平凡社の世界教養全集第3巻のうち、最初の収録、倉田百三の「愛と認識との出発」を読み終わる。
現代かなづかいに直してあるので読みにくくはないが、内容は苛烈・苦悩・極端・懊悩・煩悶・煩悩と言ったもので、私に限っては心地よい共感や同感はなかった。「こういう腹の立つ若い奴って、実際にいるよな」などとも思えて、なじめない。
キリスト教者で文芸評論家の佐古純一郎は解説において本作を「誰しもが若き日の過程において通る道筋」とでも言わぬばかりに大肯定しているのだが、若き日の私はこんな小難しくてかつ惰弱な性情は持っていなかったし、そんな奴は嫌いでもあった。
しかも作品を通底しているのはキリスト教礼讃である。それも、まるで、「畢竟人間など皆原罪を持つのだから、生まれ落ちた瞬間から詫び続けろ、謝れ!」と、こっちを睨み据え、唸り、迫り続けているように感じられる。そこには切々とした詩というものがまるでない。
性欲を霊的なものと勘違いしたような興奮を「異性の内に自己を見出さんとする心」に書き付けたかと思えば、あっという間に冷めて、一部が表題ともなっている「恋を失うた者の歩む道――愛と認識との出発――」では、所詮ただの失恋を、またイジイジ恋々と言い訳している。見ちゃおれないほど痛い。
中でも、「地上の男女」なる一篇などは、私にとっては狂人の所説、しかも完全に狂っていないだけに始末の悪い屁理屈にしか思えず、到底共感することはできなかった。こんな世迷言を若者に薦めることも到底いたしかねる。
なによりも、この著作は女性を蔑んでいる。女性を大事なものの如くに気を付けて文章を書き付けていながら、その蔑視の内心がまるで隠せていない。江戸時代の文章であるならまだしも、せいぜい戦前の著作でこれでは、落胆せざるを得ない。
こんなものがよく記念せられるべき古典として後世に残ったものだと思う。
ただ一点だけ、少しここは良いかな、と同意できたのは、キリスト教を全面狂信というのではなしに、汎宗教のようにとらえ、同時に仏教、特に浄土真宗、親鸞と言った方向にも深い愛着を寄せていることである。実際、倉田百三の代表作「出家とその弟子」は親鸞伝をモチーフにした文学作品である。
言葉
「愛と認識との出発」の文章は、今日び見かけない難解語のオンパレードである。漢字・漢語だけでなく、ドイツ語の哲学術語が多く使われ、前後のコンテキストだけに頼って読み進めることは極めて難しかった。辞書なしで読むのは無理である。通勤電車内の読書だから、まさか広辞苑・ドイツ語辞書・漢和辞典・英和辞典・和英辞典の5冊を担ぎ込むわけにもいかない。いきおい、スマホでネットの辞書を頼りながら読むこととなった。
オブスキュリチー
Obscurity。曖昧さ。
……身オブスキュリチーに隠るるとも自己の性格と仕事との価値を自ら認識して自ら満足しなくては、とても寂しい思索生活は永続しはしない。
豪い
これで「えらい」と訓むそうな。
……エミネンシイに対する欲求も無理とは言わない、がそこを忍耐しなくては豪い哲学者にはなれない。
エミネンシイ
Eminency。傑出。
……後生だからエミネンシイとポピュラリチーとの欲求を抑制してくれたまえ。
向陵
向陵と言うのは、旧制一高のことだそうである。
……月日の立つのは早いものだ。君が向陵の人となってから、小一年になるではないか。
エルヘーベン
Erheben。高揚。
今年の私のこの心持は一層にエルヘーベンされたのである。
デスペレート
Desperate。絶望、自暴自棄、やけ。
……君は尠なからず蕭殺たる色相とデスペレートな気分とを帯びてる如く見えたからである。
インディフェレント
Indifferent。無関心。
……私だって快楽にインディフェレントなほどに冷淡な男では万万ない。
自爾
これで「みずから」と訓む。連体詞のような副詞のような。
「現象の裡には始終物自爾がくっついているのだから驚いた次の刹那にはその方へ廻って、その驚きを埋め合わせるほどの静けさが味わいたい」と私が言った。
「始終物自爾」で始終物自爾、である。
口を緘して
「口を緘じて」の誤植かな、とも思ったが、音読みどおりの「口を緘して」でよいようだ。
私は口を緘してじっと考えた。明け放した障子の間から吹き込む夜風は又しても蚊帳の裾を翻した。
ザイン
Sein。実在。
……自然は生死に関しては「ザイン」そのままを傲然として主張するのだ。
ヴント
ヴィルヘルム・ヴント。
……氏はむしろヴント等と立脚地を同じくせる絶対論者である。
プラグマチズム
Pragmatism。実用主義、実利主義。
……氏は誠にプラグマチズムの弊風を一身に集めた哲学者である。
Wollen・Sollen
主体と客体、主観と客観、というようなことだそうで、特に「Sollen」はドイツ語の難しいところであるようだ。自分の主張か、他人がそう主張しているか、というような解説もネット上にはある。
……実にこの本然の要求こそ我等自身の本体である。Wollenを離れてはSollenは無意義である。
斧鑿
文字通り斧と鑿のことであり、転じて技巧のことを言うそうであるが、鑿の音読みが「サク」であるとは知らなかった。
……何等斧鑿の痕を止めざる純一無雑なる自然あるのみである。
Vorstellung
フォーシュテルン。「表象」である。
……私はどう思っても主観のVorstellungとしての外は他人の存在を認めることができなかった。
Nachdenken・Vordenken
ナハデンケン・フォーデンケン。内的な思考と他に関連する思考、とでも言うような意味か。特にVordenkenについては、抽象的な解しかなく、なんだかよくわからない。
……苦しんでも悶えてもいい考えは出なかった。先人の残した足跡を辿って、わずかにnachdenkenするばかりで、自ら進んでvordenkenすることなどはできなかった。
わかりにくいぞ百三ッ!(笑)。
Leben・Denken
リーブン。「生活」である。
デンケン。「思考」である。
……私は子供心にも何か物を考えるような人になりたいと思って大きくなった。私はlebenせんためにはdenkenしなければならないと思った。
……いや、あの、百三さぁ、なんで「生きていくためには思考しなければならないと思った」ではダメなわけ?変だよ、お前(笑)。
裂罅
なんと難しい、一般の日本語の文脈では見かけぬ単語であることか。しかし意味はそんなに難しくなく、「裂けてできた隙間」のことである。「裂」はそのままの意味、「罅」は訓読みすれば「罅」と訓む。
……知識と情意とは相背いてる。私の生命には裂罅がある。生々とした割れ目がある。
別件だが、上の引用の「生々とした」という語が変換できなかったので、IMEに素早く登録しようとして品詞で困った。「生々」が語幹なら、これは「だろ・だっ・で・に……」の活用が完全にできない不完全形容動詞になるが、「生々し」が語幹になると「かろ・かっ・く・い・い……」と活用できる形容詞になる。
似た単語としては「堂々」がある。普通の形容動詞のように「堂々だろう」なんていう使い方はないのだが、これは口語文法ではうまく整理できない。ところが、文語文法だと「堂々たる」「堂々たり」という「タリ」活用というのがあって、これは形容動詞である。では「生々」は「生々たる」なんて言い方があるかというとどうも怪しく、分類が難しい。
「生々と」までを語幹としてその後を活用させず、「する」を動詞と見れば「副詞」だ、という整理もできる。
屏める
「屏風」の「屏」の字に「める」を送った言葉である。
この訓み方はどうもネットの辞書等には見当たらない。「屏」の訓読みは「屏う・屏・屏く・屏ける・屏」が一般的であるようだ。
しかし、前後の文脈から言って「ひそめる」が最も妥当な読み方だと思う。
私は何も読まず、何も書かず、ただ家の中にごろごろしたり、堪えかねては山を徘徊したりした。私の生命は呼吸を屏めて何物かを凝視していた。
コンヴェンショナル
Conventional。月並み・ありきたり。
私の傍を種々なる女の影が通りすぎた。私はまず女のコンベンショナルなのに驚いた。
ツァルト
Zart。優しい。
……自分が今日キリスト者に対して、あるツァルトな感情を抱いているのは君に負う処が多い。
ウィッセンシャフトリッヒ
Wissenschaftlich。科学的。
……私はもっとしっかりした歩調で歩けるであろう。それには私の思索をもっとウィッセンシャフトリッヒにしなければならない。
……なんで普通に「科学的」って書かないかな、百三ェ……(笑)。
シュルド
Schuld。有罪、借金、責任、……等々の意味がある。
……自分のある友は「彼と交わってよかったことは無い。自分は彼との交わりをシュルドとして感ずる」と言ったそうである。
前後の文脈から言って「責任」「負い目」「責め」というふうに解するのが適当であろうか。
ベギールデ・ミスチーヴァス
Begierde。欲望。
Mischievous。いたずらな。人を傷つけるような。
……自分のやり方でこの少女の運命はいかに傷つけられるかも知れない。いわんやときにはベギールデが働いたり、ミスチーヴァスな気持ちになりかねない自分等が、平気で少女に対することができようか。
遑々として
「煌々として」かな、と思ったら全然違っていて、部首が「しんにょう」である。意味も全然違う。「煌々」は「きらきら光り輝く様子」のことだが、「遑々として」というのは慌ただしく心が落ち着かないことを言う。
……親鸞はその夢を追うて九十歳まで遑々として生きたのであろうか。
Tugend
トゥゲント。徳。
……社会に階級があるのが不服なのはその階級がTugendの高下に従っていないからである。
インニッヒ
innig。心からの、真心の、誠実な、等々の意味がある。
第四、肉交したために愛がインニッヒになるのは肉交の愛であることとは別事である。
しかし、この文脈から言って、ここは「睦まじい」というふうに解するのが適切か。
Seelenunglücklichkeit
ジーレンオングリックリッヒカイト。魂の不幸。
文中ではSeelenunglücklichkeitと長大な一単語として書かれてあるが、Seelen unglücklichkeitという二つの言葉であるようだ。
……かかるseelenunglücklichkeitは人間が、真に人間として願うべき願いが満たされない地上の運命を感ずるところから起こる。
レフュージ
Refuge。避難所。
……仕事場にあっても、家庭にあっても、教会にあっても、絶えず心がいらいらする、レフュージを芸術に求むれば胸を刺し貫くようなことが何の痛ましげも、なだめるような調子もなく、むしろそれを喜ぶように書いてある。
文脈から言って「逃げ道」とでも解するのが適切か。
イルネーチュアード
Ill-natured。意地の悪い。不健全な。
……文壇はその門をくぐる人をイルネーチュアードにさせる空気を醸しているようにみえる。
これも前後の文脈から言って、「意地悪」と解するのが適切だろう。それにしても、その数行前には
一、私の尊敬している少数の人々も周囲に対するときは意地の悪い文章を書く。
……という文章が現れるのだが、ではなんで百三っち、ここでは「意地悪」と書かずにわざわざ「イルネーチュアード」なんて書くのか。まるで意味がワカンネェ(笑)。
ハンブル
Humble。謙虚な。控えめな。謙遜な。
『出家とその弟子』がこのたび当地で上演されることについては、私はいま本当にハンブルな心持になっている。
ハンドルング
Handlung。筋書き。
……それもハンドルングばかりに動かされるようなことではあの作は面白くないに違いない。
次の収録作
さて、平凡社世界教養全集第3の次の収録作は、鈴木大拙の「無心と言うこと」である。今度は少し爽やかな読書になるだろうと思う。倉田百三は私には合わない。