ゲームや媒体(メディア)や手段や目的や読書や

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ともかくモザイクで遠慮して、
画像はイメージです(笑)

 婚活サイトのネット広告で、「ゲーマーの旦那さんください」というキャッチ・コピーのものがあって、思わずクスリと笑ってしまった。

 何故(なぜ)と言って、多分、ゲーマーの旦那さん、と言っても、ゲームは既に何千万本もの種類があって、ゲームが好きだからと言って必ずしも趣味が合うとは思えないからだ。つまりゲームは媒体(メディア)なのであり、趣味の合う合わないはゲームの内容による。

 パズルゲームが大好きな婚活女子が、念願(かな)ってゲーマーのイケメン高学歴高身長高収入男子をゲットしたら、これが殺人スプラッター血みどろ内臓破裂戦場シューティングが大好きという陰惨な男で、全然話も生活も合わない、なんて、単純にありそうな話である。

 どうしてそういうふうに思うのか。

 私は、ごくクローズドな範囲の、小さい読書コミュニティの世話人をしている。この2~3年ほどそこの中核メンバーである。

 ところが、単に「読書」というタイトルで人が集まっても、これがまた、話なんざ、全く合わないのだ。なぜと言って、それは簡単な理屈で、世の中に本は何百億冊とあるからだ。そして、その内容はすべて異なる。本はメディアに過ぎず、話が合う合わないはどんなジャンルが好きかとか、今どんな内容の本を読んでいるかということに依存する。これを仮に「小説が好き」というふうにジャンルを狭めたとしても、世の中にはこれまた何億という数の小説があり、単に小説が好きというだけでは話を合わせることが難しい。

 事程(ことほど)左様(さよう)に、一口に「読書」と言っても範囲が広すぎるのだ。そのため、当初20人近くいたコミュニティのメンバーはジリジリ減少を続け、今年はわずか5~6人ほどになってしまった。

 こんな経験から、漠然とした「読書」「本」という枠組みだけではどうにもならないということが私にはよくわかる。

 そこからすると、ゲーミングも読書と同じだ。今やゲームは、本と同じ「媒体」と見てよい。ゲームは新しい分野であるとはいえ、もう既に数十年の歴史を経つつある。

 こうして考えてみると、新たなものを何か考える際、それが「プラットフォーム化」「基盤化」「媒体化」したとき、はじめて、そこから十分なお金を安定して引き出すことができるようになるのだろう。

 かつて、「無線」は、それ自体が趣味や職業として成立し得た。アマチュア無線や市民無線(CB)の免許をとり、他人と話をすることはなかなか程度の高い趣味であった。話の内容なんか、どうだっていいわけである。「無線機を使って話をするということそのもの」に意味があった。また、無線従事者の資格を持つ者は職業として幅広い選択が可能であった。だがしかし、万人が「携帯電話」という名の無線電話を持つ今となっては、アマチュア無線などもはや風前の灯火(ともしび)であり、職業無線従事者も、放送局や電話会社、あるいは特殊な公的機関の中核技術者になるのでもない限りは、資格だけで食っていくことはなかなか難しい。

 同じことはかつての「マイコン」、現在の「パソコン」にも言える。これらは、かつてはそれ自体で立派な一分野で、趣味としても、職業としても成立し得た。だが、今やそうではない。パソコンはネットへの窓口としての安価なコミュニケーション端末か、安い汎用事務機器か、ゲームマシンか、そういうものに過ぎなくなってしまった。大切なのはパソコンで何をするかである。昔のように「パソコンが趣味です」などと言っても、ほとんど意味をなさない。パソコンで絵を描くのか、著述をするのか、音楽を楽しむのか、ゲームを楽しむのか、他人とのコミュニケーションを楽しむのか、その内容による。また、パソコンが仕事です、と言って意味をなすのは、PCの設計や製造、CPUの開発に従事している、アプリケーション・ソフトのプログラミングをしている、というようなことであって、完成品のパソコンを買い漁ったり、出来合いの電源やマザーを組み合わせてパソコンを組み立てたりしても、もはやコレクションとしての意味はおろか、趣味として形をなすかどうかすら疑わしい。

 自動車も似ている。かつては自動車の所有それ自体がステイタスの誇示であり、どこへいくという目的などなくとも、「ドライブ」ということそのものに意味があった。だが、今もし意味を持ったステイタスの誇示やドライブをしたいなら、1千万円を超える高級車でも所有して、外国のハイウェイでもブッ飛ばさない限りはなんの意味もない。これだけ普及すると、自動車は物を運ぶとか、人を乗せて仕事に行くとか、そういう実用的な「媒体」の一種でしかない。こうなってくると、大事なのは自動車を使って何をするかだ、ということになる。

 こうして、人間はいろいろな手段に熟達した挙句、ふと我に返って「私はいったいこれで何をしたかったのだろう」と自問するのだろうと思う。目的のない手段、魂のない科学、中身が薄い媒体、目標のない技術、こういうものが地球上には溢れかえっている。

 ここで道は二つに分かれる。次の二説だ。

 (しか)り、失われた目標と目的をどこまでも求め続ける苦行こそ人間の役割、所詮見つかりもせぬ目標や目的の奴隷であり続けることこそ人間たるものの至上究極の義務、という説。

 (しか)らず、目標も目的も所詮は虚しいもの、如何に久しくあれこれを(あげつら)いまた追うことぞ、ならば手段や媒体、方法そのものを楽しめ、という説。

 実はこんなことは、古くから先人が論述済みである。

 私は今、(りん)()(どう)(リン・ユータン)の「生活の発見」という著作を読んでいる。このところ耽読している60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第4巻に収録されている。

 林語堂は明治28年(1895)~昭和51年(1976)の激動の時代に生きた中国人著述家だ。現代の共産党中国に生きる人々とは違う、古い時代の中国人のものの考え方・見方をこの「生活の発見 The Importance of Living」で著述した。

 彼が述べる中国人の考え方や姿勢は、雑に言うことが許されるなら、「手段や媒体そのものを楽しめ」である。花鳥風月を愛でることや茶や酒や書や詩や絵画や道具や居宅、日月山川、そういうものを生活として再発見し、生活そのものに人間の存在意義としての価値を認め、それによって幸福に生涯を送れ、としている。

 しかし、西洋哲学はどうも違う。同じ全集シリーズの最初の方は、ソクラテスから始まって、ジョージ・サンタヤーナなどまでに至る西洋哲学体系であったが、これらは人間の目的、人間の精神の存在、魂や神など、形而上に意義と目標を求め続けるというような、そういうものであった。

 実は林語堂は、これを襤褸(ボロ)(カス)()き下ろしている。曰く、「一ソクラテスの生まれたことは、西洋文明にとって一大災厄であった」と。この一言に、林語堂の動かぬ立場のすべてが尽くされている。

 さんざんヨーロッパの形而上学を読まされた後だと、林語堂のこうした喝破(かっぱ)は、私などにとって、誠に心が安らぐものなのである。同様の安らぎは鈴木大拙(だいせつ)の「無心ということ」を読んだ時にも覚えたが、さすがに鈴木大拙はそこまで対立的ではなく、日本人的な理解と包摂の姿勢であった。

 もしここで、イスラムの古い哲学などを読むと、またいろいろと違うのだろうな、と思う。それには、ヨーロッパが十字軍遠征などを通じて持ち帰ったイスラムの膨大な書籍がどのようにヨーロッパの学問に取り込まれていったのか、ということに関する詳しい理解が下敷きとして必要だろう。

くずし字

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 博物館などへ行った際、古い文書のほとんどが私には読めないのがもったいなく、もう少し勉強しようと思い、右の本を購入した。

 読んでは見たものの、やはり身に付きにくく、あまり実力が付いたような気はしない。

 多分、私だけではないと思う。同じ日本語、同じ漢字なのに、日本人のほとんどにはもはやこうした文書は読めないと思う。

 左写真の文書は同書から引用した。読めるだろうか。多分普通の人でこれが読めるというような人は皆無だろう。

 写真の文書を読める漢字に書き起こしてみる。

(「古文書くずし字見わけかたの極意」p.178~179から引用、左上写真同じ)
乍恐口上之覚

一 此度御制札文字難相見文字有之候ハヽ

墨入御書替之義被仰附 依之御

制札壱枚文字難相見ヘ所も有之候ゆへ

御書替等之義御願奉申上候所御聞

届ケ被為 成下難有奉存候

 ……これでもまだ普通の人には読めないと思う。

(同書より)
おそれながら口上(こうじょう)(おぼ)

ひとつ このたび 御制札(ごせいさつ) 文字 あい見え(がた)き文字 これあり(そうら)わば

墨入れ お書き替えの義 (おお)せつけられ これにより 御

制札 一枚 文字 あい見えがたきところも これあり(そうろう)ゆえ

お書き替えなどの義 お願いたてまつり申し上げ(そうろう)ところ お聞き

届けなしくだせられ 有り難く存じたてまつり(そうろう)

 音読できるように現代仮名(かな)(づか)いにしてみたが、それでもまだ意味がわからないと思う。

大変恐縮ですが申し上げます。

このほど、公共掲示板の文字が見えにくくなってきておりましたところ、

はっきりした文字に書き直すようご指示を頂きましたので、現状を確認いたしました。

その結果、公共掲示板の一つに文字が見えにくくなっているものがあることを把握いたしました。

書き直し作業について許可くださいますようお願いしておりましたが、

ご許可下さいましてありがとうございます。 

(佐藤俊夫訳)

 昔は読み書きを習った者なら子供でもこういう文書を読んでいたのだそうだから、本当にもう、同じ日本人ではないような感じすら、する。

葦と日本人

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 数学者にして哲人、ブレズ・パスカルの「葦」の一節は学校で習うから誰でも知っている。あの一節は彼の遺稿集成「パンセ」の中にあるという。

 同じ「パンセ」の中の、あまり知られぬ一節に、こういうのがある。

「人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣(きんじゅう)にひとしいかということばかり知らせるのは、危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険である。しかし、人間にその両方を示してやるのは、きわめて有益である。

 人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべきである。」

 この「パンセ」の一節の「人間」という単語をそのまま読まず、「日本人」と置き換えて、中国や韓国、またアメリカとの関係を念頭に置きつつ読むと味わい深い。

 パスカルは30代で死んだ。若かった彼をして、人間にある偉大さ・悲惨さの二重性と、理性の知らない心情の論理を発見せしめたものは、宇宙の神性と言うほかにない。

ナニ人だろうがカニ人だろうが蓮舫は蓮舫

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 「蓮舫は台湾国籍を放棄しておらず、二重国籍の疑いがある」などとして疑義を呈している者があるようだ。

 それをまた、真っ向から揉み消そうとする、その調子に現れた蓮舫のほうの狼狽っぷりたるや。そんな、アナタ、所詮夕刊フジでしょ?たかがZAKZAKあたりでしょ??(笑)。

 ま、台湾人だろうが日本人だろうが、どうだっていいっちゃあ、どうだっていいんだけどね。

 他にも、帰化外国人とか、国籍だけが形の上で日本ということになっている代議士なんて、昔ッからたくさんいるんだし、何を今更。

 日本人だろうが台湾人だろうが、蓮舫は蓮舫なんである。