狼狽連合

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 「希望の党」こと小池新党の、条件付き民進党議員受け入れで連合が慌てている。

 面白(オモシレ)ぇ。

 「おかしい」(神津里季生)も何も、そんなもん、小池の勝手だろうよ、ハッハッハ。もっとやれ、エエぞ小池。暴れろ。

 ひょっとするとこれは、巡り巡って「連合潰し」に繋がるかもな。

 昔、国鉄の民営化で国労組はとどめを刺されてズタズタになり、その功績をもって中曽根康弘は後に大勲位となった。

 いやまあ、共産主義者や社会主義者だって多少はいていいけど、あいつらはちょっと力をつけると、ロシア・中国・北朝鮮なんぞと通謀(つうぼう)して悪事を働きだすからなあ。雑草みたいなもんだから、潰してしまうくらいでちょうど適度に生き残る。だから、連中は弱れば弱るほどいい。それが国のためだ。労組が結局のところ共産主義へ傾くことは、どうしたって否めないんだからさ。アカなんざ人殺しと一緒だ。

 かたやの小池百合子は、ちょっと前、防衛事務次官を大(ナタ)で切り捨てるという荒業を見せつけたものだったが、まず、それぐらいの力があるな。しかもクビにしただけじゃない、刑事裁判に引きずり出して犯罪人にし、返す刀で守屋武昌の女房や娘までズタズタに葬り去ってしまった。官僚一人クビにしただけだろ、と言ってしまえばそれまでだが、いやいや、相手は普通人じゃあない、政治家なみの、指定職の官僚だからね。さればこそ、小池百合子の力量たるや。

 連合潰しで名をはせるのは、ハテ、誰でしょうなア。小池氏本人か、そこへ繋がる後の歴史か。キシシシシ……。

まあ、怒らせれば勝ち、みたいなことか

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 ……あー、なるほど。こういう奴ね……。ウラを感じる癖のついている私は、新聞に出た時から所詮はこういう方向だろう、とは思ってたけどな。

 まったく、ブン屋はまだしも、「ジャーナリスト」なんて連中にロクなのはいない。都知事選で晩節を汚した鳥越何某(なにがし)なんてのだって自ら称して「ジャーナリスト」なんだから。むしろ鳥越何某なんてのは「タレント」と言った方がいいし、この西中何某など、記者などとは言うも愚か、「活動家」でしょ。

 まあ、大臣も、ウブというか、御気の毒ですよ、ついこんなカスの挑発に乗っちまって声を荒げた、ってのは。ここはスルーしてほしかったなあ。馬鹿にまともに向き合ったってダメなんだから、ホント。忠実で言いなりの官僚に取り巻かれて日々を過ごしてると、全能感が出てきてしまって、「声を荒げりゃアイツなんか馘首(クビ)」みたいな感覚が身に付いちゃってね、こうなっちゃうんですよ。老人は特に、ね。

 思うに、カメラ回ってる時には何を言われようと柳に風というのがいいんでしょうね。何重にもチェックされた文章やデジタルメッセージで発信していくというのが、まあ、安全で新しいかもしれない。

 つくづく、今日び、ライブの言葉のやりとりなんて、もう、ダメだと思うな。不毛だよ。記者会見なんか、ブログでいいよ、もう。

 テレビ屋が切り刻んで編集しまくった映像だって、まるで今村大臣を不要物か害毒みたいに見えるような嫌な感じにしてるでしょ。

 まあ、吹けば飛ぶようなゴミ活動家にとっては、凱歌の上がる「勝ち」でしょうねえ、今回は。

リベラル

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 リベラル、というのは本来自由で物にこだわらない、闊達な立場の事を言うはずだったが、この言葉の日本的な定義はもはやガタガタに変質してしまっている。

 いまやリベラルというのは、それを標榜する人々の高齢化に伴い、コチコチに我流と狂信に凝り固まり、裏から工作し、決して異論を受け付けぬ老朽性格、全体主義的性格、独裁礼賛者の定義になり果ててしまった。

 もはやリベラルの中には自由もなにもあったものではなく、ただただ、ひたすらに屈従するだけの奴隷的人生のみが残滓(ざんし)となって浮きつ沈みつしているに過ぎない。

図書館の(そば)でデモすんな!

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 昨日、国会図書館で調べものをした。

 昼過ぎ、突然、図書館のすぐそばで政治活動のデモが始まった。図書館の窓ガラスがビリビリ震えるような大音量だ。国会図書館は国会議事堂と道路を挟んで北隣にあるから、モロに響いて来るのだ。

 迷惑である。うるさい。絶叫しているから音が割れて内容なんかわからないし、しかもそれが延々と続く。

 閲覧室で静かに調べものをしている人たちの間から、嫌なため息が出はじめた。誰に文句を言う事もできない。窓のそばの人たちは耳をふさいでいる。

 外に出てみたら、大きなコーン型のスピーカーを、こともあろうに図書館の窓に向けて、ガミガミと何か訴えている。

 政治的なことを訴えるのに、なんで図書館にスピーカー向けるんだ。

 デモの内容は何か、現政権を許さないとか「アベ死ね」とかそういうことで、私の気持ちにはなじまない。だが、それはいい。何を言おうが、主張しようが、それは自由と言うものだ。私のような右翼のオッサンと考えが違うことは、問題ではない。むしろ、どんどんいがみ合っていきましょう、とすら思う。そのほうが意見がぶつかり合って、十分議論が尽くされ、世の中が良くなるとも思うからだ。

 だが、こっちは整斉粛々と投票に行って、代議士に法律を作ってもらっているわけだ。それを、力と勢力で、しかも図書館に大きなスピーカーを向けて、勉強したり、調べものをしたりしたりしている人たちに不愉快・不快な圧力をかけ、騒音で耳をそばだたせようなどと言うのは、迷惑以外の何物でもない。

 うるさいので、「迷惑だ、うるさい」という気持ちの方が勝ち、腹が立つものだから、彼らが主張する内容にはまったく興味が向かない。参加団体の幟が乱立していたが、なんだか、よく知らない、いかにも暴力活動集団みたいな文字列が染め抜かれていたので、見たら因縁を付けられるのではないかと思い、見ないようにしたから、よくわからない。

(帰ってから確かめると、どうも、このデモだったようで、立っていた幟は何かの労組関連の幟だったように見えたが、よく覚えていない。)

 デモをするなら、もっと南側の、溜池に近い方でやればいいじゃないか。両院議長公邸や、官邸、総理府だって、ソッチにあるでしょうが。そういうことは政治家に言えよ。図書館の窓にスピーカーを向けて怒鳴り立てるなんて、非常識だろ。

 図書館を出て、赤坂の蕎麦屋へ行こうと思って議事堂前を通ろうとしたら、警備中の警察官に「議事堂前はデモで混雑していまして……。遠回りで申し訳ないですが、行って途中で引き返すことになるというのもお気の毒ですので、迂回していただいたほうが結果的に速いと思いますが……。」と言われた。デモに自分の普段の行動を邪魔されたわけで、それでますます腹が立った。

 これでは、「考えが違っても、ひとつ、聞いてみてやろう」という気になんか、ならないではないか。この連中も、「私たちの言う事を少し聞いてみてください」と、ハナっから思ってないのと同じではないか。話を聞いてもらえるような行動と態度を全くとっていないではないか。聞いてほしければ、聞いてもらえる行動をすべきなのじゃないのか。少しも聞いてもらおうという態度をとっていない者が、あべこべに「アベ一派は人の意見に耳を傾けようとしない!」などと、一体なんの戯言(たわごと)だと思って、無性に腹が立った。

飛燕とダイバーシティ

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 あることへの、ある人の感想がやり玉に挙がっている。

 上の記事に対する、まあ、どうでもいいような無名の人の、ボソッとしたツイートが右なのだが……

 これがもう、えっらい炎上っぷりである。

 私は頭の悪い好戦右翼だが、しかし、どうも、この「きむらとも @kimuratomo 」なる炎上元の人を叩く気にはなれない。

 何か、未熟で(かたく)なな、小学校高学年の生意気な女の子のような感じがするからだ。

 この人が唾のように吐いて捨てた感情は、「人間は戦争をする。だから人間は気持ち悪い、許せない。人間など滅びてしまえばよい。諸悪の根源だから」というのとかなり近いと思う。

 だが人間は、間違ったことをしながら良いことをする。人殺しが慈善活動をする例、篤志家が人を殺す例、そんなものは掃いて捨てるほど世の中に転がっている。

 悪事を働きながら、罪を犯しながら、だがその一方でまた人を思いやり、愛する、恋する、それが人間というものだ。人間は両極性を持っている、(など)と述べたのは確かユングであったか。両極性と言ってしまえばとらえやすいが、その実、極と極の間には、分別のないグラデーションのような中間帯があり、これはすべて連続している。無限の多様性が一人の人間の中においてすら、捉え切れないほど、ある。

 そんな多様性を持つ一人の人間が、1億、10億、50億と束になればどうだろう。彼らは、虐殺しながら、戦争をしながら、原爆を開発して炸裂させながら、それにもかかわらず、もう一方の手で人を愛し、神を畏れ、徳を磨き、世界を発展させるのだ。その多様性はもはや評価も批判も拒絶していると言わざるを得ない。

 大日本帝国が戦争の末期近くなって開発・投入した、この「三式戦闘機・飛燕」だって、現代の私達から見れば人殺し機械の相貌を持っていながら、実は一方では無辜の民を殺戮する悪魔の重爆撃機・B-29を打ち払ってくれる愛の帚木(ははきぎ)だったかも知れず、また同時に、立場を逆にすればその真反対、愛する夫や父が正義のために操縦するB-29に楯突く、悪魔の機械であったかも知れない。同じ機械が愛でもあり悪魔でもあるのだ。人間それ自身が善と愛であり同時に悪と罪であるように。

 言っては何だが、この人のツイートは言葉のアヤみたいなもので、どうやら医者らしいが、このダイバーシティ礼賛の世の中、医者ともあろうものが人間のそうした多様性を深く考えたことがないなどと言うはずはあるまい。きっとそういう思考を深刻に経てきた人であることは間違いない。

 むしろ医者として、これから大成するよう祈る。

ハフポスト

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 「ハフィントン・ポスト」は朝日と連携して日本では非常に浸透した。

 もともとハフィントン・ポストは、米国の保守系サイト「ドラッジ・レポート」に対抗するためにリベラルの人が立ち上げたらしい。

 これを朝日新聞が非常に支持して日本語版を盛り上げているので、まずれっきとした信頼のおけるニュースサイトになっている。

 が、その相手の「ドラッジ・レポート」に相当するものは、日本にはないなあ。ひょっとして「2ちゃんねる」か?いや、別にそれで一向にかまわんけどさ。

目的と手段など

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 災害時に大切なことは、作業着を着こみ、額に汗をして働き、困っている人を助けるということである。

 只々(ただただ)只管(ひたすら)、救助これあるのみである。

 屁理屈や不平、非難、誹謗、批判などは全く必要でない。もっと言うなら、駆け引きも人気取りもいらいないし、スーパースターのようなものは出る幕ではない。

 しかるに、そうした悪しき色彩のなんと濃く見えることか。

 災害は決して政治的な表現の場などではない。また、SNSやツイッターで政治的な発言をして楽しむお祭りなどでは、断じてない。

 自分が考えたことを発言するならまだしも、「政治的な発言をリツイートしたりシェアしたりするだけ」というような行動に首肯することは、私はできない。

 例えばある人がSNSにログオンしたとする。その画面がこうした政治的鬱屈に塗りつぶされて見えるのは、そういう性向の人ばかりフォローしていたりFBフレンドであったりするからだと思う。類は友を呼び、さながら陰々滅々のシナジーとなって黒いわだかまりが増殖していくのであろうことは容易に想像しうる。

 常々思うのだが、人間、偉くなってくるとだんだんと手段というものを軽んずるようになる。両手を使って薄汚れて働くよりも、情報だ企画だ管理だと言いたがるようになる。大工より建築士が偉いとするようなもの、基本情報技術者よりITストラテジストが偉いとするようなものである。

 極端な話、実際上もそうなのだが、建築士だけがいても家は建たない。だが、大工だけがいる場合、家は建つ。

 指揮者ばかり5人も6人も集めると、「音楽論」はできるかも知れないが、音楽を奏でることはできない。しかし、バイオリニスト一人いれば、指揮者がいなくても美しい音楽を奏でることができる。指揮者の目的は人が聴く音楽にあるのだが、指揮者だけでは音が出ないのである。

 ヘッドクォーター不要論を唱えようというのではない。指揮者や企画家、経営者でも政治家でもなんでもいいが、そういう者は、自分の活動が何によって支えられているかと言うことを忘れてはならぬということが言いたいのだ。

 トルストイは「イワンのばか」で、「頭を使って働くことが大切だ」と主張する悪魔を頭を下にして塔から転落させて見せた。無知蒙昧な農民たちは、ゴツンゴツンと頭を打ってひどい目にあう悪魔をさして、「ああ、頭を使って働くって、こんなひどい働き方なんだ、俺はごめんだね」というのである。愛あるトルストイは、頭を使って働くことこそ至上であるとするような考え方の愚かさを、文学上こうやってこき下ろして見せた。

 こう筆に従っていくと、さながら共産主義者めいてくる。どっこい、私は共産主義者ではない。トルストイの貧者へ注ぐまなざしのやさしさは、しかし、彼が実は貴族の息子であるということもあずかって大きく影響している。だからあそこまでコテンパンに悪魔を痛めつけてみせることが、自虐として許されたのだ。

 ともあれ、災害をネット祭りみたいな変なもののタネに使うのはよした方がいい。文字列には力があるが、文字列だけでは頭を使って働けと言ったトルストイの悪魔と同じだ。トルストイが悪魔に仮託した自虐によって表現したように、偉い人、企画家、管理者、政治家、経営者、そういう者にしてはじめて許される自虐によってこそ、手段のない、働きのない無為の知性が防がれる。

ローマの休日

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 先週家族と買い物に行ったとき、最近よくある著作権切れ映画の激安DVDが本屋のワゴンに並べられており、見るともなしに見ていたら定番「ローマの休日」もそこにあった。

 いつもならスルーなのだが、290円と言う値段もあり、なんとなくヒョイと買った。

 パッケージをぼんやりと眺めていたら、「脚本:イアン・マクラレン・ハンター、ジョン・ダイトン、ドルトン・トランボ」とある。

 えっ、なんだって?トランボ!?

 トランボというと、反骨の脚本家で有名だ。共産主義者だから私とは相いれないが、だが、その廉直と苦労の人生にはとても魅力がある。もうだいぶ前だが、週刊「ヤング・ジャンプ」連載の漫画、「栄光なき天才たち」に載っていたから知ったのだったか。だがたしか、その頃、名作「ローマの休日」の脚本家がトランボだとは、聞いたことがない。

 ググッてみると、なんと、トランボ死後およそ20年も経ってから、実はローマの休日の脚本はトランボが書いたものだと判明し、名誉を回復されるとともにアカデミー賞が贈り直されたのだと言う。平成5年に判明したというから、私が知らないのも無理もない理屈だ。

 のんびりと見始める。オードリー・ヘップバーンの美しさ。

 15分、窮屈な儀礼に泣き出してしまい、御用医師から鎮静剤を打たれたものの、一世一代大冒険、トラックの荷台に跳び乗って逃げ出す王女。

 18分、睡眠薬でグダグダの王女と新聞記者の出会い。

 24分、困惑するタクシーの運転手と新聞記者。

 27分、だいぶきわどい新聞記者と王女。

 30分、あくまで紳士の新聞記者(笑)。そして皇室は騒動。

 32分、ウソがマズいことになる新聞記者。

 37分、編集長に難詰されるうち、真相に気付いて大慌てする新聞記者。

 57分、けっこう楽し気に下町をうろつく王女。あとをつけつつ、逆にオロオロしはじめる新聞記者。スイカ持て余してるのが変。美容院。

 70分、ライター仕込みのカメラ。コロシアム。

 75分、王女様バイクで暴走。警察騒ぎ。

 78分、真実の口。

 83分、船上パーティ。

 88分、黒づくめ殺到、乱闘騒ぎ。

 91分、ビショ濡れ、チュー。

 94分、カワイイなあ、ヘップバーン。

 98分、お別れ。

 106分、傑作写真の数々。

 116分、立ち尽くす新聞記者。

ええぞ、言え言えwww

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PHM01_0024 ついにはシロアリ呼ばわり。

 俺も社会主義者や共産主義者なんか嫌いだが、さすがに「シロアリ」とまでは言わんなァ、ぎゃーっはっはっは。嫌われてる者同士、もっと言え、言え、ツブし合えw。

フォン・ブラウン略伝

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 フォン・ブラウン(正しくはヴェルナー・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル・フォン・ブラウン Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun という名前だそうだ)はロケットの父として有名だ。少年時代からロケットづくりに打ち込み、ついには人類を月面にまで送り込んだ稀代の技術者である。

 その人生は劇的で、記すに余りある。

 フォン・ブラウンは、明治45年(1912)、プロイセンの男爵家に貴族の子として生まれた。

 少年時代はガラクタを収集してはこれにロケットを取り付けてぶっ飛ばすという、世界中の多くの男性が身に覚えのある、工学少年を地で行く子であった。廃品置き場から自動車の壊れたのをくすね、これに火薬ロケットを取り付けて点火、爆走するガラクタは八百屋の店先に飛び込んで騒ぎになり、賠償だの父の仕置きだの、大変な少年時代だったという。

 その一方で、堅信礼(コンファメーション)(子供の宗教的な節目で、無理に例えるなら七五三とでも思えばよかろうか)のプレゼントに貰った天体望遠鏡で星を眺めては、宇宙に思いを馳せる思惟的な一面のある少年でもあった。

 算数が苦手な彼だったが、中学生の頃、「惑星空間へのロケット」という本に出合う。この本に載っている方程式を理解できなかった彼は、教師の勧めに従い、一転、数学に打ち込むようになった。はじめ「数学不良点」の評価であったにもかかわらず、1年間一心不乱に数学に打ち込んだ結果、教師の代役で数学の授業を受け持つまでに至った。

 勉強の甲斐あって学校を繰り上げ卒業したフォン・ブラウンであった。第1次大戦の敗戦後の復興期にあたるこの頃、ドイツにはSF小説などの影響で一種の「ロケット・ブーム」が到来しており、「ドイツ宇宙旅行協会」なる団体が結成されていた。「ロケット」という雑誌がこの協会から発行され、人々の夢をかき立て、実際に小さなロケットを組み立てて発射することが行われていた。これは今の「メイキング・ムーブメント」にも少し似ている。

 フォン・ブラウンはまだ高校生なのにこの協会に入会し、級友たちを糾合して手作りの天文台を建設するなど、活発な青春時代を送った。この頃、ある公開実験の説明スピーチで、彼が「皆さんが生きている間に、人間が月面で仕事をするのを見ることができるでしょう」と言ったとする記録があるという。

 ところが、不況のため、こうした趣味のことはあまり自由にはいかなくなっていった。日本でいえば昭和ひと桁、1930年頃のことである。この頃、フォン・ブラウンは周囲に「もう、陸軍の援助を貰うしかないかな……」と漏らしている。すでに戦争の世紀なかば、世界のいかなる国も、莫大な予算を使えるのは軍隊のみであった。

 不況のために学費もままならず、貧乏学生となった彼は、それでも余暇のすべてをロケットづくりに打ち込んでいた。いつの日か、幼い頃からの確信、宇宙旅行を実現するためである。

 貧しいため、学費を稼ぐのにタクシーの運転手をするようになった彼は、ある日声高にロケット談義をする二人の客を拾う。客どうしの論議についくちばしをさしはさんだフォン・ブラウンだったが、この客たちこそ、リッター・フォン・ホルスティヒ大佐と、ヴァルター・ドルンベルガー大尉の二人で、陸軍のロケット開発の中心人物たちであった。

 「君、明日、参謀本部へ来て、ちょっと話を聞かせてくれないか」

 運命の出会いである。

 フォン・ブラウンの話を聞いたドルンベルガー大尉は、彼の上司のカール・ベッカー大佐を連れて協会を訪ねてきた。軍と宇宙旅行の利害は急速にその辻褄を整えていった。

 この頃、ドイツは敗戦による厭戦気分の只中にあった。「軍隊の援助など……」と、宇宙旅行協会の人々が軍との関係を嫌うのは当然である。今の日本でも、あらゆる科学技術は軍事への応用を嫌う。この頃の敗戦ドイツもそれは同じだ。ところが、フォン・ブラウンは決然として軍と手を結ぶ。20歳の若者のことだ。夢のためなら思想的な頓着などどうでもよかったのであろう。

 はじめ難航し、陸軍も渋い顔をしたロケット開発だが、フォン・ブラウンの熱情は怯まず、何度目かのロケット実験はついに成功した。A-2と呼ばれるこのロケットの成功で、陸軍から多くの予算を引き出すに至る。昭和10年(1935)頃のことだ。

 こうして貧乏なロケットマニアの学生は、一躍ドイツ陸軍の隠し財産となったばかりか、空軍からも注目され、破格の予算が与えられたのである。フォン・ブラウンは、水を得た魚のようにロケット開発にいそしむことができるようになった。

 フォン・ブラウンの母、エミーからヒントを得て、後世知られる僻村「ペーネミュンデ村」というところに、ドイツのロケット開発の本拠が設けられた。

 しかし、彼の思いと戦争は表裏一体である。軍の目的は兵器を開発することであり、宇宙旅行とは違う。彼もまた時代の子であり、古今未曽有の兵器「弾道ミサイル」の開発に自分の夢を仮託せざるを得なかった。

 科学技術に優れたドイツは、大戦前・大戦中を通じて、驚くべき技術開発を行っている。既にテレビ放送があり、お料理番組などが放映されていた他、街頭公衆テレビ電話などという信じられない物までベルリンの街なかにはあった。電子顕微鏡も既にこの頃ドイツで作られている。もちろん、軍でも今日(こんにち)の地対空ミサイルの原型など、多くのものを開発していた。さまざまな無人兵器も開発されていたが、その中の一つに、今日(こんにち)の「巡航ミサイル」のさきがけ、「V1」がある。

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米国アラバマ州ハンツビルに展示されているV1号

 V1は無人の有翼機で、パルスジェットエンジンにより時速600kmで飛行する。対気速度を積分して飛行距離を測定し、敵国の上空に達したと判断するや、自動的に落下して、1トン近く積んだ多量の爆薬により大被害をもたらす。

 古今未曽有の新兵器ではあったが、無人で、自律式、慣性誘導のいわゆる「打ち放し」方式であるため、敵の戦闘機に迎撃されてしまうことが防げない。多くのV1はイギリスの名戦闘機「スピットファイア」に追撃され、あるいは高射機関砲による対空砲火で撃墜された。

 ところが、ロケットにはこうした欠点がない。ロケットは垂直に打ち上げれば、戦闘機などが追及可能な高度をたちどころに突破し、上空数万メートルの宇宙空間にまで達することができる。自由弾道をもって落下し、再び戦闘機や高射砲が効力を持つ大気圏内に入って来た時には、その速度は音速の数倍から十数倍にまで達し、空気との摩擦によって赤熱しつつ、落下音よりも先に地表に達して炸裂する。これを巧みに制御して敵地に落下させれば、度を外れた高速のため、火器によっても戦闘機によっても迎撃は不可能である。

 これが「弾道ミサイル Ballistic Missile」の本質だ。現代においてなお、安全保障上私たちを悩ませる弾道ミサイルの脅威は、すでにしてこの頃、科学技術に優れたドイツと、夢に憑かれたフォン・ブラウンによって構想・実現されていたのであった。

 しかもなお、当時は「加農(カノン)砲」と言われる大砲が長射程火力の主流であり、この砲はベルサイユ条約によってドイツには保有数に制限がかけられていた。だが、条約には、その頃存在しなかった兵器である「ミサイル」については触れられていない。つまり、ロケットによる長射程火力は、条約の抜け道でもあり、陸軍にとって都合がよかったのである。

 なればこそ、ドイツ陸軍はフォン・ブラウンの開発するロケットに大いに期待した。

 昭和17年(1942)に発射に成功したロケットは高度8万5千メートルに達し、190キロメートル彼方のバルト海に狙い通り落下した。電波誘導システムを備え、液体酸素冷却装置、ターボポンプなど、近代的ロケットが備えるべきすべてを備えていた。

 少しばかり成功した技術には、虫のように権力者が群がる。武装親衛隊や空軍が群がってきて、彼の技術獲得のための駆け引きが始まった。とうとう、どうにもならぬ成り行きのどさくさに巻き込まれ、フォン・ブラウンはゲシュタポに逮捕され、収容所に放り込まれるという憂き目まで見た。しかし、この危機は、大尉から順調に少将にまで栄進していたドルンベルガーの働きによって回避され、なんとか釈放された。ドルンベルガーは陸軍の高官筋から党に働きかけ、ついにはヒトラーの口添えまでとることに成功し、フォン・ブラウンを釈放させたという。

 こうして、フォン・ブラウンの手によって完成された必殺兵器、世界初の弾道ミサイル「V2」はイギリスを襲い、大被害をもたらした。一説に、1万人を超える死者があったと言われる。あの戦争中のことだから、数字の上では東京大空襲や原爆の比ではないが、現代の9.11同時多発テロ事件の死傷者数と比べれば大変な人命が損なわれているということは間違いなく言える。

 しかし、これはフォン・ブラウンの本意ではなかったことも、後世よく喧伝されるところだ。彼曰く「ロケット・システムは完璧に作動した。しかし、間違った惑星に落下した」と。

 新型兵器を用いた優れた戦術も、誤った戦略に振り回されれば畢竟(ひっきょう)戦勝には寄与しない。このような未曽有の兵器をもってしてもドイツの敗色を拭い去ることは不可能であった。歴史のとおりドイツは敗北し、フォン・ブラウンは自らの去就を選ばねばならなくなった。

 彼は知恵を巡らせ、ソ連ではなくアメリカに投降するというシナリオを作って実行した。きわどい行動で、彼が500人ものロケット技術者と、疎開・隠匿した膨大な技術資料を引っ提げて米軍に投降したことも知られるところであるが、実際にアメリカに渡ることができたのは100人を超える程度であったという。

 あっさりとアメリカに投降したフォン・ブラウンは、変節を(なじ)られるのもものかは、彼が有するロケット技術が何を可能にするかを供述調書にしたため、嬉々として提出している。いずれ人工衛星も、月旅行も火星旅行も実現する、それが如何に人類を進歩させるか。……何、軍事技術への応用?そんなものは、惑星旅行のおまけにいくらでもこぼれ落ちる、くだらん枝葉末節だ、私の言う事を信じておとなしく待っておればよろしい、……と。

 だが、戦後というのは簡単なものではない。大戦争が終わった後のアメリカも、軍事に金をつぎ込む余裕はなく、フォン・ブラウンの夢も一時は遠のいた。しかも、フォン・ブラウンもまた、現代の日本で見られるように、ナチスに苦しめられた人々に対して責任を負い、しかるべく賠償を負担すべしとの論に、長い間苦しめられた。一つ一つの難詰(なんきつ)に、また彼も、時間を割いて一つ一つ応えていかなければならなかった。

 朝鮮戦争が始まり、宇宙旅行につながる大出力のロケットよりも、中射程の精度の良いミサイルが求められた。「レッドストーン」と呼ばれるこのミサイルを開発するため、フォン・ブラウンは彼のチームとともに、後世知られることになるアラバマ州ハンツビルに引っ越した。

 当時のハンツビルは、「アメリカの哈尔滨(ハルビン)」みたいなところだ。大戦中は「レッドストーン兵器廠」と呼ばれる広大な軍用地で毒ガス製造が行われていた。南部の寂れた田舎町だ。

 ここで開発された弾道ミサイル、「レッドストーン・ロケット」は、電波誘導を持たず、ジャイロを使った完全な「打ち放し」の慣性誘導ミサイルである。射程約300キロ強、核弾頭を搭載できた。

 次いで、予算不足にもめげず、ロケットを多段化し「ジュピターC」として順次発展させ、大気圏再突入による高温加熱の問題を「アブレーション技術」により解決した。アブレーション技術とは、熱に頑固に抵抗するのではなく、保護材を計算の上で少しずつ溶損させ、これによりかえって内部の重要物を熱から守ろうとするものだ。この技術で一挙に2000キロメートル近い射程が実現された。

 勿論、思うに任せぬ障害もあった。この頃、アメリカのロケット開発は、陸・海・空軍がそれぞれバラバラに行っており、似たようなものを複数の予算で冗長に開発していた。フォン・ブラウンは陸軍所属であったから、海軍・空軍の軍事力整備も図らねばならない国防総省の采配に悩まされることもあった。同時にそれは、アメリカ全体の宇宙開発の足枷でもあった。

 こうした内部牽制で曲折するうち、敵国ソ連が着々と宇宙に布石を始めた。

 アメリカの宇宙開発情報は基本的に公開され、ソ連もその状況をつぶさに入手可能である。しかし逆は違い、ソ連は手の内を簡単には明かさない。

 鉄のカーテンで閉ざされたソ連の宇宙開発状況がどのようになっているのか、アメリカにはよくわからぬうち、突如、怪電波と地球軌道を周回するその発信源の詳細がソ連から発表されたのだ。人工衛星スプートニク1号の成功がそれである。昭和32年(1957年)のことだ。

 後世よく知られるとおり、これは「スプートニク・ショック」と言われる一種のパニックをアメリカに引き起こした。不倶戴天の敵、共産主義者の巣窟、ソビエト連邦は、好きな時にいつでも、迎撃不可能な大陸間弾道弾によって、アメリカ合衆国の頭上に、史上最悪の巨大水爆「ツァーリ・ボム」を叩き込む自由を得た、というのと、地球軌道をぐるぐる回るスプートニクの存在は、技術的には(ほぼ)等義だからである。ヒロシマ・ナガサキの惨劇を見るのは、次はニューヨークかワシントンか、というわけである。

 こうしたことも動機となり、ソ連への対抗意識から、次第にアメリカの宇宙開発は一枚岩になっていった。無論その中核に、フォン・ブラウンはいた。

 先行するスプートニクに目にもの見せんと猛追を開始したフォン・ブラウンたちではあったが、走り出しは拙速に過ぎた。大急ぎでとにかく打ち上げた「ヴァンガード1号」は、数センチも飛ばずに地上で爆轟、四散した。

 ロケットが火を吹いた途端、発射がうまくいったと勘違いしたアナウンサーが、「アメリカの誇る人工衛星第一号、美しい打ち上げです。目に見えぬほどの速さで宇宙に向かって飛んでいきました!」と実況中継してしまった、という笑い話が伝わる。地上で爆発炎上してしまったロケットが目に見えるわけがないのは当然だが、今でも「人工衛星・光明星1号」などと称して北朝鮮当局が似たようなことを言っているのを思い起こしてしまう。

 昭和33年(1958年)の年明け、フォン・ブラウンたちのチームはようやく「ジュノーI」と呼ばれるロケットにより人工衛星を軌道に投入することに成功した。成功してから、この衛星は「エクスプローラー1号」と名付けられた。

 陸・海・空軍がそれぞれ勝手にロケットを作っては飛ばすという無駄の多い宇宙開発を集約・一本化し、今も知られる「NASA」が新編されたのもこの年である。そして、この次の年(昭和34年(1959年))、ドイツ・ペーネミュンデ村以来の同志を含むフォン・ブラウンたちのチームは、丸ごと陸軍からNASAに移籍することが決まったのであった。ドイツからやってきたのは100人前後であったが、この頃には5000人近い強力な集団に膨れ上がっていた。陸軍としては「陸軍の国防予算を使いつぶすこの連中」が出て行ってくれてせいせいした、などという話もあったようだ。

 それまでフォン・ブラウンは、建前の上では「陸軍のミサイルを開発し、技術の余力をもって宇宙旅行の研究も黙認される」という立場でしかなかったが、NASAは軍と密接な関係を保つとは言うものの、非軍事の宇宙開発の中心だ。ついにフォン・ブラウンは堂々と胸を張って、少年時代からの確信、「宇宙旅行」を追及していける立場を得たのである。そして、引き続き使われることになったアラバマ州ハンツビルの彼らの本拠地は、新たに名将軍ジョージ・マーシャルの名をとって「マーシャル宇宙飛行センター」と名付けられた。そのセンター長は、もちろんフォン・ブラウンである。

 だが、それから数年の間、アメリカは常にソ連の後塵を拝しつづけた。月に探査機を最初に到達させたのはソ連である。ソ連は悠々として月の裏側に探査船「ルナ3号」を送り込み、人類がいまだ一度も見たことのなかった月の裏側の写真を撮って全世界に発表した。ついには「ルナ9号」を月面に軟着陸させ、月面のパノラマ写真を撮ってみせた。この間、フォン・ブラウンたちのロケットは失敗続きで、爆発炎上ばかりしていたのである。どれほど悔しかったか思いやられる。

 それでも、フォン・ブラウンたちはじりじりと間を詰めていった。

 有人宇宙飛行を行い、その延長として月へ人間を送り込む。この過程を()むことはもはやアメリカとソ連の、言外の競争コースとなっていた。

 ケネディが大統領になったのは、昭和36年(1961年)のことである。この頃、フォン・ブラウンたちは有人宇宙飛行に向けて着々と研究を積み重ね、宇宙飛行士を訓練し、準備を行っていた。

 そこへ突如、またしても宿敵・ソ連の驚天動地の成果がニュースとなって世界を飛び回る。

「赤軍中尉ユーリ・ガガーリン、有人宇宙飛行船ボストーク号に搭乗し、地球を一周、無事帰還」

 また出し抜かれたのだ。もちろん、フォン・ブラウンたちも黙ってはおらず、すぐに、(かね)て訓練済みの宇宙飛行士アラン・シェパードを、実績があり安定しているレッドストーン・ロケットに搭乗させて打ち上げ、弾道飛行の後、無事帰還させている。しかし、「打ち上げて落ちてきただけ」の弾道飛行と、地球周回軌道を一周することでは、その意義は大きく異なる。如何にせん、ソ連との差はこれでは覆うべくもない。

 この事態が若い大統領の尻を痛烈に殴打したため、かの有名な施政方針演説がなされたのである。「10年以内に人間を月に立たせる。カネに糸目はつけぬ」と。

 これを受け、ついにフォン・ブラウンは、その人生最大の作品、人間を月に送り込むための超巨大・超強力ロケット、「サターン」の建造に着手することを得たのである。

 フォン・ブラウンはサターンを「I」「IB」「V」と順次進歩させた。最終型のサターンV型は、高さ100メートルを超えるロケットであり、I型の2倍の高さ、6倍の重さを持っていた。運搬能力に至っては10倍に達し、129トンを地球軌道に投入する能力があった。

 ケネディ大統領は昭和38年に撃たれて死んだ。だが、はずみのついたアメリカの宇宙開発計画は、もう止まらない。

 フォン・ブラウンたちは、月を目標にしたサターン・ロケットの建造と並行して、有人宇宙飛行の成果をマーキュリー計画・ジェミニ計画と、着々蓄積していった。無論ソ連も猛然と仕掛けてくる。ついにはソ連、次いでアメリカと、人間の宇宙遊泳が行われた。また両国とも、宇宙空間でのドッキング技術を確立していった。

 しかし、ソ連は少しづつ疲労してきた。それは、ソ連の宇宙開発をただ一人で牽引してきた不屈の男、セルゲイ・コロリョフが昭和41年(1966年)に死去したことが大きく影響している。求心力を失ったソ連の宇宙開発は、徐々にアメリカの追随を許すようになった。

 爆発事故で何人もの人命を失いながらも、フォン・ブラウンたちは前進し続けた。ついに、アポロ8号では月の軌道を有人で周回することに成功し、ソ連に水をあけることができた。

 ソ連はあたかも人間を月に送り込むことは目標としていないように装いながら、それでも実は人間を月面に送り込もうとしていたことが、ソ連崩壊後の資料公開で判明している。しかし、次第に技術でアメリカに後れを取るようになり、失敗が目立つようになっていった。

 昭和44年(1969年)7月20日。3人の大男を乗せたフォン・ブラウンの作品は、無事に月への往還を果たすことを得た。人間が月に降り立ったこの有名な一部始終は、もはやここに書くことを要しないだろう。当時3歳だった筆者も、おぼろにこの時のニュースを記憶している。

 アポロ計画はこの後3年間にわたって行われ、終了した。しかし、これで前進にピリオドを打つフォン・ブラウンではない。逆風の中、スペース・シャトルの基本構想を確立し、それを練り上げていった。しかし、生粋の技術者である彼は、徐々に自分の考えと、政府の宇宙政策とのずれを覚えるようになった。また、次第に意思決定の場から遠ざけられるようになったのである。

 フォン・ブラウンは昭和47年(1972年)、アポロ計画終了の年にNASAを退職し、民間企業で通信衛星を手掛けるようになった。巨大なアポロ計画とは違い、世界の隅々に知識を送り届けることのできる通信衛星は、彼のあらたな生き甲斐となった。だが、この頃からフォン・ブラウンは体調がすぐれなくなったようだ。

 昭和52年(1977年)、フォン・ブラウンはバージニア州アレクサンドリアの病院で癌のため死去した。65歳であった。

 彼が多年にわたり働き、月面に人類を送り出した地、アメリカ合衆国アラバマ州ハンツビルの宇宙センターに、その人生のすべてを賭した作品「サターンV型ロケット」の実機が国宝として手厚く保管されている。また、書斎の復刻や胸像がここに記念されている。

フォン・ブラウンの胸像と筆者
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ハンツビルの宇宙センターにあるフォン・ブラウンの書斎の記念展示
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ハンツビルの宇宙センターに展示されている実物大のサターンV型ロケットの模型
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ハンツビルの宇宙センターには実物のサターンV型ロケットが丸ごと記念館の中に保管され、国宝に指定されているが、大き過ぎて全容を写真に収めることは難しい。下の写真はエンジン部分を根元から見上げて撮ったものだ。

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