。「綵衣」にせよ、子供のような面白おかしい服、というような意味合いを含めているのだと思われる。
更に前後の文脈を読むと、要するに芥川龍之介は志も何も持たない鼓腹撃壌、太平楽の「賤業の者」の代表として「侏儒」を選んでいるように思う。
そして、作品を「侏儒の言葉」と題しているのは、もちろん反語的皮肉であろう。
管鮑の交わり
これは学校の国語で習うから、確認は無用だ。次のサイトさんに詳しい。
……古えの管鮑の交わりと雖も破綻を生ぜずにはいなかったであろう。
啓吉の誘惑
文中にも菊池寛の作品であることは触れられている。
しかし、この「啓吉の誘惑」なる作品のあらすじは、ネットでチョイと検索したくらいでは出てこず、また作品も青空文庫等にはない。無料では確認できないような感じがする。
しかし、ご安心あれ。「啓吉の誘惑」は、「国会図書館デジタルコレクション」を使えば、無料で読むことができる。
「啓吉の誘惑」は、上の「啓吉物語」の後ろの方、401ページから収録されている。「コマ番号」は全245コマ中第207コマから229コマまでだ。
短編で、すぐ読める分量だ。私もたった今読んでみた。
なるほど、触れられている通りの作品である。題名からだと啓吉という人が誰かを誘惑した物語であるように感じられるが、そうではなく、啓吉が誘惑を感じる、あるいは誘惑される、という筋書きで、むしろ「啓吉の『誘惑』」と括弧つきで題するか、単に「誘惑」とのみ題するか、どちらかが相応しいような内容だ。
以下「啓吉の誘惑」のあらすじ(ネタバレ注意)
作家の啓吉は妻と幼児の三人家族で暮らしている。育児も手がかかって大変であるため、かねがね女中を雇い入れたいと考えていた。
そこへ啓吉のファンであるという美しい女が雇ってほしいと訪ねて来る。地方から上京してきたその女は妻とも打ち解けて仲良くなり、歓迎されて啓吉の家の女中となる。やがて、啓吉はその女の無邪気さに心惹かれてゆく。
女は妻にも気に入られているため、啓吉は妻公認で女を連れて浅草へオペラを見に行くことになる。その際、女の着物が地方から着てきたままのみすぼらしいものだったので、妻は快く女に着物を貸す。
オペラの帰り、女と夜の隅田川辺りを歩いた啓吉は、夜のムードもあって恋愛の感情が女に対して高まるのを覚える。しかし、女の着物が妻からの借り着であるのを見、妻のことを考え直して自制する。
やがて女は地方へ帰ってしまう。
しばらく経って、風の噂に、その地方では女の評判は好ましくなく、「高級淫売」ではないかとの推測もあることを啓吉は聞き、嫌な後味を感じるとともに、女の誘惑に乗らず、自制してよかったとも思うのであった。
因みに菊池寛はこの啓吉という人物が登場する作品をシリーズで残しており、ファンはこれを「啓吉もの」と称するようである。
少なくとも女人の服装は女人自身の一部である。啓吉の誘惑に陥らなかったのは勿論道念にも依ったのであろう。
庸才
「凡才」と読み替えても差し支えない。
しかし、「凡庸」などという言葉などもあるものの、「凡才」というほどには馬鹿者・愚か者的な蔑視感はなく、なんとはない才能もなくはないが、全然人並みだ、というようなニュアンスを含めて「庸才」と言っているように思う。
庸才の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。
木に縁って魚を求む
意味は簡単で、「手段を誤っていること」だ。
だが、文中での用法はなかなか反語的で味わい深いというか、理解しづらいところがある。
「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』よりも信用を博し易いかと思います。……
偏頗
「かたよること」だ。
「偏」は「かたよる」だが、「頗」は「頗る」とも「頗る」とも、どちらでも訓む。
まあ、「すこぶる偏り、頗ること」で間違いはない。
……『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極めている代りに、時には偏頗の疑いを招かないとも限りません。
この難しい「偏頗」なる言葉、「偏頗返済」「偏頗行為」などと言って、債権~債務などにかかわる法律用語である。
陳套語
「陳」という字は仮名を「い」と送って「陳い」と訓み、又同様に「ねる」と送って「陳ねる」とも訓む。「捻る」の意ではなく、「老ねる」の意である。従って、「陳腐」というよく見聞きする言葉の意味を言えば、「古くて腐り果てている」という程のことになろうか。
一方、「套」という字は「外套」「手套(てぶくろ)」という言葉からもわかるように、覆い、重ねることを言う。こうしたことを踏まえつつ、「常套句」という言葉を味わってみるとわかる通り、「套」という字には、何度も何度も同じように繰り返し重ねるという意味が生じる。そこで、「套」という字そのものにも、何度も同じことを繰り返していて古臭い、という意味を含めるようになった。
こうした意味・字義から、「陳套語」とは、古くて古臭い、新鮮味もクソもない言葉のことを言う。
……東洋の画家には未だ嘗て落款の場所を軽視したるものはない。落款の場所を注意せよなどというのは陳套語である。それを特筆するムアァを思うと、坐に東西の差を感ぜざるを得ない。
雷霆
「雷」は言わずと知れた「カミナリ」であるが、「霆」という字にも同じく雷の意味がある。
……哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆の怒りを和らげる訣には行かないであろうか?
「雷のような怒り」と書けばよいところをわざわざ「雷霆の怒り」と書くのは、雷よりもなお雷であるところの大きな激しさ、また文学上の誇張・拡張・表現をガッチリと詰めた書き方と思えばよかろうか。
一籌を輸する
「籌」とは竹でできた算木のことだそうだ。
「輸」の字の方には、「輸送」という言葉があることから見ても解る通り、「おくる」「はこぶ」という意味があるが、また別に「負ける」「敗れる」の意味があるそうな。
その心は、戦などに敗れ、財物をそっくり「もっていかれてしまう」(すなわち輸送されてしまう)というところにある。それで、「輸」という字には「負け」という意味が生じてくる。
ここで、「一籌を輸する」である。上記を併せて味わうと解るように、「ひとつ、もっていかれてしまう」即ち「一歩負ける」という意味なのである。
わたしも亦あらゆる芸術家のように寧ろ譃には巧みだった。がいつも彼女には一籌を輸する外はなかった。彼女は実に去年の譃をも五分前の譃のように覚えていた。
恒産・恒心
一定の収入(恒産)のない者は安定した穏やかな心や変わらぬ忠誠心(恒心)を持つことは難しい、という意味で「恒産なくして恒心無し」との故事成語がある。「衣食足りて礼節を知る」と似たような意味であろう。
但し、出典の漢籍「孟子」には、「たとえ恒産がなくても恒心を持っているのは立派な人のみであり、一般の人々にこれは無理というものである」というようなことが書かれていて、もう少し複雑な意味のことを言っているようだ。
恒産のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧ろ恒心のないものらしい。
メーテルリンク
ノーベル文学賞作家。江戸時代~大東亜戦争終戦後くらいまで。
……「知慧と運命」を書いたメーテルリンクも知慧や運命を知らなかった。
新生
「新生」というのは、ここでは島崎藤村の同題の小説のことを指しているが、芥川龍之介はこれをたった数語で痛烈に批評している。
「新生」読後
果たして「新生」はあったであろうか?
島崎藤村は相当にダメな人物で、よりにもよって自分の姪を妊娠させてフランスへ逃亡し、剰えそれを小説「新生」に書いて発表し、自分だけ目立ちまくって名声を得、姪の人生はメチャクチャにしてしまった。
当時、芥川龍之介はこのことを批判して止まなかった。このあたりのことは、当時の文壇では知れ渡った醜聞であったようである。
ストリントベリィ
スウェーデンの変人小説家。ニーチェの影響を受けていた。
ストリントベリィの生涯の悲劇は「観覧随意」だった悲劇である。
マインレンデル
ニーチェがむしろ愛しているふしのある、ドイツの哲学家。
マインレンデルは頗る正確に死の魅力を記述している。
スウィツル
「スウィツル」。これがまた、サッパリわからない。
或日本人の言葉
我にスウィツルを与えよ。然らずんば言論の自由を与えよ。
検索してみると、どうやら「スイッツル」というのは古い「スイス」の呼び方のようではあるのだが、だが、もしそうだとして「私にスイスを下さい。そうでないなら言論の自由を下さい」というふうにこの文を理解しても、その真意や背景がまるで判らないので、意味もサッパリ解らない。
ジュピター
またしても、サッパリわからない。
いや、ジュピターは言わずと知れた「木星」、ローマ神話の主神「ユピテル」のことではあるのだが、問題はそれが現れる文脈である。
希臘人
復讐の神をジュピターの上に置いた希臘人よ。君たちは何も彼も知り悉していた。
ローマ神話をさかのぼるギリシャ神話で、復讐神をジュピターの上に置いていたのかどうかがわからない。だから、この一節の言わんとするところが全然わからない。
次
ともかく、そんなことで「侏儒の言葉」は全部読み終わった。
目下、次の著作、三木清の「人生論ノート」を読み進めつつある。半分ほど読んだろうか。