いろいろ書くよね

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 ツイッターにいろいろ書く。

 文句めいている。

 大日本帝国とドイツ第三帝国を一緒くたにするのもなにやら腹の立つことでもある。


 愛知ナンチャラとかいう展覧会も、まあ、どうだっていいんだけどね、あんなの。

読書

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 越谷市立図書館南部分室へ仕事の帰りにひょいと入る。平土日祝問わず、21時まで開いているのはまことに有り難い。

 吉村昭の小説を借りる。「ポーツマスの旗」。

 日露戦争当時の外務大臣、小村寿太郎が主人公だ。

本日時事雑感

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ゲーム世代

 ……。

 なにしろ、攻撃型原潜だからねえ。そのうちに、「ポチッとな(笑)」とかいうフザけたノリで核戦争をおっぱじめるキチガイも出てきかねない。

いやーっ、ナイわ~……。

 いやまあ、そういう世相なんだろうけど、ナイわー……。こんなの、負け惜しみなんじゃねえの?

妬ましい

 アメリカにせよ、ロシアにせよ。……ハラ立つなあ。

 日本では戦争で倒れた世代は、世界各地を侵略し、アジア全域の女をレイプしまくったカスの集団ということになってしまっている。あまりにも悔しい。敗軍敗国は、ここまで愚弄されなければならない、ということかもしれないが、いや、まて、愚弄しているのは自分たち自身ではないか?

いやー、わからんでもないが、しかしさー……
以下引用

個人の記憶についてもう1つ言えるのは、ある個人が自分の戦争体験をよく覚えていても、それについて話さないということだ。例えば兵士であれば勝者側と敗者側の双方、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の生存者や終戦時のベルリンでソ連軍に強姦された女性たちなど、戦争を体験したたくさんの人々は当時の暴力や恐怖について語ることをしなかった。

年がたってから口を開く人もいるが、一生語ることのないまま亡くなる人もいる。後になって話し始める人たちは、自分の物語が社会に受け入れられるようになった、という共通の記憶の変化に反応して口を開くことが多い。個人とは社会的文脈の中で思い出すわけだ。

戦争を体験したことのない世代の個人の記憶も同じように構築されるが、戦争そのものというより戦争について話される物語を覚えているというように、より非直接的な記憶になる。しかし、これらいわゆる「ポスト・メモリー」も、戦争体験と同じくらい力を持ち得るだろう。

 これで集団の記憶は正しくなるよ、みたいなことを言われても……。日本の場合、もう当時の大人としての記憶を形式知にできる人は、90歳を超えちゃって、絶滅しつつあるもんなあ……。

結局、わかってないんだわ。

 これって、なんか、口喧嘩の応酬みたいなことなんだろうけど、核兵器がそういう、言葉のやり取りのアヤでちょっと間違って発射しちゃって人の2~3人が死んでどうにかなる、とかいうような、シャレで済むようなものじゃない、ってことを、やっぱり実感としてわかってないのよ、コイツら。所詮死ぬのは国民だ、みたいな。

家に置いてけよ

 人それぞれの勝手だとは思うし、事情もあるんだろうけど、どうも、この、旅先にまで犬なんか連れて行こうという、そのあたりがわからんなあ……。いや、盲導犬とか、そういうどうしても必要な場合はあるだろうし、大きな転勤、移住ってのもあると思うんだが、そうでないような、遊び半分の旅行なら、人に預けていくとか、やりようがあると思うんだが。

ハハハ、そりゃ言うまでも

 アハハハ、根拠と覚悟って、文春をはじめ、週刊誌だけじゃなくって、テレビだって新聞だって、それどころかマスコミ全部、そんな、「覚悟」なんてもの、あるわけないじゃん。ゼロだよ。

ホーキング博士追悼・続

 愛すべきところの多々あった人だったんだなあ、と改めて認識。祈冥福。

こういうの、定期的に出るなあ

 「まあ、そうだろうねえ」という感じと、「そんなの、Android自体、それそのもの全体がマルウェアみたいなもんだろ、電話番号から写真から何もかもアメリカの支配下にあるクラウドに送ってんだからさ、何を今更」という見方もあって、笑ってしまう。

ほほ~……

 ほほ~……。

あ、ノーベル賞狙い、っていう下卑(ゲビ)な見方もあるんだ?

 ……というか、ドナルド・トランプじゃなくて、金正恩(きんしょうおん)がノーベル平和賞貰ったら、もう、おかしくってハラ抱えて笑っちまうな。

美しくないねえ

 あー、ゼニカネ、ですかやっぱり。なんでもかんでも安くすれば正義、入札でさえあればオッケー、という愚かなやりかたのせいで、残すべきものが滅んでいくわけですわ。

読書

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 昨日図書館で借りた「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」を読み終わる。

 「旧唐書」はこれに先立つ魏志・後漢書・宋書・隋書などをまとめて引用し、多少新たな事項を付け加えているだけのような印象だ。

 「宋史」では日本僧・奝然(ちょうねん)によりもたらされたらしい神代から円融天皇までに至る歴代と、地名などが相当正確に記載されている。「倭人条/魏志/三国志」(つまり魏志倭人伝)の日本についての記述は不正確で疑わしく、地名や人名、日本書紀の記述との一致を探すのに相当苦労しなければならないが、そこのところががらりと違う。

 「元史」では二度の元寇について触れられているが、日本側での記録と違い、意外とあっさりとしか記されていない。

条約と再販制度

投稿日:

 こんなことを書いたのだが……

 ……意外に、「不平等条約と卸問屋―問屋―小売、そんなもん、何が関係あるんだ?」と問われるような気もするから、そこを記しておきたい。

  •  黒船以前の日本の「商」
    •  日本の昔の身分制度は「士・農・工・商」
    •  つまり、商人は下層というより、政府(幕府)からは税収源としては無視されていた状態。(米本位制経済なので、最重要なのは農民からの年貢。)
    •  長崎、堺などの直轄領で商人の自治が許されていたのは、身分の低さゆえの「政府からの無視」が一要因であった。
    •  ヨーロッパ等では貿易や侵略から富を得るために商人はなくてなはらない存在で、政府から重要視され、大商人は貴族に肩をならべていた。つまり、日本とは真逆。
    •  この「無視」のせいで、日本の商人たちは幕府から過剰な干渉をうけることがなかった。そのため、逆に商業制度をのびのびと発展させることができた。
    •  日本の商人は江戸時代にはすでに銀行制度や通信制度を独自に発達させ、全国統一相場なども持ち、先物市場すらあった。度量衡や家屋の寸法まで、関西関東のちがいはあるにもせよ、全国規格化されていた。同じ時期のヨーロッパには、まだそんなものはないか、幼稚なものしかなかった。銀行制度だけは、イギリスのものがまさる。
    •  同じ時期のヨーロッパをはるかに凌ぐ高度な商業の仕組みを持つに至った江戸時代の商人たちであったが、悲しいかな、鎖国であったために、商品は完全に国内飽和状態であり、売り手が低姿勢になる「買い手市場」が長く続いた。これは、現在の日本の商業のサービスの良さにもつながっている。数百年にわたる鎖国が日本のサービスのクオリティを高からしめた。
    •  商品が飽和状態であったため、同じ一つのものにできるだけ多くの人がぶら下がってその利益を享受する仕組みが発達した。大問屋、卸問屋、問屋、仲卸、卸、小売…といったヒエラルキーが頑強につくられた。そのヒエラルキーのどこかにいる限りは、ものを売って食っていける。
  •  不平等条約以来
    •  黒船―開国、というのは輝かしいグローバリズムでも何でもなく、欧米白人による収奪の開始であった。
    •  関税自主権がなく、教科書に出てくる通商条約では「5%付帯条項」が厳しく約束され、5%を超える関税はつけることができなくなった。
    •  条約後、日本の貿易収支は壊滅的な赤字となった。
    •  明治維新後、明治時代を通じてこの不平等条約の撤廃について交渉が重ねられたが、米英仏蘭露独のいかなる国も日本など相手にもしなかった。その頃の5%付帯条項撤廃の条件を見ると、「キリスト教の宣教師に無条件に門戸を開く」などというのはまだしも、「すべての白人に無条件に土地の売買と相続を認めよ」「日本の裁判所の裁判官の半分以上は白人にすること」などといったキチガイのような条件がつけられており、到底飲めるものではなかった。
    •  放置すると、ほとんど無関税で流入する欧米の製品のみで国内が塗りつぶされてしまう。
    •  そこで、政府は江戸時代を通じて培われてきた、巨大な商業ヒエラルキーに目をつけた。
    •  輸入業者、超大商社、大商社、中間業者、…それやこれやを紆余曲折して欧米の商品が渡り歩く間に、またたく間に値段が上がり、その利益は国民であるところの商業ヒエラルキーの中を潤わせる。かつ、そんな高価なものに、最終消費者は「舶来は高いねえ」と見向きもしない。
    •  しかも、政府が関税をかけているのとは違う。政府が作り上げたのとは違う、江戸時代に商人がまことに民主的、自主的につくりあげた商業ヒエラルキーに乗せるだけで自然に値段が上がっているのだから、欧米列国はこれに文句をつけることができなかった。
    •  日露戦争を経て、大正時代に不平等条約が撤廃されるまで、この密やかな抵抗と工夫は功を奏し、国内市場と産業を十分に育成することができた。条約撤廃時、十分な競争力が日本には培われていた。戦前、日本製の自転車が世界市場を席巻し、イギリス製の自転車を市場から駆逐し去ってしまったのだが、これは最近の自動車市場の状況に似ている。自転車の貿易摩擦はイギリスの怨恨となって沈潜し、太平洋戦争の遠因ともなった。
  •  時間をポンと飛ばして、現代
  •  今でも、アメリカ人はことあるごとに「日本の商業習慣は古臭く、中世的で、効率的でない。もっと開かれたビジネスをすべきだ。」と言っている。

じゃかましいわ!!(笑)

 さて、ここまで見てきてから、ネットでの商品流通を見てみる。

 ネットでの流通は、中間段階の利益取得を最小限にするから、売り手はたくさん儲かるし、買い手は安く買える。つまりこの逆である。そのかわり、ひとつのものにぶら下がって食っていける人は少なくなる。就職氷河期などというが、こうしたことも無関係ではあるまい。

(この記事は、当時Facebookに書いたものである。)

ボロ靴と不平等条約

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 日常をできるだけ質実剛健にするよう心がけている。身の回りのものや食べるものなどに関して、「あてがいのもの」に文句を言わないことを子供の頃から身につけてきたので、そこのところにはあまり苦労はない。

 むしろ、妻に「お父さん、晩御飯なにがいい?」とか、「シャツの色これでいいかしらん」と聞かれると、逆に困ってしまうのだ。若い頃はつっけんどんに「そんなもん、何色でもエエ」みたいな答え方をしてしまっていたが、今は「そうさなァ、黒のほうが歳相応じゃないかな」くらいの好みは言うようにしているので、無駄に妻をふくれさせることは昔に比べて少なくなった。

 靴なども一度買うと、破れて指が出てしまうほど履きつぶしてしまう。前革と底が漫画の浮浪者みたいにパックリと口をあけたのを履いたまま靴屋に飛びこんで新しい靴を買い、店員さんが顔をしかめるのにもかまわず古いほうをグイと渡して、「コレ、捨てといてください」なぞと、そんな靴の替え方も一再ならずやった。めったにないこととは言うものの、 あんな、たださえ異臭を漂わせる乞食じみたブツを始末させられるのだから、うら若い靴屋の店員さんもたまったものではなかったろう。

 今、数年前にそんな買い方をしたホーキンスの「トラベラー」という靴を毎日履いているのだが、これがなんとも良い買い物であった。6千円ほどのお安いところだったのだが、薄手なのに本皮、縫製もしっかりしており、内側外側、今に至るもほつれも破れもない。こういう製品はめったにないものだ。

 さすがに、踵や底はやわらかく作られているので激しくすり減り、踵は斜め45度にくっきりと削れあがり、前の方は「スリックタイヤ」(笑)の如き様相を呈してきた。丁度梅雨どきだ。雨に濡れた駅のタイルでツルツルすべるのには閉口もする。大方4年は履いたのだから、モトはとれている。他の部分はなんともなくても、さすがに買い換えようかなという気持ちに傾いてもくるのである。

 しかし靴屋に行くべく腰を上げるのが億劫で、なんとはなしに躊躇していた。ネットでぼんやり同じ靴を検索してみると、こんなこと一つとっても「ショウウィンドウ化」の実例はさながら手に取るがごとし、である。すなわち、ABCマートのページでは8千円ほどで直接販売している。しかも、店頭と違って品番で欲しいものが探せる。しかも安いと来ている。

 外へ買い物に出かけたところで、店頭でサイズと形を合わせて、品番メモって、店を出てタブレットかスマホでポチれば、手ぶらで帰れるし翌日には家に届く、というわけである。しかも条件によっては送料も無料、値段は店より安いのだ。

 小売業というのはたいへんなものだ。これではネット方面のチャンネルにうまく手を出しておかないと商売あがったりである。こんな消費者の行動に振り回されなきゃならんのだからたまったものではないだろう。こうして、デジタルに飲まれて後手後手で小売業界も再編されてしまう。

 これを、もろ手を挙げて賛成ばかりしておれないのは、私のような商業や流通のことに詳しくない者にも知れきったことだ。

 日本は、江戸・明治の不平等条約時代このかた、一つのものを何度も何度も再販する多層流通の仕組みの保持により、関税をかけずに国内市場を保護し育成することに成功した。これは言うなれば政治・外交の離れ業(はなれわざ)であった。この社会に根付いた習慣を上手く運用し、現在の大経済立国を可能ならしめたのである。

 まあ、その代わり、私などが子供の頃は、モノは大変高かった。大人になってからしばらくしてもモノは高く、この前捨てたソニーの14インチのテレビだって、20万以上したもので、薄給の私はボーナスをはたいてそれを買い、とても嬉しく、大切に使ったものだ。今20万払ったら、どんなでかいテレビが買えることか。

 そんなことからよくよく考えると、あてがいのものに対して文句をあまり言わないという私の従順な消費性質は、古い再販流通の仕組みなどがもたらしていた高度成長期のゆるやかなインフレによって作られたのかもしれないぞと思い当たる。

 TPPなんていうのはまたしても経済の黒船みたいなものなのだろうが、明治のひとびとが古い再販流通組織を密やかに運用して不平等条約から日本の経済を防御したように、だれか賢い人が上手にTPPの不利を避けてくれればいいんですがねえ。

(この記事は、当時Facebookに書いたものである。)

野見(のみ)宿禰(すくね)

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 さて、なんとしても、「野見(のみ)宿禰(すくね)」の話を書き留めておかねば面白くない。日本の総合格闘技「古式相撲」の創始者として知られるが、それ以外に実は、多くの人に知られていない話がある。それを不肖・佐藤の現代語訳で、ここに書きとめておく。底本は岩波文庫「日本書紀(二)」(ISBN4-00-300042-0)(著作権消滅)である。

「野見の宿禰」~日本書紀より~
(現代語訳・佐藤俊夫)

 垂仁(すいにん)天皇が即位されてから七年が経った秋のこと。垂仁天皇のおそばに仕える者たちが

当麻(たいま)村にものすごく強い格闘家がいるそうです。この人の名は当麻(たいま)蹶速(けはや)と言うそうですが、この男の強いのなんの。牛と戦って角をへし折り、鋼鉄でできた太い鉤を、素手で真っ直ぐに伸ばしてしまうと噂されています。いつも回りの人々に、『あちらこちらと歯応えのある奴を探しているが、俺より強い奴はどうもいないようだな、ふん。俺と互角の格闘家と、生き死にに関係なく、全力で戦ってみたいものだぜ』などと豪語しているようです。」

と、申し上げた。

 垂仁天皇はこれを聞き、

「ほう。当麻の蹶速はそれほどに強いか。天下一の格闘家と申すようだのう。……どうだろう、当麻の蹶速の相手ができるような者は、国には他におらぬのか?」

と臣下たちに言われた。ある大臣が進み出てきて、

「私が聞き及んでおりますには、出雲(いずも)に名の知られた格闘家がおります。『野見(のみ)宿禰(すくね)』という名だそうです。ためしに、この人と当麻の蹶速に試合をさせてみてはどうでしょうか。」

と申し上げた。すぐに、(やまと)一族の先祖と言われている長尾市(ながおち)が出雲に使いに発ち、野見の宿禰を呼んできた。野見の宿禰はすぐに都にやってきた。

 さっそく、当麻の蹶速と野見の宿禰の試合が行われた。

 二人は向き合って立った。

 それぞれ、蹴り技で戦い始めた。

 大変な蹴り試合になった。当麻の蹶速は肋骨をへし折られた。ひるんだところを、野見の宿禰の(とど)めが容赦なく襲った。腰骨に踏み蹴りが決まり、当麻の蹶速は腰骨を粉砕されて、その場で死んでしまった。

 当麻の蹶速の領地は召し上げられ、すべて野見の宿禰に与えられた。

 このことがあったため、野見の宿禰の領地の村には、「腰折田(こしおりだ)」という地名が残っている。

 野見の宿禰はそのまま、垂仁天皇の臣下となって、そば近く仕えることになった。

 それから二十年以上が経った。垂仁天皇の弟の、倭彦(やまとひこ)(みこと)が亡くなった。桃花鳥坂(つきさか)に葬ったが、その折、倭彦の命に仕えた者たちが数多く呼び集められた。

 呼び集められた者たちは、すべて、陵墓の周りに生き埋めにされた。殉死である。生き埋めにされても、すぐに死ぬものではない。昼も夜も、生き埋めにされたその人たちが泣き叫び、苦しむ声が聞こえ続けた。そして、苦しむままにその人たちは死に、朽ちて腐乱死体となった。犬や烏が死体にたかり、死肉をむさぼった。

 垂仁天皇はその声や、一部始終を聞き、大変心を痛めた。臣下たちを集めて

「いくら(あるじ)の生前に一生懸命に尽くした人たちだからと言って、主と一緒に死なせなければならないなどと、こんな残酷なことはない。昔からのしきたりかも知れないが、良くないことはたとえしきたりでも良くない。そんなしきたりに従う必要はないと思う。これからは、こんな殉死の風習は廃止せよ。」

と命令した。

 それから更に5年後(当麻の蹶速と野見の宿禰が戦ってから26年後)、皇后が亡くなった。葬るまでにしばらく時間があったので、垂仁天皇は臣下たちに

「私は以前、殉死と言うのは良くないことだと悟った。それにしても、今度の皇后のとむらいは、どのようにしたものか……」

と言われた。

 天下一の格闘家である野見の宿禰がすっくと立ち、進み出て垂仁天皇に次のように申し上げた。

「仰せの通り、主が亡くなったからと言って、人を生き埋めにすることは、私も良くないことだとかねがね思っておりました。こんなことをいつまでも後世に伝えることなど、できません。そこで、私に名案があるので、どうかお任せくださいませんか」

 野見の宿禰は使いの者を出し、故郷の出雲の焼きもの師を百人、呼び集めた。そして、自分が指揮をして、焼きもので人や馬など、いろいろな物の模型を作った。

 これを垂仁天皇に差し出し、

「これからは、この焼きものの模型を埋めることで、生き埋めの殉死の代わりにしては如何でしょうか。後世にはこのやり方を伝え残すべきだと思います」

と言った。

 垂仁天皇は大変よろこび、

「野見の宿禰よ、お前の名案は、本当に私の気持ちの通りだ」

と仰せられた。こうした焼きもののことを「土物(はに)」と言う。皇后の陵墓には、この「はに」が、初めてずらりと並べて埋められた。輪のように並べたので、「はに」の輪であることから、これは「はにわ」と言われるようになった。立物(たてもの)とも言う。

 垂仁天皇は

「これからは、陵墓には必ずこの『はにわ』を使うこと。決して生きている人を傷つけてはならない」

と命令された。そして、野見の宿禰の功績を大変褒められ、領地を下された。

 このことから、野見の宿禰は焼きもの師(土師(はじ))の監督官として任ぜられることとなった。それで、姓も変えることになり、「土師臣(はじのおみ)」と名乗るようになった。土師の一族が、後世も天皇の葬儀をとりしきるようになったのは、こうしたことがあったためである。

 このように、格闘家・野見の宿禰は土師一族の元祖とされている。


 なお、この部分の白文は、次の通り。

七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言、當麻邑有勇悍士。曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤。恆語衆中曰、於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者、而不期死生、頓得爭力焉。天皇聞之、詔群卿曰、朕聞、當摩蹶速者、天下之力士也。若有比此人耶。一臣進言、臣聞、出雲國有勇士。曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立。各舉足相蹶。則蹶折當摩蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之。故奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。

(中略)

廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彦命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彦命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域。數日不死、晝夜泣吟。遂死而爛臰之。犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷。詔群卿曰、夫以生所愛、令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。

(中略)

卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰、從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。於是、野見宿禰進曰、夫君王陵墓、埋立生人、是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰、自今以後、以是土物更易生人、樹於陵墓、爲後葉之法則。天皇、於是、大喜之、詔野見宿禰曰、汝之便議、寔洽朕心。則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰、自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地。卽任土部職。因改本姓、謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。