「近しい」と「……てあげる」って言うのやめろ(笑)

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 最近気になる流行の言い方に、標記の二つがある。ドイツもフランスも、……いや違ったドイツもコイツも「チカシイ間柄」だとか「このネジをキュッと締めてアゲル」などと言っている。

 どっちも変だし、おかしいからやめてほしい。

近しい

 「近い」は活用して確かめて貰えば誰にでもわかることだが、「近かろう・近かった・近い・近いとき・近ければ」で命令形はなし、つまり典型的な形容詞だ。語幹は「ちか」であり、「ちかし」ではない。

 同じような形容詞に「赤い」がある。「赤かろう・赤かった……」と活用するが、「赤しかった」などと言うだろうか。言わない。同様に、「(かゆ)い」という言葉を「痒しい」などと言うだろうか。言わない。「正しい」という言葉を「正しし(・・)い」などと言うだろうか。絶対に言わない。

 「何々しい」というふうに使う言葉には、例えば「いたましい」がある。しかしこれは、「いたむ」という動詞を形容詞的に変化させて使うものである。元の言葉が形容詞であるわけではない。

 「(した)しい」という言葉があるが、「近しい」なんていうのと同じ言葉ではない。「親しみ」「親しむ」というふうに、名詞的にも動詞的にも使う幅広い言葉である。「近しい」を使う人に言いたいが、「親しみ」「親しむ」と同じように、「近しみ」「近しむ」と口に出して言ってごらんなさい、そんな言い方はないでしょう?

 他に、「おいしい」という言葉もある。だが、これは語幹が「おいし」で、活用語尾が「い」だ。「おいしかろう・おいしかった・おいしい・おいしいとき・おいしければ」で命令形なしである。「し」は語幹に含まれる。「おいしい」の「し」を取り除いて「おいかろう・おいかった・おいい・おいとき・おいければ」などと活用するとまったく成り立たないのは明らかだ。だから、「近い」で成り立つものに無駄な「し」を入れた「近しい」とは根本的に違う。

 もっと(あげつら)ってみよう。「近い」の反対の言葉に「遠い」がある。「近しかろう・近しかった・近しく・近しい……」なんていう変な言い方書き方があるのなら、「遠しかろう・遠しかった・遠しく・遠しい……」などという「遠い」の活用が許されなければならぬ。「遠しい親戚」だの「遠しい街角」だのというものの言い方・表現はあるだろうか。……いや、断じてない。

 こう考えてくると、だからやっぱり、「近しい」なんていう言い方・書き方は変だ。「近い間柄」とか、もし言うなら「(した)しい間柄」とすべきものだ。

 歴史的に「近しい」と著述した文筆家はいるのかも知れないが、これは「揺れ」の(たぐい)だろう。

あげる

 昔は小児科で「先生がくれたお薬を赤ちゃんにあげたら……」(正しいのは「頂いたお薬を息子に()ませたら」とか「先生が下さったお薬を子供に与えましたところ」等でしょうね)なんていうスットコドッコイな日本語を使う若いお母さんが笑いぐさになってしまったものだが、最近の「アゲル」は違う。モノであろうと現象であろうとお構いなし、美容師から学校の先生から大工さん、IT技術者、料理人まで、全員「アゲル」だ。特に説明者に多いようだ。

「この残りの髪をピンでとめてアゲル

「共通項の二乗の部分を消去してアゲテ、ルートでくくってアゲル。」

「ここで釘を打ってアゲル

「で、コンストラクタをオーバーライドしてアゲテ……」

「大根は面をとってアゲテ、十字に切れ目を入れてアゲマス。」

 だ~~~ッ!!

 ……ええい、誰も彼もアゲルアゲテアゲマスだの言ってやがって、鬱陶(うっとう)しいんじゃ!

 「ピンでとめる」「消去して、ルートでくくる」「釘を打って」「オーバーライドする」「面をとって」「切れ目を入れます」と言えんのかあああ!(笑)。

 はあ、ふぅ……落ちつけ、俺。

 まあ、言葉と言うのは、時代により人により、(ゆる)やかに変わっていくものだということは否定できない。だから私も、興奮せずに寛容でありたい。

 だが、極端に変なものや、誰にでもわかるようなルールに沿っていない変化には、注意深く向き合っていくべきものだろう。

「支える」異考

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 昔の言葉や文章にはあまり出てこないが最近はよく見かける、というような、「流行の言い回し・書きっぷり」というのは、たしかに、ある。どこにも取りざたはされていないが、静かに流行する言い方、書き方だ。間違った言い方とまでは必ずしも言えず、だが、なんだか、古い向きはそこで一見無意味にひっかかり、考えてしまう、というものだ。

 例えば、いわゆる「商業丁寧語」というものにそれらを多く見つけることができる。

「食器をお戻し『いただけますよう』お願い申し上げます」
「こちらが設計書に『なります』」

というのがよく気になる。「台風が上陸する『可能性』があります」とアナウンサーが言うのも、私にとってはそのひとつだ。

 そんな中に、スピーチなどでよく気になってしまう言い方がある。

「私はその時、ほんとうに上司、また部下に支えられていると思い、元気を貰って…云々」

 この言い方のどこが気になるかというと、「上司に『支えられ』ている」というところである。「…を貰う」というのも、少し気になるが、まあこれは単純な流行と思いたい。

 言葉というのは世と人により、生き、生かされているものであり、変化していくものであってみれば、そこをさながら老人めかして「最近の若者は」などと言わぬばかりにあげつらうことはすまい。

 ただ、「上司に『支え』られる」とはいかがなものか、と思うのだ。

 事実上は本当に支えてもらったのかも知れない。また、実際の上司の気持ちのあり方と姿勢というものもあるだろう。しかしここでは、それは別にしたい。

 上司というものは「上」にある。したがって、引き上げ、あるいは鞭撻するものであって、部下の体の下側に回って「支える」というものではないのではなかろうか。上司の側から「支えてやった」というのはまだいいとして、部下の側から「上司が私を支えた」と当然のように言い放つのはやっぱり違うと思う。

 言葉の上のことでなく、実際の行動で言えば、まあ、あんまりにも上のほうに君臨してばかりいて、指図だけしてまったく手など動かさず、部下の上にどっかりと打ち跨り、それこそ「支えさせて」ばかりいる上司というのは、それは感心しない。だが、日本語は人の上下関係が入る言葉なのである。

 私のこのムズムズした感じは、病院で「センセイがくれた薬を赤ちゃんに上げたら、…」と話している奥さんの言葉に違和感を覚えた時のものと似ている。そりゃあ、お医者さんだからと言って患者より無条件に目上だということはなかろうし、赤ん坊にもれっきとした人格はあるだろうけれども、ここはやはり、先生が「下さった」薬を赤ん坊に「与えた」「やった」「飲ませた」のではなかろうか、と思うのである。