じたばた句会の皆様こんばんは。
今夜は一字詠の逆、「一時抜き詠」を試してみましょう。すなわち、「月」という文字を一切使わずに、月に関する句を詠んでください。
季は不問。どんどん発想を飛ばしてOKです。「ムーン」「マンスリー」「良夜」などもOK。
よーい、ドン!レッツじたばた!
— SatoToshio (@SatoToshio) October 22, 2022
「夏雲システム」で関谷氏が運営しておられる「じたばた句会」に投句したものです。
オッサンは生きている。
じたばた句会の皆様こんばんは。
今夜は一字詠の逆、「一時抜き詠」を試してみましょう。すなわち、「月」という文字を一切使わずに、月に関する句を詠んでください。
季は不問。どんどん発想を飛ばしてOKです。「ムーン」「マンスリー」「良夜」などもOK。
よーい、ドン!レッツじたばた!
— SatoToshio (@SatoToshio) October 22, 2022
「夏雲システム」で関谷氏が運営しておられる「じたばた句会」に投句したものです。
記して、「漫生活」である。
昨年、長年にわたりお気に入りの床屋だった「ファミリーカットサロンE.T.南越谷店」が業態替えして「mod’s hair men 南越谷南口店」としてリニューアルオープンしたのだが、同時に値段の方も倍以上となってしまい、それにもまして、私は美容院に行くような美青年ではなく
これはこれで、いっそスッキリして良い。
本当は丸坊主にしたいのだが、妻が難色を示すので髪を残している。つまりこのモヒカン風の
早いうちにひと風呂浴び、汗を流す。
曇、晴、また曇……と天気が入れ替わる。曇る時には季節らしい羊雲が出る。しばらくして窓外を見上げると、今度は真っ青な空がひろがっている。
晩秋と初冬が好きだ。初冬は汗ばまず清潔である。古くから日本を悩ませる風水害も初冬にはようやくおさまる。ただ惜しむらくは花に乏しいことだろうか。しかし、月や鳥を見るにはこの時季がよい。
一昨夜は十六夜の月が美しかった。旧暦九月十三日(今年は新暦10月11日)の「後の月」も、
米国の天気のことはよく知らないが、この時期に
アイスピックでカチワリを削り、日の高いうちから安いウィスキーを一杯。気取らずドップリ注ぐ。
鍛冶屋の動画をのんびりと見る。楽しい。スウェーデンの人らしい。
動画の中で、何か、「スウェーデンの盆踊り」みたいなことをして人々がのんびりと踊っているシーンや、動画作成者本人らしい人が広々とした湖にザンブと飛び込むシーンなどがそれとなく紛れ込ませてあり、見ていて休まる。
今日は旧八月十六日で、いわゆる
「
どうも、いかんなあ……。
今年は「名月」も「
昨日は天文学上の「スーパームーン」とて、大きな望月だったそうだが、あいにくと関東地方は天気がすぐれなかった。
今日は「冬の
十六夜とは言っても、まだ月はそれほど欠けない。ほぼ「望」である。だから、昨夜よりかは幾分晴れた今夜、「
そうは言うものの、良い天気であるとは言いかねる。大きな月はたなびく雲をかつは従え、かつは持て余しつつ、見え隠れにぽっかり浮かんでいる。
冬の
朧月は春のものだが、つい、「
秋の名物と言えば月である。しかし、「中秋の名月」が終わった途端、誰も月を見なくなってしまうのは残念なことだ。人々が三々五々祭りの喧騒から帰ってしまうような感じは、なんとしても惜しい。
最近は欧米白人の言説に惑わされてか、「月の光を浴びると狂気が生じ、犯罪が多発する」なぞと言いふらす輩が増えているが、古来日本人は四季のはっきりとした日本の風土とともに独自の文化をはぐくみ、月を美しいものとして鑑賞してきたのであって、月を見たからと言っていちいち欲情したり犯罪に走っておっては身が持たぬ。
一般ピープルは中秋の名月を見終わってサアヤレヤレ、ほなサイナラ、と月から去ってしまうが、私のような玄人(マテ(笑))は、ここからが違う。万事、「人のゆく裏に道あり花の山…」なのである。
中秋の名月にしても、私なぞ、十五夜で大騒ぎはせぬ。まず、その前日、「十四夜」で騒ぎ始める。十四夜は「
さて、そうして十五夜を迎え、人々の喧騒が去った翌夜、また私の出番(笑)となる。
十五夜の翌夜は、そのまんま「十六夜」と言う。これは
この次もまだある。中秋の名月の二日後の月を「
これくらいかというと、まだまだ月は終わらない。その翌晩の月を「
まだありますよ(笑)。十九夜、つまり四夜後の月、もうこうなってくるとだんだん下弦に近づいてくるのであるが、この月を「
これで終わりかと思ったら、まだまだ引っ張りますとも、ええ。二十夜の月を「
で、二十夜も過ぎると、見えるところに月が上がってくるのは、午後九時ほどにもなってしまう。こうなると、月のことを言っているにもかかわらず、月を指して言わずに「宵闇(よいやみ)」なぞと言ってみたりする。
さて、中秋の名月に続く夜々はこんな具合だが、まだ秋の月は終わらない。なかなかシツコイ(笑)。そのひと月後、つまり旧暦九月十五日(今年は10月19日(土)にあたる)も、当然満月である。これを「
豆や栗を供え、「中秋の名月」のように月見をする。中秋の名月にだけ月見をして、この十三夜に月見をしないと、「片月見」と言って縁起がよくないものだそうな。
なんにせよ、月は美しい。カレンダーというもののない昔の、文字の読めない人たちでも、「空にカレンダーがかかっているように」、月の満ち欠けで日にちを知ることができるという実用上の意味も月には大いにあった。妖怪や犯罪、性欲なぞ言う無粋なことはこの際置いて、かぐや姫のおとぎの居所を眺めてしみじみしたいものである。
歳時記を読んでいたら、秋季語の「名月」の周辺にたくさん月にからむ季語がある。
十五夜前後の月で、明日の名月を待つ宵という心。
曇って中秋の名月が見られぬのが無月、同じく雨なら雨月。
秋季語の三日月・新月は、仲秋の月齢3。
名月十五夜の翌日だから十六夜、日没からやや遅れて出るので、「いさよう(ためらうという意味)」月、という。
十五夜から1日ごとに月の出るのが遅くなるが、「立って待つほどに上ってくる」と言う意味。
十八日の月。前夜より30分ほど月の出が遅れるので、座って(居て)待つ、という意味。
十九日の月。月の出は更に遅れ、臥しながら待つ、という意味。
二十日の月。夜もふけて待つ。
いよいよ月の出が遅くなり、夜が暗い。