近況片々

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SOBA 満月

 先頃からすっかりファンになった新越谷駅前の蕎麦(みせ)、「SOBA 満月」。このところ毎土曜日昼の行きつけである。

 店主が体調を崩していて、先週、先々週の土曜日は閉まっていて残念であった。今日は本復されたようで、いつもどおりの営業だ。

 今日は季節メニューで「桜エビと新たまねぎのかきあげ」というのが出ていたからそれと、いつものように新潟県の銘酒「吉乃川」で蕎麦前をやって、生粉打ち十割の「もり」で〆。

 美味、至福と言う他なく、やめられぬ。

 妻と近所の川べりの桜を見に行く。

 地元の隠れた名所で、美しい。

改元令奉祝

 (かしこ)きあたりにおかせられては、(かね)て改元の内意(あまね)く知ろしめられること(おそ)れ多く、去る4月1日、これを奉じた政府によりついに「令和」と布達されたことは誠にもって喜ばしいことである。

 (しづ)、このブログも早速改元に対応し、5月1日以降の日付に遺憾のないようにした。

 改めてテストしてみる。

2019/4/30 23時59分 → 平成31年(2019)04月30日(火)23時59分
2019/4/30 24時00分 → 令和元年(2019)05月01日(水)00時00分
2019/4/30 24時01分 → 令和元年(2019)05月01日(水)00時01分
2019/5/1 0時00分 → 令和元年(2019)05月01日(水)00時00分
2019/5/1 0時1分 → 令和元年(2019)05月01日(水)00時01分

……良く動く。いい感じだ。24時1分、なんぞというところも私の考えた動きである。

旧暦雛祭

 明日は旧暦三月三日、つまり旧雛祭(ひなまつり)。当然月は三日月。晴れれば日没後すぐ、針のような尖った月が日とともに沈むだろう。

自分のWordPressと改元対応

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 いよいよ明日、畏きあたりにおかせられては、きたる5月1日からの新元号について聖旨(せいし)渙発(かんぱつ)あらせられ、政府をして達せしめられる運びとなった。

 誠にもって恐懼(きょうく)の至りである。

 さて、私のこのブログは、無理やり和暦表示になるよう改良してある。そのコードも新元号に対応しておかなければならない。

 やりかたは簡単で、以前書き足した子テーマの「functions.php」の該当箇所に、次のように書き足すだけだ。

・
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・
} elseif ($Ymd >= "19890108" && $Ymd <= "20190430") {
	$gg = "平成";
	$yy = $Y - 1988;
} elseif ($Ymd >= "20190501") {
	$gg = "新元号";
	$yy = $Y - 2018;
} else {
・
・
・

 テストしてみると、次の通り、よく動く。

1800/06/06/01:00 → 皇紀2460年(1800)06月06日(金)01時00分
1989/01/07/00:00 → 昭和64年(1989)01月07日(土)00時00分
1989/01/08/00:00 → 平成元年(1989)01月08日(日)00時00分
2019/04/15/12:30 → 平成31年(2019)04月15日(月)12時30分
2019/04/30/12:30 → 平成31年(2019)04月30日(火)12時30分
2019/05/01/00:00 → 新元号元年(2019)05月01日(水)00時00分
2020/01/01/00:00 → 新元号2年(2020)01月01日(水)00時00分

 これで、明日、新元号が明らかになれば、「新元号」と書いたところを書き直せば対応終わりである。

万愚節(ばんぐせつ)と改元

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 エイプリル・フールは「四月馬鹿」と訳され、また「万愚節(ばんぐせつ)」とも訳されている。

 「万愚節」は俳句の季語でもある。私などは西洋由来のエイプリル・フールに「万愚節」という訳語をあてた先人の教養のほどに敬意を覚えざるべけんや、という感じがして、これはこれでまた、いろいろと蘊蓄(うんちく)の余地があると思う。

 それはともかくとして、(かしこ)きあたりの(おぼ)()目出度(めでと)うして、ついに政府も

「平成31年(2019)5月1日改元を宣せらるるにつき同4月1日に前(もっ)てこれを()国事(こくじ)万般(ばんぱん)遺漏(いろう)なきよう沙汰(さた)す」

……としたところである。

 それにしてもしかし、である。

 ネット上ではおそらく、「祭り」の状況となるだろう。なんと言っても「エイプリル・フール」である。

 今や親日のエイプリル・フールの本場、イギリスなどではこれがどう取り扱われるか、楽しみでもある。

 われわれ国民は、安心すべきところと思う。なんとなれば、これしきのことで動揺恐慌(どうようきょうこう)するわが国体ではないからである。泰然自若としてこの事態を楽しめばよいと思う。

 行政事務(かた)は、予算年度の節目のことに御英慮(おんえいりょ)(かたじけの)うした畏きあたりの思し召しに感謝百度万度をもって(ほう)ずべきであろうか。

改元・差別・多様性・測地系・カレンダー……

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 以前、GIS(空間情報システム)について深く考えていた時、「地球上のある一点」とか、あるいは「宇宙のある一点」を何らかの座標で表した時、現実の空間に存在するその地点はただ一つであるにもかかわらず、使用する座標系によって表現や数値が異なり、あたかも違う地点が複数存在するかのようになってしまうのは、何としてもどうにかしなければならない、と思った。

 その頃、ちょうど日本では「測地成果2000」という標準が行き渡り、明治時代からの伝統である「ベッセル楕円体」を使用した所謂(いわゆる)「日本測地系」の使用をやめ、国際標準の「GRS-80」にほぼ完全に切り替え終わっていたが、切り替わる前後しばらくの期間、旧ベッセル楕円体測地系と、新GRS-80測地系が混在し、地球の同じある一点を示すのに、複数の数値が混在していた。

 そこへ、GPSの普及、またこれを活用したカーナビの普及で、米国主導の座標系である「WGS-84」も混在して使用されるようになった。そのため、当時の情報システム内部では、旧日本測地系、GRS-80測地系、WGS-84測地系の三つの測地系を矛盾なく混在させて作動させる必要があった。

 プログラミング技術上では、例えばC++やJavaなどのオブジェクト指向言語なら、こうした事態を解決するため「座標」のクラスを作り、クラス内部ではいずれか適切な座標系で数値を保持させる。その数値は「プライベート」にして隠蔽し、クラス外からの直接操作はこれを禁ずる。「アクセッサ」のみを使用して座標を操作するのだ。そして、いずれの測地系を使用して値を入力しても、内部では必ず空間の一点のみを指す値に変換して保持し、また逆に、値を取り出す際には、いずれの測地系での値を要求しても正しく取り出し可能とする。

 こうしたふるまいをするクラスを作ることで、プログラム内部では混乱も矛盾もなく座標を扱えるようになる。無論、アメリカの旧測地系であるクラーク楕円体をはじめとして、世界中の測地系を詰め込んでクラスをデラックス化するのもよい。

 さて、こうしたことを思い出していて、日付についても似たようなことを考える。

 世界には多様な文化があり、そのため、「ある日ある時間」を表すにも、文化や地域によってさまざまな表し方が存在する。思いつくまま挙げるだけでも、例えば教祖イエス・キリストの生誕を基準とする西暦、ヨーロッパのグレゴリオ暦やユリウス暦、太陰暦を基本とするイスラム暦、同じ太陰暦でも中華文化圏で用いられてきた干支(かんし)を使用する日付表現、日本の元号や朝鮮、就中(なかんづく)北朝鮮の現在の革命年号、日の出・日の入りを基準とした不定時法など、様々だ。

 だが、どんな日付表現をしようが、科学的には「ある日ある時間」は、ただ一つである。

 一方、コンピュータシステムは人間を支えるものであって、人間がコンピュータに奉仕しているようでは本末転倒だ。コンピュータはあらゆる日付の表現ができ、かつ、あらゆる日付の表現を受け取ることができることこそ望ましい。世界中の多様な文化を矛盾なく受け()れ扱うことができてこそ、人間に奉仕するためのあるべきコンピュータシステムの姿であると言える。

 しかるに、現在のコンピュータシステムはその点が貧弱である。「建久二年辛亥(うるう)十二月(ついたち)」と入力しても、「1192年1月17日」と入力しても、はたまた「587年のズー・アルヒッジャの13日」と入力しても全てこれを許し、かつ、それが同じ日付を指しており、また逆に、どんな日付表現の出力を要求されようと、考え得る限りの多様さで人間にこれを返すようでなければならない。

 今このようなことを考える理由は、ただ一点、畏きあたりにおかせられて、近々まさに譲位あそばされんとし、恐れながら改元の沙汰もこれあることと考えられるからだ。

 改元であろうと何であろうと、人間に奉仕するべきコンピュータシステムは、これを平然と受け()れるものでなければならない。そこに多大のシステム保守作業があるなどもってのほかである。

 だが、現代のコンピュータシステムはそこが貧弱であるため、改元で右往左往しなければならないのだ。

 それどころか、コンピュータシステム運用上の煩雑さを理由として、元号制に反対したり、イスラム文化やアジアの文化を否定し、「西暦で統一すべき」などと、多様な文化を蔑んでそれでよしとする差別主義者がIT技術者にすら少なからず見受けられるのは、あまりにも残念である。