勤労感謝の日

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天皇陛下万歳

 祝日「勤労感謝の日」である。

 戦前は「新嘗祭(にいなめさい)」と言ったもので、戦後はその意義・意味をも踏襲し、「勤労感謝の日」と改められたのである。

 言うまでもなく今日のこの日は「日本書紀」にその起こりを見ることができる日で、遠く飛鳥時代、皇極天皇の時代にまでさかのぼる。

 荒天で、朝から本降りだが、玄関先に国旗を掲揚する。

読書

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 「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」、昼過ぎからの読書で読み終わってしまう。

 解説・()み下し文・現代語訳、付録として原文(百衲本(ひゃくどうぼん))の影印・日本書紀や高句麗広開土王(好太王)碑銘などをも含む参考文献・年表が収められている。

 面白いな、と思った点は、魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝の四書ともに共通して、

「倭には女が多いが、(みだ)らではなく、嫉妬(やきもち)をやかない。倭人は従順で、争いごとや訴え事が少なく、盗みも少ない。酒が好きで、長生きし、80歳や100歳になる者もいる」

……というような記述が見られることだ。

 残念な点がある。本書には参考文献として、日本書紀のうち「巻二十二 推古天皇」が全文引用で挙げられている。他方、日本書紀のほうでは「巻第九 神功皇后」の四十三年の条で魏志が参照されて記載されているのだが、これに関する考察や記載が全く見当たらない点である。戦後の学際は、戦前の皇国史観を嫌うあまりこのようになっているのではないかなどと感じてしまう。

 特に付録の影印などは興味深く、所有して資料としてとっておきたいが、図書館で借りたものなので、返さないと仕方がない。

勤労感謝の日

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%e5%8b%a4%e5%8a%b4%e6%84%9f%e8%ac%9d%e3%81%ae%e6%97%a5天皇陛下万歳。

 祝日・勤労感謝の日である。国旗を掲揚し拝礼する。

 今日は遠く飛鳥時代、皇極天皇の御世にその起源を(さかのぼ)る「新嘗(にいなめ)祭」の日である。皇極天皇というと「重祚(ちょうそ)」と言って、後に斉明天皇と名を改めて再び即位した女帝であり、これは日本史で習うから、覚えている人も多いことだろう。

 日本書紀巻第二十四「皇極天皇」紀には、

十一月壬子朔癸丑、大雨雷。丙辰夜半、雷一鳴於西北角。己未、雷五鳴於西北角。庚申、天暖如春氣。辛酉、雨下。壬戌、天暖如春氣。甲子、雷一鳴於北方、而風發。丁卯、天皇御新嘗。是曰、皇子・大臣、各自新嘗。

(十一月(しもつき)壬子(みずのえね)(ついたち)癸丑(みずのとうしのひ)に、大雨(おおあめ)ふり(いかづち)なる。丙辰(ひのとたつのひ)夜半(よなか)に、雷(ひとたび)西北(いぬゐ)(すみ)()る。己未(つちのとのひつじのひ)に、雷(いつたび)西北の角に鳴る。庚申(かのえさるのひ)に、(あめ)(あたたか)なること春の(しるし)の如し。辛酉(かのとのとりのひ)に、雨()る。壬戌(みずのえいぬのひ)に、天の暖なること春の氣の如し。甲子(きのえねのひ)に、雷(ひとたび)北の(かた)に鳴りて、風(おこ)る。丁卯(ひのとのうのひ)に、天皇(すめらみこと)新嘗(にひなへ)(きこしめ)す。是の曰に、皇子(みこ)大臣(おほおみ)(おのおの)(みづか)新嘗(にひなへ)す。)

 と、その年の天変などとともにこの新嘗の記述があり、日本書紀の中ではっきりと新嘗の記述が現れるのはこの箇所が最初であることから、これが新嘗祭の起源となっている。

 この新嘗祭は、重要な宮中祭祀であるため、明治時代から祝日として定められていた。

 戦後、「勤労感謝の日」と改められたが、宮中においては今も変わらず、天皇陛下おん(みずか)神嘉殿(しんかでん)において古式ゆかしくこの祭祀を執り行われると漏れ伝え聞く。

 本来、「新嘗祭」は新収穫を(みかど)自らおしいただいて、五穀豊穣を天地神祇に納め祈る日であったことから、無論これは農業を慈しみ奨めることに通じており、これが近代的に発展して「勤労感謝」となったことはおかしいことではなく、当時の政府はGHQの影響下、国民世論をも取り込んで、名称変更を上手い具合にまとめたものだと思う。

天皇誕生日に(ちな)

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天皇誕生日 (かしこ)し、天皇誕生日に(ちな)み、このような話をば……。

○ ホスセリ・ホホデミの兄弟の話~日本書紀より~

 だいぶ前に書いたテキストだが……。

共生大八洲国。然後伊奘諾尊曰

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 漫然とこのブログの検索キーワードを見ていたら突如「共生大八洲国。然後伊奘諾尊曰」なんていうえっらいキーワードで来る人がいるのを見つける。

 エライっ!!

 そういふうでなくちゃイカんよチミィ!!

 近所の稲荷神社へ詣でて、その古社のことを少しばかり深掘りしたことがあるのだが、そこに日本書紀の記述を引用したのだ。そこへ来て下さるのであった。

登戸稲荷社

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47597487 近所の稲荷社「登戸神社」の縁起や、地域の旧家、関根家、浜野家の来歴なども簡単に知るなど。

 祭神を「倉稲魂命」といい、こう書いて「うかのみたまのみこと」と訓むそうな。

 日本書紀を紐解くと、岩波の「日本書紀(1)」では、40ページあたりに、

(日本書紀〈1〉(岩波文庫)、40ページより、下線太字筆者)

 一書曰、伊弉諾尊與伊弉冉尊、共生大八洲國。然後、伊弉諾尊曰「我所生之國、唯有朝霧而薫滿之哉。」乃吹撥之氣、化爲神、號曰級長戸邊命、亦曰級長津彥命、是風神也。又飢時生兒、號倉稻魂命

 一書(あるふみ)に曰く、イザナギノミコトとイザナミノミコトと、共に大八洲國(おおやしまのくに)を生みたまふ。しかりしてのちに、イザナギノミコトののたまはく、「我が生める国、ただ朝霧のみありて、薫り満てるかな」とのたまひて、すなはち吹きはらふ氣(いき)、神となる。號(みな)をシナトベノミコトとまうす。またはシナツヒコノミコトとまうす。これ風神なり。また飢(やは)しかりし時に生めりし兒(みこ)を、ウカノミタマノミコトとまうす。
()み下し筆者

……と見える。

 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は「稲荷」の神である。稲荷は「稲」「荷」の字にも表れている通り、稲がたくさん集積されたところの神で、豊穣の穀物神である。

 この神が使役するところの手下がすなわち「キツネ」で、そこからオイナリさまと言えばキツネということになったのであった。

建国記念日

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天皇陛下万歳

 建国記念日である。国旗を揚げ、拝礼する。

 皇紀元年元旦、神武天皇が即位されたことをもって、今日が建国記念日と定められてある。旧暦の元日なので、ちょうど今の時期なのだ。ちなみに、旧暦は年によって新暦とのずれが変動するから、今年の旧暦の正月は来週、2月19日だ。

 悠久二千六百七十四年の昔ということになっているが、なにしろ文字すら存在しなかった昔のことであるから、一応形の上ではこのように定めた、ということなのである。「日本と言う国が出来たのはあんまりにも昔のことなので、いつできたのかもはっきりとはわからない。気が付いたときにはもう国があった。ただ、中国の文献などからは千数百年以上前からあるということはだいたいうかがい知れるし、伝説・伝承をよく整理すると、もう少しさかのぼるようだ。多く見積もると二千六百年という数字も出ることは出るので、一応それを採用している」というのが正直なところだと思う。

 このように、いつできたのだか昔過ぎてわからない国柄のわが国だ。共産主義革命の日にちを建国日にしているとか、誰かが独立宣言をした日を建国日にしているとか、そういう、人工的に作られた外国との比較は、できないのである。仕方がないから神話や伝承をもとにした日にちを採用するのだ。それが我が国のオリジナルである。

 さて、せっかくだから、日本書紀にはどう書いてあるか、抜き書きしてみよう。

「辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語稱之曰「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彥火々出見天皇焉。」初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。」

(佐藤俊夫奉訳

 かのと・とりの年の春、元旦に、神武天皇は橿原宮で即位された。そこでこの年を皇紀元年とした。同時にお妃も皇后に即位された。カムヤイのみこと、カムヌナカワミミのみことが皇子として生まれた。このため、古い伝承には「畝傍(うねび)橿原(かしはら)に、大いに宮を造営し、高天原(たかまがはら)を高くまつり、はじめて即位された天皇はカムヤマトイワレビコ・ホホデミのすめらみこと、と名乗ることになった」とされている。また、国のはじめのこの日に、大伴氏の先祖のミチノオミのみことがオオクメたちを連れてきて、秘密の唱えごとのまじないをし、災いを除いた。このとき「倒語(さかしまごと)」というまじないが世の中ではじめて使われた。)

 とある。

 古事記ではこのあたりはアッサリと簡単で、

「故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。」

(佐藤俊夫奉訳
 神武天皇はこのように不穏な情勢の有力者たちをうまくとり収めて和平を実現し、従わない者を退け、畝火の白檮原宮(畝傍の橿原の宮)で即位した。)

 となっている。

 いずれにしても、遠い遠い昔のことだから、「ホントに2千何百年も昔に建国したの?おとぎ話でしょ?」などと文句を言っても、言うだけ詮無いことで、はっきりしないのだから仕方がない。

白村江(はくすきのえ)国家総動員

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PHM02_0060 日本書紀をダラダラ読み進める。残り最後の冊となると、読み惜しむ気持ちも出てくる。

 「白村江(はくすきのえ)の戦」に、日本は2万7千の兵を投じたという。

 ここで、当時の人口を考えあわせたい。

 研究には諸説あるが、1500年前の日本の人口が1000万人あったとするものは、どうやら、ない。300万人程度が妥当なところであるようだ。つまり、ざっと今の43分の1と見てよい。

 白村江の戦への人的負担が現代に置き換えるとどれほどであったかは、つまり、単純に43倍すればよいことになる。

2万7千人 × 43 = 116万1千人。

 これは半端ではない国家総動員である。

MS-IME用歴代天皇辞書

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 このブログの右側の、「読書リスト」にもあるとおり、私は最近、日本書紀を読んでいる。

 感想をFacebookなどに書き込むことが多いが、そのたびにイライラすることがある。「歴代天皇の名前がほとんどかな漢字変換できないこと」である。

 常々、MS-IMEを使っているが、本当に日本語の語彙に乏しく、不自由する。いやしくも「『日本』語変換」をするのならば、畏し、日本の歴代天皇くらい最初から全部登録しておいたらどうだ、と思う。

 何も、1万語の専門用語を載せておけ、などと言っているのではない。日本の歴史上の、著名人の範疇に入る人名リストがたった126人ぶん、北朝を入れても131人ぶんではないか。それしきのものが入っていないというのは、なにか特別の理由でもあるのかと、言いたくもなるではないか。

 それとも、Microsoftごとき外資系企業から見ると、日本の天皇などばかばかしくて入れる必要がないとでもいうことなのだろうか。…いやまさか、考えたくもないが、またしても「アジア近隣諸国への自主的配慮」か!?

 まったく、いきどおろしいことである。

 そこで、不肖・佐藤、意を決し、自ら歴代天皇の登録用テキストを作って公開しておくことにした。

 必要とされる向きは、次のリンクからダウンロードして辞書登録するとよろしかろう。天皇の御諡号がサクッと変換できるようになり、まことに具合がよくなる。

 登録のしかたは簡単だ。

  1.  上のファイルをダウンロードして、PCの適当な場所に保存する。
  2.  IMEの「ツール」のボタンをクリックし、「単語/用例の登録」を選ぶ。
  3.  表示されるツールダイアログの一番下に「辞書ツール」ボタンがあるからそれをクリックする。
  4.  ウィンドウの上部にあるメニューを「ツール(T)」 → 「テキストファイルからの登録(T)」の順でクリックし、適当な場所に保存しておいた上のファイルを選ぶ。
  5.  歴代天皇がすべて登録される。既に登録されているものがあれば、自動的にスキップされる。

 なお、漢字の異体・旧字体は両方登録してある(例えば、「いとくてんのう」で、「懿徳天皇」・「懿德天皇」(徳・德の違い)の両方が候補に出るようにしてある。)。また、「じんむ→神武」も、「じんむてんのう→神武天皇」も、両方「人名」の品詞で登録してある。

繼體(けいたい)天皇紀

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 今日の休みは転がり込んできた幸運みたいなもので、もともと今日は仕事のつもりをしていた。今日の予定の仕事が午前中に終わったら、国会図書館へ行って、読みそびれている本をいくつか読むつもりだった。国会図書館は永田町にあり、職場からすぐの隣街なのだ。

 しかし、そういうついでがなくなってしまったので、引き続き日本書紀第十七巻、「繼體(けいたい)天皇紀」を読み進む。

 畏し、今も皇室では、天皇陛下が初夏にお手ずから田植えをあそばし、皇后陛下が蚕に桑を飼われるが、その由来がこの巻に出てくる。

 名前の通り仁政をしき、人々に聖帝と慕われた仁徳天皇の子供たちは、だがしかし、「アカン人」が二人ほど出てしまった。その中でも、九代後の武烈天皇は、中国・殷の紂王をして顔色をなからしめるほどのグロ系残酷天皇になりはててしまった。

 そんな始末で、ついに仁徳天皇の子孫は武烈天皇で絶えてしまい、総理大臣・大伴の金村は困り果てて、皇室の子孫を探す。仁徳天皇のお父さんの、応神天皇から五代あとの子孫に、大変賢く、人格のすぐれた「男大迹(おおどの)のみこと」という人がいることがわかった。だが、この人は五十過ぎて独身のおっさんである。しかしそれでも、大伴金村は、使いを出して、礼儀を尽くして、どうか天皇に即位してくださいと頼み込む。

 男大迹のみことは何度か断るが、ついに大伴金村の頼みを入れて、天皇として即位する。繼體(けいたい)天皇である。

 そういう経緯であるから、前天皇の武烈天皇とは大違いで、質実剛健の方である。

「国の基本に立ち返り、まず農業を盛んにすることからスタートしよう。そのためには、皇室自身が奢侈に流れていてはいかん。男は自ら田植えをし、女は蚕を飼って紡績に励むことで、国の宝である農民たちもそれに倣うようになるだろう」

…と、天皇・皇后がまず自ら農耕・養蚕をやってみせることにしたのである。

 これが、今なお連綿と皇室に続くお田植え・親蚕の行事の起源なのである。

 繼體天皇はこういう立派なかたであるが、だがしかし、気の毒な一面もある。

 繼體天皇は即位したとき、五十歳を過ぎて独身・子なしのおっさんだった。だが、大伴金村に

「陛下の血筋が絶えてしまうと、天皇の血筋がなくなり、日本の国柄がおかしくなって、荒れ果ててしまいます。どうか、すぐに子供を作ってくださいッ!」

と言われ、あわせて9人もの正室・側室をあてがわれ、せっせとハゲむことになったのである。

 まことにお疲れ様でございます、というほかはない気がする。