矢野峰人訳の「ルバイヤート集成」、大晦日に読み終わる。
もう、涙、涙である。
解説が変わっていて、文学者の南條竹則氏と高遠弘美氏が書いているのだが、高遠弘美氏のそれは全文旧仮名遣いである。高遠弘美氏は昭和27年(1952)生まれであるから、戦後の人であって、「旧仮名遣いネイティブ」の人ではないはずなのであるが、これは訳者矢野峰人へのリスペクトであろう。
オッサンは生きている。
矢野峰人訳の「ルバイヤート集成」、大晦日に読み終わる。
もう、涙、涙である。
解説が変わっていて、文学者の南條竹則氏と高遠弘美氏が書いているのだが、高遠弘美氏のそれは全文旧仮名遣いである。高遠弘美氏は昭和27年(1952)生まれであるから、戦後の人であって、「旧仮名遣いネイティブ」の人ではないはずなのであるが、これは訳者矢野峰人へのリスペクトであろう。
前から欲しかったのだが、戦前に出版されてから長年にわたって刊行が絶えてなく、古書も市場になく、見ることができずにいた。ところが、17年前に刊行されていたことを、7年前に知った。ただ、 “矢野
「ルバイヤート」というアラビアの詩集を愛している。オマル・ハイヤームという四行詩の極北が詠んだものだ。岩波から文庫で出ているほか、著作権切れのため青空文庫でも読める。
岩波のものは口語訳だが、矢野峰人という文学者によって格調高い文語訳が出ている。その一節に……
人のはらばひ生き死ぬる
上なる空は伏せし碗、
その大空も人のごと
非力のままにめぐれるを。
あの強力な律動の大空だって、自分が巡りたいから巡っているわけではない、というのだ。
自分の今の境遇を顧みて、よくよく諦めなければならないと思う。多くの日本人と同じく私も宗教観は薄いが、宗教観が薄いがために諦念というものが弱い。鍛えなければならないのは諦念であろう。悲しみを受け入れる、苦しみを受け入れる、病気を受け入れる、死を受け入れる。その諦観あってこそ、また、喜びは己が手の間にきたるもの。
大して良い酒が飲めるほどの金持ちではないのにもかかわらず、あいかわらずだらしのない酒飲みの私だ。
そのくせ一人前の格好だけはつけていたくて、花鳥の色につけ酒の味につけ、何か詩句論説講釈のたぐい、能書きの一つも
さて、だからと言うのではないが、文学というものの数ある中に、酒飲みが引用するといかにも賢そうに見えるという、そういうネタがあるということを開陳しておかねばなるまい。
ネタ強度の点では、まずランボォだのヴェルレーヌだの、このあたりで能書きをタレておけばいいのではないか。なにしろ酔っぱらいそのもの、頭の中に脳味噌のかわりに酒粕でも詰めておくと多分ああいう詩が書けるようになるだろうというほどのものであるから、まずこれで知識人ぶることができるのは間違いはないだろう。
西洋が嫌なら、東洋文学だ。「唐詩選」あたりから何か引っ張るというのもテだろう。「葡萄の美酒夜光の杯、酔ふて沙場に臥すとも君嗤ふこと莫れ…云々」、なんぞと微吟しつつ飲んでおれば、いっぱしの知識人に間違われること請け合いだ。
そんなアホな引用のコツに凝る
オマール・ハイヤームの詩集「ルバイヤート」は、現在簡単に入手可能なものとしては岩波の小川亮作訳がある。また、これは著作権切れで青空文庫にも収録されており、無料で読むこともできる。
ただ惜しむらくは、この岩波の小川訳は口語体で、しかも味わいの上から韻文に遠いことだ。それが格調に制限を加えている。
実は、そのように思わせる原因は、岩波文庫のあとがきにある(岩波のあとがきはまだ著作権が切れていないので、青空文庫では読めない。)。あとがきにはフィッツジェラルドの訳業のあらましと一緒に、我が国におけるルバイヤートの訳出のあらましが記されてあり、無視すべからざる翻訳として、矢野峰人という文学者によって大正時代から昭和初期にかけてなされた文語体の名訳がわずかにふたつだけ紹介されているのである。
小川訳も、もちろん良い。だが、矢野訳のしびれるような訳は、どうしても捨てがたいのである。
【口語訳】
この壺も、おれと同じ、人を恋う嘆きの姿、
黒髪に身を捕われの境涯か。
この壺に手がある、これこそはいつの日か
よき人の肩にかかった腕なのだ。
【文語訳】
(若干の解説をするなら、人は死んで土になる、王も賎民もいっしょくただ。こうして土になった人々は、何千年もしてから焼物師の手にかかって粘土としてこねられ、壺になる。だが、出来損ないとしてその壺は打ち砕かれることもある。焼物師よ、ちょっと待て待て、その壺は、昔々美女だったかも知れぬではないか、打ち砕くのをちょっと待ってやれよ…というような含みが前提としてある詩である。)
文語訳のほうがやっぱりピシリと締まった格調の高さが感じられるのである。
私は22、3歳のころだったか、岩波の小川訳にシビれ、だらだらと酒を飲む口実にしてきた。だが、そのあとがきにある2篇ほどの文語訳が心に残り、これを忘れたことがない。
しかし、長らく文語訳のルバイヤートは絶版で、読むことはできなかった。
そうして長い年月が打ち過ぎた。ところが、である。つい先日のことだが、インターネット時代というのはなんと便利なことだろう。暗唱していた文語訳の詩文をGoogleに入力してみたら、瞬時をわかたず、出るではないの、出版元が!
10年ほど前、この文語訳のルバイヤートが国書刊行会から出ていたことがわかったのだ!。
しかしそれにしても、1冊5千円は、た、高い。
それで、今日は国会図書館へ行き、じっくりと読んできた。
以下に、書き写してきた文語体のいくつかを摘記する。著作権はとうに切れているから、特に問題はない。
第三十四歌
p.43
第三十九歌
p.47
第四十三歌
p.52
第四十八歌
p.56
第五十二歌
p.61
第五十七歌
p.63〜
第五十九歌〜
なんというか、茫然自失するような訳だと思う。