このスットコドッコイw

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 また、なんだってのか、菅のおっさん。このヒョットコというか、スットコドッコイというか……。

 去年の春のことで、もう古い話題ではあるようだが。

原発議論と軍事

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 小泉元総理は、また、なんだか変にヒネクレ出したなあ……

 だが、このあたりも含めて、原発議論の中に、「軍事の観点から」という要素が全然ないのは奇怪極まる。誰も一言も言わない。

 「軍事」と言ってアレ方面のアレルギーがムズムズ痒いと言うなら、「国家安全保障の観点から」などと、猥褻な現代語で言い換えてもよい。

「やろうと思えばいつでも原爆ぐらい作って敵国に叩き込めるだけの潜在的実力を営々と保持し続ける、それによって不気味なニラミを効かせる」

……これが原子力発電所を建設・維持する本当の理由なのだ。電力なんてどうだっていいのである。そんなものはタテマエだ。つまり、先日米副大統領のバイデン氏が中国でわざわざ代弁した、アレなんである。

 だが、「日本は原爆を作ります」なんてことは、唯一の被爆国として口が裂けても言えないのだ。だから言わない、言わないが、「アイツら、いつでもそれくらいやってのけるぞ」という、そういうニラミなのである。

 そこを避けて通って、原発廃止も存置もヘッタクレもない。

 それに、逆に阿呆な話で、仮に北朝鮮に対して核抑止を効かせることだけが目的だと言うなら、何も自力製造なんかしなくったっていいのだ。アメリカに、「1兆円ぐらい払いますから水爆1発売って下さい」って言えば、ホイキタ、とくれるだろう。仮にくれなくても、配備はするだろう。

 だが、それもまた、ダメなのだ。工業力の保持だって、原子力発電所の目的なんだから。そしてまた、私の論では「どうでもいい」と極論したが、冷静に言えば電力だって大切なのだ。

 アレも、コレも、ソレも大切なのだ。

世界核実験場探訪

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 事情によりゴールデンウィークというのに略々(ほぼほぼ)全日仕事であり、間欠的に帰宅休養はできるものの、出歩くことはまかりならず、垂れこめて電話呼び出しを待っていなければならぬ。

 まあ、しかたがない。仕事は仕事である。

 どこにも行けないので、Google Mapで旅行をする。めったに出来ない旅行をしよう、というので、標記「世界核実験場探訪」と題した架空旅行をして、動画にした。

CNN.co.jp : 北朝鮮が「水爆保有」を主張、専門家は疑問視

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 いや、そりゃまあ、電気分解で重水素作って、原爆で点火すりゃあいい、っちゃあ、そりゃ、そうなんだけどさー……。

 ……。

 ないわー(笑)。

情報源: CNN.co.jp : 北朝鮮が「水爆保有」を主張、専門家は疑問視

○ 水素爆弾の動作原理などをザクッと……(Wikipedia)

正義は子供の術語

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 PHM11_0038 「『正義』なんて胡散臭い言葉は、子供の使う言葉ですな、それは」

……と、もののはずみで某所に書いた。

 書いてしまってから、我ながらなかなか思ったことが言えたよな、と感じた。

 正義、なんてチャラチャラした言葉は、人を騙すときに使う言葉だ。

 フランス革命の殺戮の嵐は正義のために吹きまくったのであり、原爆だってパレスチナだってアフガンだってイラクだって、どいつもこいつも聞く方の耳が麻痺するくらい正義正義言ってるではないか。正義はスプラッターとか血みどろ、殺し合い、ウンコの仲間の言葉だ。

 「正義は戦争の属だから、俺は嫌いだ」みたいなことを言ったのは、誰だっけ、坂口安吾だっけ……。

 「正義」に比べると、「性欲」などはむしろ清潔な言葉だ、とも書いた。正義よりも苦悩、正義よりも煩悶、正義よりも堕落、正義よりも罪。

 なんというか、「正義」と言われると、子供の頃の同級生の、体力があって頭がよく、友達の面倒見がよくて女にモテ、みんなから好かれているリーダー役のA君に、「おい佐藤ッ!お前最近、ダラけてへんか!?しっかりせいや!」と責められている気がする。しんどいのである。「ケッ……」と吐き捨てたくなるのである。

 世の中、正しけりゃアいいってモンじゃない。「馬が屎まる泥の沼に……」こそ、蓮華の花はひらくのである。そういうクズのような人間を、認めなきゃアカン。

フォン・ブラウン略伝

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 フォン・ブラウン(正しくはヴェルナー・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル・フォン・ブラウン Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun という名前だそうだ)はロケットの父として有名だ。少年時代からロケットづくりに打ち込み、ついには人類を月面にまで送り込んだ稀代の技術者である。

 その人生は劇的で、記すに余りある。

 フォン・ブラウンは、明治45年(1912)、プロイセンの男爵家に貴族の子として生まれた。

 少年時代はガラクタを収集してはこれにロケットを取り付けてぶっ飛ばすという、世界中の多くの男性が身に覚えのある、工学少年を地で行く子であった。廃品置き場から自動車の壊れたのをくすね、これに火薬ロケットを取り付けて点火、爆走するガラクタは八百屋の店先に飛び込んで騒ぎになり、賠償だの父の仕置きだの、大変な少年時代だったという。

 その一方で、堅信礼(コンファメーション)(子供の宗教的な節目で、無理に例えるなら七五三とでも思えばよかろうか)のプレゼントに貰った天体望遠鏡で星を眺めては、宇宙に思いを馳せる思惟的な一面のある少年でもあった。

 算数が苦手な彼だったが、中学生の頃、「惑星空間へのロケット」という本に出合う。この本に載っている方程式を理解できなかった彼は、教師の勧めに従い、一転、数学に打ち込むようになった。はじめ「数学不良点」の評価であったにもかかわらず、1年間一心不乱に数学に打ち込んだ結果、教師の代役で数学の授業を受け持つまでに至った。

 勉強の甲斐あって学校を繰り上げ卒業したフォン・ブラウンであった。第1次大戦の敗戦後の復興期にあたるこの頃、ドイツにはSF小説などの影響で一種の「ロケット・ブーム」が到来しており、「ドイツ宇宙旅行協会」なる団体が結成されていた。「ロケット」という雑誌がこの協会から発行され、人々の夢をかき立て、実際に小さなロケットを組み立てて発射することが行われていた。これは今の「メイキング・ムーブメント」にも少し似ている。

 フォン・ブラウンはまだ高校生なのにこの協会に入会し、級友たちを糾合して手作りの天文台を建設するなど、活発な青春時代を送った。この頃、ある公開実験の説明スピーチで、彼が「皆さんが生きている間に、人間が月面で仕事をするのを見ることができるでしょう」と言ったとする記録があるという。

 ところが、不況のため、こうした趣味のことはあまり自由にはいかなくなっていった。日本でいえば昭和ひと桁、1930年頃のことである。この頃、フォン・ブラウンは周囲に「もう、陸軍の援助を貰うしかないかな……」と漏らしている。すでに戦争の世紀なかば、世界のいかなる国も、莫大な予算を使えるのは軍隊のみであった。

 不況のために学費もままならず、貧乏学生となった彼は、それでも余暇のすべてをロケットづくりに打ち込んでいた。いつの日か、幼い頃からの確信、宇宙旅行を実現するためである。

 貧しいため、学費を稼ぐのにタクシーの運転手をするようになった彼は、ある日声高にロケット談義をする二人の客を拾う。客どうしの論議についくちばしをさしはさんだフォン・ブラウンだったが、この客たちこそ、リッター・フォン・ホルスティヒ大佐と、ヴァルター・ドルンベルガー大尉の二人で、陸軍のロケット開発の中心人物たちであった。

 「君、明日、参謀本部へ来て、ちょっと話を聞かせてくれないか」

 運命の出会いである。

 フォン・ブラウンの話を聞いたドルンベルガー大尉は、彼の上司のカール・ベッカー大佐を連れて協会を訪ねてきた。軍と宇宙旅行の利害は急速にその辻褄を整えていった。

 この頃、ドイツは敗戦による厭戦気分の只中にあった。「軍隊の援助など……」と、宇宙旅行協会の人々が軍との関係を嫌うのは当然である。今の日本でも、あらゆる科学技術は軍事への応用を嫌う。この頃の敗戦ドイツもそれは同じだ。ところが、フォン・ブラウンは決然として軍と手を結ぶ。20歳の若者のことだ。夢のためなら思想的な頓着などどうでもよかったのであろう。

 はじめ難航し、陸軍も渋い顔をしたロケット開発だが、フォン・ブラウンの熱情は怯まず、何度目かのロケット実験はついに成功した。A-2と呼ばれるこのロケットの成功で、陸軍から多くの予算を引き出すに至る。昭和10年(1935)頃のことだ。

 こうして貧乏なロケットマニアの学生は、一躍ドイツ陸軍の隠し財産となったばかりか、空軍からも注目され、破格の予算が与えられたのである。フォン・ブラウンは、水を得た魚のようにロケット開発にいそしむことができるようになった。

 フォン・ブラウンの母、エミーからヒントを得て、後世知られる僻村「ペーネミュンデ村」というところに、ドイツのロケット開発の本拠が設けられた。

 しかし、彼の思いと戦争は表裏一体である。軍の目的は兵器を開発することであり、宇宙旅行とは違う。彼もまた時代の子であり、古今未曽有の兵器「弾道ミサイル」の開発に自分の夢を仮託せざるを得なかった。

 科学技術に優れたドイツは、大戦前・大戦中を通じて、驚くべき技術開発を行っている。既にテレビ放送があり、お料理番組などが放映されていた他、街頭公衆テレビ電話などという信じられない物までベルリンの街なかにはあった。電子顕微鏡も既にこの頃ドイツで作られている。もちろん、軍でも今日(こんにち)の地対空ミサイルの原型など、多くのものを開発していた。さまざまな無人兵器も開発されていたが、その中の一つに、今日(こんにち)の「巡航ミサイル」のさきがけ、「V1」がある。

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米国アラバマ州ハンツビルに展示されているV1号

 V1は無人の有翼機で、パルスジェットエンジンにより時速600kmで飛行する。対気速度を積分して飛行距離を測定し、敵国の上空に達したと判断するや、自動的に落下して、1トン近く積んだ多量の爆薬により大被害をもたらす。

 古今未曽有の新兵器ではあったが、無人で、自律式、慣性誘導のいわゆる「打ち放し」方式であるため、敵の戦闘機に迎撃されてしまうことが防げない。多くのV1はイギリスの名戦闘機「スピットファイア」に追撃され、あるいは高射機関砲による対空砲火で撃墜された。

 ところが、ロケットにはこうした欠点がない。ロケットは垂直に打ち上げれば、戦闘機などが追及可能な高度をたちどころに突破し、上空数万メートルの宇宙空間にまで達することができる。自由弾道をもって落下し、再び戦闘機や高射砲が効力を持つ大気圏内に入って来た時には、その速度は音速の数倍から十数倍にまで達し、空気との摩擦によって赤熱しつつ、落下音よりも先に地表に達して炸裂する。これを巧みに制御して敵地に落下させれば、度を外れた高速のため、火器によっても戦闘機によっても迎撃は不可能である。

 これが「弾道ミサイル Ballistic Missile」の本質だ。現代においてなお、安全保障上私たちを悩ませる弾道ミサイルの脅威は、すでにしてこの頃、科学技術に優れたドイツと、夢に憑かれたフォン・ブラウンによって構想・実現されていたのであった。

 しかもなお、当時は「加農(カノン)砲」と言われる大砲が長射程火力の主流であり、この砲はベルサイユ条約によってドイツには保有数に制限がかけられていた。だが、条約には、その頃存在しなかった兵器である「ミサイル」については触れられていない。つまり、ロケットによる長射程火力は、条約の抜け道でもあり、陸軍にとって都合がよかったのである。

 なればこそ、ドイツ陸軍はフォン・ブラウンの開発するロケットに大いに期待した。

 昭和17年(1942)に発射に成功したロケットは高度8万5千メートルに達し、190キロメートル彼方のバルト海に狙い通り落下した。電波誘導システムを備え、液体酸素冷却装置、ターボポンプなど、近代的ロケットが備えるべきすべてを備えていた。

 少しばかり成功した技術には、虫のように権力者が群がる。武装親衛隊や空軍が群がってきて、彼の技術獲得のための駆け引きが始まった。とうとう、どうにもならぬ成り行きのどさくさに巻き込まれ、フォン・ブラウンはゲシュタポに逮捕され、収容所に放り込まれるという憂き目まで見た。しかし、この危機は、大尉から順調に少将にまで栄進していたドルンベルガーの働きによって回避され、なんとか釈放された。ドルンベルガーは陸軍の高官筋から党に働きかけ、ついにはヒトラーの口添えまでとることに成功し、フォン・ブラウンを釈放させたという。

 こうして、フォン・ブラウンの手によって完成された必殺兵器、世界初の弾道ミサイル「V2」はイギリスを襲い、大被害をもたらした。一説に、1万人を超える死者があったと言われる。あの戦争中のことだから、数字の上では東京大空襲や原爆の比ではないが、現代の9.11同時多発テロ事件の死傷者数と比べれば大変な人命が損なわれているということは間違いなく言える。

 しかし、これはフォン・ブラウンの本意ではなかったことも、後世よく喧伝されるところだ。彼曰く「ロケット・システムは完璧に作動した。しかし、間違った惑星に落下した」と。

 新型兵器を用いた優れた戦術も、誤った戦略に振り回されれば畢竟(ひっきょう)戦勝には寄与しない。このような未曽有の兵器をもってしてもドイツの敗色を拭い去ることは不可能であった。歴史のとおりドイツは敗北し、フォン・ブラウンは自らの去就を選ばねばならなくなった。

 彼は知恵を巡らせ、ソ連ではなくアメリカに投降するというシナリオを作って実行した。きわどい行動で、彼が500人ものロケット技術者と、疎開・隠匿した膨大な技術資料を引っ提げて米軍に投降したことも知られるところであるが、実際にアメリカに渡ることができたのは100人を超える程度であったという。

 あっさりとアメリカに投降したフォン・ブラウンは、変節を(なじ)られるのもものかは、彼が有するロケット技術が何を可能にするかを供述調書にしたため、嬉々として提出している。いずれ人工衛星も、月旅行も火星旅行も実現する、それが如何に人類を進歩させるか。……何、軍事技術への応用?そんなものは、惑星旅行のおまけにいくらでもこぼれ落ちる、くだらん枝葉末節だ、私の言う事を信じておとなしく待っておればよろしい、……と。

 だが、戦後というのは簡単なものではない。大戦争が終わった後のアメリカも、軍事に金をつぎ込む余裕はなく、フォン・ブラウンの夢も一時は遠のいた。しかも、フォン・ブラウンもまた、現代の日本で見られるように、ナチスに苦しめられた人々に対して責任を負い、しかるべく賠償を負担すべしとの論に、長い間苦しめられた。一つ一つの難詰(なんきつ)に、また彼も、時間を割いて一つ一つ応えていかなければならなかった。

 朝鮮戦争が始まり、宇宙旅行につながる大出力のロケットよりも、中射程の精度の良いミサイルが求められた。「レッドストーン」と呼ばれるこのミサイルを開発するため、フォン・ブラウンは彼のチームとともに、後世知られることになるアラバマ州ハンツビルに引っ越した。

 当時のハンツビルは、「アメリカの哈尔滨(ハルビン)」みたいなところだ。大戦中は「レッドストーン兵器廠」と呼ばれる広大な軍用地で毒ガス製造が行われていた。南部の寂れた田舎町だ。

 ここで開発された弾道ミサイル、「レッドストーン・ロケット」は、電波誘導を持たず、ジャイロを使った完全な「打ち放し」の慣性誘導ミサイルである。射程約300キロ強、核弾頭を搭載できた。

 次いで、予算不足にもめげず、ロケットを多段化し「ジュピターC」として順次発展させ、大気圏再突入による高温加熱の問題を「アブレーション技術」により解決した。アブレーション技術とは、熱に頑固に抵抗するのではなく、保護材を計算の上で少しずつ溶損させ、これによりかえって内部の重要物を熱から守ろうとするものだ。この技術で一挙に2000キロメートル近い射程が実現された。

 勿論、思うに任せぬ障害もあった。この頃、アメリカのロケット開発は、陸・海・空軍がそれぞれバラバラに行っており、似たようなものを複数の予算で冗長に開発していた。フォン・ブラウンは陸軍所属であったから、海軍・空軍の軍事力整備も図らねばならない国防総省の采配に悩まされることもあった。同時にそれは、アメリカ全体の宇宙開発の足枷でもあった。

 こうした内部牽制で曲折するうち、敵国ソ連が着々と宇宙に布石を始めた。

 アメリカの宇宙開発情報は基本的に公開され、ソ連もその状況をつぶさに入手可能である。しかし逆は違い、ソ連は手の内を簡単には明かさない。

 鉄のカーテンで閉ざされたソ連の宇宙開発状況がどのようになっているのか、アメリカにはよくわからぬうち、突如、怪電波と地球軌道を周回するその発信源の詳細がソ連から発表されたのだ。人工衛星スプートニク1号の成功がそれである。昭和32年(1957年)のことだ。

 後世よく知られるとおり、これは「スプートニク・ショック」と言われる一種のパニックをアメリカに引き起こした。不倶戴天の敵、共産主義者の巣窟、ソビエト連邦は、好きな時にいつでも、迎撃不可能な大陸間弾道弾によって、アメリカ合衆国の頭上に、史上最悪の巨大水爆「ツァーリ・ボム」を叩き込む自由を得た、というのと、地球軌道をぐるぐる回るスプートニクの存在は、技術的には(ほぼ)等義だからである。ヒロシマ・ナガサキの惨劇を見るのは、次はニューヨークかワシントンか、というわけである。

 こうしたことも動機となり、ソ連への対抗意識から、次第にアメリカの宇宙開発は一枚岩になっていった。無論その中核に、フォン・ブラウンはいた。

 先行するスプートニクに目にもの見せんと猛追を開始したフォン・ブラウンたちではあったが、走り出しは拙速に過ぎた。大急ぎでとにかく打ち上げた「ヴァンガード1号」は、数センチも飛ばずに地上で爆轟、四散した。

 ロケットが火を吹いた途端、発射がうまくいったと勘違いしたアナウンサーが、「アメリカの誇る人工衛星第一号、美しい打ち上げです。目に見えぬほどの速さで宇宙に向かって飛んでいきました!」と実況中継してしまった、という笑い話が伝わる。地上で爆発炎上してしまったロケットが目に見えるわけがないのは当然だが、今でも「人工衛星・光明星1号」などと称して北朝鮮当局が似たようなことを言っているのを思い起こしてしまう。

 昭和33年(1958年)の年明け、フォン・ブラウンたちのチームはようやく「ジュノーI」と呼ばれるロケットにより人工衛星を軌道に投入することに成功した。成功してから、この衛星は「エクスプローラー1号」と名付けられた。

 陸・海・空軍がそれぞれ勝手にロケットを作っては飛ばすという無駄の多い宇宙開発を集約・一本化し、今も知られる「NASA」が新編されたのもこの年である。そして、この次の年(昭和34年(1959年))、ドイツ・ペーネミュンデ村以来の同志を含むフォン・ブラウンたちのチームは、丸ごと陸軍からNASAに移籍することが決まったのであった。ドイツからやってきたのは100人前後であったが、この頃には5000人近い強力な集団に膨れ上がっていた。陸軍としては「陸軍の国防予算を使いつぶすこの連中」が出て行ってくれてせいせいした、などという話もあったようだ。

 それまでフォン・ブラウンは、建前の上では「陸軍のミサイルを開発し、技術の余力をもって宇宙旅行の研究も黙認される」という立場でしかなかったが、NASAは軍と密接な関係を保つとは言うものの、非軍事の宇宙開発の中心だ。ついにフォン・ブラウンは堂々と胸を張って、少年時代からの確信、「宇宙旅行」を追及していける立場を得たのである。そして、引き続き使われることになったアラバマ州ハンツビルの彼らの本拠地は、新たに名将軍ジョージ・マーシャルの名をとって「マーシャル宇宙飛行センター」と名付けられた。そのセンター長は、もちろんフォン・ブラウンである。

 だが、それから数年の間、アメリカは常にソ連の後塵を拝しつづけた。月に探査機を最初に到達させたのはソ連である。ソ連は悠々として月の裏側に探査船「ルナ3号」を送り込み、人類がいまだ一度も見たことのなかった月の裏側の写真を撮って全世界に発表した。ついには「ルナ9号」を月面に軟着陸させ、月面のパノラマ写真を撮ってみせた。この間、フォン・ブラウンたちのロケットは失敗続きで、爆発炎上ばかりしていたのである。どれほど悔しかったか思いやられる。

 それでも、フォン・ブラウンたちはじりじりと間を詰めていった。

 有人宇宙飛行を行い、その延長として月へ人間を送り込む。この過程を()むことはもはやアメリカとソ連の、言外の競争コースとなっていた。

 ケネディが大統領になったのは、昭和36年(1961年)のことである。この頃、フォン・ブラウンたちは有人宇宙飛行に向けて着々と研究を積み重ね、宇宙飛行士を訓練し、準備を行っていた。

 そこへ突如、またしても宿敵・ソ連の驚天動地の成果がニュースとなって世界を飛び回る。

「赤軍中尉ユーリ・ガガーリン、有人宇宙飛行船ボストーク号に搭乗し、地球を一周、無事帰還」

 また出し抜かれたのだ。もちろん、フォン・ブラウンたちも黙ってはおらず、すぐに、(かね)て訓練済みの宇宙飛行士アラン・シェパードを、実績があり安定しているレッドストーン・ロケットに搭乗させて打ち上げ、弾道飛行の後、無事帰還させている。しかし、「打ち上げて落ちてきただけ」の弾道飛行と、地球周回軌道を一周することでは、その意義は大きく異なる。如何にせん、ソ連との差はこれでは覆うべくもない。

 この事態が若い大統領の尻を痛烈に殴打したため、かの有名な施政方針演説がなされたのである。「10年以内に人間を月に立たせる。カネに糸目はつけぬ」と。

 これを受け、ついにフォン・ブラウンは、その人生最大の作品、人間を月に送り込むための超巨大・超強力ロケット、「サターン」の建造に着手することを得たのである。

 フォン・ブラウンはサターンを「I」「IB」「V」と順次進歩させた。最終型のサターンV型は、高さ100メートルを超えるロケットであり、I型の2倍の高さ、6倍の重さを持っていた。運搬能力に至っては10倍に達し、129トンを地球軌道に投入する能力があった。

 ケネディ大統領は昭和38年に撃たれて死んだ。だが、はずみのついたアメリカの宇宙開発計画は、もう止まらない。

 フォン・ブラウンたちは、月を目標にしたサターン・ロケットの建造と並行して、有人宇宙飛行の成果をマーキュリー計画・ジェミニ計画と、着々蓄積していった。無論ソ連も猛然と仕掛けてくる。ついにはソ連、次いでアメリカと、人間の宇宙遊泳が行われた。また両国とも、宇宙空間でのドッキング技術を確立していった。

 しかし、ソ連は少しづつ疲労してきた。それは、ソ連の宇宙開発をただ一人で牽引してきた不屈の男、セルゲイ・コロリョフが昭和41年(1966年)に死去したことが大きく影響している。求心力を失ったソ連の宇宙開発は、徐々にアメリカの追随を許すようになった。

 爆発事故で何人もの人命を失いながらも、フォン・ブラウンたちは前進し続けた。ついに、アポロ8号では月の軌道を有人で周回することに成功し、ソ連に水をあけることができた。

 ソ連はあたかも人間を月に送り込むことは目標としていないように装いながら、それでも実は人間を月面に送り込もうとしていたことが、ソ連崩壊後の資料公開で判明している。しかし、次第に技術でアメリカに後れを取るようになり、失敗が目立つようになっていった。

 昭和44年(1969年)7月20日。3人の大男を乗せたフォン・ブラウンの作品は、無事に月への往還を果たすことを得た。人間が月に降り立ったこの有名な一部始終は、もはやここに書くことを要しないだろう。当時3歳だった筆者も、おぼろにこの時のニュースを記憶している。

 アポロ計画はこの後3年間にわたって行われ、終了した。しかし、これで前進にピリオドを打つフォン・ブラウンではない。逆風の中、スペース・シャトルの基本構想を確立し、それを練り上げていった。しかし、生粋の技術者である彼は、徐々に自分の考えと、政府の宇宙政策とのずれを覚えるようになった。また、次第に意思決定の場から遠ざけられるようになったのである。

 フォン・ブラウンは昭和47年(1972年)、アポロ計画終了の年にNASAを退職し、民間企業で通信衛星を手掛けるようになった。巨大なアポロ計画とは違い、世界の隅々に知識を送り届けることのできる通信衛星は、彼のあらたな生き甲斐となった。だが、この頃からフォン・ブラウンは体調がすぐれなくなったようだ。

 昭和52年(1977年)、フォン・ブラウンはバージニア州アレクサンドリアの病院で癌のため死去した。65歳であった。

 彼が多年にわたり働き、月面に人類を送り出した地、アメリカ合衆国アラバマ州ハンツビルの宇宙センターに、その人生のすべてを賭した作品「サターンV型ロケット」の実機が国宝として手厚く保管されている。また、書斎の復刻や胸像がここに記念されている。

フォン・ブラウンの胸像と筆者
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ハンツビルの宇宙センターにあるフォン・ブラウンの書斎の記念展示
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ハンツビルの宇宙センターに展示されている実物大のサターンV型ロケットの模型
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ハンツビルの宇宙センターには実物のサターンV型ロケットが丸ごと記念館の中に保管され、国宝に指定されているが、大き過ぎて全容を写真に収めることは難しい。下の写真はエンジン部分を根元から見上げて撮ったものだ。

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宰相と長門

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 このところ軍事に関して議論百出し、国会も紛糾しているようだ。議論に取り紛れてもう忘れられてしまっているが、先々週だったか、共産党の委員長がポツダム宣言に関して質問し、総理大臣の答えぶりが少々まずかったというので話題になった。

 「ポツダム宣言」は、日本の歴史に大きく関わる外交資料だ。古今未曾有のものと言ってよい。宰相たる者、自ら宰領せんとする国の重要史料の内容をわきまえていないとはどういうことだ、と、その無知をあげつらう人も多いようだ。

 しかし、戦争前後の出来事に関する知識の多寡(たか)が問題だと言うなら、まあ、戦後生まれの我々世代ごとき、片頬(かたほお)だに政治家を(わら)うことはできないだろう。

 戦後70年になんなんとし、もはや戦争の記憶は風化どころか消滅寸前である。それにつけ込んだ外患勢力が事実歪曲の歴史を創作して流布しようとし、これをまた無批判にうべなおうとしている人が大多数であるように見受けられる。この点、政治家も人々も、あるいは活動家も右翼も左翼も、はた、知識人であろうとバカだろうと、どいつもこいつも似たりよったりなのである。

 無論、かくいう私もまた、そうした衆愚の一人たるをまぬがれぬ。

 屈辱とは、こういうことを言うのだろう。

 カイロ、ポツダム、原爆、戦艦ミズーリ、……などと、最近のニュースをきっかけに考え出すと、とめどもなく思いが乱れ、胸をかきむしられるような物語が連鎖していく。

 共産党の書記長の発言にあったポツダム宣言をきっかけに、私がついそれからそれへと連想した戦艦ミズーリは、今も米国の記念史跡として永久保存が決定され、アメリカ合衆国の栄光と誇りのモニュメントとなってハワイで見学可能である。舷側にはいまだに日本の特攻機が突入した傷を残しているという。

 東京湾に停泊した戦艦ミズーリで、目眩のするようないいかげんな降伏調印──興奮したアメリカ人どもは、世紀の重大調印であるにもかかわらず、署名箇所を間違えていい加減な調印文書を作ってしまい、重光葵以下日本外交団の「このような瑕疵のある文書では、枢密院の審査が通らない」という懇願で渋々文書を作り直したという──が終わり、その後のミズーリ艦上では将兵に対し「誇りというものはこういうものだ。勝利というものはこういうものだ。それをもたらした諸兵らの尽力こそ、合衆国の宝といえるだろう」との訓示が行われたという。

 あまり強くはない将兵を国家挙げての戦略で勝利させ、しかしなお「この勝利は君たちの努力奮闘、勇気によって勝ち得られたものだ、ありがとう!」と褒めてみせる米国。それに対し、劣悪なエリート将校どもが精強純真な兵をこれでもかとぶん殴り、「キサマら徴兵など、一銭五厘のハガキ一枚でいくらでも集められるのだ」と侮辱し、拙劣極まる指揮の下の玉砕、正気とは思えぬ特攻を繰り返し、結局は戦略で敗れた日本。

 こんな対比は、想像するだけで、米国への嫉妬で気が狂いそうになる。

 その後ミズーリは、依然米国による世界戦略の重要欠くべからざる要素として居座り続け、驚くべし、湾岸戦争にいたるまで現役艦として威容を誇示し、ペルシャ湾岸にあってその巨砲弾をおもうさまイスラムの人々に撃ち込んだ。

 嫉妬と情けなさ、悲しさで気が狂いそうになるのはもちろんこうしたミズーリの腹の立つ正義っぷりもそうだが、対する日本の戦艦群がどうであったか、また後世、当の日本人たちが自らの過去をどう言っているかを思う時に耐えられぬところに達する。

 菊水特攻作戦の大和、フィリピン戦の武蔵もそうだが、これらはあまりに有名だから、多くをここでは触れまい。試みに「長門」のことを書いてみよう。

 戦艦長門は大和の前の聯合艦隊旗艦である。

 実は大和のほうは、戦後になって有名になったもので、戦前・戦中は条約違反のことなどもあってその建造や保有が秘密になっており、戦後までその艦名などはあまり知られておらず、単に「聯合艦隊旗艦」などという呼称が一般に流布していたので、この長門が太平洋戦争時の聯合艦隊旗艦であると思い込んでいた国民も多いという。

 およそ3万9千トンを超える排水量、41センチの巨砲を備え、全長は200メートルを超えていた。大正時代の初期に建造された戦艦である。無論、世界的な水準であったことは言うまでもない。当時の日本の技術力を懐疑する向きは多いが、冷静に考えると、航空や造船についていえば、現代よりも戦前のほうが日本の技術力は世界的なレベルにあった。

 この長門は、有力艦として極力温存されたため、終戦時まで稼働状態で残存した。

 私がミズーリと比べて悲しくなるのは、この後である。

 長門は、日本人の矜持粉砕のための見せしめ効果を狙ってか、昭和21年にも至ってから、原爆実験の標的艦となったのである。

 核実験場のビキニ環礁に引き出された長門であったが、日本人精神の、滅びゆく最後の鬼哭慟哭がこもったためだろうか。一発目の原爆「エイブル」をくらって艦体は大きく吹き飛ばされたものの、驚くべし、長門は沈まなかった。

 Wikipediaなどで長門の項目を見れば、巨大なきのこ雲の根本で耐え忍ぶ長門の写真が見られると思う。

 約20日後、二発目の原爆「ベイカー」の炸裂を浴びたが、なお長門は沈まなかった。

 しかし、損傷は大きく、その日、まる1日をかけて、ゆっくりゆっくりとビキニ環礁近くの海底に沈んでいったという。放射性物質まみれとなり、米国人の冷笑を満身に浴びつつ、さながら、一寸刻みに日本人の精神を絞め殺していくような具合に。

 その後、あまり知られていなかった大和のほうは、松本零士が日本人的懐古趣味、屈折した自己犠牲の美しさや詩情を「宇宙戦艦ヤマト」で表現することに成功したが、古い長門は日本人の矜持とともに、どこかへ忘れさせられたままである。

昔のソ連のほうがよっぽど怖かった

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 (かね)てから「新聞ばかり読んでいると、アホになるばかりか、死ぬぞ」なぞという極論、暴言を振りかざしている私である。

 例えば、昨今、新聞記事の影響でか、軍事問題への関心が高まっているように感じられる。日本をとりまく軍事的脅威はますます高まっている、不安だ心配だ、国はなにをやっている、憲法はどうなんだ、官僚は軍備を真面目に整えとるのか、自衛隊はどうなっとるんだ……というような論調に傾いてきたように見えるのだ。

 が、私は、現在の我が国を取り巻く軍事情勢、就中(なかんづく)中国や北朝鮮がどれほど怖いかということは、比較論で言って、昔の対ソ連の時代の足元にも及ばないと思っている。

 ところが、どうも、人々は「昔のソ連や北朝鮮なんか怖くなかった、はっきり言って日本に関係なんかなかった、戦後の日本は戦争を放棄して、安心で安全だった、あの頃はバブルでお金もいっぱいあって幸せだった」と思い込まされているように思う。あるいは、単にその頃若かったか子供だったかして、そういう感覚を持っていなかった、という人もいるかも知れない。

 昔のほうが切実な軍事問題があった、ということには、感覚に訴えやすい好例がある。よく思い出してみてほしい。昔の北朝鮮のほうがよほど怖かった。その例は拉致問題である。

 気の毒にや、日本人が北朝鮮に相次いで拉致されていた頃。考えても見てほしい、かの横田めぐみさんがさらわれたのは、今を去る30年以上も前のことなのだ。今の北朝鮮はさすがに人(さら)いなどしていない。つまり、今の北朝鮮が怖いのではない、「30年前の北朝鮮のほうが現実の意味で怖かった」のである。

 その一方で、30年前の一般の人々の意識はどうであったか。かわいそうに、30年前、拉致の被害者なぞ一顧(いっこ)だにされなかった。自分が30年前、そんなことを問題にしていたかどうか、思い出してほしい。金があった者は財テクなどと言って利殖にうつつを抜かし、かわいそうな拉致の被害者なんかほったらかしだった。北朝鮮だけを例にとってさえ、このとおり、昔のほうが怖かったのだ。

 そればかりではない、ソ連によって日本に照準された核ミサイルはいつでも発射可能な状態に温められ、その数は何百発という途方もない数だった。しかもなお、彼らには上陸戦闘をやってのける潜在力があった。

 韓国も恐ろしく、竹島近辺で拿捕された何百という日本の漁民の中には殴り殺される者すらいた。

 そして、何千万という粛清が続いていることだけが断片的に伝わってくる、国交のない中共の不気味さと言ったらなかった。しかも、中共は昭和39年にはとっとと核実験をすませ、核武装国になりおおせていた。田中角栄大活躍の国交回復後、日本がせっせと献上した金で、せっせと核ミサイルを増備して日本に照準を合わせていたのだから、笑えぬ冗談もいいところだ。

 たとえ日本に直接の関係はなくても、子供の頃、クラスにインドシナ難民の子がいたという人もいるだろう。兵庫県の人には覚えがあると思う。難民キャンプが姫路にあったからだ。ベトナム戦争を持ち出すまでもない。あの頃、人々が国を捨てて逃げ出すようなアジアの戦乱は、即、日本にも指向されておかしくなかった。

 そして、日本に原爆を叩き込んで虐殺の限りをつくし、沖縄の人々を虐げていたアメリカ人を、誰も彼もが大好きという、もう、脳味噌はどうなっているんですかと言わざるを得ない、狂気のような状況に日本はあった。

 昔のほうがよほど、日本とその周辺国がそういう不気味な殺戮の嵐に包まれていたのに、ほんのごくわずかな人しかそれを直視しようとせず、何とかしようという努力を誰もしていなかった。そして、防衛費はGNP比1%の枠に(かたく)なに固定され、軍事問題に理解のない国民が圧倒的大多数を占め、自衛隊は土木作業員か賤民のような地位にしかなく、弾薬すらないありさまだった。

 新聞にそれらの問題が論じられることはまったくなかった。狂気の中でちいさい平和を見つけては、平和経済大国日本万歳とみんながみんな言い続けていた。

 私に言わせれば、むしろ最近は日本をとりまく軍事的脅威の絶対量なんか弱まっている。そうなってから、みんな軍事問題に首を突っ込み出した。

 勝手なものだ。

 アラビア~イスラムと言うけれど、9.11でどれほどの人が死んだか、広島・長崎の10倍も人が死んだのか、アメリカ人もよくよく自問自答すべきだ。

 これらがすべて、新聞の作用によると言ったら、言い過ぎだと非難されるだろうが、私は言い過ぎだと思わない。

 ただ、なにか、私自身がルサンチマンめいたねじれ方をしている、ということは、多少なりとも認めざるを得ないとは思う。

無題雑想

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 なにをどう捻じ曲げたら、「天皇を崇拝する間違った洗脳教育によって戦闘ロボットとなった狂人兵士の集団がカミカゼなどと称して自爆テロを繰り返し、か弱い一般婦女子をレイプし、略奪・虐殺を繰り返し、全アジアを荒廃させたので、これをやめさせるため正義の使命を帯びた神の軍団・アメリカ人が原爆をもって停止させた」ということになるのか、理解に苦しむ私である。

 それをまた、「自省こそ正しい人間としての態度」とでも思うのか、当の日本人がうべなっているのだから、もう、ダメだ。これみよがしに反省して見せて、自分の改善点を教室で大声で発表するなど、それは小学校くらいでしか通用しない。むしろ自らを守る弾除けに、実は反省などしていないけれども反省しているふりを周囲に見せているのだとすると複雑だが、「イチビってる」うちにフリも本当になってしまうのが痛い。

 いっそのこと、もう少し朝鮮人でも見習ったらどうか。

 朝鮮人は日本人と一緒になって嬉々として戦争をしていたはずなのだが、日本が負けた途端戦勝国の名乗りを上げて賠償を請求し始めるというのもワケがわからないのを通り越して憫笑が漏れてしまう。

 いやむしろ、李承晩その他上海臨時政権の寝技の老練さ、土壇場での老獪っぷりに、日本の政治家ももうちょっとこれくらい卑怯になれよとあこがれを覚えるくらいだ。ただ、李承晩は晩節を汚して最後を不遇に過ごした人物でもあり、私は嫌いだ。

 それでも李承晩あたりは昔から日本なんか大嫌いだったわけだから、首尾一貫していたとは言える。その他の朝鮮人一般は、「日本が勝っていればおいしい思いにもありつけたハズだのに、こいつら、よりによって負けやがった。畜生!俺らの苦労はなんだったんだ!カネ返しやがれバカヤロー!」ぐらいの気持ちだろう。賠償の方は日韓基本条約でケリが付いているが、取り足りずに難癖をいつまでもつけているのは、みんなが知っていることだ。

 また、韓国の鉄面皮で恥知らずの傲慢には、朝鮮戦争停戦によって抱え込んだままになっている、70万将兵にも及ぶ強大な軍事力も背景にあると私は思う。いざ本当に日本が怒りだしたところで、自衛隊なにするものぞ、ナニヲコイツメ来るなら来やがれ鎧袖一触いざ相まみえん、というところかも知れない。実際には日韓戦争なんてできっこないし、自国の軍事力を当て込んではいないかもしれないにしても、外交態度などに、知らず知らず有形無形に軍事力の裏付けによる自信が影響を及ぼしていないとは言えないだろう。

 体力のある奴は根拠もなく偉そうになるもので、結局オトコノコは腕っぷしだというわけだ。日本人の体力は、言ってみれば「デブの体力」みたいなもので、喧嘩は強くない。このオタクのデブは、上等の切れ味鋭いナイフなどは、物品愛好癖にまかせていろいろと持っており、なかなか鮮やかな手さばきでクルクルと回したりなどしてみせるが、しかしそんなの、結局喧嘩になど使えないのである。

 「俺はダマスカスの本物のバタフライナイフ持ってんだぜ」「うちの父ちゃんはハンティングが趣味で、家には銃があるんだぜ」などと、小金持ちのデブの息子が中学校で吹聴して回っても、本当に喧嘩の強いヤンキー連中は馬鹿にして鼻でせせら笑うだろう。だって、それで人なんか刺せば本当の人殺しで、むしろ喧嘩の現場にそんなものをちらつかせれば、ルール違反で袋だたきだ。結局こいつはカツ揚げの格好の獲物か、何かあった時に返すつもりもなく申し込む借金の相手にしかならぬ。

 こういうキャラも学校には必要で、居場所もそれなりにあるというものだから、本人がそれでいいと思っていればそれでいいのだが、この位置づけでは級長やヤンキーの首領には永久になれっこない。それで、最近どうも本人は自分の立ち位置が情けなく思えてきて満足していないのだ。

 他方……。台湾の親日ぶりを思う。これを私は喜ばしく見ない。彼らの止むを得ない仕儀なのだと見る。その悲しい大人の選択に同情を覚える。元来蒋介石は大日本帝国の敵で、南京事件のデッチ上げの首謀人物だ。だが、冷徹な政治手腕の持ち主だったからこそ、戦後吉田首相とにこやかに会談する写真も残る。

水の秋の片聞

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PHM08_0362 戦前の日本は航空大国であった。「えっ、そんなバカな?」と思う向きもあるかもしれないが、本当だ。

 わかりやすいところで、子供さんのおられる方や、あるいは自分がお好きな向きは、街の模型屋さんやホビーショップをあらたまった目線で覗いてみるといい。置かれている模型の、半分は戦前の日本の飛行機ではなかろうかと思うくらいである。戦前から戦中、日本がこんなにも多くの種類の飛行機を製造していたのかと目を見張ることだろう。まあ、現代の模型ファンの嗜好にあわせてそうなっているという点も無視はできないが、それでもその数は異様なくらい多い。

 アジアで航空機の自力製造ができた国は、当然と言えば当然だが、戦前には日本だけであった。中国は眠れる獅子というよりもずーっと寝てばかりの雄ライオンみたいなものだったし、いわんや朝鮮半島、東南アジア、南洋、インド、どこの国だって工業なんてものはないも同然だったのである。飛行機を設計し、つくり、飛ばすという、そこまで行き着くことすらできなかったアジアの貧しい状況の中で、大日本帝国だけが異様であった。

 今も、アジアは貧しい。涼しい顔をしているのは中国、韓国、日本くらいなもので、躍進中の中国にしたって、地方の農村戸籍の人たちなど、哀れをはるかに通り越した貧しさだと聞く。ましてや東南アジア、南洋方面など推して知るべしだ。

 そんなアジアの中で、明治以来の日本人の、飛行機を作れるようになるまでの努力というか頑張りというか、その急激な躍進ぶりは、もう、痛々しいくらいである。頬かむりをして田んぼを耕し、米を作って泥鰌をすくっていた人たち、あるいはショーグンの命令一下、カタナでハラキリをしていたような人たちが、黒船の号砲一発でびっくりするや、(くわ)や日本刀を放り出して、あれよあれよと近代工業技術の粋といえる航空技術をわがものにし、またたくまに飛行機を量産するようになったのだから、如何に倨傲(きょごう)の欧米白人といえども当惑せざるを得ない。彼らが、

「これは何かの間違いじゃないだろうか。というか、コピー、そう、コピーだろう!!猿に飛行機なんか作れるわけがないんだから、ジャップの飛行機は全部コピーだ!HaHaHa!」

……と思い込もうとしたのも無理はあるまい。しかもなお、その猿の数多の飛行機が太平洋を横切ってきて、一発パール・ハーバーをやらかして見せたのだから、我を忘れて激怒もしようというものだ。「猿のくせに、ナニヲ!」というわけである。仕返しの原爆はいくらなんでもやりすぎだったが……。

 さて、そんな戦前の日本の飛行機だが、昭和期も十年代に入ってからの陸軍、次いで海軍の飛行機の命名が、漢籍風・国風で、なんともいえない味わいのあるネーミングなのだ。昭和15年(1940)頃までは、ご存知の「零式艦上戦闘機」だの「97式戦闘機」だのと、味も素っ気もないナンバリング命名だったのだが、この頃以降になると制度が変わり、渋い名前を付けるようになった。

 私が覚えている限りでも、隼・鍾馗・飛燕・疾風・屠龍・呑龍・飛龍、雷電・紫電・紫電改・強風・烈風・銀河・流星・彗星・彩雲・紫雲・櫻花・梅花・橘花・秋水…等々、すばらしいネーミングの数々なのである。

 今、上にずらりと挙げた中で、最後に「秋水」というのがある。

 このロケット局地戦闘機そのもののことは、別のサイトでマニアの方々が深く語り尽くしているので、あらためてここでは触れまい。私としてはちょっと変わって、「秋水」という言葉そのものについて触れたい。

 私がいつもリツイート・シェア等している「今日の季語」というのがある。これはツイッターで林さんという方が、かれこれ1500日以上も休まず折々の俳句の季語を紹介しておられるものだ。林さんは大学の教員を定年でお辞めになった方だそうである。その今日の季語が、この「秋水」なのである。

 今日の季語のほうは上記URLでご覧いただくとして、あらためて手元の歳時記(角川のもの)を繰ると、次のように書いてある。

【以下引用】

秋の水  秋水 水の秋

 秋の水は透明で美しい。その曇りのないさまは、研ぎ澄ました刀の譬えにも使われる。「水の秋」は水の美しい秋を讃えていう。

(例句は抜粋)

秋水の(ひかげ)ることのまたはやし  倉田紘文

秋水がゆくかなしみのやうにゆく  石田郷子

【以上引用】

 「研ぎ澄ました刀の譬え」「曇りのないさま」といった季語の本意が、今は悲しく心に響かないだろうか。

 旧海軍が終戦間際に作ったロケット戦闘機の命名を「秋水」とした本意がどこにあったかは、今となっては不明ではある。

 あげて徹底抗戦を唱え、数千人という乗組員もろとも戦艦大和を特攻に差し向けて死なせるという暴挙に出た海軍といえども、やはり内心、軍人ひとりひとりの心の中に、もうこの戦は長くはない、という意識は、やはりあったものと思う。

 そうした意識が、知らず知らず、崩壊してゆく航空大国・大日本帝国への名残惜しさとなって、詩情横溢するこの季語を、その終末期にあたって出てきた特殊な戦闘機に付けさせたのではあるまいか。

 このように思ってから、まさか作者は戦闘機のことを詠んだのではあるまいけれども、例句の二つ、

秋水の(ひかげ)ることのまたはやし  倉田紘文

秋水がゆくかなしみのやうにゆく  石田郷子

……これを鑑賞すると、なんとも言えぬ懐古の情、秋の詩情があふれる気がする。