「梅松論」は「太平記」と並ぶ南北朝時代の軍記で、太平記は南朝・後醍醐天皇寄りだが、この梅松論は足利寄りである。特徴的なのは、太平記・梅松論のどちらもが、楠正成に関しては同情的に記していることだ。
これを借りて
ムックでこういうのもあり、これも繰ってみた。
オッサンは生きている。
「梅松論」は「太平記」と並ぶ南北朝時代の軍記で、太平記は南朝・後醍醐天皇寄りだが、この梅松論は足利寄りである。特徴的なのは、太平記・梅松論のどちらもが、楠正成に関しては同情的に記していることだ。
これを借りて
ムックでこういうのもあり、これも繰ってみた。
「非理法権天」の
少し検索してみたところでは、楠正成の時代にはこの言葉はなく、後世の創作かもしれない、という。
だが、いいではないか、それが楠正成を表す記号なのだ。私たちはそれにシビれ、酔うのであって、創作であろうがどうだろうが、そんなことはどうだっていいのである。
だが、理非曲直を超えたところに死命を見出し、それに殉じた楠正成にして、「非理法権天」は、順序がなんだか変な気がするのである。
天権法理非、と書けば、その直接的な意味は通る。すなわち、「天は権にまさり、権は法に、法は理に、理は非にまさる」というのである。ところが、「非」を一番上に置いた、というところに、楠木正成の忍従・屈従の思いと、それでもこれをよしとする思いを、後世の人がこめようとしたのではあるまいか、湊川で非天これ逆の戦いに負けたことを象徴して、後世そういうふうに流布したものではあるまいか。