分散は簡単なことではないが追及すべき軍事課題である

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PHM11_0904 IT妄想論者は、すぐにでも在宅勤務の延長として、首都の分散ないし疎開は可能だ、みたいなことを言いたがる。

 直ちに首肯(しゅこう)はし得ないものの、一掬(いっきく)()るところなしとしない。それは、軍事的健在性、強靭性のゆえに、物理的弱点は分散すべきという考えからである。

 人の蝟集(いしゅう)点こそがリーサル・ウェポンを叩き込むための好適点そのものであるとすれば、そこを強固に守るよりも、多少の出血はするにもせよ、分散してしまうことが合理的である。どこを叩いても大した戦果が上がらず似たり寄ったりの結果になるとすれば、核兵器もテロリズムもその存在価値を低くし、無駄が多いことから次第に行使の是非を再考せざるを得ない厄介ものということにならないか。

 原子力発電所を減らすことにとっての障害は、電力なんかではない。ずばり、核兵器開発を未来永劫あきらめるかどうかだ。核兵器の無力化は、核兵器の実質上の無意味化である。迎撃兵器の開発に血道を上げたところで所詮は如何にせん、分散弾頭の一発を取り逃がせば無意味である。だが、人口の分散は、これに対しても相当有力である。人口の分散により核兵器の意味が減殺されるとすれば、日本人が嫌う原子力発電所も削減ないし全廃が可能となる。

 極端な例は、ユダヤ人かもしれない。バビロン捕囚からイスラエル建国までの間、彼らは国境すらも超越して分散・健在した。しなくてよい苦労はしたにもせよ……。

 どうしてIT妄想論者の言う所を直ちに採れないかというと、結局のところ、物理的ネットワークを物理的2次元平面に延伸すれば、単純にそれは半径の累乗に比例してネットワークパスが増えるからである。それはそのまま、金銭的に負担が増えるという事である。分散した人口を密に結合するネットワークの維持には、莫大な金銭を要する。そのため、高度にネットワークが発達して、在宅であるはずなのに、多くの人は、大規模ネットワークトラフィック交換設備の近傍に住むしかない。畢竟(ひっきょう)大都市近傍に居住せざるを得ない。

 しかもなお、物理的労働、生産、配送、サービスなどは、家でマウスをクリックしておれば済むというわけではない。買う方はクリックしていればいいかも知れないが、売る方は客の玄関口に「ごめんくださ~い、佐川急便ですぅ~」と配達してくれる人を絶対に必要とするのである。ロボットがこれを代行する、との論も、就業保証ということを考えると単純でない。

 人口が日本列島の山に野に分散し、それら分散したノードがすべて高度に機能すれば、これにまさる防衛はないと思うのだが、思うだけに終わってしまうのはここである。

浮動首都

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 浮動首都、というようなことを妄想した。自分が書いた砲兵のことと、石原莞爾の「最終戦争論」を読んでのことだ。

 石原莞爾によれば、戦術は点から線、線から面、面から体へと発展し、航空技術の究極に達したところで最終戦争となるという。

 その論の多くは外れてしまい、最終戦争は起こらず、米国の言う核抑止ドクトリンを経てアメリカ一強によるイスラムいじめの様相を呈していることは、歴史の事実である。

 だが、石原莞爾の論説は、東京・大阪の大空襲、広島・長崎の惨劇を経る前に書かれたものだ。それをわきまえたうえで読めばなかなかに興味深い。

 石原莞爾は「近未来には、戦闘員・非戦闘員の区別はなくなる。3次元化した戦闘は都市の無差別爆撃の形をとり、女子供までもが殺される役割として、戦闘に参加することとなる」と喝破している。石原莞爾が言い当ててからたった数年後にそれは東京・大阪、また広島・長崎の形で精密に現実化した。

 アメリカの戦略ドクトリンは変遷したとはいえ、各国のミリタリーはまだ太平洋戦争の呪縛から脱しえない。米国軍隊は縦横に飛び回り、かつ世界のどこへも決定的リーサル・ウェポンを叩き込む自由を得たが、それを生身に浴びる弱い者たちは、2~3百年前からほとんど変わらず、町や村に固定されて生きている。

 リーサル・ウェポンから逃れるためには、首都が浮遊せねばならぬ。情報技術等によって、殺害の主対象である何億もの弱者が、さながら雲のように形を変えてあちこちを浮動し、物理的決定点を持たぬようになることだ。一発の致死兵器が決定点に炸裂しても、そこに人口が蝟集していなければ、その兵器は恫喝の意味を持たなくなる。