何がサマータイムだ、馬鹿馬鹿しい。

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 報道によると、なにやら東京オリンピック開催を睨んで、戦前から再燃しては消えていた「サマータイム導入」の(くすぶ)りがまた再燃しかかっているらしい。

 何がサマータイムだ、馬鹿馬鹿しい。

 日本は明治維新まで、不定時法、すなわち日の出を明け六ツ、昼を順次五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツ、日の入を暮れ六ツ、五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツとし、毎日連続量で変化させるとともに、鯨髭のぜんまいを使用した機械式振り子時計でこの不定時を正確にシミュレートさせるなど、明るさや気温、季節に合わせた刻時方法を実現していた。つまり、とうの昔に「連続式サマータイム」を実現していたのである。

 この「九・八・七・六・五・四、九・八・七・六・五・四」という数字の繰り返しは、古く支那文化に由来する五行説によるものだ。

 だが、そういう天然・自然に即した刻時が合理的でないとして無理にやめたのだ。

 それを今更、「欧米が皆やっているからサマータイム導入だ」などと、人工的で不自然なことをワケのわからない理由で強制しようとする。愚劣の骨頂である。どうして「欧米が~ッ」ではなく、「日本ではこうである」と言えないのか。主体性のなさに憫笑すら覚える。

惜春

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 街路の花水木やそこここの植栽の躑躅(つつじ)が咲き始めた。家々のプランターにはパンジーがにこにこと笑っており、野生化した雛罌粟(ひなげし)が側溝の脇に咲いている。知らぬお宅の庭の椿もまだまだ赤々と美しく、(よそお)った女の唇のように視覚に響く。小粉団(こでまり)馬酔木(あせび)が白く上品に咲いている庭の広いお宅もある。

 百花繚乱の候、である。こういう華やかな風景であればこそ、惜春の情も一入(ひとしお)であり、恬淡(てんたん)とは春を去りがたい。

 私は実は植物の俳句を()むのが苦手だ。花や木の名前をあまり知らないからである。植物を見て「これは何の花だ、何の木だ」と言い当てるのは、音楽で例えると、ピアノで弾かれた和音を「レ・ファ・ラです」と言い当てるソルフェージュを音感のない者がするのにも似て、なかなか修行のいることだ。

 「百花繚乱」というのは実は俳句の季語だ。私のような植物に(くら)い者が花咲く時季を詠むのに便利な言葉でもある。ただ、この季語は常用の歳時記には載っていない。が、「花」が一般に春の季語なので、その一点によって季語とするのも間違いではなかろう。

 花に心を動かされながら街を歩いたりなどすると、なんだかむしろ老け込んだような気がして、我ながら少し可笑(おか)しい。人間、年齢と共に動から静へと好みが変わるという。すなわち、子供の頃は動物や乗り物が好きだが、次第に花を好むようになり、次いで樹木、はては盆栽など、動きの少ないものへと好みが移る。ついには流木や水石・庭石などに凝るようになり、石庭を眺めて()()れするようになると人間もお(しま)いなのだそうな。

 さすがに私はまだまだ修行が足らないようで、盆栽に興味は湧かないから、まだ幾分若いのだろう。

 中国の五行説に曰く、春夏秋冬には色があり、それぞれ青赤白黒であるという。青春・朱夏・白秋・玄冬というのがこれであって、言葉として今でも最も使われているのは「青春」である。

 私なぞはどうなのかと言えば、まさか50歳で青春にあたる(はず)もない。と言って玄冬というわけでもなかろうから、多分、白秋くらいにあたるのだろう。

 石庭を眺めて惚れ惚れとはしないが、惜春という意味では、自分の春を惜しんでいる歳ではない。ただ、職場に配置になった新人や、自分の子供たちの春を惜しく思う。