自分と季節の邂逅

 同じ季節に同じ季語で()んだ自分の過去の俳句を見ていて、どうも私は変わり映えがしないなあ、と思う。

 なのに、その時の私は、やはりそこに写し取られている。

 季節は千古不易に何度も巡ってくるが、今日の汝は今日しかいない、汝をこそ見よ……と、誰かに耳元で(ささや)かれたような気がした。

 しかし、観念を直接詠むのは普通の俳句ではない。

 一方、季節はよほどの長寿の人でも、せいぜい100回程しか来ない。たった100回の春、たった100回の桜の開花なのである。

 それを惜しむ、ということなのだろう。惜しむ気持ちを直接文字にしては駄目で、自分の見たものを文字にしたら自然とその目線が写し取られているのがよい。

 悲しくても惜しくても、「悲しい」とか「惜しい」とかいう言葉を使って詠まないことだ。

忠魂碑と梅と目白

 近所に忠魂碑がある。

 目立たない場所にあるが、私の家から駅までの通り道にあるので、いつも早朝にその前を通る。朝早くから遺族会員らしい年配の方々が黙々と手入れをしておられる。

 敷地の柵の(そば)がごみステーションになっているのはいただけないが、それでも四季折々の花が植えられ、静謐な鎮魂の場、あるいは武勇の顕彰の場らしく荘厳(しょうごん)されている。

 今の時季は幾本かの梅が、香りも(ほの)かに、やさしく咲く。

 今日も出かけるついでに忠魂碑前を通りかかった。ふと見ると、それらの梅に2羽の目白が来て蜜を吸っていた。2羽交々(こもごも)、いい声で鳴いている。

 これは春らしくて面白い、と思ったので写真に撮った。

 しかし、何分小鳥のことでじっとしていず、撮りにくいこと撮りにくいこと。何度もシャッターを切って、やっとものにした。

秋らしくなる

 近所の百日紅(さるすべり)が散り始めた。立秋からひと月も過ぎれば、初秋が仲秋にかわり始める。三()九十日の花が散るのも、(けだ)(うべ)なるかな、である。

 名月にはもうひと月待たなければならないが、今日はひと月前の「居待月」、旧暦七月十八日だ。

 今朝は曇り模様だったが、昼から秋らしい空が広がり、まことに良い午後になった。

 少し気分も晴れ晴れとする。週末のこととて、楽しく帰宅してみると、東から居待月らしい、明るく、大きな月が上ってくる。

 全く秋はのんびりとして、良いものだと思う。なんと言っても、月が良い。
 

立待

 今日は旧暦五月の立待月(十七夜)である。立待月は狭義には旧暦八月の十七夜のことで、仲秋の名月の二夜後だが、広義には普通の十七夜のことをこう呼んでもよい。

 気象庁から「梅雨入りらしい」という発表があったのは先週のことだが、暦の上の「入梅」は今日で、名実ともに梅雨入りしたと言えるだろう。

 それにしても雨が降らない。今のところ空梅雨らしい。一昨夜も昨夜も晴れて、夕方には月が綺麗だった。昨夕など気圧が下がったか、水の匂いがして風向きが変わり、遠雷が聞こえ、頭上に積乱雲が成長する気配すらあったが、結局私の周囲には雨は降らなかった。その後晴れて、暑い夜になった。

 こんな夕方には明るいうちに風呂をつかうにかぎる。

 さっさと汗を流したら、冷蔵庫から氷の塊を出してカチワリをたくさん作り、ウィスキーを飲むのが良い。飲み慣れたバランタイン、ひと瓶千円しない。風呂上がりに飲むなら、(つまみ)も水もいらないや。

 あちこちの植栽の、花皐月(さつき)のよっぽど遅咲きのものもそろそろ(しお)れた。少しすれば盛夏、ある意味また別れと出会いの季節である。

天気もよく

 梅雨の前触れか、このところ土日には天気がぐずつくことも多かったが、今日は久しぶりに真っ青な空が広がった。空気も澄み、涼しい朝である。

 ぶらりと散歩に出る。花皐月の花季ももう終わろうとしている。コーヒー屋で本を読んだりする。

 昼過ぎ、新橋に出かける。中央線秋葉原までは定期で行けるので、秋葉原から山手線で4駅だ。行き先は言わずと知れた「虎ノ門・大坂屋砂場」である。

 珍しく1階奥の席に通される。

 武原はん女の句であろうか、扇面色紙に「舞ふ人のはやも()寿の春なりし」とある。

 いつものように焼海苔で「澤乃井」を一合。今日はなんだか気分が良く、もう一合飲む。

 それから「もり」を手繰る。

 日比谷公園の方にブラブラ歩いて行って見ると、なんだか「ビール祭り」のようなことをしている。数えきれないくらい様々な銘柄のビールの露店が出ていて、老若男女が大きなグラスやジョッキで楽しんでいる。

 後で調べてみたら、「オクトーバーフェスト」という催しで、本場ドイツと提携して本格的にやっているようだ。

 私も交じって、青天白日の下、「ヴァイエンシュテファン」のピルスナーを一杯。

 公園北側にある元公園事務所の茶寮で結婚披露宴をしている新婚夫婦がいた。いい天気で、花嫁のドレスが青空に映えていて、美しかった。へえ、ここでこういうこともできるんだな、と知った。

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 もう終わりかけではあったが、薔薇園の薔薇を眺めて帰る。

近所と俺の叙景

img_4920 良い天気の週末だった。近所の植栽の柿が赤い。

 秋晴れ、……と言いたいところだが、既に立冬は過ぎており、暦の上では今は冬である。秋晴れとは言わず、「冬麗(とうれい)」「(ふゆ)うららか」と言うべきものだろう。また、もはや「小春日和(こはるびより)」と言ってもよい。
 

 先週、晩秋のさえずり季題当番が回ってきたので「柚子(ゆず)」を出題した。柚子は秋の季語だが、それでいて、実際に美味しくなってくるのは冬だ。秋とも冬ともつかぬ端境(はざかい)のこのごろには丁度良いと思って出した。

 次をどなたに回そうか、と迷った末、 @boubun さんにお願いした。何を出題なさるかな、と楽しみにしていたところ、「紅葉散る」の見事な出題である。

 この「紅葉」に関する季題を選ぶのは難しい。(わきま)えておかなければならないことがあるからだ。すなわち、「紅葉(もみじ・こうよう)」「黄葉(こうよう)」、また俳句特有の「紅葉(もみじ)()つ散る」は秋の季語だが、「紅葉散る」は冬、就中(なかんづく)初冬の季語なのだ。晩秋から初冬の微妙な季節感がここには横溢している。

 その点、 @boubun さんの選択はまことに良かったと思う。

img_4924 そんなことを考えつつ、陽の高いうちから一杯やる。もはや俳人にもなりきれぬ廃人である。

 飲むうち、ふと違和感を覚える。長年、意味のない文字列なら無限に出力できる特技があったのだが、なんだか、最近文章が変になってきたし、書いていて詰まることが多くなった。喋っていても単語が出てこなかったりする。

 何か、脳に問題があるのだろう。いわゆる「郵便的伝達物質」が減っているのだと思う。

 因みに「俳人」というのはもともと「廃人」の意であるという。

秋の雲

 仲秋だというのに昼の間の雲は文字通りの入道雲で、ともすれば下品に、むくむくと無闇矢鱈に大きかった。それが、日暮れてくると脱脂綿を千切ったような絹雲となり、秋の雲そのものである。

 たまたま今年は、新暦9月と旧暦八月の日にちが一致している。今日6日、来週の15日木曜日が旧八月十五日で、「中秋の名月」だ。だが、天文学上の望は、この二日後、17日だという。

 花の季節が終わったなあと思う。紫陽花(あじさい)はまだ咲き残っており、美しい株もあるが、もう長くない。

 梅雨が明ければ百日紅(さるすべり)がそこここの庭に咲きはじめる。

歳時漫筆

 三夏(さんか)九十日、という。今年の立夏は5月6日だったが、8月8日の「立秋」までの約90日を三夏というのである。三夏とは初夏・仲夏・晩夏の三つをいい、その一つ一つを約30日1ヶ月とするのだ。今日はそろそろ初夏も終わり、6月に入ればもう仲夏にかかろうかな、という頃おいだ。これを「四季」という。普段我々は「四季」という言葉を春夏秋冬の意味で慣用するが、詳しく述べれば上のように12の「四季」がある。

 この「四季」、例えば夏なら初夏・仲夏・晩夏の三つだが、これらそれぞれを上下ふたつに分け、名前をつけたものを「二十四節気」という。これは少し語彙豊富な人なら「立春」「啓蟄」「春分」といった言葉で馴染みがある。今日は5月31日、一番近い二十四節気は5月21日の「小満(しょうまん)」である。

 更に、二十四節気を初候・二候・三候の三つに分けて名前をつけたものを「七十二候」という。ここまで来るともう、一般の人にはあまり馴染みがない。中国と日本で少し付け方が異なる。

 今日は、七十二候ではだいたい「麦秋至(ばくしゅういたる)」にあたる。

 麦は暑くなるにしたがって色づき収穫期を迎えるので、夏は麦にとっては秋である、ということで、俳句では今頃の季語として「麦の秋」「麦秋(ばくしゅう)」という言葉がよく使われる。

麦の秋さもなき雨にぬれにけり  久保田万太郎
 
 俳句の季語には、秋を春と言い、春を秋と言いかえるような、洒落た言葉は他にもある。例えば「竹の春」「竹の秋」という言葉がある。竹は春に黄色く枯れ、秋に青く葉が茂るので、他の植物とは逆に言うのである。春と言っても秋の季語、秋と言っても春の季語、というわけだ。

祗王寺は訪はで暮れけり竹の秋  鈴木真砂女

 竹の秋・麦の秋、どちらも、万物いきいきと緑に萌える初夏にあって、一抹の寂寥感が感じられる言葉で、なかなか渋い。

 これらとは真逆のものを同じ夏の季語から挙げるとすると、やはり「万緑(ばんりょく)」であろうか。

万緑の中や吾子の歯生え初むる  中村草田男

なんと言ってもこの句に尽きる。初夏の生命感、人生の歓喜に満ち溢れている。

 ただ、この「万緑」という言葉、中村草田男がこの句によって取り上げるまでは、春の季語であった。出典は漢籍で、1000年ほど前の中国の詩人、王安石の「石榴の詩」の中にこの言葉がある。

万緑叢中紅一点 動人春色不須多
(ばんりょくそうちゅう こういってん、人を動かすに春色は多きを(もち)いず)

 この詩の一節自体、緑と赤のコントラストがいきいきと立ち上がって見えるような素晴らしいものだが、書いてある通りこれは春の一景なのだ。それを初夏の語として取り上げ、かつ認められたことは、まさしく「季語は名句によって生まれる」の例である。

 王安石の石榴詠は、むしろ「万緑」という言葉の出典というよりも、現代ではダイバーシティやジェンダーフリーの立場からあまり使われなくなってしまった、「紅一点」というゆかしい言葉の出典としてのほうが知られていることも忘れずに付け加えておきたい。この詩のままに捉えれば、「紅一点」は、むしろ労せず周囲をコントロールできる、たのもしい能力ということになり、良いことのように思えるが、さも差別語であるかのようになってしまったのは残念なことだ。

 さておき、中村草田男は生命の喜びをこのいきいきとした一句で謳歌したが、同じ万緑という言葉を使っても、まったく違うものもある。

万緑や死は一弾を以て足る  上田五千石

もう、こうなってしまうと、あまりの不安、自己凝視、メランコリックのために、こっちまでどうにかなってしまいそうである。私も上田五千石を勝手にリスペクトして、

万緑や我が死は何を以て足る   佐藤俊夫

……と詠んでみたことがある。

 いずれにしても、明日は月曜、新たに6月に入れば四季は「仲夏」となり、二十四節気は6月6日の「芒種(ぼうしゅ)」、七十二候は「蟷螂生(とうろうしょうず)」(かまきりが生まれること)となる。

 月曜は憂鬱で、私などとても生命力どころではないが、万緑の初夏、歓喜の盛り上がる季節はもう、こっちのメランコリーなどお構いなしに、好き勝手に流れていくのである。

春夜

 降りつのっていた雨がからりと晴れ上がると、うたた高気圧性の風に吹かれて既に桜は散りはじめている。

 市ヶ谷見附の交差点で外濠の水面をながめていると、つい足が靖国通りへ向く。

 靖国通りの桜が散る下、金曜の夜を夜桜で楽しもうというつとめ人の男女が、罪のない笑顔を浮かべて和やかにそぞろ歩いていく。

 私もふと千鳥ヶ淵の夜の花筏に心惹かれぬでもなかったのだが、去年の大鳥居から手前の喧騒が思いやられ、増辰海苔店で好物の海苔を需めて引き返す。

 五日の月がするどい筈の尖りをおぼろに鈍らせてひょいと浮かんでいる。春夜は花の匂いの底に麝香のような淫靡な香りをしのばせている。