「軍艦島における朝鮮人差別存在せず」の報道

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 ツイッターでこんな話題がトレンド入りしている。

 これは、下の共同通信のニュースをきっかけにしたものであるようだ。

 私のタイムラインではツイートのほとんどが共同通信批判であるように見受けられる。曰く、「批判を招きそうだ」という最後の一句が気に入らないというのである。まあ、「類は友を呼ぶ」が物理的に実現されているTwitterのこと、私が私と同じような傾向の人をフォローしているわけだから、そりゃあ、当然そうなると言えばそうなる。

 また、これは、Twitterのトレンドのタイトルがヘンチクリンに歪んでいることが、共同通信批判を招く一要因だろう。左がトレンド表示ペインのキャプチャであるが、そりゃあ、「朝鮮人差別存在せず」という記事タイトルに対して「朝鮮人差別存在」では、まるっきり意味を正反対に歪める切り出し方のタイトルであることは(いな)めない。

 さておき、共同通信の記事を読むと、私には共同通信がそんなに悪辣であるとは思えない。「政府がこれこれこういう発表をこういう狙いで出す」という事実報道と、「やっぱり批判は招くであろう」という観測とが淡々と述べられているだけだからだ。この記者の筆致を責めるわけにはいくまい。

 朝鮮人差別について批判されるのなどいつものことだから、何をどう言い(つくろ)おうが、やっぱり批判はされるのである。そういう観測を書いてあるだけだから、「共同通信社許さん!!」とするツイートは当たっていないと思う。

 朝鮮人差別について、本当の事実はどうだったのだろうか。私などが多分こうじゃないかな、と思うのは、次のようなことだ。すなわち事実は、「朝鮮人差別はなかった」「いや、あった」というような、「ある、ない」のディジットではなく、「差別はあると言えばやっぱりあったし、しかし、朝鮮人側が言うほどムチャクチャではなく、その点、ないと言えばないようなものでもあった」というような、実に曖昧な中間の、なんとも()わりの悪いところにあったのではなかろうか。

 なぜそう思うかと言うと、人間の対立・分断における事実は、上記のような「どっちでもない中間」であることがほとんどだからだ。だから朝鮮人差別もやっぱり、「どっちでもない中間」に事実があったのであろうと想像する。

 私は軍艦島を見たわけでも何でもないし、問題に関する専門家でもない。が、白紙的に、過酷な労働現場で日本人労働者と朝鮮人労働者が一緒に働いているところを想像すると、同じ労苦を共にする者たちとして、傷を()めあい、助け合うような場面もあれば、逆に些細(ささい)なことで「朝鮮人のくせに」「何糞、我々朝鮮人を蔑みやがって」などと、(いが)み合う場面もあったろうと思う。それを差別と言うならやっぱり差別なんだろうし、いや、そんなの差別とは言えん、と言うなら、差別はなかったということにもなるのだ。

 いずれにせよ、現在、朝鮮人がギャーツクうるさいのは、これは事実である。不毛な論争や非難などやめればよいのに、と思うが、百済(くだら)だの任那(みまな)だの新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)と言った記紀歴史の時代にまで(さかのぼ)る過去2千年来の経緯から言って、今後500年から1000年くらい、朝鮮人はやっぱりダラダラと文句を言い続けたまま、何の変化もないだろう。そのように受け止め、相手にするでもなく、と言って全く相手にせぬでもなく「あ~ハイハイ、差別ねえ、慰安婦ねえ、ゴメンネごめんね~。ハイハイ以上。」とでも言ってあしらっておけばよろしい。所詮(しょせん)、昔っから日本と朝鮮なんてそんな間柄で、それ以上でもそれ以下でもない。だから今更、日本人から朝鮮人に要求するようなことなど、なにもあるまい。

いろいろ書くよね

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 ツイッターにいろいろ書く。

 文句めいている。

 大日本帝国とドイツ第三帝国を一緒くたにするのもなにやら腹の立つことでもある。


 愛知ナンチャラとかいう展覧会も、まあ、どうだっていいんだけどね、あんなの。

Twitterのフォロー整理

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 Twitterのフォローを見ていたら、長期間ツイートしてない人や、鍵をかけてしまった人が多くあった。だいたい、平成24年(2012)頃に相互フォローになった人たちに集中している。

 私がフォローしているアカウントは2、300がところで、さして多い方ではない。全部見て、半年以上ツイートのないアカウントは全部削除してしまった。

所謂(いわゆる)「釣り」とはいえど

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 非道なツイートを見かけて憤慨する。

 この男が言っているのは先日亡くなった声優の鶴ひろみさんのことである。

 まあ、所謂(いわゆる)「釣り」という奴だが、しかし、釣りにも限度ってものはあるよな……。

 日本は自由の国なのであるから、総理大臣を(けな)そうが、政権与党をバカにしようが、私達日本人全体に向けて「日本死ね」と叫ぼうが、はたまた逆に、左翼だアカだと野党をボロカスに愚弄しようが、不倫議員をガソリーヌだパコリーヌだとからかおうが、「朝日新聞死ね」と吐き捨てようが、いくらでも何でも、自由に言えばよろしい。

 この男が権力者と看做(みな)しているのであろう安倍総理に「有耶無耶(ウヤムヤ)では済まさんぞ、アベ」と挑みかかるのも、完全に許される。仮に「アベ、死んでしまえこの野郎」と吐き捨てたとしても、この男の小ささと総理大臣の大きさを考えれば、どうにか許容範囲には収まると私は思う。

 だが、不慮の病気で死んだ市井の人を「迷惑だ」「声優なぞ名も知れぬ売れない劇団員の片手間仕事だ」などと言い捨てて、それに引っ掛けての政権批判はなかろう。政権批判を鶴ひろみさんに引っ掛ける必要など全くない。政権批判だけ単独で言えばよろしい。

 私だって鶴ひろみさんと言う人の名前は知らなかったが、こんなふうには思わない。亡くなった記事を見て「お気の毒に」と思う。

 私もしょっちゅう政治家をバカにしたエントリを書いているし、それどころか「死んで詫びろ!」などと書いたこともあるが、もし彼ら彼女らが事故や病気で不慮の死を遂げれば、やっぱり同様に、「お気の毒に、可哀想に」と思うだろう。どうでもいい、とか、迷惑だ、などとは思わないし、仮に思ったとしても、これほど露悪的なツイートはしない。

 この澤谷と言う人は在日韓国人だという。私にも、昔、学校の同級生に在日韓国人の友達はいた。今は直接付き合っている在日韓国人の友達はいないが、間接的に知っている在日韓国人はいる。皆いい人だ。しかし、この男のような活動家が、プロフィールに在日韓国人の大看板を上げてこんなことを書いたりすると、善良な在日韓国人の友達や、一般の韓国人が結果として愚弄されてしまうことになる。これでは普通の在日韓国人にとって、迷惑以外の何物でもあるまい。

 十数年前、韓国の反日の状況があまりにも強く伝えられていた頃、私も韓国や韓国人を嫌っていたが、今はあまり嫌いではなくなった。むしろ仲良くなれないことを悲しんでいる。アジアの有力国である日・中・韓を分断してコントロールしようとする欧米白人の方が今は嫌いだ。

 なんにせよ、「他山の石」というか、こういうことを見て、自分の書くもの、言うことについて、書き方言い方に気を(つか)っていこうと思うのだった。

 ……「釣り」にこんなふうに気持ちをかき乱されるとは、まあ、私も、青ッちょろいと言えば、青ッちょろいわねえ。

語彙力を

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 ああ、いいねえ、コレ(笑)。

キリ番キャプチャ逃した

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 Twitterの投稿が「45678ツイート」になりそうで、面白そうだからその日が来たら「魚拓」でもとっておこうと思っていた。

 ところが、うっかり二つ三つポストしてしまい、気が付いたら一つ通り過ぎて、45679ツイートになってしまった。

 うーん、うーん、惜しい。

ツイートのコピーを消す

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 以前、ツイッターは過去のツイートを見ることが非常に難しく、自分の書いたものは確か3000件までしか遡れなかった。そのくせツイートそのものは消えず、ツイートIDがあればいつまでたっても表示可能であった。

 それで、自分の書いたものがもったいないから、当時使っていたMovableTypeベースのブログサービス(OCN「ブログ人」)の機能の、「ツイートの定期インポート」を使い、毎日ブログにツイートを保存していた。

 その後、ツイッターはサービスが少しづつ拡充され、自分の以前のツイートなどもアーカイブとしてまとめてダウンロードできるようになった。

 このブログにも以前のツイートを前のブログからインポートして保存してあったが、上のようにアーカイブがダウンロードできるようになったから、()いて自力でブログなどにログる必要はなくなったように思うので、このブログからはツイートのコピーは消してしまうことにした。

目的と手段など

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 災害時に大切なことは、作業着を着こみ、額に汗をして働き、困っている人を助けるということである。

 只々(ただただ)只管(ひたすら)、救助これあるのみである。

 屁理屈や不平、非難、誹謗、批判などは全く必要でない。もっと言うなら、駆け引きも人気取りもいらいないし、スーパースターのようなものは出る幕ではない。

 しかるに、そうした悪しき色彩のなんと濃く見えることか。

 災害は決して政治的な表現の場などではない。また、SNSやツイッターで政治的な発言をして楽しむお祭りなどでは、断じてない。

 自分が考えたことを発言するならまだしも、「政治的な発言をリツイートしたりシェアしたりするだけ」というような行動に首肯することは、私はできない。

 例えばある人がSNSにログオンしたとする。その画面がこうした政治的鬱屈に塗りつぶされて見えるのは、そういう性向の人ばかりフォローしていたりFBフレンドであったりするからだと思う。類は友を呼び、さながら陰々滅々のシナジーとなって黒いわだかまりが増殖していくのであろうことは容易に想像しうる。

 常々思うのだが、人間、偉くなってくるとだんだんと手段というものを軽んずるようになる。両手を使って薄汚れて働くよりも、情報だ企画だ管理だと言いたがるようになる。大工より建築士が偉いとするようなもの、基本情報技術者よりITストラテジストが偉いとするようなものである。

 極端な話、実際上もそうなのだが、建築士だけがいても家は建たない。だが、大工だけがいる場合、家は建つ。

 指揮者ばかり5人も6人も集めると、「音楽論」はできるかも知れないが、音楽を奏でることはできない。しかし、バイオリニスト一人いれば、指揮者がいなくても美しい音楽を奏でることができる。指揮者の目的は人が聴く音楽にあるのだが、指揮者だけでは音が出ないのである。

 ヘッドクォーター不要論を唱えようというのではない。指揮者や企画家、経営者でも政治家でもなんでもいいが、そういう者は、自分の活動が何によって支えられているかと言うことを忘れてはならぬということが言いたいのだ。

 トルストイは「イワンのばか」で、「頭を使って働くことが大切だ」と主張する悪魔を頭を下にして塔から転落させて見せた。無知蒙昧な農民たちは、ゴツンゴツンと頭を打ってひどい目にあう悪魔をさして、「ああ、頭を使って働くって、こんなひどい働き方なんだ、俺はごめんだね」というのである。愛あるトルストイは、頭を使って働くことこそ至上であるとするような考え方の愚かさを、文学上こうやってこき下ろして見せた。

 こう筆に従っていくと、さながら共産主義者めいてくる。どっこい、私は共産主義者ではない。トルストイの貧者へ注ぐまなざしのやさしさは、しかし、彼が実は貴族の息子であるということもあずかって大きく影響している。だからあそこまでコテンパンに悪魔を痛めつけてみせることが、自虐として許されたのだ。

 ともあれ、災害をネット祭りみたいな変なもののタネに使うのはよした方がいい。文字列には力があるが、文字列だけでは頭を使って働けと言ったトルストイの悪魔と同じだ。トルストイが悪魔に仮託した自虐によって表現したように、偉い人、企画家、管理者、政治家、経営者、そういう者にしてはじめて許される自虐によってこそ、手段のない、働きのない無為の知性が防がれる。

ダラダラ呑み元日

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 田作(ごまめ)、数の子なんぞを相手にダラダラ呑む元日である。

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 冗談で「他人の宝くじが当たった」(笑)というフザけたエントリを書いたら、なんだか妙にアクセス数が増えている。なんだろ、と思ったら、どうやらチト名の知れたニコ生主が「宝くじ当たったツイート」をしたらしく、それが話題になっていて、私のブログのアクセス増加は、どういうわけかその「おこぼれアクセス」が増えているようなのである。

そのツイート

 一方、ニコ生主氏の宝くじ当たった騒動は、後から画像加工疑惑なども出てきて、真相はナゾである。

 いや、翻って私の場合、嘘は1ミリもついちゃアいないですよ。でも、自分の宝くじなんか当たってないんだよね。だって、主語もなしに「宝くじが当たったーッ!」って言っただけで、誰も「俺の宝くじが当たったーッ!」なんて、ただの一言も言ってないわけだからさ。ま、有り体(ありてい)に言って、嘘じゃないけど紛らわしい、というヤツですかね。要するにシャレ。

 夕方になったら妻方の親類と姑の家へ集まる予定である。