応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.51

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 朝からそれほど気合いを入れずに10回ばかり通して弾き、そこそこの演奏を録って残す。

 練習日記、であるから、この程度でも残しといていいや。

 更に精進する。

おさらい ショパン プレリュード Op.28-No.7

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 しょっちゅうおさらいをしているショパンのプレリュードだ。

 気分転換に録音してみた。短い曲なのに、なんでこんな難しく思うんだろう。

応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.50

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 とにかく練習、練習ッ。

 前回よりミスタッチが多いのだが、自分では前回より良い演奏だと思う。確実に弾いていると言う点と、素朴・実直感があるように思う。

応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.49

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 朝から数えながら練習して、6回目の演奏。ミスタッチがあるが、だいぶ良くなったとは思うので公開。

 むぅ、まだまだッ。ばっちこ~いッ!!(謎)

またしても世界的第一人者にッ

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 また、ふと思いついて「パケット供養」でググッてみた。
  ↓
 Googleで「パケット供養」を検索

 ・・・本日(平成21年9月6日)現在、検索ランキングのトップを疾走中。

 ぬぅ、「おっさん・バイエル」に続き、またしても1位になってしまった。今後私は、「パケット供養」の世界的第一人者として知られることになるであろうッ(阿呆)。

政府も

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 いつぞや、「ゴールデンウィーク」という言葉の起こりを聞いて、ゴールデンウィークをゴールデンウィークと呼ぶことに抵抗を覚えるようになった。

 ゴールデンウィークというのを休日が続いて黄金のように楽しいと言うような意味にとらえてしまう人が多いようだが、実はそうではない。テレビが各家庭に普及していなかった昭和30~40年代、庶民の娯楽は夕時の寄席や休日の映画であった。「ゴールデンウィーク」なる言葉は、その映画業界から出てきたものだそうだ。つまり、映画業界が連休の家族連れでザクザクと書き入れどきになるという意味の「ゴールデンウィーク」である。

 これは、映画業界、すなわち「あっち」にとってのゴールデンであって、「こっち」にとってのゴールデンではない。

 そこからすると、「ゴールデンタイム」というのはテレビ業界にとってのものであって、こちらにとってのものではない。楽しい番組が目白押しの家庭団欒の輝ける中心時間、ということではないのである。テレビ会社のヨダレ塗りたくり系視聴率猟場といったほうがよかろう。「あっち」にとってのゴールデンだ。

 子供を育てていると、夜の19時ごろから21時ごろと言うのは、正しく食事をしたり、勉強をしたり、後片付けをして風呂に入ったりするという極めて重要な時間であるということを日々認識させられる。この時間帯をどのように過ごすかが育児の鍵であると言い切っても差し支えあるまい。

 この時間帯、私自身はできる限りテレビを見ないようにし、勉強したりピアノの稽古に励んだり、活模範を展示しようと努めてはいるのだが、子供たちにとってはそんなことはまったく関係がない。この大切な時間にポカンと口を開いてだらだらテレビを見て過ごし、寝るのが23時にもなってしまっている。それを徹底矯正できない自分の指導力のなさもよく考えると父として恥ずかしい限りだ。だがしかし、テレビにはそれくらい人を毒する魔力があるのだ。

 テレビ屋は、自分たちがどれくらい毒のある手段を持ち、その毒がどれほどの影響力を揮っているかをわきまえるべきだ。もっと慎重自虐に仕事を運ぶべきなのだ。テレビ屋は自分たちでは「『ゆとり教育』はけしからん、バカな文部官僚のくだらん思い付きによって日本はバカになっている」などと好き勝手な言説を垂れ流し、すべてを行政と政府と官僚のせいにしているが、そのくせ自分たちのやっていることは全部デタラメだ。もっと反省するべきだ。

 政府も、「サマータイム」などという毛唐流のおかしな習慣の導入などにムダな時間を使っていないで、この「ゴールデンタイム」と称する腐ったテレビ屋の習俗を法律で禁止してはどうか。そのほうがよっぽど日本の国力は増進するだろう。

 低俗でつい見てしまいたくなるような番組は、すべて朝の4時30分から6時ごろに集中させればよい。国民はみな早寝早起きとなり、ラッシュアワーの緩和などにつながって住宅の問題が軽減されるし、適正な睡眠によってデブが減り、生活習慣病が減少して医療費などの問題解決に幾分か寄与するだろう。

 かわりに、夜の19~21時ごろには、「皇室アルバム」とか「浪曲アワー」、「100歳万歳」「日めくり万葉集」などの、その内容に比して不当な評価をあてられている番組を一斉集中させるのがよろしい。

 仕事が終わった夜のひととき、静謐誠実なおん人柄の天皇陛下のお姿をテレビにて拝し奉れば心気鎮まって自ずと至心起こり、また浪花節の渋声に心を浸せば、人情と武士道が綯い交ぜになって胸に迫り、あるいは100歳の寿を誇る老人の魂をその姿から感じ取れば、高齢化問題に性急な断を求めようとする不孝の罪心を恥じる気持ちが湧くであろうし、他方、夕のひとときを万葉の精神に触れて過ごせば、古の直なる言の葉は都会に荒びきった愚かな迷いの心を開放するに違いない。

 ここに一億の魂が洗われて、沈滞する日本の命運は一挙に挽回されるのであるッ。

応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.48

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 バイエルのおさらいをしつつ、朝から20回「エリーゼ」の通し練習をしたが、気に入った演奏はさっぱり出来ず。

応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.47

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 しばらくの間、夜勤をしたり帰ってきたり、と不規則な仕事が続いていたのだが、ようやくひと段落し、今日はその代休だった。

 子供が学校に行ってから家内と二人で出かけ、以前に一度行ったことのある、「くつろぎ茶房・時をとめて」という店で御飯を食べた。明後日は家内の誕生日だ。御飯のあと、家内が選ぶものを誕生日プレゼントに買ってやることにし、「越谷レイクタウン」へ行って一緒に選んだ。家内が選んだのは鞄だった。

 帰ってきて「エリーゼのために」を練習する。10回ばかりも弾いたがどうしてもミスタッチのない演奏ができない。

 「エリーゼのために」、通して弾けば3分もかからない。だが一体、ピアノ演奏に限らず、私は3分と言う短い時間、誤りなく何かをするということが、出来るのであろうか。

 改めて考えると、一日中、毎時毎分、間違ってばかりであるような気がしてきた。朝起きるなり身支度の順序を誤り、おはようの挨拶を間違え、屁なんかひってしまい、家を出れば近所の交差点の信号は無視して横断、雑踏で人に道をゆずらず、駅で他人にぶつかって詫びも言わず、電車で年寄りに席を譲らず、職場について挨拶を忘れ、姿勢悪く席に座り、服装が乱れ、決められただけのスピードで仕事を進捗させず、同僚上司に間違ったことを言ってしまい、手書きで何か文書を作れば、3文字目にはもう漢字を間違っている、お茶をこぼしコーヒーをこぼし、弁当を食べこぼし・・・。こうして普段の一日をたどっていくと、たった3分の間、間違いをせず生きているのなど寝ているときだけなのではないか、否、寝ているときですら姿勢が悪かったり何か間違った夢を見たり、誤っているのかもしれないなどと思える。

 もし今、手近の新聞か雑誌を手に取り、どこでもいいから3分間朗読せよと言われてそれをしたら、必ず1箇所以上はどこかで噛むかトチるかしてしまうだろう。

 たった3分の「エリーゼのために」の演奏を間違いなくすることが出来ない私だ。それは私の生き方に比例している。

 思えば誤りを漫然と許容して歩んできた人生であることだ。私が自分に甘いため、他人や身内にも私は甘い。だから、私にかかわる人々は、私を優しい男だと思っている。だが違う。私は単に甘いだけだ。

応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.46

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 家に帰ってくるなり、「エリーゼのために」の練習である。妻も子供も感心半分呆れ半分、「お父さん、ほんっと、ピアノ好きだねえ」と言っている。

 なんだか、日に日に下手になる気すらしてきたが、ナニクソ、ここが正念場ッ。