2の(べき)乗漫話

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 このエントリの話は、別のエントリで、少し脚色して、別の話にして書いたことがある。下のリンクの通りだ。

 今回書くのは、上リンクのエントリの元になった話である。

先祖の数とビット数

 ある日、ある時、ある場所で、ある人が次のような話をした。 “2の(べき)乗漫話” の続きを読む

時事漫考

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いや、これは既に2千年もの昔に

 ああ、これ、ねえ。別に「最近」ってことはないんじゃないかな。「『産んでやった』『育ててやった』とか、恩を売るようなことを言うなら、なんで生んだんだ!お前らが勝手にしたことだろ!?」なんてことは、親に反抗する子の常套句で、取り立てて言うほどのことではない。

 それはさておき、出生の否定は人生の否定、ひいては世界の否定でもある。私はキリスト教の回し者ではないし、キリスト教なんか嫌いだが、このことに関する解決の無視すべからざる有力な一方策は、既に2千年の昔、ナザレの大工の息子、ガラリヤの説教師、イエスによって提示されている。

 そのいわく、「世界は悲痛や苦悩でできてはいない。喜びによって満たされている」すなわちこれである。ただ、その根拠について、キリスト教は強引なる(ちから)(わざ)()()せて有無(うむ)を言わせない。つまり「なんとなれば苦悩の根源たる人類のあらゆる罪はイエスが磔刑(たっけい)によって全部負ったから、あとは神の恵みによる歓喜のみが世界に満ち(あふ)れている」()って知るべし、知らば()(こん)より(のち)神の(おん)(ちょう)と光栄に包まれて(しろ)無垢(むく)の幸福そのものとなって()るべし、という破天荒かつ思考停止の論で片付けてしまっているのだ。

 実は仏教も似たり寄ったりのことを別の経路で発見・定義・教示しており、各宗派によってそれは様々なのであるが、悲しいことに我々日本人には中途半端なキリスト教気触(かぶ)れが多いから、当て(こす)ろうと思ってこういうふうに書いてみた。

 ところが、哲学者が(ヨダレ)()らして(くら)い付くこの問題の検討については、欧州では結局キリスト教が上のような一解決を提示して、それが大衆ウケしたものだから停止してしまい、プラトンだのアリストテレスだのの時代からプッツリ断絶、概ね1500年間がところ、ただの一歩も進歩しなかった。

 悪いことに、新教(プロテスタント)(かえ)って古いキリスト教の原理を再興してしまったから、ますますややこしいことになるのであるが、それはまた別の話である。

 結局、欧州で数百世紀にも及んだ図らざる集団的宗教実験はあまり成功していない、などとと吐き捨てるのは急ぎ過ぎだろうが、では他に納得のいく解決の選択肢が欧州の人々に与えられているかと言うとどうも怪しい。まして欧州以外においてをや。「選択肢が与えられているかというと」と書いたが、「与えられる」? 誰から? ……みたいな堂々巡りにもなるだろう。

 いずれにせよ、苦悩の解決に自ら到達する前に、圧倒的大多数の人間は長かろうと短かろうと命が尽きて死ぬわけだ。

 私ですか?

 私なんぞ、誰かに責任をおっかぶせて何かから逃れようなんてことは、とうに、してませんわ。いや、正確に言うなら、そんなことができる状況に、昔ッから、ない。だから幸福も歓喜もヘッタクレも、また苦悩も悲痛もクソも、そんなモン、アナタ(微苦笑)。そもそも誰かに責任をとらせよう、さて誰に責任を取らせよう、なんて選択肢の置かれた岐路自体が、私にはハナっから、ない。

 出生なんて所詮は親の恣意(しい)でどうにでもなる。ということは、この苦悩の始まりの出生や悲痛の連続の人生の責任者は誰だ! というふうに転嫁したい、責任者糾弾をしたい、例えばそれを親に向けたい。つまり人生の否定、出生の拒否なんてものは「ボクの、アタシの苦悩は親がスタートさせたんだ」と言うしょうもない屁理屈と同じこと。自分の悩みの責任を、パパ、ママ、あるいは坊主、和尚、神父、牧師、アッラー、エホバ、仏陀、阿弥陀、大日、観世音、ガースー内閣、アベ政治、麻原彰晃に幸福の科学、(イワシ)の頭、学校、教師、干しニンニクでも投げ上げ菖蒲(しょうぶ)でも心療内科クリニックでも精神病院でも市役所でも警察署でも、ドイツでもコイツでも何でもエエけど、とにかく手っ取り早く誰かにとってもらいたい、結局、ボクの、アタシの責任じゃないんだ! ……せいぜいその程度の、小学校の高学年あたりが顔を真っ赤にして言い立てそうなことだよ。

 餓鬼みたいなこと言ってンじゃねえよ。……あ、文字通りガキか。

 まあ、あくまで私にとっては、ではありますけどね。だからこんな暴論めいた自分流の解決を、自分の妻や子供も含め、誰かに押し付ける気もないですわ。「反出生主義」なるほど、ええ、ええ、結構なことじゃないですかね、おお、ヨシヨシ、オジサンが聴いてあげるよネンネちゃん、ってなモンですわ。

 あんまりにも無残で(すさ)んだ文章の成り行きになってきたから、皆さんがだ~い好きな、イエス・キリストの言と伝わる一句を書きつけて締めておきましょう。

マタイ傳福音書第6章第25節・第26節より引用。ルビは佐藤俊夫による。

 この(ゆえ)(われ)なんぢらに告ぐ、何を(くら)ひ、何を飮まんと生命(いのち)のことを(おも)(わずら)ひ、何を()んと(からだ)のことを思ひ煩ふな。生命は(かて)にまさり、體は(ころも)(まさ)るならずや。

 空の鳥を見よ、()かず、刈らず、(くら)(おさ)めず、(しか)るに(なんじ)らの天の父は、これを(やしな)ひたまふ。汝らは(これ)よりも(はるか)(すぐ)るる者ならずや。

新年御祝儀相場でこんなに下げなら……キッシッシ

 大発会でこれなら、明日以降なかなか期待が持てるな。

「『期待』だと?」

……ええ、そうです。ほぼ全力売り中ですゴメンナサイ。

こんだけデジタルがいろいろあっても

 まあ、そりゃ、そうなんだろうねえ……。

 理由もヘッタクレも、下世話で恐縮だが、若い人には性欲ってモンも、そりゃ、あるからねえ。会わなきゃそれこそ「始まらない……」わけではある。単純(シンプル)そのものの話ですわ。天下の大新聞がンなこと書けやしないだろうけれども。

読書訥々(とつとつ)

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 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」を読んでいる。

 この巻の4つ目の収載作品、「禅の第一義」(鈴木大拙著)を帰りの電車の中で読み終わる。

 鈴木大拙師は第3巻の「無心と言うこと」の著者でもあり、昨年の初秋、8月末に読んだところである。

 全部文語体で書かれた古い著作ではあるが、平明に書かれてあり、わかりやすい。ただ、「什麽(そも)」だの「恁麼(いんも)」だのと言った禅語が何の解説もなくポンポン出てきたり、返り点などは打ってあるものの、延々と漢文が引用されたり、「常にこの心がけあらざるべからず」みたいな否定の否定の言い回しが多く、そういうところに限っては(はなは)晦渋(かいじゅう)というか、実にわかりづらい。

 そうはいうものの、私も含め、いまや「ナンチャッテ欧米人」とでもいうべきヘンチクリンなものになってしまっている日本人にとって、遠く明治の頃に十数年以上も欧米に在住して西洋の思想を吸収し、東西宗教の深い理解の上に立って欧米に禅の思想を普及した鈴木大拙師の論は、西洋思想を例にとるなどしながら述べているところなど、かえってわかりやすいかもしれない。

 本論中では、繰り返し繰り返し、「禅は学問ではなく、哲学でもなく、(いわん)や精神修養や健康法などではない」「学問~哲学が目指す『分別(ふんべつ)()』こそ、禅と相容れないものの極北である」「体験こそが禅である」ということを力説している。

 他に、(たん)()(しょう)の記述などにも的確に触れつつ「他力・自力の相違こそあれ、浄土宗ないし真宗と、禅は根本において同じ」と(かっ)()してみたり、キリスト教の教義を()(てき)概括(がいかつ)した上で、「キリスト教にも根本(こんぽん)において禅と同じ部分が多く認められる」という意味のことをも指摘しており、師の(ふところ)の深さ、幅の広さに(きょう)(たん)せざるを得ない。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」のうち、「禅の第一義」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.376より

換言すれば、仏陀は仏教の開山、元祖というべく、キリストはキリスト教の本尊となすべし。実際をいえば、今のキリスト教を建立したるはキリストその人にはあらずして、その使徒中の元首ともいうべきパウロなり。これを呼びてキリスト教といえども、あるいはパウロ教というほう適切なるべし。キリストのキリスト教における関係は仏陀の仏教における関係と同一ならざること、これにて知るべし。

 上の喝破から、鈴木大拙師の、他宗派のみならず、他宗教への該博な理解と知識が、あふれんばかりに伝わってくる。実際、引用箇所の周辺の1ページほどで「キリスト教の大意」と一節を起こし、手短(てみじか)にキリスト教について述べているが、これほど端的・適確・至短なキリスト教の解説を、私はこれまでに見たことがない。

言葉
咄、這鈍漢

 読みは「(とつ)這鈍漢(はいどんかん)」で、「咄」というのは漢語で「オイオイ!」というほどの意味である。

 「這鈍漢」というのが、これがサッパリわからない。ネットで検索すると中国語の仏教サイトが出て来る。それも「這鈍漢」ではなくて「這漢」と、微妙に違う字だ。

 意味がわからないながらも、前後の文脈から「これこれ、愚か者め」「オイオイ、このスットコドッコイが」くらいの意味ではないかと思われる。

下線太字は佐藤俊夫による。p.363より

もし釈迦なり、達磨なりを歴史のうちから呼び起こしきたりて、我が所為を見せしめなば「咄、這鈍漢、何を為さんとするか」と一喝を下すは必定なり。

盈つ

 「()つ」と()む。「満つ」「充つ」とだいたい同じと思えばよい。音読みは「ヨウ」「エイ」の二つで、「盈月(えいげつ)」というようなゆかしい単語がある。盈月は満月と同じ意味で、蛇足ながら対語に「()(げつ)」という言葉があり、これは「欠けた月」のことである。

  •  (漢字ペディア)
p.364より

「道は冲なり、而して之を用ゐれば盈たざることあり、淵乎として万物の宗に似たり」

清霄

 「清霄(せいしょう)」と読む。「霄」は空のことで、よって「清霄」とはすがすがしい空のことである。

p.368より

「江月照らし、松風吹く、永夜の清霄何の所為ぞ。」

燬く

 「()く」である。「焼く」と同じ意味であるが、(つくり)が「(こぼ)つ」という字になっている点からわかる通り、「激しく焼いて壊してしまう」ような意味合いが強い。

p.371より

丹霞といえる人は木像を燬きて冬の日に暖をとれりといえど、その心には、尋常ならぬ敬仏の念ありしならん。

剴切

 「剴切(がいせつ)」と読み、形容動詞である。意見などが非常に適切なことを言う。

p.374より

 しかしかくのごとき神を信ずるだけにては、キリスト教徒というを得ず、そはキリスト教の要旨は神のうえにありというよりもキリストのうえにありというがむしろ剴切なればなり。

一踢に踢翻す

 「一踢(いってき)踢翻(てきほん)す」と読む。「踢」という字は訓読みで「()る」と訓み、「蹴る」と大体同じである。

 で、「一踢に踢翻する」というのは「ひと蹴りに蹴っ飛ばしてひっくり返す」が文字通りの意味であるが、使われている文脈には「一気に脱し去って」というくらいの意味で出てくる。

p.378より

何となれば禅の禅とするところは、よろずの葛藤、よろずの説明、よろずの形式、よろずの法門を一踢に踢翻して、蒼竜頷下の明珠を握りきたるにあればなり。

 それにしても、「一踢」「踢翻」などという単語で検索しても、中国語のサイトしか出てこないので、日本語の文章でこんな難しい単語を使うことはほとんどないと言ってよく、一般に出ている書籍では、多分、仏教書を除いては、鈴木大拙師くらいしか使っていないだろう。……あ、そうか、この作品、仏教書か。

倐忽

 「倐忽(しゅっこつ)」と読む。「(しゅく)」も「(こつ)」も「たちまち」という意味があり、よって「倐忽」というのは非常に短い時間、またたくまに、というような意味である。

p.379より

我いずれよりきたりて、いずれに去るか、わがこの生を送るゆえんは何の所にあるか、かくのごときの疑問みな倐忽に解け去る。禅の存在の理由はまったくこの一点にあり。

氛氳

 これもまた、こんな難しい字、見たことがない。「氛氳(ふんうん)」と読み、盛んで勢いが良い様子を表す形容動詞である。

p.380より

また万物の底に深く深く浸みわたれる一物を感じたるごとくにて崇高いうべからず、しかしこの一物は、いまや没し去らんとする太陽の光明と、かぎりなき大海と、生々たる氛氳の気と、蒼々たる天界と、またわが心意とを以ってその安住の所となせり。

乾屎橛

 「(かん)()(けつ)」と読む。禅宗ではよく使う言葉だそうである。意味は、「ウンコ」と、昔ウンコをぬぐい取るのに使った「クソべら」の両方の意味がある。しかも、乾いて下肥(しもごえ)にすらならないようなブツのことを言う。「クソべら」もこびりついたウンコが乾いてカチカチになってしまっていると、尻を拭う用には立たない。「乾」いた、「屎」すなわちクソ(『()尿(にょう)処理車』などという言葉があるが、ここからも『屎』とはクソ、『尿』とはオシッコであることがよくわかる)の、「橛」、これは「棒」というような意味があるが、そういう()(づら)の単語である。

 それにしても、仏教書にして、なんでまたこんな()(ろう)な言葉が出て来るのか。

 それには(わけ)がある。禅寺ではなにかと極端な(たと)えを持ち出して問答し、そこから電光のような霊感を得ようとするのが修行のひとつなのだ。そんな問答、つまり、いわゆる「禅問答」のひとつに、

問 「仏とは何か」
答 「ウンコと同じである」

……というような、非常に深い(笑)極端な問答があるのだ。形の上では文語体の問答で、

問 「如何なるや(これ)、仏。」
答 「乾屎橛。」

……などと短い問答をするわけである。これぞ、知る人ぞ知る「禅問答」というもので、ある意味象徴的、代表的な極端な例と言えるだろう。

p.383より

凡夫と弥陀とを離してみれば、救う力は彼にあり、救わるる機はこれにありとすべからんも、すでに「一つになし給い」たるうえよりみれば、不念弥陀仏、南無乾屎橛、われは禅旨のかえって他力宗にあるを認めんと欲す。

竭くす

 「()くす」と訓む。「あるかぎり振り絞る」ということで、「尽くす」でも同じ意味と思えばよい。

p.386より

 ここに眼を注ぐべきは全体作用の一句子にあり、全体作用とはわが存在の一分をなせる智慧、思量、測度などいうものを働かすの謂いにあらず、全智を尽くし、全心を尽くし、全生命を尽くし、全存在を尽くしての作用なり、一棒一喝はただ手頭唇辺のわざにあらず、その身と心を竭くし、全体の精神を傾注してのうえの働きなり。

卓つる

 ここでは「()つる」と訓む。ネットの漢和辞典にはそんな訓みは出てこないが、私が持っている「大修館新漢和辞典改訂版」(諸橋轍次他著)には「たかい」「とおい」「すぐれている」という意味の他、「たつ。また、立っているさま」との意味があると書かれている。よって「()つる」の訓みに無理がないことがわかる。

 この「卓つる」という言葉は「臨刃偈」という有名な禅句のなかで使われており、本作品中ではそれを引用している。

ルビは佐藤俊夫による。p.389より

 昔、仏光国師の元兵の難に逢うや、「乾坤(けんこん)()(きょう)()つる()なし、(しゃ)()すらくは(ひと)(くう)(ほう)もまた(くう)(ちん)(ちょう)大元(だいげん)(さん)(じゃく)(つるぎ)電光影(でんこうえい)()(しゅん)(ぷう)()る」と唱えられたりと伝う。

 もとの漢文は次のとおりである。

臨刃偈
乾坤無地卓孤笻
且喜人空法亦空
珍重大元三尺劍
電光影裡斬春風

 仏光国師こと無学祖元は鎌倉時代に日本に来た中国僧である。日本に来る前のこと、元軍に取り巻かれ、もはや処刑されるばかりになった。いよいよ危機一髪の時、元兵の剣の前で(臨刃)これを詠じ、刎頸(ふんけい)(まぬが)れたと伝わる。

佐藤俊夫試訳

(そら)(つえ)など 立ちはせぬ
人は(くう) 法も(くう)とは 面白(おもしろ)
さらばぞ(げん)の 鬼武者よ
わしの首なぞ ()ねたとて 稲妻が斬る 春の風
錯って

 「(あやま)って」と訓む。「錯誤」という言葉があることから、「錯」という字にはごちゃごちゃにまじりあうという意味の他に、「まちがえる、あやまる」の意味があることが理解される。

p.393より

這個の公案多少の人錯って会す、直に是れ咬嚼し難し、儞が口を下す処なし。

 「()」と読む。意味は「(いき)」と同じと考えてよい。

 禅における呼吸法について解説しているところに出てくる。

p.403より

 「胎息を得る者は能く鼻口を以て噓吸せず、胞胎の中に在るが如くなれば則ち道成る。初めはを行ふことを学ぶ。鼻中を引いて之を陰に閉ぢ、心を以て数へて一百二十に至る。

跼蹐

 「跼蹐(きょくせき)」と読む。「跼」はちぢこまること、「蹐」は忍び足で恐る恐る歩く様子を言う。そこから、おそれかしこまり、ちぢこまっている様子を「跼蹐」という。

p.454より

しかも性として見らるるものなく、眼として見るものなし、禅はもと分別的対境のなかに跼蹐するものにあらざればなり。

 次はこの巻最後の収載作品「生活と一枚の宗教」(倉田百三著)である。著者の倉田百三については、第3巻の「愛と認識の出発」の著者でもあり、これも昨年の晩夏、8月のはじめに読んだところだ。

読書

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 なかなか梅雨が明けず、相変わらずよく降る。しかし、窓外の雨を時折眺めては、安らかに座って読書するのもなかなか楽しい。と言って、私の読書時間のほとんどは通勤電車内なのであるが……(苦笑)。

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集、全38巻のうち、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」を読んでいる。

 第9巻最後の「後世への最大遺物」(内村鑑三著)を帰宅後の自宅で読み終わった。朝の通勤電車内でこのひとつ前の「信仰への苦悶」を読み終わった後そのまま続けて読み、帰りの通勤電車内でも読み、帰宅後読み終わった。この「後世への最大遺物」は短い著作であったから、「信仰への苦悶」と(あわ)せ、その日のうちに二つの作品を読み終えた。

 著者内村鑑三は他に、「余は如何にして基督信徒となりし乎」など、キリスト者としての著書が有名である。私も、若い頃「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読んだことがある。

 一方、本著作は明治時代に著者内村鑑三が行った講演の講演録であるが、「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読んだときにはわからなかった、著者の漢学・国学に対する深い理解がわかって少し驚いた。「余は如何にして基督信徒となりし乎」は著者が英文で著したもので、私の読んだものは岩波の翻訳であったから、そういうことがあまり現れていなかったのである。

 そのことの表れであろう、この本の書き出しは、頼山陽の漢詩の引用から始まる。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「後世への最大遺物」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.510より

もし私に金を溜める事が出来ず、又社会は私の事業をする事を許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持つて居ます。何んであるかと云ふと、私の思想(、、)です。

p.510より

文学といふものは我々の心に常に抱いて居るところの思想を後世に伝へる道具に相違ない。それが文学の実用だと思ひます。

p.517より

我々の文学者になれないのは筆が執れないから成れないのでは無い、我々に漢文が書けないから文学者になれないのでも無い。我々の心に鬱勃たる思想が籠つて居つて、我々が心の儘をジヨン・バンヤンがやつた様に綴ることが出来るならば、それが第一等の立派な文学であります。

p.520より

 それならば最大遺物とは何であるか。私が考へて見ますに人間が後世にのこす事の出来る、さうして是は誰にも遺す事の出来るところの遺物で利益ばかりあつて害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思ひます。是が本当の遺物ではないかと思ふ。他の遺物は誰にものこす事の出来る遺物ではないと思ひます。而して高尚なる勇ましい生涯とは何であるかといふと、私がこゝで申す迄もなく、諸君も我々も前から承知して居る生涯であります。即ち此の世の中は是は決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であると云ふ事を信ずる事である。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずる事である。此の世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるといふ考を我々の生涯に実行して、其の生涯を世の中の遺物として此の世を去るといふことであります。其の遺物は誰にも遺すことの出来る遺物ではないかと思ふ。

言葉
天地無始終、人生有生死

 訓読みは「天地に始終なく、人生に生死あり」である。

下線太字は佐藤俊夫による。p.496より

天地無始終、人生有生死」であります。然し生死ある人生に無死の生命を得るの途が供へてあります。

 これは本書冒頭の「改版に附する序」で述べられている言葉で、巻末の鈴木敏郎による解説にある通り、頼山陽が13歳の時に作った漢詩、

p.530(鈴木敏郎による解説)より

十有三春秋、逝く者はすでに水の如し、天地始終無し、人生生死有り、いずくんぞ古人に類して、千載青史に列するを得ん

述懐

十有三春秋
逝者已如水
天地無始終
人生有生死
安得類古人
千載列青史

……からの引用である。

 このエントリの最初の方で私が述べた、著者の漢学などへの深い理解がわかった、ということがこのあたりに表れている。

埃及

 「埃及(エジプト)」である。「埃及」という字を音読みすると「あいぎゅう」であるが、一方、ギリシア語では「エジプト」を「アイギュプトス Αἴγυπτος, Aigyptos」、ラテン語では「エージプタス Aegyptus」と(なま)ったらしい。ギリシア語の()(づら)は「エジプトス」とも読めるから、漢語の音写で「埃及(あいぎゅう)」と書いて「エジプト」だというのも納得のいくところだ。

p.499より

丁度埃及の昔の王様が己れの名が万世に伝はる様にと思うて三角塔(ピラミツド)を作つた、即ち世の中の人に彼は国の王であつたと云ふことを知らしむる為に万民の労力を使役して大きな三角塔を作つたと云ふやうなことは、実に基督信者としては持つべからざる考だと思はれます。

迚も

 「(とて)も」と()む。

p.511より

併し山陽はそんな馬鹿ではなかつた。彼は彼の在世中迚も此の事の出来ない事を知つて居たから、自身の志を日本外史に述べた。

匈牙利

 「匈牙利(ハンガリー)」である。日本語表記では「洪牙利」で、一文字で書く場合も「洪」「洪国」なのであるが、中国語では「匈奴の国」というほどの意味合いで「匈牙利」と書くのである。

p.512より

それが為に欧羅巴中が動き出して、此の十九世紀の始に於てもジヨン・ロツクの著書で欧羅巴が動いた。それから合衆国が生れた。それから仏蘭西の共和国が生れて来た。それから匈牙利の改革があつた。それから伊太利の独立があつた。実にジヨン・ロツクが欧羅巴の改革に及ぼした影響は非常であります。

仮令

 そのまま音読みで「けりょう」等とも読むが、ここでは「仮令(たとい)」である。

p.519より

仮令我々が文学者になりたい、学校の先生になりたいといふ望があつても、是れ必ずしも誰にも出来るものでは無いと思ひます。

 第9巻はこれで最後、次は第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」である。第9巻は一巻これすべてキリスト教であったが、第10巻は見た通り仏教がテーマである。

読書

投稿日:

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集、全38巻のうち、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」を読んでいる。

 4つ目の「信仰への苦悶」(J・リヴィエール Jacques Rivière 、P・クローデル Paul Claudel 著、木村太郎訳)を行きの通勤電車の中で読み終わった。

 この本は、あるファンレターが詩人ポール・クローデルのもとへ送られてきたことから始まる。

 クローデルはフランスの外交官だが、詩人としての声名が高く、数々の名作を残している。だが、その姉が「分別盛り」などの彫刻作品で知られる天才彫刻家、かのロダンの愛人にして弟子、カミーユ・クローデルであると知ると、この方が知る人は多いかもしれない。

 ファンレターの送り主は、後年評論家として名を成すジャック・リヴィエールであった。彼はこの時若干20歳、一方ファンレターを送り付けられたリヴィエールは38歳の不惑近い年である。そんな酸いも甘いも噛み分けたような、年上の有名詩人に、ずけずけと正直に、しかも取り留めなく、今のTwitterなどでの作者と読者のやり取りで言えば「何この粘着野郎」とでもいうような、グダグダしたファンレターをクローデルに送り付け、多分「勝手に」であろうけれどもクローデル作品の評論を雑誌に書いたり、随分失礼なファンである。

 ところが、クローデルはこの変なファンに真摯に向き合い、敬虔なカトリック信者らしく寛容と落ち着きのある返信を(したた)めた。その書簡往来は何年にもわたって続き、クローデルはリヴィエールの変な苦悩に年上らしい助言を与え、(あまつさ)え就職の面倒まで見てやっている。

 往復書簡の内容は主としてキリスト教、就中(なかんづく)カトリック信仰に関するリヴィエールの苦悩の吐露と、それへのクローデルの励ましや助言から成っているが、それを除いても、上のような両者の関係性、書簡を通じて結ばれる深い付き合い、年齢差を超えた友情がとても興味深いものであった。

言葉
セプティシスム

 Scepticism。懐疑主義・懐疑論のことである。「ドグマ(基本的原理)に対する挑戦」というふうな理解でだいたい合っていると思う。

平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「信仰への苦悶」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
下線太字とルビは佐藤俊夫による。p.449より

私をルナンやグールモンの方へ追いやることが、どんなに間違っているか知っていただけたら! グールモン、あの憐れむべき生理学者の方へ! おそらく私は、セプティシスムの外見によって、そうした同一視の口実を与えたのでしょう。しかし私のセプティシスムは情熱的で、盲目で、緊張しています。

 

アデステ

 讃美歌中の一曲である。

p.490(訳者木村太郎による解説)より

涙と嗚咽がきた。そしてアデステのあの優しい歌声が私の感動をいやがうえにも深めた。

 次は五つ目、第9巻最後の収載作「後世への最大遺物」(内村鑑三著)である。

読書

投稿日:

 時疫(じえき)の不安に加え相変わらず降ったり止んだり鬱陶(うっとう)しい天候だ。

だが、そうは言うものの、いかにも梅雨らしく豊かに降る、とでも言えば季節を愛でようという気にもなる。ふと気づくと近所の家々の庭の百日紅(さるすべり)が、あるいは赤に、あるいは青紫に、美しく咲き始めている。芙蓉を多く植えているお宅もあり、おおらかで邪気のない明るい花が咲いている。

 盛夏の予感がする。

 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの通勤電車の中で、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、三つ目の「キリスト者の自由」(M・ルター Martin Luther 著、田中(まさ)()訳)を読み終わった。

 マルティン・ルターの名前は誰もが学校で習うので知っている。学校では「ルター、カルビン」などと、フランスのカルビンと一組で習う。しかし、そのルターが何を言ったのかは、学校では少ししか習わないから、その所説を知っている人は少ない。

 もちろん私もそうであったが、この読書によってなるほどと膝を打つこと大であった。

 本書はルターの代表的論説で、誤解を恐れずザックリと内容を要約すると、

「物質的な形から入るのは誤りである。まず初めに精神がなくてはならぬ。精神から形はおのずと現れる。だがしかし、精神が成ったのち、それが物質的形となって慈愛とともに溢れ出さなければ、精神もまた誤りであったということになる。」

……ということとなろうか。ルターはこれを、「免罪符を買う」とか「ひざまずいて祈る」とかいう「形」が、「キリスト教信仰」という精神なしに横行していることを憂えて言っているのである。

 これはしかし、実に考え込まされることだ。キリスト教信仰だけでなく、例えば日本人の日常生活での「礼儀」などにも投げかけるものがあるからだ。つまり、内心では相手を蔑み、馬鹿にしているのに、態度は慇懃丁寧に相手を思いやり、いたわって見せる、というようなことに意味があるか、という問いに通じる。

 その一方で、「形は心を作り、心は形を導く」という説もある。例えば、日本ではその昔、吉田兼好法師が

「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。()を学ぶは驥の類ひ(たぐい)(しゅん)を学ぶは舜の(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」

……と言っている。形から入って、それを無心になぞるうち、精神も自然に導かれ、導かれた精神は更に形を磨いていく、ということが日本では一般に肯定されていると思う。

 ここで、しかし、ルターの所説を曲解してはならない。ルターは「形など永久に棄却されるべし」などとは少しも言っていないのである。

 すなわち、本書は大きく分けて2部から構成されている。第1部では「まず精神あるべし」、つまり、信仰心のない外面だけの宗教ごっこを徹底的に攻撃する。ところが、第2部では「精神成ったのち、徹底的に物心両面、利他に徹すべし。利他の功による神の救いなど求むべからず」と、一見第一部の真逆に見える事を説いてやまないのである。

 これは、単に、形と心のサイクルの、スタートをどこに持ってきているかという些細な点が違うだけで、やはり形も大事なのである、……ルターは言外にそう言っているように私には感じられる。

 また他に、ルターは非キリスト教徒にはわかりにくい「旧約聖書」と「新約聖書」の違いを誠に明快に一刀両断している。すなわち、「人を絶望させる神の厳しい『掟』、つまり『罪に対する罰』を述べたものが旧約であり、その絶望からすべての人が救われる『(ゆる)しの約束』を述べたものが新約である」という意味のことを説いている。これを言い換えると、旧約は「罰」を述べ、新約は「赦し」を述べるということで、罪の意識に(さいな)まれ、絶望した人間がその頂点に達するや、そこで神の寛大な許しにあって自由となる、と説明しているということになろうか。

 「罪と罰」による悲哀と絶望が極限に達して止揚(アウフヘーベン)され、裏返って赦しによる自由と歓喜に至る、その後は一意専心、神からの恩寵すら求めずに他人に奉仕すべし、これがルターの所説であると私は見た。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「キリスト者の自由」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.335より

そしてまた聖書全体は、おきて、すなわち神の戒めと、契約、すなわち約束と言う二つの言葉に分けられるということを知らなければなりません。おきては、私たちにさまざまの善行を教え、規定していますが、それによって善行は生じません。なるほど、おきては指示しますが、助けはしません。おきては人間のなすべきことを教えますが、それを実行するための何らの力をも与えません。したがって、おきてが定められているのは、ただそれによって人間が善をなすのに無力であることを悟り、自分自身に絶望することを学ぶためだけです。ですから、それは『旧約』と呼ばれ、すべてのおきては、『旧約』に属しております。

p.336より

 さて、人間がおきてによってその無力を学び、自覚するようになりますと、どうしておきてを満たすことができるかと不安になってきます。おきては満たされなければならず、さもなければ罪に定められるからです。そのとき、人間は、ほんとうに謙虚になり、自分の目に無となり、自分のうちに義とされる何ものも見出さなくなります。そのときはじめて、ほかの言葉、すなわち神の約束と契約がきたって、次のように語ります。

 「おまえがおきての強要するとおりに、おまえの悪い欲望や罪から解放されたいと思うなら、キリストを信ぜよ、キリストにおいてわたしはおまえにすべての恵みと義と平和と自由を約束する。おまえが信ずるなら得られるが、信じないならえられない。おきてのあらゆる行い――それは当然多くあるが、しかも一つとして役にたたない――をもってしても、おまえにできないことが、信仰によって容易になり、簡単になる。なぜなら、わたしは信仰のうちにすべてを要約しておいたからである。したがって、信仰をもつ者は、すべてをもち、そして救われ、信仰をもたない者は、何ももつことはできない」

 このように神の約束は、おきてが要求するものを与え、おきてが命ずるものを成就します。このようにして、おきても、その成就も、すべてが神のものとなるためです。

 神のみが命じ、神のみが成就されます。したがって神の約束は、『新約』の言葉であり、『新約』に属しています。

 次は四つ目、「信仰への苦悶」(J・リヴィエール Jacques Rivière 、P・クローデル Paul Claudel 著、木村太郎訳)である。

読書

投稿日:

 ぐずつく天気、なかなかスッキリとはしない日々である。今日も一日降ったり止んだりしたが、なに、季節らしいと思えば逆に美しくもある。

 引き続き通勤電車の中で、約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの通勤電車を降りる直前に、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、二つ目の「キリストの生涯」(J・M・マリー John Middleton Murry 著、中橋一夫訳)を読み終わった。

 文字通りキリストことナザレのイエスの出生、ヨハネによる洗礼、修行、病者治療の奇跡、因習ユダヤ教への抵抗、布教、マグダラのマリアとのこと、最後の晩餐、磔刑、復活、そしてその後に至るまでを、年月を追って丹念に記述したものだ。共観福音書、すなわちマタイ(でん)、マルコ傳、ルカ傳の福音書それぞれと、ヨハネ傳の4つの福音書を中心にまとめ、理解してある。

 大正15年(1926)にイギリスで出版され、日本では昭和16年(1941)に翻訳出版されている。よい翻訳で、読みやすく平易簡潔な文体となっている。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「キリストの生涯」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.185より

正義の神の奉仕者たるパリサイ人は、愛する神の子たるイエスをどうしても理解できなかったし、愛する神の子は正義の神の奉仕者をどうしても理解できなかった。しかし神の名において一方は人を殺し、一方は人を赦した。そこに相違がある。

p.228より

イエスの如き人物にとって重要なことは、想像力の序列と性質だけであって、想像力の扱う事柄ではない。彼は高等批評家がしばしば考えるような高等批評家ではなかった。彼は最高の人間――詩人、予言者、英雄であった。実際、最高の人間性を示す言葉で彼にあてはまらない言葉はないとおもう。これはイスラエルのことを語っているのか、メシヤの事を語っているのかという質問のような地上的な下らない疑惑が、イエスのような人の心にはいってくるはずはなかった。イエスはみずから予言者ではなかったのか、いな、予言者以上のものであった。予言者の言葉の意味は文字にあるのではなく、そこに輝いている神への認識にあったことをイエスが知らないはずがあろうか。「なんじゃもんじゃ教授」が読むようにイエスがイザヤ書第五三章を読んだのだろうか、そんなことはあるまい。神の計画の深奥な秘義として徹底的な敗北からの勝利、イザヤ書第五三章はイエスにはそういう意味なのであった。

 尚、「イザヤ書第五三章」とは、次の部分である。

「舊新約聖書 引照附」(ISBN4-8202-1007-6、日本聖書協会、昭和56年(1981)より引用。
但し、ルビは引用元の通りではなく、佐藤俊夫が取捨校訂し、
ルビのみ現代かなづかいにしてある。
また、節番号は省略した。)

 われらが(のぶ)るところを信ぜしものは(だれ)ぞや ヱホバの手はたれにあらはれしや かれは(しゅ)のまへに(めば)えのごとく (かわ)きたる土よりいづる樹株(こかぶ)のごとくそだちたり われらが見るべきうるはしき(すがた)なく うつくしき(かたち)はなく われらがしたふべき艶色(みばえ)なし かれは侮られて人にすてられ 悲哀(かなしみ)の人にして病患(なやみ)をしれり また(かお)をおほひて(さく)ることをせらるる者のごとく侮られたり われらも彼をたふとまざりき

 まことに彼はわれらの病患をおひ我儕(われら)のかなしみを(にな)へり (しか)るにわれら思へらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと 彼はわれらの(とが)のために(きずつ)けられ われらの不義のために(くだ)かれ みづから懲罰(こらしめ)をうけてわれらに平安(やすき)をあたふ そのうたれし(きず)によりてわれらは(いや)されたり われらはみな羊のごとく迷ひておのおの己が道にむかひゆけり 然るにヱホバはわれら(すべ)てのものの不義をかれのうへに(おき)たまへり

 彼はくるしめらるれどもみづから(へりく)だりて口をひらかず 屠場(ほふりば)にひかるる羔羊(こひつじ)の如く毛をきる者のまへにもだす羊の如くしてその口をひらかざりき かれは虐待(しいたげ)審判(さばき)とによりて取去(とりさら)れたり その()の人のうち(だれ)か彼が(いけ)るものの地より(たた)れしことを思ひたりしや 彼はわが民のとがの爲にうたれしなり その墓はあしき者とともに設けられたれど (しぬ)るときは(とめ)るものとともになれり かれは(あらび)をおこなはずその口には虚僞(いつわり)なかりき

 されどヱホバはかれを碎くことをよろこびて(これ)をなやましたまへり (かく)てかれの靈魂(たましい)とがの献物(そなえもの)をなすにいたらば彼その末をみるを得その日は永からん かつヱホバの(よろこ)(たま)ふことは彼の手によりて(さか)ゆべし かれは己がたましひの煩勞(いたづき)をみて(こころ)たらはん わが(ただ)しき(しもべ)はその知識によりておほく(おおく)の人を義とし又かれらの不義をおはん このゆゑに我かれをして(おおい)なるものとともに物をわかち(とら)しめん かれは強きものとともに掠物(えもの)をわかちとるべし 彼はおのが靈魂をかたぶけて死にいたらしめ(とが)あるものとともに(かぞ)へられたればなり 彼はおほくの人の罪をおひ愆あるものの爲にとりなしをなせり

p.240より

 イエスの教えの多くのかつ重大な誤解は、イエスが心と魂の変化をもとめたのにたいして、「悔い改め」をもとめたと考えることから起った。「悔い改め」ということは、要するに極端な罪の意識に主として基礎をおいている観念である。この「悔い改め」という言葉や特にこの言葉の背後にある意識は、イエスの思想や教えのなかにはじつは存在しなかった。

p.244より

愛というものはそれ自体、追及の対象となるものではない。事実、愛を追及などすれば、かならず虚偽がはいってくる。

言葉
翹望

 「翹望(ぎょうぼう)」と音読する。首を長くして待ち望むことを言う。

 「翹」には「もたげる」「挙げる」というような意味がある。

下線太字とルビは佐藤俊夫による。p.201より

どういう危険を冒しても、もう一度、家を見て、できれば町の人の心に訴えようという翹望であった。

 上の引用箇所は、生地ガリラヤ地方で民衆からそっぽを向かれてしまったイエスが、もう一度自分の生家付近を訪れようとしたところの描写である。

 次は三つ目、「キリスト者の自由」(M・ルター Martin Luther 著、田中理夫訳)である。

読書

投稿日:

 梅雨も半ば、雨が盛んである。繰り返し強く降っており、梅雨明けはまだまだ先のようである。

 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの電車の中で、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、ひとつ目の「基督教の起源」(波多野精一著)を読み終わった。

 著者の波多野精一博士は戦前に活躍した宗教哲学者で、東大・京大で教鞭を執ってきた研究者である。本著作は戦前の東大・京大で行われた講義ノートを整理して出版したもので、いかにも戦前の実直誠実な研究者らしい硬質の文語体で全文が記されている。

 序文には昭和16年(1941)出版とあり、日米開戦の年だ。読者としては、この頃でもきちんと欧米の文化を洞察・研究する努力が続けられていたのだな、と感じるところ大である。

 前巻の「聖書物語」を読んだ後なので、理解もより深まるという感じがするのはさすが古書らしく、(うな)るような編集の妙だと思う。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「基督教の起源」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.25より

 さて新約全書に載つた福音書は四ある。そのうち第四の、通常ヨハネ福音書と呼ばるゝものは他の三と甚しく内容を異にする。

言葉
霄壤も啻ならぬ逕庭

 これで「霄壤(しょうじょう)(ただ)ならぬ逕庭(けいてい)」と()む。

 「霄壤」とは「霄」が空、「壤」が地面のことである。要するに「天と地」だ。「逕庭」とは「へだたり」のことをいう。つまり、「天と地ほどの差」ということを格調高く書けば「霄壤も啻ならぬ逕庭」ということになるのである。

 本文中では下の引用例の通り、更に晦渋(かいじゅう)な表現となっていて、読むのになかなか歯応えがある。

下線太字とルビは佐藤俊夫による。p.14より

これをかのいかなる者もその前には一様に罪人たる神の絶対的神聖と、しかも(ただ)しき人にあらず罪人をあはれみ救ふ神の絶対的の愛とを合せて有するパウロの福音と比較せば、誰か両者の精神に於て霄壤も啻ならぬ逕庭を否むことが出来よう。

氷炭相容れぬ

 訓みは普通に「氷炭(ひょうたん)(あい)()れぬ」で、なんとなく想像もつく通り、まったくなじみ合わないもののことである。「水と油」と同じような意味と思えばよかろうか。

p.32より

かくの如く超自然出生は比較的新しく発生した伝説でしかも古き伝説に於て保存せられた正確なる事実と氷炭相容れぬ

苟合

 音読みで「苟合(こうごう)」である。「迎合」と同じ意味と思えばよい。

p.34より

イエスは苟合妥協をよき事と思ふ人でない。

 「(そしり)」である。普通は「誹」「謗」をあてるが、こういう漢字もある、ということである。

p.41より

専門宗教家より瀆神罪のを受くるをも顧みず、彼は悩める者に「汝の罪赦されたり」との宣告を与へた(マルコ二の五)。

 「(いとま)」と訓む。「いとまがない」「暇がない」と同じである。

p.53より

尤も世の終が目の前に迫つたといふ考は勢ひ要求を極度に高め、時としては社会の具体的関係を顧みるなからしめた。

雙少き

 まことに難読であるが、「雙少(たぐいすくな)き」と訓む。「たぐいまれ」と同じと思うとよかろうか。

p.60より

彼等のうなだれた首をもたげ、彼等の失望落胆を何物をも恐れず凡てを献ぐる喜ばしき確信と雙少き勇気とに変じたものは何であるか、――イエスの復活の信仰である。

儕輩

 読みは「儕輩(せいはい)」「儕輩(さいはい)」どちらでもよい。周囲の同輩のことである。

p.74より

彼は渾身の力を父祖の宗教に捧げ熱心に於て(はるか)儕輩抜出(ぬきんで)た。

恠しむ

 「(あや)しむ」である。「怪しむ」と同じである。

p.89より

彼自身猶太(ユダヤ)人であつたを思ひ、また律法のうちに風俗習慣の瓦石に蔽はれて美しきけだかき宗教(および)道徳の玉のひそめるを思へば、彼のこの見解は別に恠しむに足らぬ。

深邃なる

 「深邃(しんすい)なる」である。「邃」と言う字は「邃い」と送って「おくぶかい」と訓むので、「深邃」というのは「非常に奥深い」という意味である。

p.100より

 この世界観は宗教の方面に於て種々の観念(例へば霊魂の死後の存続の如き)を産出したが其最大功績は幾多の深邃なる宗教家思想家を動かした神秘説の土台をなし準備をなした事である。

うつばり

 家屋の(はり)のことである。「梁」と書いてそのまま「うつばり」とも訓むので、意味はそのまま同じであって、難しくはない。

 本文中では次のように用いられている。

p.117より

己が眼のうつばりを忘れて他人の目の塵に留意する専門宗教家もあれば、彼等よりは罪人よ愚民よと蔑まれつゝ神の国の義を饑渇(かわ)ける如く慕ふ下層の民もある。

 少し難しいのはこの用いられ方だ。これは聖書に通暁していないとわかりにくい。「目のうつばり」というのは聖書に出て来る有名な一節で、イエス得意の(たと)え話なのである。

 文語訳聖書では、マタイ伝福音書に

「何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木(うつばり)を認めぬか。 視よ、おのが目には梁木のあるに、いかで兄弟にむかひて、汝の目より塵をとり除かせよと言ひ得えんや。 僞善者よ、まづ己が目より梁木をとり除け、さらば明らかに見えて兄弟の目より塵を取りのぞき得ん。」

とある。

 この一節、「目のうつばりの喩え」は、日本のキリスト教徒でもとりわけ熱心な人にはよく知られるところだと思われる。しかし、クリスマスに酩酊して騒ぐくらいしか能のない、いい加減な「なんちゃってキリスト教徒」には、翻訳のやまとことば「うつばり」も、英語の「Beam」も、いわんやギリシャ語の「ドコス」も、何を言っているのかさっぱりわからないことだろう。

 「塵」と「梁」は実は対句である。この対句は理解しにくい。理解するにはこの言葉が唱えられた背景に目を向ける必要がある。

 その背景とは、キリストことナザレのイエスの生業が大工であったということだ。すなわち、和訳では「塵」となっているが、原語「カルフォス」には「おが屑」の意味があるのだ。これは大工特有の語彙(ボキャブラリ)である。

 つまり、2000年前の(のこぎり)は荒く、家などの普請の最中、さぞかし鋸屑が目に入って痛むことも多かったことであろう。一方、「梁」というと大工仕事の大物だ。「丸太」とか「角材」とか、そういう大きな部材だ。それを天井に組み付けるのは大工の腕の見せ所なのだ。

 そういう事情を理解して聖書のこの部分を読めば、

「お前は『アンタの目にはおが屑が入ってるよ』と同輩に注意しているが、笑わせンな、そう言うお前の目には角材が入ってるワイ」

……と言っている、本業が大工のイエスらしい、絶妙な喩え話がよくわかるというものである。

 (ちな)みに、全く違う中国古典由来の故事成語で、「うつばりの塵を動かす」という言い方があって、これは非常に歌のうまい人が声を張ると、梁に積もった(ほこり)が動いた、というほどの意味で、「歌がうまい」という意味である。使われている単語が「うつばり」「塵」で同じだから、まるで意味に共通することがあるような感じがするが、しかし、残念ながら聖書の「うつばりと塵」の喩えとは全然関係がない。

 次は二つ目、「キリストの生涯」(J・M・マリー著 中橋一夫訳)である。

時事沈々(ちんちん)

投稿日:

 梅雨までのわずかな期間、初夏の風が薫る心地のする候となった。爽やかだ。

 しかし世相は依然猖獗(しょうけつ)を極めるコロナウイルスに(おのの)いている。

欧米人の入国禁止、旅行移動禁止というのは、今どうなっているのか

 これを見れば、いまや欧米諸国人が疫病蔓延の元凶であることは明らかである。ところが、数か月前、「中国人を入国させるな」などと(わめ)き立てたほどの強さでは、「アメリカ人を拒否しろ」とか「イギリス人を拒否しろ」なんてことは、誰も言っていない。

 おかしい。

 これは、テレビや新聞が悪い。検察官の定年なんぞで扇動なんかしていやがって、木っ端役人の1年や2年の分限(ぶんげん)(ごと)き、どうだっていいんだよそんなことは。

 仕事をしろよ仕事を>ブン屋どもめ

これ、被害者ぶってるけど、おかしいよ

 違うな。

 中国を責める前に、「米国大統領は力及ばず、国内で新型コロナウイルスを培養・蔓延させ、数多くの自国民を病死させてしまったばかりか、これを欧州その他世界へ再びばら()く愚をも犯してしまった」……っていう、まず第一にそこなんじゃねぇの?

 迷惑だよ。

 だいたい、今日現在、8万5千にも及ぶ死人を出してるんだぜ米国は。よろしいか、感染者じゃないぞ。死人だぞ、死人。もはや亡くなった人々を哀しみ(いた)み、沈々粛々としておれるような情緒的レベルなど、とうに逸脱している。犯罪行為だよこんな米国みたいな国のすることなすことは。

 中国なんぞに因縁つける前に、もっとしっかり、国民が政治をせい。

本来の危険な核武装国家はどこか

 ……。

 こんなニュースを見るにつけ、いつも感じるのだが、そもそも、北朝鮮なんかより、米、露、中、仏、英なんかのほうが、よっぽど怖くねえか?核とかICBMとか核原潜とかそういう危険なアレやコレやが常態化しちゃってるってだけであって。

どうしても中国を敵とみなしたいんだろうなあ

 中国に対する米国の態度は、そのままでは首肯できかねるものも多いが、これはなんとなく、「ああ、そういうサイバー攻撃なんかは、ありそうだな」と思わせる。

 しかし、読売の書きっぷりも「中国『系』ハッカー集団」などと記していて、「系」ってなんだよ「系」って、はっきり書けよオラ、……という感じもする。多分、そこいらあたりがどうもうまく調べられないのだろう。

 さておき、戦争マニア国家米国は、「敵」「我」という、戦争を想定した対立軸でしか国のアイデンティティを保てない。もはや哀れである。

超軍事国家

 マァ、さすが、あの狭い国土にいまだに70万人もの地上兵力を擁し、徴兵制を()いて旧日本陸軍もかくやという地獄のシゴキ兵営を保ち続ける超軍事国家・韓国、ではあるわな。

 国民を監視カメラで追い掛け回して感染源を徹底追及しようってんだから、北朝鮮も真っ青だな。

 で?何?「韓国が優れたコロナウイルス対策をして称賛されているから日本政府も見習え糞アベガー」……ですか?

 ……嫌です、そんなの。私は日本流がいい。今のところ日本のコロナ対策は世界に冠たるレベルにあると自信を持って言える。

米国人が下品だなんてことは、昔から全世界的な共通認識である。

 これ、さあ。トランプ氏の下品さが際立つように思うでしょ?

 私が思うに、それは違うな。トランプが下品なんじゃない。アメリカ人なんて、どいつもこいつも、もともとこれくらい下品なんだよ。このトランプ氏の言動って、普通~ぅの米国人の、(ごく)ごぉ~く普通の感情を代弁してんのさ。アイツら、腹の中では、9割とは言わない、そこまでひどくはなくても、まず6割5分くらいの人間が、「チャンコロ、シナの黄人のクセに幅効かせてやがって、いつか皆殺しにしてやるからな」くらいにしか思ってないのさ。

 ましてや、日本なんぞ。米国人なんてものは、日本人なんか、鼻糞くらいか、それ以下の塵埃(ゴミ)とか恥垢(チンカス)くらいに思ってますよ。「もう一発原爆見舞って殺してやろうかい」ぐらいの、それぐらいの尊大倨傲(きょごう)ですよ、こんな奴ら。

 キリスト教徒のクセして、愛なんてゼロだよ。

探されない

投稿日:

 「死にたい」などと書くと物騒だし人様の迷惑でもあるから言いたくも書きたくもないし、思いたくもない。だが、「消えたい」とは思う。誰の迷惑にもならずスッと消えるのだ。

 そんなふうに消えられないものかと思うが、もし消えたら、私の妻は私を探さざるを得ない。たとえ本人が探したいと思っていなくても、社会的責任は私を探せと妻に命じるだろう。これは妻にとっては負担以外の何物でもない。

 だから、消えたい死にたいと願うのならば、探されることなく、妻をはじめ、両親兄弟、友人知己の記憶から完全に消えなければならない。

 そんなことは不可能だとわかっているから、死ぬわけにも消えるわけにもいかない。

 親不孝という見方がある。親は自分の勝手で子を作ったのであるから、子が死んだり行方不明になったりすれば、そりゃあ、葬式を出すなり探すなりしなくちゃならんだろう。だが、それが悲しく慟哭の極みであって、そんなことを親にさせるのは不孝である、親に損失を負わせることだという。いや、損失、て……。つまり我が子の痛み苦しみを悲しむのではなく、親の損失であるからそれはよせ、というのである。

 なんか、ねえ。

 キリスト教は自殺を禁じるが、そこには「人間は放っておいたらどんどん自殺する、だから死なないように脅しておかないと」という宗教的歯止めのあざとさが透けて見える。そりゃあ、教団にゼニカネを持ってくるのは死人ではなくて生きている人なんであるから、できるだけ多くの人に生きていてもらわないと坊さんも困るだろう。