ユデじる

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 世の中、まあ、色んな育ち方、生き方、嗜好、そういう多様性なんでしょうな、とは思うが、この場合はそんな小難しいことではなく、単純に世間をよく知らないだけだろう、と思う。

 また、一般論だが、大阪では蕎麦湯はあまり使われない。昔からあることはあるが、頼まないと出なかったり、出さない店も多かった。理由は比較的単純で、大阪の麺(つゆ)饂飩(うどん)向きで、塩気を(おさ)えてあるため、飲むときに湯で(ゆる)める必要などないからである。

 また、無料で振る舞うのではなく、別メニューとして誂える蕎麦湯を出すところもあると聞く。ごく薄い出汁(だし)に蕎麦粉を溶かしてとろみをつけたものを、値段を付けて出すのである。

 実際のところ、関東でも、庶民的な値段の蕎麦チェーン店のカウンターに、ポットで置かれている蕎麦湯なんて、私は飲むけれども、「すごく旨い」とかいう(たぐい)のものではない。腹を落ち着かせるのに七味をパラッと入れて、蕎麦(つゆ)をちょっと入れて、吸い物代わりか、茶の代わりに飲む程度のものだ。

 店にもよるが、場合によってはこの「ポットの蕎麦湯」を蕎麦猪口(ちょく)()ぐと虹色に油が浮かんでいるのが見えたりして、「ああ、天婦羅を扱った箸で蕎麦を茹でたな」などと想像がつく。まあ、こうなるとこの「匿名ダイアリー」の人の言う事も満更(まんざら)責められたものでもない。「食品を熱湯で洗ったあとの排水」みたいな感じがするのだろう。

 実際、「二八蕎麦」と言いながら、「八」は小麦粉のほうだったりする店もある。そういう色が黒いだけの細うどんに近いような蕎麦を出す店の茹で汁だと、溶け出しているものは小麦粉の澱粉やグルテン類の蛋白質ばかりであったりするから、旨いとか不味いとか、そういう話になるものではない。それをごまかすのに、蕎麦湯を出す際、蕎麦粉をちょいと足すような店もあるのだという。

 これが、いい蕎麦屋になると、茹でている蕎麦が、たとえ「二八」でも「蕎麦粉が八」であり、また、略々(ほぼほぼ)蕎麦粉が「十」だったりもするから、本当に蕎麦の香りや味が移って、おいしい蕎麦湯になるわけである。

 ところで、今日も図書館へ行った帰り、いつもの「室町砂場・赤坂店」へ行った。

 永田町は変なデモ隊が繰り出して、寒々とした騒ぎになっており、人数は少ない癖にやたらと拡声器の音が大きく、耳の遠い私ですら鼓膜がつんざかれるようで、迷惑した。しかも、国会議事堂前を通って赤坂見附に出ようとしたら、整理に出ている警察官に「議事堂前はデモで混雑していまして……。遠回りで申し訳ないですが、行って途中で引き返すことになるというのもお気の毒ですので、迂回していただいたほうが結果的に速いと思いますが……。」と(すす)められ、平河町から溜池まで降り、遠回りする羽目になった。

 迷惑であった。そのこと、別のエントリによく書いておきたい。

img_4925 しかし、室町砂場の座敷に上がると、デモ隊の喧騒は嘘のように聞こえない。午後の蕎麦屋の座敷は閑静そのものだ。気持ちが良い。

 凝ったものを頼むでもなく、いつものように焼海苔と通しもので一合。

img_4926 「もり」を一枚。

 しばらくすると、椅子席の方から、女客のおしゃべりが少し聞こえてきた。聞くともなしに聞いていると、この「はてな匿名ダイアリー」の一件が話題に上っている。なにか、このこと、テレビ番組でも話題になったそうな。

「ねえ、どうなのかしらね。飲まないものかしら?」

「普通のお店は出るわよね」

「でもほら、関西ではあんまり出さない、って」

……等々と、だいたい落ち着きどころの論に落ち着いているようだ。

img_4927 私はと言うと、先日少しばかりSNS上でこの件に関する意見を開陳したりしていたので、それを思い出し、ふふふ、と、なにやら楽しく感じながら、今日は湯桶を1本半もお代わりした。

 新越谷まで帰ってきて、駅ビルの「カルディ・コーヒーファーム」へ立ち寄る。去る11月17日は今年の「ボージョレ・ヌーボー」の解禁だったのを思い出したからだ。

img_4929 店頭には「プレ・ペール・エ・フィス」という銘柄の「ボージョレ・ヴィラージュ・ヌーボー」が箱積みになって売られていたから、一本買う。袋の中に塩味の生胡桃(くるみ)が詰め合わせになっていて、都合がよい。

img_4931 帰宅して、一杯。

 するどい味で、旨い。

img_4934 瞬く間に一本。幸せよのう。

 自作「東京蕎麦名店マップ」に写真を足す。