禿(ハゲ)と帽子

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 最近禿げ(ハゲ)きた。

 それで、外出時など禿(ハゲ)隠しに帽子を(かぶ)っている。冬はカスケットやハンチングを、夏はパナマや麦藁の中折れを被る。

 夏のパナマや麦藁は高価なものは被らない。2千円~3千円くらいのものを選ぶ。

 ところが、これくらいの価格で選ぶときに困るのが 禿(ハゲ)と帽子” の続きを読む

こっ、これは……(笑)

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 ハゲ代表現る、というところか。

 自主代表。笑ってしまった。「ハゲ代表も選挙で選べ!」などというネットの反応などもあって、ちょっと話題を添えてる。

 それにしても、私もハゲてきたなあ。人生下り坂。

ハゲ婆考続

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 いやもう、わからんねえ。

 豊田氏は報道後、精神的に不安定となり、現在も入院中。

……であるような人が、

議員活動を続ける意向を明らかに

……など、していいハズがねえだろ、フザケんじゃねえよ、などと思うのであった。

 ガソリーヌ山尾の件では「代議士の能力と個人的な素行は関係ねェ!不倫不倫言うんじゃねえ!」というような擁護論が起こっているわけであるが、そこへいくと、「このハゲーーーッ!」の暴力ヒス婆ァ(ババア)こと豊田の場合、代議士の能力に問題があるわけだ、なにしろ精神不安定で入院しているわけなんであるから。

 ……てなことを考えてたら、また、こういう面白いニュースが。

 なるほど、人外魔境というか、一種のケダモノですな。普通、できないですって、こういうこと。

 どうでもいいけど、代議士と議員って、せいぜい700人ぐらいしかいないんだぜ?比率として、変なのが多すぎないか?毎年毎年、誰かカレか、自殺してるしさ。

 警察官がおかしいとか自衛官がおかしいとか教師がおかしいとか、どいつもコイツも不祥事起こしやがって、とか言ったって、それぞれ25万人とか180万人とか、そういう途方もない人数がいるんだぜ?そりゃ日に日に不祥事だって起こるだろうよ、数が数だけに。

 ところが「国民の代表」「選良」たる代議士が、たった700人くらいで毎日毎日、こういう芸能祭りみたいなことじゃあなあ。

 思うに、我々有権者も、「人を見抜く目」がまったくゼロ、だわねえ。こういう手合いを選んでしまうんだからねえ。

 投票に気合いが入ってないから、こういうことになるんだと思うよ。一票入魂でないとさー。

進化と秘書

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 人類は毛むくじゃらの猿人から次第次第に進化した。全身を覆っていた濃密な毛髪は、知能や生活様式の変化とともにだんだんと少なくなっていき、ついには最も濃い頭部の他、眉、(ひげ)(わき)、陰部、(すね)、人によっては胸や背等のみとなった。

 つまり、毛髪の退行は進化の証である。

 そう考えて来てみると、にわかにハゲの意義がクローズアップされてくるではないか。

 ハゲこそ、人類進化の先行形であると言えるのではないか。ハゲは人類の目指すべき将来を表す羅針盤であるとしても言い過ぎではあるまい。これまでの毛髪退行の歴史から言って、ハゲは人類進化の証である。

 だとすれば、「この、ハゲ~ッ!」「違うだろーッ!」の豊田真由子氏は、これは人類の進歩に対する凄絶な抵抗を試みたものと言えなくもない。ネアンデルタール人とクロマニヨン人の、世代交代の戦いのようなものだろう。ネアンデルタール人は滅びる前、きっと力の限りクロマニヨン人に抵抗したに相違なく、その抵抗は蝋燭(ろうそく)の燃え尽きる前の一瞬の輝きのように、全力全霊の叫びとなったはずである。無論、より猿人に近いネアンデルタール人は豊田真由子氏であり、より進化したクロマニヨン人はハゲの秘書氏に決まっている。あの「この、ハゲ~ッ!!」の叫びは、滅びゆく直前の、追い詰められた、劣った者、弱い者による鳴き声、悲鳴、絶叫であったと言えよう。

 この際、知能の程度は関係がない。進化しているか否かである。実際のところ、ネアンデルタール人はクロマニヨン人よりも巨大な脳を持っていた。

 あの一件の仄聞は、進化した人類が旧人に打ち勝った、人類歴史の飛躍的一瞬に、私たちが立ち会ったということなのかも知れぬ。

知・美でコミットコミット~

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 毎日毎日、陰惨な気持ちで通勤している。

 すし詰めの通勤電車にようやっと乗り込んで、さて、と一息ついて、壁から天井から絢爛(けんらん)豪華にうるさくぶら下がっている車内広告を眺め渡すと、こんなに独立起業が困難で大抵の会社は4年以内に潰れてしまう、なんていう冷厳な指摘があるにもかかわらず、いろんな金儲けが存在するものだな、と、むしろ感心してしまうのである。

 その中でも、ははあ、と、色々考え込まざるを得ないのが、

バカ・デブ・ブス・ハゲ

……に訴求する広告である。

 上記の通り、片仮名で人の形容を書きつけると、本当に差別的で腹の立つ字面(じづら)になるなあ、と思う。なので、これを美しい字面に書き直すと、

知・美

……となろうか。

 「知」には「高学歴・英語」、「美」には「デブ・ハゲ・ブス」など、もろもろが含まれるのだろう。

 いや、これは、私がそういうことを言ってるんじゃないんです。電車の中に貼られている広告を、「結局こういうことでしょ?」と、私ができるだけ分かり易く訳してみようとしただけで、私には責任はないんです。

 いまや、こういうふうに、差別的カタカナ用語で書いたら多分袋叩きに遭って路上で(なぶ)り殺しにされかねないような、ものすごい広告のオンパレードである。この十年、状況は変わらない。

 金もうけの奥義なんだろうなあ、これ。なんというか、知とか美って、本来人間には寄り添ってない不自然なものだから、大概(たいがい)はそんなのコッチの味方じゃないのよ。ところが、嫉妬というか、知性や美が自分より優れた他人を見ると、「ワタシだってぇ~」と、焦るわけだ。

 単なるやかましい訴求のことを「コミット」などと言い換えて、卑怯なもんだと思う。

 そこへつけこんで、一発勝負をかけると、あぶく銭がじゃらじゃら入る、ってことなんでしょうね。

ジャンル等 訴求先
バカ
英語 バカ
ライザップ デブ
TBC ブス・ハゲ
GABA・ベルリッツ バカ
林修 バカ
社会人大学院で修士 バカ

 こういう貼り紙に惑わされて、じゃぶじゃぶお金つぎ込むわけだわ、ほとんど全部無駄なんだけれどもさ。

 だからさ、こういう、善意を装った、その実、結局、「差別の増大」を図るようなものは、戒めなくちゃならないんじゃないか。こういう広告は差別だから、公権力で取り(はら)わなくてはいけないのではないか。

色白になったなァ……

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 妻と出かけ、帰ってきて、なにはともあれ一杯。

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 いつものより500円ぐらい高い酒(笑)。

 まあ、日々の記念写真みたいなモンだからと自撮りしてみて、ウワァ、色白になっちまったなあ、俺……と思うのだった。元々色白だったが、運動をよくしていたので、日焼けしていたのだ。このところ表に出ないものだから、すっかり色が抜けてしまった。あと、ハゲたなあ。ヤベぇぞ。肥満はしないけど、筋肉はだんだん衰えてきて、腕立て伏せの100回なら今でもこなすが、腹筋割れが埋まってしまったワイ。

 ……まあ、もう50歳だもんなあ……。

ハゲ

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 アーモンドかじりながらストレイト・ノー・チェイサーを地で行き、ふと「アーモンド」でググッてみた。

 そうしたら、なんですとッ!?アーモンドは禿(ハゲ)に効くってッ!?

ピアノとハゲとデブとダイエットと目標とEVMと血

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 ピアノの腕前の上達は、今の歳の、しかも40過ぎてからはじめた私のような者にとっては、まことに遅々として(はかど)らぬものだ。

 ものごと、何につけても目標を持ってやるように子供たちを指導していきましょう、とは、昨日長女の高校の入学式で、校長先生も担任の先生も言われていたことだ。これはこれで立派なことであり、若者をそのように指導することは、有益なことである。

 だが、私は、ことピアノに関する限り、目標を持たないことにしてきた。「今の『練習』を楽しむ」ようにしている。

 そうしないと、目標と自分の腕前の懸隔に絶望し、続けることができなくなる。幼稚園の頃からほんの数年レッスンしただけの、自分の次女のような小娘にすらかなわないということが情けなくなり、稽古がバカバカしくなってしまうのだ。

 つまり、突然山の麓に立たされて、山頂を見上げてウンザリする感じ、だろうか。

 地面と、ごく周囲の景色だけを見ながら漫歩していて、ふっ、と顔を上げたら、相当高いところまで登ってしまっていた。……そんな行路だって、あっていい。

 だから、私のピアノの稽古は、まことに進歩が遅く、薄紙を一枚一枚、貼り重ねていくような緩慢さである。

 このようなやり方で物事に処していくには、ただひとつ、「時間」を味方にすることだ、と今のところ思っている。

 これは、ダイエットなどにも言えると思う。逆に、肥満の状態も、「時間」が敵だったはずだ。

 どういうことか。

 ダイエットに悩む人は、何も最初から、醜い姿だったわけでも、醜い姿になりたかったわけでも、ないはずだ。

 一日に、ほんのごくわずか、薄紙を貼り重ねるように肥満していったのである。また、一日に、ほんのごくわずか、薄紙を貼り重ねるように「余分なひとくち……」を食っていったのである。

 これは、「ハゲ隠しに珍妙な髪形をしている人」も同じだ。亡くなった軍事評論家のエバケンこと、江畑謙介氏の極端な例を見てみたい。

 何も、エバケンさんだって、若い頃、最初っからこんな珍妙な髪型を目標にしていたわけでは決してあるまい。今日少しハゲたぶんを、ごくわずか櫛で隠しただけであったはずだ。その次の日もそのあくる日も、少し櫛を使っただけだ。そして、1ヶ月、1年、10年。こういう時間の経過が、あのエバケンスタイルを作り上げていったのである。

 思うに、ダイエットも「無闇ヤタラな目標」など、持たないようにしては如何か。今日、ちょっぴり「食わない」。その効果なんか、はっきり言って1日やそこらでは出るはずなんかない。

 私はこの30年ほど、毎日、少しづつ肉体の練成に励んでいる。しかし、スポーツ選手のように強靭ではないし、ボディービルダーのようなマッチョでもない。今日腕立て伏せをしたからといって、明日マッチョになるわけではないのだ。才能や体質もある。

 そこに見出したいのは、エバケンさんの「逆」だ。

 ピアノの稽古にしても、私は、エバケンさんの「逆」をつかみたいのだ。

 社会で仕事をしていると、日々、EVMだの指標だの株価だのケイツネだの本日FP実績だの、そんなものに溺れそうに(まみ)れて生きることに慣れてしまい、また、上下左右の周囲からも必ずどれだけできたかを問われる。だから社会人は、ついついそんな論理を家庭生活などにも持ち込みがちだ。しかし、そんなことは仕事だけにしておくのがいいと思う。

 去年、職場の健康管理指導がずいぶんとうるさいものだから、

「じゃあ、普段実績だの効果だのなんだのガタガタ言ってるんだから、毎日、減量のEVMでもやったらどうですか(笑)」

……みたいなちょっとした皮肉もこめてプログラムを書いた。それは「ダイエットのEVM」をやる「鬼痩~Devil Diet~」という、フザケたアプリだ。

 これを盆休暇にPHPで書き、職場に持ち込んでやった。中身は、国立健康・栄養研究所の「EX~METs」の指標を使い、日々のダイエットをEVMにしてくれるというものだ。エクセルでもできるが、ふざけてPHPで書いたのだ。毎日、「今日は駆け足なら何キロ、歩くんなら何時間、水泳なら何キロやれ。そうすりゃ何グラム痩せる。目標の何月何日までに何キロの体重に痩せたけりゃ、今日絶対に何キロ走れ」という計画表が出てくる理屈である。それがEVMグラフとなって出る。PVのガイドには、リニアと対数、それから自然な計画ができるように、レイリー分布を積分した、S字計画などを選べるようにした。

 自分でこれを検証した。

 国立健康・栄養研究所の理論はまことによくできていて、その表の通りに痩せる。もっとも、私はあまり「切りしろ」のない体をしているので、自分でこれを試すのは非常に苦痛であった。

 だが、EVMで痩せることはできる。

 公表したところ、私の皮肉もあって、「こ、これは本当に、『鬼』じゃあ!!」という評判になった。

 実際のところ、人間は金属とか棒、石などではないのだ。「今日何カロリー摂って、何キロ走り、何グラム痩せろ」なんてことを、レイリー分布に沿って言われたって、そんなことができる位なら、肥満なんかしないのだ。私の作ったアプリのEVMのとおりに運動して痩せようとすると、人によっては、「3ヶ月後まで、毎日休まず、一日4時間全力で走れ」などというムチャクチャな命令が出力されるのである。普段数字にうるさい人ほど、無茶な計画を浴びせられるような塩梅(あんばい)式になった。

 本当に、人間は木とか石ではない。切れば赤い血の流れる、矛盾と怠惰と勤勉と精神とウンコを一緒くたに内包した血袋なのだ。

 だから、そんなガンガンガンガン、目標だ実績だと言われたって、そこまでできるもんか。

 毎日「なんのために」という目標もなくピアノの稽古をしたって、いいじゃないですか、楽しいんだから。

 だから、毎日「誰のために」という目標もなく、ダイエットしたっていいと思う、痩身が美しいと思うのなら。

 目標なんかない、勉強が好きだから勉強している、という勉強も、場合によってはいいんじゃないですかね。

 ENIACを建造したエッカートとモークリが、何も、今の高度情報化社会を目標にして毎日図面を引いたわけじゃなかったとも思いますしね。

 ただ、そうはいうものの、間違いのないように、ひとつ申し添えたい。「目標なんかいらん」とまで、私は言ってない。それは、目的と場合によるのだ、ということが言いたいのだ。

ハゲと虐待

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 「ハゲた人のハゲの隠し方を笑ってはならぬ。『時間の経過』というものに思いを致すべきである。あの珍妙なるバーコードは時間の経過によって作られていったものなのである。その人の年齢のことを言っているのではない。バーコードやトグロ頭は今日少し、明日少し、と、少しづつ少しづつ隠して行っているうちにあのようになったものなのだ。おそらく、はじめは分け目の幅が少し広くなった程度でもあったろう。そこに少し、分け目をずらして頭髪をかぶせたものかも知れぬ。誰が『よし、明日から俺はバーコード頭にしよう』と、あんなヘンな頭を目標にするものか。」

 ……という意味の論をどこかで読んだ。誰か有名な人の書いたものであったと思う。

 一方、ここに、児童の虐待に気づいてすぐさまその処置を取る教員が大変少ない、という新聞記事がある。

 家庭における児童・幼児の虐待が果たして教師の与るところか否かということはさておく。問題は時間、である。昨日までツルっとしてピカッとしていた健康な小児が、今日突然ギプスをはめて頭に包帯を巻き松葉杖で登校して来て、それを見て驚いた教師が「いったいどうした、何があった!?」と聞くや「・・・お父さんに殴られました」とボソッと答えれば、そりゃ誰だってしかるべき公的機関なり警察なりに通報し、児童を保護するに決まっている。これだけ世間がやいやい言っていることでもある。

 しかし事態は単純ではない。そこには時間の経過がある。

 ある日、子供は、腕か肩か、体のどこかに小さな青あざか、タンコブのひとつもこしらえてくるのかも知れない。人あって「そのコブはどうしたの?」と聞いたとして、「ご飯をこぼしてお父さんに叩かれました」と子供が答えたとして、さて誰がこれを不自然な虐待などと思うものか。今日のあざは明日のやけど、明日のやけどは来年の骨折、と、次第次第に事態は進むのだ、一足飛びにではなく。

 子供を育てる親として、時間に弄ばれぬ精神力を持したい。そうした精神力は、実に住環境によって保たれうるところが大きいと信ずる。