読書

投稿日:

 「菜の花の沖」。全部で6巻中の初巻。

 時代背景の説明などは極めて簡単にしてあり、無駄がない。そのためか展開はスピーディで、ぐいぐいと読者を物語に引き込んでいく。

 成長する主人公が、当時の若者宿の風俗や古くからの妻問(つまどい)婚の慣習などとともに描かれ、一見のんびりした、地方のおおらかな話のように見えていながら、その実は陰惨陰湿で閉鎖的な村社会の実態や、排他的で弱い者いじめの横行する地方村が克明に描写される。

 そんななかでも懸命に生き抜こうとする主人公の苦闘が、淡々と、しかも素早(すばや)く描かれていく。

 村を出、転機を経た主人公は、うってかわって周囲の者に好かれるようになる。生まれて初めてのびのびとした気持ちを味わい、正面から人生に取り組んでいく。この点、読者の人生への示唆にも富む。

言葉

 馬鹿馬鹿しいことや低劣なことを「くだらない」というが、その言葉について、上記の小説に次のような記述(くだり)があった。

司馬遼太郎「菜の花の沖」新装版・文春文庫・ISBN 978-4167105860 305ページより

 江戸という都市の致命的な欠点は、その後背地である関東の商品生産力が弱いことであった。

 これに対し、上方および瀬戸内海沿岸の商品生産力が高度に発達していたため、江戸としてはあらゆる高価な商品は上方から仰がねばならなかった。しかも最初は陸路を人馬でごく少量運ばれていたこともあって、上方からくだってくるものは貴重とされた。

「くだり物」

 というのは貴重なもの、上等なものという語感で、明治後の舶来品というイメージに相応していた。これに対し関東の地のものは「くだらない」としていやしまれた。これらの「くだりもの」が、やがて菱垣船の発達とともに大いに上方から運ばれることになる。

 なるほどなあ。「上方」という言葉も、「京・大坂が『上』」とする定義あってこそである。

 そのような日本人意識の底流があってのことなのだろう、大阪出身の私などは、全国区で移動しはじめた15歳の頃から以来(このかた)、逆に、こちらから何か言う前に、周囲の者から

「えらそうにしやがって」

「都会ぶりやがって」

「過去の栄光に(すが)りやがって、(ゼニ)勘定ばかりしていやがって」

「お笑い芸人の、大阪商人のクセに」

「またも負けたか8連隊、大阪の兵隊は日本最弱」

……などという偏見で愚弄され、いじめられたものである。だから自己紹介の時などに「大阪出身です」というのが嫌であった。特に、北海道に住んでいた頃は、北海道の人や東北の人というのは本当に大阪が大嫌いということがほとほと身に染みて判ったものだ。

 もう40歳以上にもなった後、東京勤めになってだいぶたってからからのこと。北海道の人に「故郷(くに)はどこですか」と問われたので「大阪です」と答えたら、やおら「またも負けたか8連隊」と浴びせられた。8連隊というのは大阪にあった歩兵連隊で、戦後司馬遼太郎や山岡荘八が作品中で変な論評を加えたものだから、情けない上方男(かみがたおとこ)集団の代表のように言われているのである。

 腹が立ったのでその人の目を見ながら

「私と腕相撲か、格闘の稽古でもしてみますか、それか、今から10キロほど駆け足でもしてみますか、あんた、私に勝てると思ってます?」

と真顔で言ってやったものだ。

 その人は単に冗談めかして軽口を言っただけで悪気はなかったらしく、「あ、ごめんなさい」と謝ったもので、私もそこでハッとして、「あっ、いえ、すみません、こちらこそムキになっちゃって……。」とお互いに謝ったようなことであったが、それにしても、いい歳コイたオッサンでも、いつまでたってもこんなことがある。

 だから、今は、東北~北海道の人と付き合う際には、「この人たちは意識の底で大阪出身者である私を嫌い、軽蔑している」ということを忘れないように、幾分丁寧に接することにしている。

東京の砂場と新島繁

投稿日:

img_4565 昨日、たまたま成り行きでだが、東京・三ノ輪にある蕎麦店「砂場総本家」へ行った。

 街の蕎麦屋さんの雰囲気で、静かに蕎麦を楽しむことができ、満足した。

 店内は面白おかしく雑然としていた。私は入って右奥の椅子卓席に座を占め、蕎麦味噌で剣菱を飲み、「もり」を一枚手繰(たぐ)った。

 席の表通り側の窓下にはガラスケースがあり、その中に古物が並べられ、上は本棚になっていた。蕎麦屋らしく、蕎麦に関する本が多く並んでいる。

img_4571 その中に、カバーがセロテープで修繕され、背綴じがバラバラに外れかかった新書版の本が一冊あった。題に「新撰 蕎麦事典 新島繁 編」とある。付箋が打たれて、書き込みや傍線が引いてあった。

 手に取って付箋のあるページをめくってみると、それは「さ」行の「す」項、「砂場蕎麦」の項目であった。大坂屋砂場の来歴由来が記されており、「糀町七丁目砂場藤吉」の記述のところに傍線が引いてあって、「当店です」と鉛筆の書き込みがある。

 こういう本は一度見失うと再び出会えないので、ISBNを控えた。「4879931011」である。

 ところが、帰宅してAmazonあたりにこのISBNを入力しても出てこない。昭和40年代頃の、ISBN普及期の本の中にはこういうことがよくある。

 著者の新島繁と言う人は、ふた昔ほど前の蕎麦マニア筆頭の人であるらしい。往時は非常に読まれたようで、「蕎麦Web」というサイトに、著書やその業績が紹介されている。平成13年に逝去されたそうである。蕎麦の知見に関する集成・整理は、この人なくしては語れないものであるようだ。

 上記サイトの情報から推測するに、どうやら、この本の新装改訂は左掲の本であるらしい。

 この本、ちょっと入手したい感じだが、うーん、どうしようかねえ……。

東海道歩き旅行

投稿日:

 定年で辞めたら、東海道を江戸から大坂まで、歩いて旅してみたい、と急に思いついた。別にハングリーを鍛えようなんてことではない。途中酒の一杯も飲み、ダラダラ歩き旅をするのだ。

 19歳の頃、伊豆半島を歩いて旅したことがある。休暇はそんなになかったから、4日で2百数十キロ歩いた。一日50キロ強というところだった。さすがにその頃の体力をもってしても、多少身にこたえた記憶がある。

 今の脚力だと、そんなにがつがつは歩けまい。まして定年の頃には、今以上にあちこちガタが来ているだろうから、1日せいぜい30キロ歩けば沢山だろう。