()からざらん()

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 天皇誕生日によせた祝日エントリで、筆のすさびならぬ、キーボードの進むままに「()(たっと)()からざらん()」などと書き結び、書いてからふとこの一文が気になった。

 「べからざらんや」というのが、人様にわかってもらえるかどうか、気になったのだ。

 Googleで「べからざらんや」を検索すると、なるほど、「Yahoo!知恵袋」などがヒットしてくる。学生らしい質問者が国語の勉強の上でだろう、「どういう意味でしょうか」と問うているわけである。

 教科書的な回答が数多くあるが、しかし、私としては次のように説明を試みてみたい。

 「祝う」という語が「祝うべからざらんや」となるまで、反語で強められていく変化の過程を例に示すことで説明に代えたい。

口語体 文語体
祝う 祝ふ
祝うべきだ 祝ふべし
祝うべきではない、祝ってはならない 祝ふべからず
祝ってはならない(もの) 祝ふべからざる(もの)
祝ってはならないだろう 祝ふべからざらん
祝ってはならないだろうということがあるだろうか?(いや、そんなことはない) 祝ふべからざらん

 このように変化させて考えていくと、文語的表現はピシリと引き締まり、文字も少なくてすむことがよくわかる。

 私は俳句を詠むのが趣味だが、五・七・五の限られた文字数でできる限りの表現をしようとすると、文語体の方が色々詰め込むことができる、ということは上のようなことからも多少否めないと思う。

オッサン愚弄本

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 靖国神社に参拝した帰り、新越谷の駅で降りて、まだ時間も少し早いからと駅ナカの旭屋書店に寄った。特段読みたい本があったわけでもないが、ちょっと寄ってみたわけである。

 流行ものに抵抗を覚える私は、平積みの本を読むことはまずない。だが、今日は表にディスプレイしてある本をチョイチョイと手に取ってみる。

 その中に、「日本国憲法を口語訳してみたら」という題名の本があった。

 えーっと……。はて???

 そもそも憲法は、万人に親しみやすくするため、最初から口語で平易に書かれていなかったか?それを口語訳するとは一体……。帝国憲法を口語訳するって話か?いや、題名はハッキリと「日本国憲法を」と書いてあるぞ……?

 思わず手に取って(めく)ってみた。驚いた。

 もともと口語で書かれている憲法を、全部「下品愚劣極まる乱暴乱痴気で意味不明な言葉に置き換えて羅列してある」のである。どうもこの出版元に言わせると、「子孫」のことを「俺らのガキども」などと言い換えることが「口語訳」ということであるらしい。

 あまりのことに愕然とし、次いで悲しくなり、通り越してだんだん心を虚無が占めていくのを覚えた。

 これが、こういうものが「口語」とされるとは。

 そうすると、私が今書いているこのブログの文字列如き、彼らから言わせれば口語などとはいうも愚か、文語どころか、下手をすると「上古の語」「記紀万葉の(いい)」とすら言われかねない。

 私と言えど、せいぜい満50歳であるから、老人と言うわけではない。だがこの出版事情が事実として正であるなら、私はもはや、自分の娘ぐらいの世代とすら、文字による意思疎通が出来なくなっているということではないか。つまり、部下とのやりとり、子供たちとのやりとりの、半分すら彼らに理解されてこなかったということではないか。それが内容の正否ではなく、形の違いによって理解されてこなかったということではないか。

 あまりのことに虚脱せざるを得ない。私ごとき、老害を避けるためさっさと死ねということであろうか。

 私を本位として書けば、これは、私が愚弄されているのだと思う。今後このテの本を「オッサン愚弄本」と名付けたい。