昔のソ連のほうがよっぽど怖かった

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 (かね)てから「新聞ばかり読んでいると、アホになるばかりか、死ぬぞ」なぞという極論、暴言を振りかざしている私である。

 例えば、昨今、新聞記事の影響でか、軍事問題への関心が高まっているように感じられる。日本をとりまく軍事的脅威はますます高まっている、不安だ心配だ、国はなにをやっている、憲法はどうなんだ、官僚は軍備を真面目に整えとるのか、自衛隊はどうなっとるんだ……というような論調に傾いてきたように見えるのだ。

 が、私は、現在の我が国を取り巻く軍事情勢、就中(なかんづく)中国や北朝鮮がどれほど怖いかということは、比較論で言って、昔の対ソ連の時代の足元にも及ばないと思っている。

 ところが、どうも、人々は「昔のソ連や北朝鮮なんか怖くなかった、はっきり言って日本に関係なんかなかった、戦後の日本は戦争を放棄して、安心で安全だった、あの頃はバブルでお金もいっぱいあって幸せだった」と思い込まされているように思う。あるいは、単にその頃若かったか子供だったかして、そういう感覚を持っていなかった、という人もいるかも知れない。

 昔のほうが切実な軍事問題があった、ということには、感覚に訴えやすい好例がある。よく思い出してみてほしい。昔の北朝鮮のほうがよほど怖かった。その例は拉致問題である。

 気の毒にや、日本人が北朝鮮に相次いで拉致されていた頃。考えても見てほしい、かの横田めぐみさんがさらわれたのは、今を去る30年以上も前のことなのだ。今の北朝鮮はさすがに人(さら)いなどしていない。つまり、今の北朝鮮が怖いのではない、「30年前の北朝鮮のほうが現実の意味で怖かった」のである。

 その一方で、30年前の一般の人々の意識はどうであったか。かわいそうに、30年前、拉致の被害者なぞ一顧(いっこ)だにされなかった。自分が30年前、そんなことを問題にしていたかどうか、思い出してほしい。金があった者は財テクなどと言って利殖にうつつを抜かし、かわいそうな拉致の被害者なんかほったらかしだった。北朝鮮だけを例にとってさえ、このとおり、昔のほうが怖かったのだ。

 そればかりではない、ソ連によって日本に照準された核ミサイルはいつでも発射可能な状態に温められ、その数は何百発という途方もない数だった。しかもなお、彼らには上陸戦闘をやってのける潜在力があった。

 韓国も恐ろしく、竹島近辺で拿捕された何百という日本の漁民の中には殴り殺される者すらいた。

 そして、何千万という粛清が続いていることだけが断片的に伝わってくる、国交のない中共の不気味さと言ったらなかった。しかも、中共は昭和39年にはとっとと核実験をすませ、核武装国になりおおせていた。田中角栄大活躍の国交回復後、日本がせっせと献上した金で、せっせと核ミサイルを増備して日本に照準を合わせていたのだから、笑えぬ冗談もいいところだ。

 たとえ日本に直接の関係はなくても、子供の頃、クラスにインドシナ難民の子がいたという人もいるだろう。兵庫県の人には覚えがあると思う。難民キャンプが姫路にあったからだ。ベトナム戦争を持ち出すまでもない。あの頃、人々が国を捨てて逃げ出すようなアジアの戦乱は、即、日本にも指向されておかしくなかった。

 そして、日本に原爆を叩き込んで虐殺の限りをつくし、沖縄の人々を虐げていたアメリカ人を、誰も彼もが大好きという、もう、脳味噌はどうなっているんですかと言わざるを得ない、狂気のような状況に日本はあった。

 昔のほうがよほど、日本とその周辺国がそういう不気味な殺戮の嵐に包まれていたのに、ほんのごくわずかな人しかそれを直視しようとせず、何とかしようという努力を誰もしていなかった。そして、防衛費はGNP比1%の枠に(かたく)なに固定され、軍事問題に理解のない国民が圧倒的大多数を占め、自衛隊は土木作業員か賤民のような地位にしかなく、弾薬すらないありさまだった。

 新聞にそれらの問題が論じられることはまったくなかった。狂気の中でちいさい平和を見つけては、平和経済大国日本万歳とみんながみんな言い続けていた。

 私に言わせれば、むしろ最近は日本をとりまく軍事的脅威の絶対量なんか弱まっている。そうなってから、みんな軍事問題に首を突っ込み出した。

 勝手なものだ。

 アラビア~イスラムと言うけれど、9.11でどれほどの人が死んだか、広島・長崎の10倍も人が死んだのか、アメリカ人もよくよく自問自答すべきだ。

 これらがすべて、新聞の作用によると言ったら、言い過ぎだと非難されるだろうが、私は言い過ぎだと思わない。

 ただ、なにか、私自身がルサンチマンめいたねじれ方をしている、ということは、多少なりとも認めざるを得ないとは思う。

セルバンテスの苦労控

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 先日、スペインの修道院の床下で遺骨が発見されたと伝わるセルバンテス。抱腹絶倒の傑作「ドン・キホーテ」の作者で、400年前の人だ。

 晩成型の作家で、その不運や苦労に満ちた人生を私は尊敬している。

 彼の来歴を見てみると、後世これほど有名な作家であるにもかかわらず、とてものことに順調な作家人生を送った人物とは言い難い。

 貧乏人の家庭に生まれたセルバンテスは、無学の人とはいうものの、幼少から読み書きを身に付けていた。少年時代は道端に落ちている紙くずであろうと文字が書いてあればそれを拾って読んだといい、その頃から晩年の文才の片鱗が見えていた。

 だがしかし、彼も時代の子であり、文筆の道へは進まなかった。兵隊になり、戦いの日々に身を投ずる。時あたかも無敵スペインの絶頂期である。かの「レパントの海戦」でもセルバンテスは戦った。

 レパントの海戦は、コンスタンチノープル陥落以来200年もの間、オスマン帝国率いる回教徒に苦杯を舐めさせられ続けていたキリスト教圏の初めての大勝利であった。

 勝ち戦の中にいたにもかかわらず、セルバンテスは撃たれて隻腕(かたうで)になってしまう。胸に2発、腕に1発、火縄銃の弾を受けたというから、瀕死の重傷である。からくも命を拾った彼は、後に至ってもキリスト教徒としてこの名誉の負傷を誇りにした。そのとき、連合艦隊司令長官から、勇気ある兵士として激賞する感状を与えられたが、これが後年あだとなる。

 隻腕となってからも数年戦い続けたが、帰国の途中で回教徒に捕まってしまう。当時の捕虜は、身代金と交換されるのが常であったが、持っていた感状のせいで大物とみなされ、大金獲得の切り札として交渉の後の方に回されてしまったのだ。結局、5年もの間捕虜として苦難の日々を送る。仲間を糾合して4度も脱獄を企てたが、ことごとく失敗。その都度辛い仕打ちがあったろうことは容易に想像できる。

 ようやく身請けされて帰国した彼を待っていたのは、祖国の冷遇であった。感状を持つ英雄であるはずなのに、与えられた役職は無敵艦隊の食料徴発係である。無骨な来歴で、しかも傷痍軍人であるセルバンテスに、貧しい人々から軍用食料を要領よく徴発するような仕事など向くはずがない。帳尻が合わず、しょっちゅう上司に呼び出されては怒られる日々。それではというので豊かな教会から食料を徴発したところ、キリスト教徒に(あら)ざる不届(ふとどき)者とされてしまい、キリスト教から破門されている。しかも2度もだ。キリスト教のために回教徒と戦い、隻腕となった誇りある軍人である彼がどれほどそれで傷ついたことだろうか。

 ところが、しばらくするうち、スペイン無敵艦隊は、「アルマダの海戦」でイギリス海軍に撃破され、なんと消滅してしまう。すなわちセルバンテスの勤務先が消滅してしまったということで、彼は路頭に放り出され、無職になってしまったのである。

 セルバンテスは仕方なしに仕事を探し、今度は徴税吏になった。

 セルバンテスの不運の最底辺はこのあたりだろう。彼は税金を取り立てて回り、それを国に納める前、安全を期して一時銀行に預けた。ところがその銀行が、破綻してしまったのである。無論取り立てた大事な税金は消滅。セルバンテスはその債務をすべて個人的に負うことになってしまったのだ。勿論払えるはずもなく、当時の法では「破産者は刑務所送り」である。

 放り込まれた刑務所の中で、彼は失意と不遇の中にあって、なんでこんな目に俺が…、と泣けもせずに泣きつつ、「ドン・キホーテ」の物語を構想した。

 セルバンテスという人がぶっ飛んでいるな、と私が思うのは、こんな不運のどん底にあって構想した物語が「ギャグ漫画」のようなものであることだ。400年も前に書かれた「ドン・キホーテ」は、現代の私たちが読んでも思わず爆笑せずにはおられないドタバタの連続であり、徳川家康がようやく天下統一を成し遂げた時代の小説とはとても思えないほどの傑作だ。赤貧洗うが如し、隻腕の傷痍軍人で、しかも50歳を過ぎて疲れ切った男が、不運により放り込まれた刑務所の中であの物語を考えたのだ。

 刑務所出所後、数年かかって物語を完成させた時、セルバンテスは既に58歳になっていた。400年前の寿命を考慮すると、これは現代の70歳にも80歳にもあたるだろう。

 なんとか文学的な名は得たものの、ところがまだ苦労は続く。「ドン・キホーテ」は発売直後から空前の大ヒットになり、英訳・仏訳もすぐに出るという異例の出世作となったが、そんなに急激な大ヒットになると思っていなかったので、版権を売り渡してしまっていたのだ。ために、貧乏にはまったく変化がなかった。

 しかも、煩わしい悩みが続く。セルバンテスはこの頃、妻、老姉、老姉の不義の娘、妹、自分の不義の娘、という奇怪極まる5人の女達と暮らしていた。せっかく作家としてなんとか名を得、執筆に集中しようにも、この女どものためにそうはいかなかったのだ。彼女らは、男を騙して婚約しては難癖をつけ婚約不履行にし、それを盾に慰謝料をせびるというようなことを繰り返して儲けているという、ふしだらで喧騒(けんそう)な女どもであった。そのため、セルバンテスは静謐な執筆環境など到底得ることができず、ぎゃあぎゃあうるさい5人の女たちに毎日邪魔され、訴訟に巻き込まれて煩瑣な思いをし、休まることがなかった。

 セルバンテスが死んだのはこの10年後、69歳だった。当時の記録にも、三位一体会の修道院に埋葬された、と記されてあるそうだ。日本で言えば、合葬の無縁仏にでも当たろうか。それが、このほど遺骨が見つかったとされるマドリードの修道院である。

回教とダイエット

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 「ダイエットなんつう贅沢なことで悩むような人は、いっそ相互理解のため回教徒の断食のマネでもしたらどうか」などと暴言というか、雑想を書きつけてから、追っとり刀で回教徒の断食のことをWikipediaで読んでみた。

 回教の断食月とは彼ら独特の陰暦の9月のことを言い、この月に1ヶ月間行われる断食のことを「サウム」という。

 まさかに、1ヶ月も断食を継続するわけではない。日の出ている間飲食をしないという戒律であって、逆に日中の戒律を守るためには、日没後は大いに飲み食いすることが推奨されるのだという。このため、断食の時にはかえって食料品の消費が上がり、肥満する者が増えるのだそうである。

 肥満する者が増える、と言うのは、それはそうだろうなあ、という気がする。つまり、相撲取りが稽古のあとでチャンコを食って昼寝をし、それによって成長ホルモンの分泌を促してあの巨体を手に入れるのと似た理屈だ。喰い溜め・寝溜めは成長期には身長を伸ばすが、成長期以外は「横幅を伸ばす」のである。

 そうすると、回教徒のマネをしてダイエットしようなどというのは、まったくの逆効果であるばかりか、幾分、回教徒に対して失礼というか、不謹慎な気もしてきた。

 まあ、異教に対して失礼だということを言うなら、その昔のキリストの誕生に思いを致す気なんかさらにないくせに、クリスマスツリーなど飾ってプレゼント交換するくらいならまだしも、若者はクリスマスと言うと彼女とホテルに籠って性交三昧に励むことだとでも勘違いしている、なんてことのほうが、よっぽどキリスト教徒に対して失礼なのではあるが……。日本を取り巻くキリスト教圏白人国家は、よくこんなキリスト教をバカにしているとしか思えない日本人を許しておくものだと思う。

 回教の見解では、「回教徒が断食によって受けられるご利益は、異教徒が仮に断食しても、ない」のだそうで、するだけ無駄とのことである。

 この断食の起こりは、次のようなものであるそうな。

 その昔、回教が呱々の声を上げたばかりで、マホメットも教団の隆昌のために粉骨砕身努力していた頃、武勇を尊ぶ彼らは強盗をやって暮らしていた。おいおい(笑)という感じもするが、誤解のないように言っておけば、強盗をしていたからといって、時代とその地域、またかの地の文化ということを幅広く考え合わせれば、必ずしも責められることではないのである。

 で、メッカから富裕な隊商がやって来るという情報に接した彼らは、教団全勢力を挙げてこれに襲いかかったのであるが、食うや食わず、腹が減っていることもあって、また、思いもかけず敵の予備兵にしてやられ、全滅寸前のところでアラー神の加護あらたか、回教の消滅を免れたものだそうな。こうした苦難の教団揺籃期を忘れぬため、いまでも断食をして、その頃に思いを致すことになっているのだ。

 他に、面白いことが書かれていた。回教圏では今も陰暦を使うが、かつてのアジア圏のように「閏月」を置かないので、どんどん暦がずれていき、1月2月といった月の名前は、季節を表してはいないそうだ。このずれは約33年間で一巡し、もとの季節に戻るそうである。断食月の9月が浮動するわけで、だから、断食は夏であったり冬であったり、季節は一定しないのだそうである。


 このエントリは、Facebookのウォールに書いたものの転載です。

罪のロシアンルーレット

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 インフルエンザで出勤禁止、居間に出ようとすると家族への感染も心配だ。いきおい寝間から一歩も出ずに引きこもるが、寝間の無聊を慰めるものと言ってはタブレットぐらいである。

 いい時代で、こんな外出もできない折でも、Kindle/Amazon、とりわけ青空文庫の成果物はよりどりみどりの読み放題である。愛用のタブレットにKindleアプリをダウンロードしておけば、家から一歩も出ずに図書館にいるようなものだ。

 先ほどまで読んでいた坂口安吾の「白痴」は、4月の東京大空襲の2夜目が主たる舞台だ。作品は大空襲を絶好の環境として使った、「生きる」ということに対する内省と自問であり、おそらく坂口安吾にしてみれば、他に適切な舞台があれば別段東京大空襲でなくてもよかったのだろう。だから、この本を読んだからといって東京大空襲について筆のすさびを始めるのは当たってはいない。

 しかしそれはそうでも、読後の思いは乱れるのであった。

 ゲルニカや東京・大阪がもし欧米白人の手によってなされなかったとしたら、この「一般市民が現住する都市への無差別爆撃」という人類史上最も憎むべきことに位置づけられなければならないはずの大犯罪に最初に手を染めるのは、一体誰であったろうかと考えてしまう。

 もし我が国であったら、と想像すると暗鬱な気持ちになるが、明治維新から終戦までの帝国にはそれだけの力はなかった。大陸に対しては幾分その程度の軍事的実力はあったが、いわゆる渡洋爆撃など、その後米国によって我が国に向けられた蛮行に比べれば、まことにもって礼儀正しいものであった。

 だが、実行は別として、単にそれを選ぼうとするだけなら誰にでもどの国家にでもできる。帝国がそれを選ぼうとしたかどうかである。「最初に選んだ者負け」だ。そして、その永久の罪の汚名は、さながらロシアンルーレットのように、欧米白人が先に引き当てた。

 運悪く引き当ててしまったのか、彼らが自らの手で握りとったのか、それはわからない。強いて言えばおそらく両方だろう。歴史の流れは必然として彼らにその籤をあてさせたし、かれらは能動的にその籤を引き当ようとして引き当てた。

 そうしてでも、彼らは生存したかった。そういうことだろう。

 文字のない太古、アフリカあたりの熱帯で生まれた人類は、弱いものを辺境へ辺境へ差別・排除しつつ、繁栄を謳歌してきた。

 遠く北の寒冷飢餓の土地へ追いやられた生白い一団は、数千年にわたって臥薪嘗胆、牙を研ぎ、500年ほど前から断固復讐を開始した。ローマ法王からスペインとポルトガルに対して発せられた大デマルカシオンがそれである。

 いくつかの紆余曲折を経ながらも、1494年にポルトガルとスペインがトリデシリャス条約を結んだ後、かれらがアジアと米大陸を総なめにしたことは歴史上の事実だ。ことに南米においてスペインのしたことなど、悪鬼をしてその顔色をさえなからしむる、酸鼻の地獄絵、鬼畜の所業である。

 しかし、いかに鬼畜スペイン、ポルトガルといえども、当時は強大なイスラム圏の処理は簡単には済まなかった。欧米白人にとっての歴史的やり残し、それがイスラム圏の処理なのだ。

 近代に至って、その後英国、あるいは米国へとバトンタッチしながら、白人がその人類全体に対する復讐の魔手をついに悲願のイスラム圏へ向けているまさにその時が、今なのだと言える。

 500年もの期間を費やして太平洋を押し渡るために向けられた復讐の前縁が、東京や大阪や広島や長崎であったのだ。彼らが犯罪人の汚名を着ながらも決してやめようとはしない、今の中東への憎悪もそこにつながっている。やっと手に入れた日本を手放さない意義もそこにあるが、邪魔になれば見殺しにするだろう。

極端から極端へ走る

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 極端から極端へ走る思想は危険だ。ナチス・ドイツや、共産主義各国の粛清の嵐、文化大革命、カンボジアのキリング・フィールド、ルワンダ、現在のイスラムの連中、またアメリカ人も、どいつもこいつも極端なのである。

 「正義」や「平等」などの、いいようでいて悪いもの、ウィルスのように人をむしばむ毒がこれらを先導する。

 欧米白人の大好きな「革命」は、言葉はかっこいいが、その中身をつぶさに観察すれば、血みどろのホラー映画やスプラッタームービーも真っ青のエログロ滅茶苦茶、狂気と妄想の現実化である。その当事者たちは皆、「これが夢か、映画かなにかであってくれたら」と願いながら死んでしまったであろうし、また現在も死につづけている。

 そこには、「統一」「シンプル」と言った、耳への感触はよいけれど人間性に逆行する憎むべき何かが含まれている。

 こんなコミュニケーションがあった。ある人が、

「もう、和暦がピンと来ない。『平成ウン年』と言われても、計算しないとパッと出ない。もう、西暦で統一したらどうか」

 ……と書いた。得たりや応とばかり、私がふざけて混ぜっ返す。

「そんな、みなさんね、西暦なんてものは宗教上の聖人の生誕日を元にした宗教上の数値ですよ。今、喫緊の人命がかかっているのだって、元はといえばそれが原因ですよ。だから、いっそ、西暦も和暦も全部やめて、UNIX時間などの技術上の数値か、天文学上の、何か、キリのいい、例えば惑星が並んだとか、そこを0年0月0時0分0秒と定義するとか、そういうものに変えたらどうですか」

 多少ウケ狙いでした発言だから、もちろん真面目にこんなことは言っていない。このような極端なことは、恐れるべきことだからだ。

 この妄想を拡張してみようではないか。

「ことは暦年だけのことではない。通貨だって、なんで為替なんか気にしなくちゃならんのだ。もう、ユーロも元も円もドルも、全部廃止して、全部ドルに統一したらどうか」

「いや、それをやるとまた戦争になってしまう。いっそ、ビットコインとかに世界で一斉移行したらシンプルだ」

「世の中に男や女がいるから、男女格差などの問題が生じるのだ。もう、生物学の研究を推し進めて、遺伝子から男や女を取り去り、単為生殖可能な『中性』にでもしたらどうか」

「イスラム教やキリスト教や仏教があるから殺し合いになる。もう、いっそのこと、全部混和して、なに教とかいうのはやめて、単純に『教』ひとつだけにしたらどうか」

「言語がよくないよ、言語が。『英語で統一』は一見合理的だが、これはまた諍いのもとになる。そこで、情報技術を高度に推し進めてだな、プログラミングに使う『中間コード』のような『中間言語』に各言語を落とし込み、伝送路上はこの中間言語を流すのだ。コミュニケーションはそれを使うとか」

「もうね、多様性がよくない。人間は多数の細胞からなっているが、これが多様性を生んでしまう諸悪の根源である。細胞を全部バラバラにして混合し、個人の人格など全部一体化させて、そう、70億総員、『黴菌』にでも進化したらどうなのだ!」

 ……ダメだな。私は人よりお金を稼いでほくそえんだり、逆に損をして悔しがったり、恋をしたり、いろいろな肉や野菜などのうまいものを食って喜んだり、色々な国へ旅行して、その違いに感心したり、英語ができなくて悩んだりしたい。円高のときにアメリカ旅行をしてニヤニヤしたいし、逆の時には面白いアメリカ製品を買って喜びたい。神社仏閣に詣でる一方でキリスト教の寺院を訪れて感嘆したい。黴菌に進化するのは究極の合理性だが、黴菌になんかなるのはいやだ。人として悩み苦しみたい。死にたくはないが、もし死ぬべき時がきたら、その死の意義など問うまい、ギャーっ、痛いよう、たすけてー!と叫びながら苦痛のうちに死ぬだろう、だが、そうしたい。非合理だがそうしたい。西暦と和暦を計算して「ちっ。ああ、七面倒臭い!」と愚痴を言いたい。

 それが、薄汚れていて、あまり綺麗ではないにもせよ、人間の織りなす壮大な曼荼羅、ペルシャ絨毯の模様のような、楽しい生活というものなのだ。

好悪に理屈などない

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 「俺を好きになれ!」と、拳骨を振り回しながら言われても、好きになどなるわけないし、「俺を好きになれ」と、なにやら鼻息ムフムフ、腰をうごめかしながら言われても、好きになどなるわけない。無論、「俺を好きになれ年収は¥$₣元」あるいは「俺は××大学卒業だから好きになれ」など、金や学歴を好きのパラメータにするなど論外というべきである。どれもこれもダメだ。

 好きとか嫌いとかいうものは、魂が相容れるかどうかであって、暴力も性欲も金も学歴もイデオロギーも、好き嫌いには無力だ。

 ピーマンが嫌いな子供に、ピーマンのビタミン含有量と繊維質の健康に及ぼす影響を説いたところで所詮食わないし、納豆が嫌いな野郎に納豆の効用や微生物の及ぼす健康と長寿への影響、統計上の有意な回帰式や相関係数を説明したところで、相手はやっぱり納豆は嫌いなままであろうことは知れきったことだ。

 数値ほど好悪の感情に無力なものもあるまい。

 自分が相手に受け入れられないとき、それは受け入れられないということであって、なぜ受け入れられないのかなど問うても無駄だ。栄養豊富なセロリが嫌いなあなたは間違っています、などと説得しようがどうしようが、奴は依然セロリが嫌いなのである。

 受け手の度量は小説やマンガのように広くはない。そこでジタバタもがくことは、自分自身の修行にはなり、ためにはなるが、相手に芯から底から受け入れられると期待することは無駄である。

 そしてまた、相手に好かれようとジタバタもがいて見せることは相手にとって迷惑である。彼にとって嬉しいことではないのだ。嫌いな奴が好かれよう好かれようとしているんだから、納豆の効能をくだくだしく説かれるようなものだ。「私はこんなにもあなたに好かれるに足る人物なんですよ」と、聞きたくもないゴタクを聞かされて辟易するのは、好き嫌いの激しい子供が人参やピーマンを無理やり食わされるようなものだ。如何にそれが身のためになろうが嫌なものは嫌というのが人情である。

 なのに、人間というものは、なんら好きになどなる理由のないどうしようもないハイカロリー食品を貪り食って酒を飲みタバコを吸い、ダメ相手と同棲したり結婚したりセックスして子供を産んだりするもので、それはもう、どうしようもないのである。

 人間がそんなものであるから、そんな人間から成る社会や国家が、暴力やら性欲やらカネやらなにやらで迷走するのは、もう、仕方がない。

 イスラムの連中は、やっぱりイスラエルもアメリカも嫌いだし、アメリカはやっぱりアジアもイスラムもなにもかもが「嫌い」なのである。

浮動首都

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 浮動首都、というようなことを妄想した。自分が書いた砲兵のことと、石原莞爾の「最終戦争論」を読んでのことだ。

 石原莞爾によれば、戦術は点から線、線から面、面から体へと発展し、航空技術の究極に達したところで最終戦争となるという。

 その論の多くは外れてしまい、最終戦争は起こらず、米国の言う核抑止ドクトリンを経てアメリカ一強によるイスラムいじめの様相を呈していることは、歴史の事実である。

 だが、石原莞爾の論説は、東京・大阪の大空襲、広島・長崎の惨劇を経る前に書かれたものだ。それをわきまえたうえで読めばなかなかに興味深い。

 石原莞爾は「近未来には、戦闘員・非戦闘員の区別はなくなる。3次元化した戦闘は都市の無差別爆撃の形をとり、女子供までもが殺される役割として、戦闘に参加することとなる」と喝破している。石原莞爾が言い当ててからたった数年後にそれは東京・大阪、また広島・長崎の形で精密に現実化した。

 アメリカの戦略ドクトリンは変遷したとはいえ、各国のミリタリーはまだ太平洋戦争の呪縛から脱しえない。米国軍隊は縦横に飛び回り、かつ世界のどこへも決定的リーサル・ウェポンを叩き込む自由を得たが、それを生身に浴びる弱い者たちは、2~3百年前からほとんど変わらず、町や村に固定されて生きている。

 リーサル・ウェポンから逃れるためには、首都が浮遊せねばならぬ。情報技術等によって、殺害の主対象である何億もの弱者が、さながら雲のように形を変えてあちこちを浮動し、物理的決定点を持たぬようになることだ。一発の致死兵器が決定点に炸裂しても、そこに人口が蝟集していなければ、その兵器は恫喝の意味を持たなくなる。

マルコムXの孫とWTC

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 昨日久しぶりに愛蔵の名作DVD「マルコムX」を見た。なんとなれば、昨日マルコムXの孫のシャバズ氏がブラジルで殺されたことをニュースで知ったからである。

 マルコムXはいわずと知れたブラック・モスレムの活動家である。日本で言えば大正時代に生まれた人物であることを思うと、彼がどのように育ったかが想像できる。

 DVDでは、主演のデンゼル・ワシントンが、もう、笑っちゃうくらいソックリにマルコムXに扮している。デンゼル若いなあ、と思ってDVDのパッケージ裏をヒョイと見ると、公開は平成5年(1993)とあるから、なんともう20年も前だ。

 平成5年というのは、WTCの地下駐車場で爆破テロがあった年である。9.11の陰に隠れて忘れられがちであるが、これもやはりイスラムの連中が「やっちまった…」ことであった。

 WTC地下駐車場の爆破テロが起こったのは平成5年の2月26日である。他方、アメリカでこの「マルコムX」が公開されたのは、それに先立つ平成4年の冬、11月18日だ。日本では爆破テロの1週間前、平成5年の2月20日に公開されている。

 昨日のニュースでは、旧WTCの跡地に建設されていた「WTC1」がついにもとのWTCの高さに達したとも報じられた。一昨日、5月10日のことであるという。

 「どうだこの野郎」と言わぬばかりのアメリカ人らしい復興が、憎たらしい。しかし、9.11で亡くなった多くの人たちは、そんなアメリカの唱える正義などになんの関係もない弱者でもあった。そしてなおアメリカが、アフガンで、イラクで繰り広げた、9.11で亡くなった人たちの数十倍にも及ぶ報復のための殺戮もまた、国や活動家とは何の関係もない弱者に指向されたことを、同時に弁えなければならぬ。

 ヒロシマもナガサキも、帝国政府の無策と無能によって招き寄せられた当然の帰結だと強弁し、日本人は罪の意識のもと反省し続けなければならないとするなら、WTCの炎上と倒壊もまた、アメリカ政府の傍若無人と破廉恥によって下された審判であったとして永久に反省されなければなるまい。核爆弾に比べれば、9.11なぞ、ほんのお遊び程度の可愛らしい規模でしかなかったが…。

 アメリカが完全民主主義と自由を標榜すればするほど、独裁を保持するアメリカ大統領などではなく、アメリカ合衆国国民自身、一人ひとりが9.11を招き寄せたという論理が成り立つことになる。だが、アメリカ政府の誘導よろしきを得て、9.11を正義実行の懐かしい追憶点として涙するアメリカ人はいても、自らの罪を反省するアメリカ人などいるまい。

 そして、多くの日本人がそれに同調していることも、あまりにも悲しい。日本では、イスラムに攻め込むアメリカに協力することは国是であり国益への寄与であるとされる。

 そんな思いが、麻糸のように千々に乱れる、昨日の映画鑑賞であった。

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欧米白人を嫌うおっさん(私)の落想

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 悪意の欧米白人が日本人を困らせ、いじめ、持っている金を巻き上げるにはどうしたらよいか。

 軍備に劣る日本を、力で追い込むと、さすがに窮鼠猫を噛むが如きことになって、大東亜戦争の轍を踏む。日本人が全員、核攻撃を浴びて死に絶えようが、それは欧米白人の知ったこっちゃないが、悪者は欧米白人だということになるのは具合が悪い。

 それなら、まずエネルギーだ。これでジャップを困らせ、金を払わせよう。欧米白人はそう考える。

 知らない人が多いが、アメリカは、実は世界一の産油国だ。

 だから、アメリカは、産油地域のイスラム・アラビアをどんなにいじめ、困らせようと、エネルギーという点ではちっとも困らないのである。困るのは、日本のような国である。そして、世界一の産油国のアメリカは、自由自在に石油の相場を決定できるのだ。

 これもあまり知られていないが、その昔、日本が対米戦争に踏み切った直接要因は、陸軍が勝手に暴走したなどというようなNHK流の荒唐無稽な妄想話ではなく、アメリカの石油の禁輸措置にあった。戦前もアメリカは世界一の産油国であったから、日本の石油の輸入は、100パーセント、アメリカに頼っていたのである。そこを衝かれたのだ。

 悲惨を極めた戦争の後、日本とアメリカは講和し友好国となった。だが、さすがに日本も馬鹿ではないから、アメリカから石油を買うことだけは、もうしなくなった。アメリカ以外の国々、特に中東諸国から買い入れるようになったのである。

 「クソッ。猿野郎。怯えやがった。もう一度ウチの石油を買いやがらねえかな」くらいのことは、内心アメリカの意思として伏在するだろう。

 たとえアメリカが凋落して、世界一等国の地位から転落するようなことがあったとしても、原住民から収奪した広大な国土から産する石油その他の地下資源を掘り出して売れば事足りる。油田の開発と掘削はテクノロジーのしからしむるところであり、簡単なことではないとは言うものの、いろいろな物を開発生産することに比べれば、基本的には力づくで地面に穴を掘るだけだから、文明度が低かろうと国民の知能が劣ろうと、それで食っていくことはできる理屈だ。

 彼らは道徳高い人を育てたりすることに欠ける。それは、別に人など育成せずとも、いざとなれば地面に穴を掘れば、カネになるようなものがザクザクと出てくるからである。だから、人を育て、その高度な知能によって物を製造して売ること、そのこと一点にのみに賭ける、というような、日本のような国づくりはしなくてよいのである。

 ともあれ、イスラム・アラビア攻めで困るのは、日本のような国だけだ。アメリカは困らない。多少、戦傷者が出る程度で済む。罪のない、貧しいイスラムの一般の人がその10倍死傷しようと、それを現地の元首や政府のせいにして澄ましかえっていればよいのである。

 次いで、食料。日本は、食糧を輸入に頼る。米以外のほとんどの食料を海外から買っていることはそこいらの小学生でも知っている。だが、確かに輸入といえば輸入だが、ほかの食料と比べて純然と輸入とは言い切れない食料が、実はある。それは魚介などの海産物である。「魚離れ」とはいうものの、日本人の蛋白源は、いまだにかなりの率が魚に頼る。

 日本人を食料の面で締め上げ、困らせたあげく、食料を売りつけて金を巻き上げる。それには、どうしたらいいのだろう、と、欧米白人は考える。どうも日本人は、金は確かにある筈なのに、こっちの押し付ける肉などを買いやがらねえ、肉なしで人間が生きられるはずがねえ、何か代わりのものを食ってやがるんだろう、調べてみよう、…などと考えたかどうかは知らないが、そうやって調べてみたら、なんと、天然資源の魚をどんどん獲って、それを食っていることが、たちどころにわかるわけだ。

 広い大洋で海産物を獲るのは、勝手である。漁にかかるコストはあるが、畜産などに比べれば、はっきり言って、魚はタダだ。そしてまた、国際的に文句のつけられるような筋合いのものではない。

 よし、それなら、日本人が海産物を獲れないようにしてやろう。そして、オーストラリアやアメリカから、牛肉を買わせてやる。

 そうするにはどうしたらよいか。

 そう、まず手始めに、「鯨を獲るな」である。牛肉を買わせたいオーストラリア人が言い出すとは、実にわかりやすい話だ。

 鯨は現在では、日本人が主として口にしている海産物ではない。だが、それを皮切りに難癖をつけ、欧米白人たちがどのように議論を広げていくつもりなのかは明白だ。現に、もう、次第に奴らの意図は見え始めている。マグロに対して、奴らは狡猾な言いがかりをつけ始めたではないか。

 「マグロが減っている。学術的にそれは明らかだ。」

 「野蛮な競り市で、マグロの屍骸を取引している。文明的でない。」

 「マグロの解体ショーとはいったい何事。血なまぐさく、民度が低い。」

 こんな難癖をつけ始めているのだ。そして国際会議の議題に持ち込み始めた。しまいには、「マグロは知能の高い魚で、人類の友達だ」などと言い出すだろう。

 そしてもうすぐそれは、魚全体そのものに関する内容に広がってしまうだろう。いわしもさんまも、じきにそうなる。

 単に嗜好や文化のことを言っているのなら、我慢のしようもある。だが、違う。彼らは彼らの低劣な収奪と侵略の意図でもってそれをやっている。それを決して見過ごしてはならない。

 だから、これ以上、欧米の文化を無防備に受け入れることをしてはいけない。ハロウィーンなどの子供の遊びにも、心の奥底にはピリッとした警戒感を常に持ち、猜疑心を持ってそれを監視し続けなければならぬ。そうしないと、「何が何でも石油化学製品を作り続けなければ文明国の地位からたちどころに転落する」とか、「獣肉を食うことは優れたことであり、海からタダで魚をとることは、卑怯で野蛮なことだ」などという、知らない間にもぐりこまされたおかしな価値観を握らされ続けることにつながってゆく。

 すでに、彼らは日本の商習慣を破壊することに成功した。

 これも、知らない人が多いが、昔、ペリーに屈服させられた日本は、欧米の言うがまま、不平等条約で不当な関税措置を飲まされ続けた。ところが、関税をかけることができなくても、日本国内ではいわゆる「舶来物」は売れなかった。なぜか。

 「大問屋・中卸・卸問屋・問屋・小売店」などといった日本の再販制度が作用したのである。それは、長い鎖国時代、飽和状態にあった国内市場で、ひとつの工業製品に、できるだけたくさんの人がぶら下がって食っていくために編み出された、流通の完成形であった。それが思わぬところで作用したのだ。

 輸入品にはさらに総代理店・代理店などが入るため、その利益が上乗せされ、舶来品は高価なものとなった。だから、大正時代に不平等条約が撤廃されても、また、その後、戦後かなり経ってからですら、日本では輸入品はさっぱり売れなかったのである。それは、民衆が勝手にやっている関税のような働きをした。民衆が勝手にやっていることだから、欧米白人はそれに文句をつけることができなかった。

 そこで、おかしな価値観を奴らは吹き込み始めたのだ。

 「日本の前近代的な商習慣は、日本の産業や商業の発展を阻害している。アメリカではそんなことはやっていない。アメリカは優れているから、アメリカのようにするべきだ。だから日本はダメなんだ」

 というわけである。

 まじめに国産品を作り、また、国産品を売っている人に問いたい。「グローバル」などという当時耳慣れなかったカタカナに妄従し、国をあげて馬鹿のようにアメリカ化に励んで、その結果、物はよく売れるようになっただろうか。否である。物事をアメリカ流に変えた結果、得をしたのは、アメリカだけだ。

原子爆弾の投下は

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 白人がいかなる修辞をもって詭弁を弄しようと、原爆の投下は戦争犯罪であり、それを命じた合衆国大統領は戦争犯罪人であり、爆撃機の操縦者その他も同じく戦争犯罪人である。

 米国は独裁国家ではなく、民主国家であった。米国内の合法的かつ民主的手段によって原爆の製造と投下を命じた卑しむべき大統領は選ばれた。専制君主が民衆の意図とかかわりなく恣意によって原爆を製造して投下したのとはちがう。それはアメリカ一般民衆の総意であった。と、いうことは、アメリカの市民一人一人は、同時にすべて文明の敵であり、戦争犯罪人である。

 日本の神社が彼らによって卑しまれる限り、キリスト教とアメリカ人はおなじく卑しまれ、蔑まれる。

 「いわゆる『9.11』テロは、歴史に新時代を記す壮挙であって、WTCに突っ込んだイスラム戦士は顕彰されるべき英雄だ、9.11によって数百万のアメリカ人が結局は救われた」などと言われて喜ぶ米国人がいるなら話は別だが。

 Even if white men make any kind of excuse, it is war crimes to have dropped an A-bomb on Japan.
 President of United States of America which ordered by an atomic bombing is a war criminal.
 The pilots of the bomber are war criminals, too.

 The United States of America was not an autocracy. It was more always than World War II a democracy.
 The President of United States of America was chosen in election. The President was chosen by the legal, democratic means of the United States of America. And the President ordered by an atomic bombing.
 An absolute monarch did not ignore the intention of the people. The President did not let you produce atom bombs forcibly. The President did not drop an atom bomb on Japan by force.

 In other words an American citizen did the holocaust with the atom bomb.
 In other words it is an enemy of the civilization, and all the American citizens are war criminals.

 If a Japanese Shinto shrine is looked down upon by them, Christianity and the American are looked down upon in the same way.

 "9.11 terrors are historic splendid attack. The mujahedin who entered into the World Trade Center is a splendid hero. Millions of Americans did not die by 9.11 terrorism. "

 My opinion withdraws it if there is an American pleased to hear such words.