テーマ詠「戒厳令」

投稿日:
春雪や軍旗と手の字(かし)ぎ浮く
ひつそりと春燈管制下に()(そう)
微分音異国の軍楽隊に花
銃声に慣る笑ひには慣れぬ梅
むくつけき戦車尻目に春ショール

佐藤俊夫

#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha

 「夏雲システム」で関谷氏が運営しておられる「じたばた句会」に投句したものです。

 なお、総評に次のように記しました。

 明治欽定憲法には天皇の大権の一つとして戒厳令が規定されていましたが、その時代をリアルに知る人はおそらく私も含めて「じたばた句会」にはいないと思われます。

 また、戒厳令下の外国で過ごしたことがある方もそう多くおられるとは思えないので、どうしても想像の句となることでしょう。
戒厳令に似たものとして、「緊急事態宣言」というものがありますが、これと戒厳令との違いは、「軍が行政や司法の権能を一時代行するか否か」です。

 このため、日本は現憲法下、戒厳令が存在しませんし、また例えばアメリカなどは、制度としては戒厳令はあっても、シビリアン・コントロールの原則により、戒厳令が宣せられることはまずありません。

 しかし、世界の多くの国では政府の機能喪失に備えて戒厳令の規定を持っています。したがって、「戒厳令」という言葉からは、それだけで軍の存在と政府の機能不全、またそこからくる不安や生活の苦労が強く感じられることになります。

 また、戒厳令が宣せられた国や都市は平和とは言えず、軍の存在は色濃いけれども、まだ戦争にはなっていない、これが戒厳令の一側面でもあります。

 この点で、今回のテーマは「戦争未満」かつ「非平和」の、両者の中間付近の、どうにもやりきれないところを表現することとなりますが、「戦争」との詠み分けは極めて難しいな、と感じました。

メディアとしての憲法

投稿日:

 やろうと思えばまだできる、という時期に「もうしません、永久にやめました」とアピールするのと、やろうと思ってももうできない、という時期に同じことを言うのでは、相手の受け取り方は全く違う。

 前者なら、「よくぞ言った!偉いッ!」と受け取られたかも知れない。

 後者だと、「いや、永久にやめましたもヘッタクレも、そもそもお前んとこ、元からそんなこと出来ねぇだろうがよ。ナニわかり切ったこと言ってんだ。アホか」とバカにされるだけだ。

 私などは「何が憲法改正だ。改正などとは手ぬるい。最善は『破棄』である。それができないくらいなら、いっそ一切何も手を付けず、千年くらいこのままがよい」などと(うそぶ)いている。これを聞く人は「またこの変人佐藤が、キチガイみたいなこと言ってるぜ」と笑って流してくれるが、私は大真面目なのだ。

「何が『緊急事態の宣言』だ!ここは『戒厳令』と書かねばならぬ。条文もあんな臭い口語体ではダメだダメだダメだッ!『天皇ハ戒厳ヲ宣告ス 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム』にせんかァ!」

「おいおいおいおい佐藤さん、それは旧帝国憲法のパクりでしょうが」

「キミキミっ!今『旧帝国憲法』と言ったね!?『旧』とは何だ『旧』とは!まだ生きているものについて言うのに『旧』なんてつけなくていいんだッ!『大日本帝國憲法』、と言いなさい、この際、『国』という字は旧字体で『國』と書いたものを音読する気持ちで、さあ、言ってみよう、さん、ハイッ!!

「(……またはじまったよ、マジ面倒臭いオッサンだなあ) ハイハイ、わかりましたって(笑)」

……なぞという狂った会話を普段からしていれば、そりゃあ誰も相手になどしてくれないのは当然ではあるが……。

 だが、落ち着いて考えれば、癇癪を起して、喧騒(けんそう)、興奮、混乱、分断のうちに改定ないし破棄するというのも慌て過ぎだ。

 反面、喧騒や興奮などすれば、諸外国はそれに注目する。憲法に盛り込まれた文言は、内に向かっては、その縛ろうとするものが権力であろうとはた国民であろうと、外に対しては、日本が諸外国に向かって誓約する宣言としての機能が大きい。

 つまりは最高法規の姿をした強力な媒体(メディア)となることは疑いない。そう思う時、喧騒、興奮、混乱、分断もまたそれに期待される機能を自然に持つのだ、とも思う。