読書

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 通勤路の(はな)皐月(さつき)が盛りだ。キュッと締まった(つぼみ)も赤々と(ほころ)びた花も美しい。歩くと初夏らしく汗ばむ。紫陽花(あじさい)はまだ盛りではないが、少し雨模様の日が増えつつあって、そろそろ梅雨かな、という感じもしてきた今日この頃である。

 蒸し暑く感じることが多くなり、冷たいものや酸っぱいものがしみじみと旨い。読書しつつ、冷酒を胡瓜(きゅうり)和布(わかめ)の酢の物でやっつけるのなど、大人の男の至福と言わずして他にどう言えようか。

 引き続き読み進めつつある約60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第8巻、2作収載のうち1作目の「論語物語」(下村湖人(こじん)著)を往路の通勤電車内で読み終わる。

 論語を題材にした二次創作、フィクションと言えば言えるが、基底にある論語は著者によってありのままに理解され、わかりやすく組み立て直されていながら、論語の魂は損なわれることなく見事な輝きを放っている。

 著者下村湖人は名作「次郎物語」の著者でもある。下村湖人の代表作はどれかと(ひと)()わば、「次郎物語」か、この「論語物語」かと論を二分するそうで、読者の幅広さで言えば「次郎物語」に、読者の深さに着眼すればこの「論語物語」に、それぞれ軍配が挙がるように感じられる。

 次は「聖書物語」(H.ヴァン・ルーン著)である。私は聖書については子供の頃から何度も読み、味わってきている。その聖書を、さながら前読「論語物語」のように噛み砕き、組み立て直したものと思えば多分間違いではあるまい。

 著者ヴァン・ルーン本人による「まえがき」をたった今読んだところであるが、ハナっから、なにかもう、ゾクッとするものを覚える。

イランと胡乱(うろん)

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 このところパリサイ(びと)の地方がきな臭い。……などと書いてみる。

 聖書にはよく「パリサイ人」という言葉が出てくる。これは「ペルシア人」の古い読み方だそうだ。但し、聖書で言うパリサイ人というのは厳格なるユダヤ教の保守主義者の人々のことを言っていて、すなわちナザレのイエスを処刑した人たちであって、ガチゴチのユダヤ人のことであるから、ペルシア人とは全く異なる。

 ともあれ、聖書の時代にはイスラム教はまだ成立しておらず、教祖マホメットが活躍したのはナザレのイエス入寂(にゅうじゃく)後600年程も()ってからのことであるから、パリサイ人と呼ばれていた頃のこの人々は、異教徒と言うわけでもない。強いて言えば後世ニーチェ賛仰するところのツァラトゥストラこと、ゾロアスターの興した拝火教がササン朝ペルシアそのものであったはずである。それもこれも考えあわせ、パレスチナに連なる近隣の地方の、未分化な宗教の混沌の中に彼らもまたいたのだろう。

 ペルシア、というのも、もはや古い言い方だが、これはイランのことと思って差し支えはない。往古、漢語ではペルシアのことを「()の国」と呼んだ。これは夷狄(いてき)とか戎蛮(じゅうばん)とか言う言葉につらなる蔑称(べっしょう)で、良い言い方ではないようだ。当時の大陸文化を敏感に感じ取っていた日本では、「胡」とだけ書いて、やまと言葉で「(えびす)」という()みもあるほどである。神様の「ゑびす様」ではなく、わけのわからぬ異民族を(さげす)んで「えびす」と言う。

 だがしかし、昔の「胡」「ゑびす」という字や言葉には、なんとも言えぬエキゾチシズムへの(あこが)れも、込められていたのではないかと、私は思う。

 「胡」と言う字はIMEのかな漢字変換ではなかなか出てこないが、「胡椒(こしょう)」と入力すれば一発で出てくる。

 「胡椒」。日本料理には「山椒」、中国、特に四川料理には「花椒(かしょう)」すなわちホァンジャンがあることから見てわかる通り、「椒」は香辛料であるから、「胡椒」とは「ペルシアのほうの香辛料」とでもいう意味であろう。だが、中国から見て、産地がペルシアであろうと、はたまたインドであろうと、ともかく「なんだかよくわからない外国の香辛料」ということであって、必ずしもペルシアを指したものでもなかろうが、まあ、「あこがれ高き、遠き異国の香辛料」というほどの意味と理解しても、それほど大きな間違いでもあるまい。

 漢語にはこの「胡」がついた言葉が多い。香辛料で「胡椒」は上掲の如し、食物に「胡瓜(きゅうり)」、服に「胡服(こふく)」(呉服(ごふく)ではないので、為念(ねんのため))、楽器に「胡弓(こきゅう)」、生活起居に「胡坐(あぐら)」、住居や化粧に「胡粉(ごふん)」……等々、である。様々なものがシルク・ロードの西の方、不思議な謎の異国・ペルシアのものとして伝えられてきたのであろうことが、これらの漢語から(うかが)われる。

 「()」は、後に「()」とも読むようになった。別のエントリに書いたことがあるが、これは「漢音」「呉音」の別である。古い時代、(すなわ)ち漢の時代には「()」と読んだが、呉の時代には「()」と読んだのである。

 「胡」の字を「う」と読むとき、どうも、調子が違ってくる。「こ」と読むときには、上掲の様々な単語からもなんとはないエキゾチシズム礼讃の香りがそこはかとなく漂ってくるが、「う」と読むときの代表単語は「胡散(うさん)臭い」「胡乱(うろん)な奴」である。どちらも「怪しい感じ」「危ない、怪しい奴」の意味で言う。「胡散」は、直接には中国から見て西方の異国の、なにやら不思議の怪しい散薬(こなぐすり)を言い、胡乱とは恐らくは呉以降の時代の中近東の情勢が定まらず、不安定であったところから、「よくわからない危険さ」などを言うのだろう。

 さてこそ、今日(こんにち)のことを思う。私はイランという国が好きなのだが、ウクライナの旅客機など誤射撃墜して世界に詫びているようでは、どうもいただけない。これぞ「胡散(うさん)(くさ)く」「胡乱(うろん)な……」国、と言われても致し方あるまい。

 こんなことからして、またしても中東がきな臭いようだ。「きな臭い」というのは、元は可燃物の焦げる臭いよりする火事の前兆から転じて、一発撃った硝煙の臭いのことを言う。

 皆さんは、硝煙の臭いを嗅いだことがあるだろうか。普通の人は、硝煙の臭いなどあまり嗅いだことはないと思う。往古の「糞便の臭いのする」硝煙も、また臭いは異なる。花火の臭いともまた違う。現代の銃火の(にお)いは、酸の臭いのまじる、化学性の、快からざる臭いである。

 何にせよ、「胡の国(イラン)胡散(うさん)(くさ)い事件を起こしてしまい、胡乱(うろん)で、きな臭い」なんぞと書かれては、どうにもこうにも情けないことであり、道徳きびしき清潔の国にしては、恰好がつかない。

 ホメイニ氏により米国の(くびき)を逃れて復古を果たした誇り高きイスラムの独立国よ、本来の静謐で信心深い人々に戻り、正義を掲げて、しっかりしてほしい。

Today’s drinking and snacks 今日の酒肴・木の芽しらす

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 改元を寿ぐ。一夜明け、まことに良い晩春のみぎり、である。

 しらすを木の芽醤油で和え、一杯やった。

 木の芽は近所に住む姑の家の庭にひとりでに生えたものだ。それを、今の時季になるといつも分けてくれる。

 例によって動画に撮り、YouTubeに上げた。

 飲んでいる酒は、いつもとちがって「都ほまれ」という銘柄だ。いつも行く近所のウェルシアではなく、少し離れた「ベルク」というスーパーで買ったものだ。

 読んでいる本は、引き続き平凡社の50年前の古書、「世界教養全集 第1巻 哲学物語」(ウィリアム・デュラント著)である。

Today’s drinking and snacks 今日の酒肴・梅肉胡瓜椎茸

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 読書しつつの酒肴動画、だんだん作るのも手馴れてきた。

 今回は胡瓜と椎茸を梅肉で和えて一杯やった。旨かった。

 動画の中で飲んでいる酒は、あいかわらず「会津ほまれ からくち 米だけの酒」である。

 動画の中で読んでいる本は、引き続き「世界教養全集 第1巻 哲学物語」(ウィリアム・デュラント著)である。

Today’s drinking and snacks 今日の酒肴・肴三品(2)

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 梅肉と山葵(わさび)、味噌と胡瓜で一杯やり、動画に撮ってYouTubeに上げた。

 動画内では、前回に引き続き吉田満の「戦艦大和ノ最期」を読んでいる。部分を抜粋して朗読している。

Today’s drinking and snacks 今日の酒肴・肴三品

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 肴を三点皿に盛って呑むところを動画に録り、YouTubeに上げた。

 今日は12月8日で、大東亜戦争の開戦記念日、真珠湾攻撃の記念日だ。それで、動画の中では山岡荘八の「小説太平洋戦争」第1巻を読んでいる。

Today’s drinking and snacks 今日の酒肴・めかぶと胡瓜

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 めかぶと胡瓜の肴を作って呑み、YouTubeに動画を上げた。

 動画の中でつげ義春の「無能の人・日の戯れ」を読んでいる。だいぶ前に買った文庫本だが、長いこと、繰り返し何度も読んでいる。

梅雨入り前

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 梅雨入り前は好日が多くて好きだな。

 そろそろ雨も多くなって来るだろうが、今はまだ晴れが多い。今日など青天白日、多少暑いが爽やかな風に雲が乗り、処々の植栽に皐月花(さつき)が紅い。空の紺碧、雲の白さと黒さ、花々の彩々(いろいろ)、万象の色がくっきりと際立っていて、良い。

 卯月(うづき)というと4月のことだと学校でも習うが、本来()の花は今時分に咲く。卯の花の花期は旧暦の四月だからだ。今日は旧四月二十三日、それこそ

卯の花の、匂ふ垣根に
時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす、夏は()

……と鼻歌のひとつも漂い出ようというものである。

 ただ、近所にウツギ(卯の花)の植栽をあまり見かけないのは、この歌とこの時季にかけて、多少残念ではある。

 一日というもの金も使わず、あまり食わずに過ごす。働かない休みの日にガツガツ食ってしまうと、肥満していざと言うとき存分に働けなくなるから、そうしている。

 かわりにコーヒーや茶など飲んでいる。朝、氷を詰めた保温ポットに直接レギュラーコーヒーをドリップしておくと、昼を過ぎても冷たいコーヒーが飲めるので都合が良い。豆に凝るほどの余裕はないので、その代わりに丁寧にドリップする。

 黄色く暮れてくると、表でまだ喋っていた小さい子供たちの声がまばらになってくる。今日の飲み代でも(もと)めようかと屋外に出ると、家々の窓からいろいろな料理の匂い、油の匂いや、わさび、海苔、醤油、生姜、鰹節、昆布、中華料理風な山椒や香り菜、トマト、チーズ、諸々の匂いが漏れ出てくる。

 自転車で路地を通り抜け、よく行く薬局(ドラッグ・ストア)に着くと、店頭の品揃えも少しづつ変わっている。簾、虫除け網、蚊取り線香、レジ前に子供の水鉄砲や風船ヨーヨーのセット、食品の棚にはゼリーやチューペット・アイス、(わらび)餅などが並んでいる。目当ての酒棚の(そば)には瓶ビールにチューハイ、割り料のソーダなど、時分向けのものが少し増えている。

 飲み慣れたウィスキーの安いやつをひと瓶、無造作に買って帰る。

 日永(ひなが)であるが、この(ようや)くの暮れ加減に冷蔵庫から氷の塊を取り出し、アイスピックを使ってカチワリを作る。グラスに放り込み、今需めてきたウィスキーを注いで一杯やるのなど「これ以上の幸せはどこにあるか」と言いたくなるほどのものだ。

 妻が夕餉に小鉢を並べると、それが酢のものだったりして、これも今の時季の楽しみの一つである。だいたいにおいて男は酸っぱいものを好まぬもので、私も長いことそうだった。ところが、妻に言わせれば誠に身勝手なことに、亭主の飲み食いの好みなんて次第に変化してしまい、胡瓜、水雲(もずく)海月(くらげ)、大根、わかめ、また他に、セロリとかレタスにレモンや最近流行のシークヮーサーの汁をかけまわしたのなど、「旨いなあ」としみじみ目をつむってしまうようになったのだから、変われば変わるものだ。

 好日はさっさと寝てしまうにしくはない。夢でまた誰かに会うだろう。人気商売で口を糊しているわけでもないから、いわゆる日曜ゴールデン・タイムのニュースもドラマも、私にはかかわりがない。