なんっか、腹立つんだよなあ……

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 ローマ法王が来日し、長崎でスピーチしたそうな。

 その内容である。

 なんっか、腹立つんだよなあ……。

 広島の、そして長崎の惨劇と虐殺は、お前らが営々と築き上げてきた西欧文明の所為(せい)で起こったんと違うんかい。その西欧文明はキリスト教によって生まれたんだろうが。それを、何を今さら、アメリカの批判だって?笑わせンな。

 ごめんなさいと謝ったって、偽善以外の何物でもない。アメリカ人のキリスト教徒を全員破門にでもするというのならまだしも。

 この善人韜晦っぷり。だからキリスト教は大嫌いなんだ。

時事雑感

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ど、どどど、どういうこったい……?

 イイ感じにかき回してくれるぜ、まったく、ヤツぁ……(苦笑)。

 逆に、なんだか「いい奴」にすら思えてきた(マテ

本日時事雑感

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ゲーム世代

 ……。

 なにしろ、攻撃型原潜だからねえ。そのうちに、「ポチッとな(笑)」とかいうフザけたノリで核戦争をおっぱじめるキチガイも出てきかねない。

いやーっ、ナイわ~……。

 いやまあ、そういう世相なんだろうけど、ナイわー……。こんなの、負け惜しみなんじゃねえの?

妬ましい

 アメリカにせよ、ロシアにせよ。……ハラ立つなあ。

 日本では戦争で倒れた世代は、世界各地を侵略し、アジア全域の女をレイプしまくったカスの集団ということになってしまっている。あまりにも悔しい。敗軍敗国は、ここまで愚弄されなければならない、ということかもしれないが、いや、まて、愚弄しているのは自分たち自身ではないか?

いやー、わからんでもないが、しかしさー……
以下引用

個人の記憶についてもう1つ言えるのは、ある個人が自分の戦争体験をよく覚えていても、それについて話さないということだ。例えば兵士であれば勝者側と敗者側の双方、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の生存者や終戦時のベルリンでソ連軍に強姦された女性たちなど、戦争を体験したたくさんの人々は当時の暴力や恐怖について語ることをしなかった。

年がたってから口を開く人もいるが、一生語ることのないまま亡くなる人もいる。後になって話し始める人たちは、自分の物語が社会に受け入れられるようになった、という共通の記憶の変化に反応して口を開くことが多い。個人とは社会的文脈の中で思い出すわけだ。

戦争を体験したことのない世代の個人の記憶も同じように構築されるが、戦争そのものというより戦争について話される物語を覚えているというように、より非直接的な記憶になる。しかし、これらいわゆる「ポスト・メモリー」も、戦争体験と同じくらい力を持ち得るだろう。

 これで集団の記憶は正しくなるよ、みたいなことを言われても……。日本の場合、もう当時の大人としての記憶を形式知にできる人は、90歳を超えちゃって、絶滅しつつあるもんなあ……。

結局、わかってないんだわ。

 これって、なんか、口喧嘩の応酬みたいなことなんだろうけど、核兵器がそういう、言葉のやり取りのアヤでちょっと間違って発射しちゃって人の2~3人が死んでどうにかなる、とかいうような、シャレで済むようなものじゃない、ってことを、やっぱり実感としてわかってないのよ、コイツら。所詮死ぬのは国民だ、みたいな。

家に置いてけよ

 人それぞれの勝手だとは思うし、事情もあるんだろうけど、どうも、この、旅先にまで犬なんか連れて行こうという、そのあたりがわからんなあ……。いや、盲導犬とか、そういうどうしても必要な場合はあるだろうし、大きな転勤、移住ってのもあると思うんだが、そうでないような、遊び半分の旅行なら、人に預けていくとか、やりようがあると思うんだが。

ハハハ、そりゃ言うまでも

 アハハハ、根拠と覚悟って、文春をはじめ、週刊誌だけじゃなくって、テレビだって新聞だって、それどころかマスコミ全部、そんな、「覚悟」なんてもの、あるわけないじゃん。ゼロだよ。

ホーキング博士追悼・続

 愛すべきところの多々あった人だったんだなあ、と改めて認識。祈冥福。

こういうの、定期的に出るなあ

 「まあ、そうだろうねえ」という感じと、「そんなの、Android自体、それそのもの全体がマルウェアみたいなもんだろ、電話番号から写真から何もかもアメリカの支配下にあるクラウドに送ってんだからさ、何を今更」という見方もあって、笑ってしまう。

ほほ~……

 ほほ~……。

あ、ノーベル賞狙い、っていう下卑(ゲビ)な見方もあるんだ?

 ……というか、ドナルド・トランプじゃなくて、金正恩(きんしょうおん)がノーベル平和賞貰ったら、もう、おかしくってハラ抱えて笑っちまうな。

美しくないねえ

 あー、ゼニカネ、ですかやっぱり。なんでもかんでも安くすれば正義、入札でさえあればオッケー、という愚かなやりかたのせいで、残すべきものが滅んでいくわけですわ。

ムスダン失敗つける薬もなし

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 先週15日の土曜日、また今日(20日木曜日)も失敗したと報じられているムスダン。

 こうなってくると金チャン将軍も執念みたいなもので、失敗続きが逆にかわいそうになってくる。

 逆にしっかりせんかいドアホが、と、技術者として向うの技術陣をあべこべに叱責したくなってくるという、日本人としてはどうも具合のわるい気持ちにもなりかねない私だ。

 そんな中、ひょっとして、……という妄念が頭を離れない。

 今度失敗した分のムスダンには、核弾頭の実弾を積んでいたのではないか、という妄念だ。根拠も何もないが、なんとなくそんな気がするのだ。恐ろしい。

 これは、金ちゃん将軍によるアメリカや中国の根性だめしみたいなものだ。実際、日本海の真ん中でドガッと一発やらかしたところで、現実的にアメリカは何もしないだろうし、中国もどうすることもできないし、まして日本など、である。北朝鮮への制裁を発動と言っても、もうできることなんざほとんど残っていない。

 しかも、そのように妄想していくと、事態はさらにややこしく、「北朝鮮国内において失敗したムスダンの核弾頭が核分裂せぬまま爆轟四裂し、生のプルトニウムが朝鮮半島内に撒き散らかって、恐るべき放射線被害を惹き起こしつつある」ことになる。

 ダーティ・ボムというやつだ。しかも、「スーサイド・ダーティ・ボム」である。あほだ。

 まあ、これは私の妄想で、まったく根拠なんかないが、もしこれが本当だったら、キチガイにつける薬がないと言う、わりかし当たり前の答えが出てきて、案外つまらない。

原発議論と軍事

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 小泉元総理は、また、なんだか変にヒネクレ出したなあ……

 だが、このあたりも含めて、原発議論の中に、「軍事の観点から」という要素が全然ないのは奇怪極まる。誰も一言も言わない。

 「軍事」と言ってアレ方面のアレルギーがムズムズ痒いと言うなら、「国家安全保障の観点から」などと、猥褻な現代語で言い換えてもよい。

「やろうと思えばいつでも原爆ぐらい作って敵国に叩き込めるだけの潜在的実力を営々と保持し続ける、それによって不気味なニラミを効かせる」

……これが原子力発電所を建設・維持する本当の理由なのだ。電力なんてどうだっていいのである。そんなものはタテマエだ。つまり、先日米副大統領のバイデン氏が中国でわざわざ代弁した、アレなんである。

 だが、「日本は原爆を作ります」なんてことは、唯一の被爆国として口が裂けても言えないのだ。だから言わない、言わないが、「アイツら、いつでもそれくらいやってのけるぞ」という、そういうニラミなのである。

 そこを避けて通って、原発廃止も存置もヘッタクレもない。

 それに、逆に阿呆な話で、仮に北朝鮮に対して核抑止を効かせることだけが目的だと言うなら、何も自力製造なんかしなくったっていいのだ。アメリカに、「1兆円ぐらい払いますから水爆1発売って下さい」って言えば、ホイキタ、とくれるだろう。仮にくれなくても、配備はするだろう。

 だが、それもまた、ダメなのだ。工業力の保持だって、原子力発電所の目的なんだから。そしてまた、私の論では「どうでもいい」と極論したが、冷静に言えば電力だって大切なのだ。

 アレも、コレも、ソレも大切なのだ。

魂なき科学と長崎原爆忌

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 8月は広島原爆忌、長崎原爆忌、敗戦忌と続く。

 今日は長崎原爆忌だ。幾万の犠牲者のたまき()魂魄(こんぱく)を思い、悲しむ。

 長崎に投下された原爆は、「Mark 3 “Fat man(デブ)“」という名前であったことが知られる。

 実は20年ほど前までは、この「Fat man」が広島に、長崎にはもう一方の「Little boy(チビ)」が投下されたと信じられてきた。ところが情報公開が進み、逆であったことがわかったのである。

 長崎に投下された原爆の種類と、広島のそれとが逆に発表されてきたことには、実は腹立たしい理由がある。

 長崎に投下された「Fat man」は、広島に投下された「Little boy」より威力が大きかった。だが、長崎のほうが死者が少なかった。そうすると、これらを設計した科学者や技術者の計算ミスと言うことになり、多くの者が処分されてしまう。そこで、広島に投下されたものと長崎に投下されたものとを、長らく逆に発表してきたのだ。

 死者が多い少ないと言う恐ろしい報告は、豆とか麦を(ます)で計って目方が多い少ないなどと言う事とはわけが違う。額に汗して真面目に暮らしていた人々の、かけがえのない命が2万3万多いだとか少ないだとか言っているのだ。数十余万に及ぶ(おびただ)しい人々を虐殺しておいて、博士修士といった連中のたかが100人がところが「俺がクビになっちまう、来月の給料はぁ~?」などと言ってうるさいから、とりあえず逆に報告しておきましょうなどという、そういう話なのだ。

 この文章を読む方に言いたいが、指を折って2万とか3万とかいう数を数えたことがあるだろうか。ほとんどの人が、実際に指折り数えたことがある数字は、千くらいまでがせいぜいだと思う。自分が数えたこともないような数の人が死んでいるのだ。それを、科学者の地位の保全のために誤魔化(ごまか)したのである。

 使われたプルトニウムはハンフォード・サイトというところにある原子炉で作られたが、この近所には、今、億万長者ビル・ゲイツ氏の自宅がある。近所、と言っても200kmほど離れているが。

 「ファットマン」はプルトニウム爆縮型の核兵器だ。プルトニウムを爆薬で包み込み、爆薬に点火すると爆圧が急激に内向する。それによりプルトニウムが高速かつ極度に圧縮されて臨界を超え、核爆発が起こるのだ。原理的に丸い形状にならざるを得ないので、文字通り「Fat Man(デブ)」の形状となったのである。

 だが、単純に爆薬で覆えばいいと言うものではない。1か所に点火すると、爆発が点火場所から順次伝わっていくので、プルトニウムを全方向から均一に圧縮することができない。

 どうにかならないかというわけで、点火栓を周囲に沢山取り付けて爆発させてみた。ところが、これでは「あちこちから棒で同時に突ッつき回した」ようになってしまい、プルトニウムを均一に圧縮することはできなかった。

 そこで、かのフォン・ノイマンの登場となる。そう、「ノイマン型コンピュータ」の考案者、あのノイマンだ。天才的数学者であった彼は、爆轟速度の異なる2種類の火薬を二次曲面で精緻に組み合わせた「爆縮レンズ」を計算により編み出した。

 魂を持たぬ科学、愛を失った天才ほど恐ろしいものはない。この計画を強力に推進したアインシュタインでさえ、後年に至って

「私たちは、知性を神格化しないように、十分注意しなければなりません。知性は、言うまでもなく強力な筋肉をもってはいますが、人格をもってはおりません。〔……〕知性は、方法や道具に対しては、鋭い鑑識眼をもってはいますが、目的や価値に関しては盲目です。」

「宗教なき科学はびっこ((出典ママ))であり、科学なき宗教はめくら((出典ママ))なのです」

(アルバート・アインシュタイン『晩年に思う』より)

 と言っている。

 かくてプルトニウムは全周囲から爆発的圧力で均等に圧縮可能となった。技術的には、科学的には、つまり人間の脳味噌のなしうる器用な働きの上からは、これは大成功だ。

 だがその大成功の産物は、あいつらの言う、人類が到達しえた至高の知性の産物は、無辜(むこ)・無防備の素朴な長崎市民の只中へ放り込まれ、恐るべき地獄の業火となって炸裂したのである。

 稀代の頭脳にして人類の至宝、フォン・ノイマンの手になる、精緻な科学的知性の帰結であるこのガジェットが(もたら)した凄惨な地獄絵図は、結果として人類文明史上最悪の汚点となり、かつまた欧米白人科学史上の恥となって永久に消えぬこととなった。

 戦争であろうと、科学であろうと、やっていいことといけないことの区別が、やはりあろう。それを思えば、長崎の虐殺は「やってはいけないこと」であったには違いない。

https://youtu.be/grFZiNaNVds?t=4m21s

「原爆を投下した者がいる!この投下を計画し、その実行を命じ、それを黙認した者がいる!そうしたことを計画、実行した人たちが今、被告たちを裁いているのだ!」(東京裁判弁護人・ベン・ブルース・ブレイクニー少佐の弁護より)

 東京裁判では、米側弁護人ですらこう言わざるを得なかったのだ。

 原爆が欧米白人科学史上の恥となった、と私が言う証拠に、ブレイクニーが畳みかけたこのくだりは、見てのとおり映像には残ったものの、映像の中にも触れられている通り、同時通訳が停止され、速記録からは抹殺された状態で出版されてしまった。

本当に腹の底から悲しめ原爆忌

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 原爆忌である。

 思うだに、考えるだに、いたましい(かな)、悲しい哉。多くの人が(こうべ)を垂れ、遠いかの日に思いを致している。

 だが、本当のところを喝破(かっぱ)すれば、実は(ほとん)どの者が悲しんでもいなければ(いわん)や反省などしてはいるまい。

 その証拠に、本当に悲しみ、本当に反省しているのならば、核兵器で死ぬ者が二度とないように現実の物理的努力をしているはずだ。だが、殆どの者はそんな物理的努力などしていない。政治家から学者、有名人、金持ちから貧乏人、一般人に至るまで殆どが、だ。

 日本は中国・ロシアという核兵器保有国に隣接している。日本に向けて照準を定め終わり、いつでも発射可能な核弾頭の数は数百を下らない。それらはポチッとスイッチを押せば、地獄の業火となって私たちの頭上に降り注ぐ。軍事施設ではない、無辜(むこ)の一般市民の頭上に降り注ぐのだ。かてて加えて、新興核武装国にして敵国、北朝鮮は、この凄惨な兵器の開発を()めぬばかりか更なる増産増備の構えを強めてさえいる。

 この冷厳な事実に対抗するための具体的で物理的な努力に関して、人々はあまりにも冷淡である。はっきり言えば「何もしていないし、何も考えていない」のが実際である。それが、私たち共通の悲劇のこの日、広島原爆忌に、多くの者が悲しんでいるフリを実はしているだけだと、露悪的に私が()所以(ゆえん)だ。

 日本はある程度の弾道ミサイル防衛の実力を持ってはいる。だが、1発2発なら器用に撃ち落とす見事な腕前くらいは見せられても、20発30発と撃ち込まれれば、もう弾切れになり青息吐息だ。これを「飽和攻撃」と言う。そうなれば広島どころではない。何十万、いや、何百万もの人が焼け爛れて死に、中性子線による放射線障害でのたうち回って死に、遺伝子に対する甚大な影響で子孫までがおかしくなってしまうのだ。

 中国もロシアも、50発でも60発でも核兵器を日本に打ち込む実力を潜在している。戦争は弱い者いじめだ。中国もロシアも、アメリカ本国に撃ち込めば苛烈な仕返しに遭って自分たちが困る。核戦争を開始するなら、まず弱小な敵国・やる気も覇気もない日本に数十発がところを撃ち込み、その親分アメリカの出方を見るだろう。ま、本当にやるかどうかは別問題として……。

 まして、仮に、仮にだ。今もってなお世界一の軍事国家、水爆の殿堂にして核兵器の巣窟、かのアメリカ合衆国が、万が一にも日本の敵となる日が来たら、どうなるか。

 反省するなら、悲しむなら、ポーズやフリではなく、本当に反省し、本当に悲しんでほしい。情緒的に悲しんで見せるのなど、中学生以下の子供でもできることだ。

 ただし最後に言おう、本当の反省は、情緒よりする悲しみから出発する。だから、まず腹の底から慟哭(どうこく)し、悲しまねばならぬ。それがスタートだ。

時事無責任寸感幾つか

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共産党藤野政策委員長党職辞任の一件

 共産党の代議士、標記藤野何某(なにがし)。「人を殺すための予算ではなくて、人を支えて、育てる予算を優先していく」とした発言を取り上げられ、ついに党職を辞任させられた。

 左翼主義者の肩など持ちたくないが、しかし、これは少し気の毒ではなかろうか。揚げ足取りというものだ。

 私は、「防衛費は、究極、人を殺す予算だ。で?それで何が悪いの?」と思っている。人殺しと言われた程度のことで傷つくような自衛官は修行が足りない。防衛大や新隊員教育隊に入りなおして駆け足でもしてこい。

 こんなのは、ものの言い方、気分の話だ。「何を言う、人を守る予算だ」というのは微細な話で、何によって人を守るのかと言うと、敵を殺すことで人を守るのだ。

 以前、民主党(当時)の菅氏が「暴力装置」と言ってブッ叩かれたが、これも左翼が良く使う術語で、そんな目くじら立てるようなことではなかった。菅氏には天与のインテリジェンスが災いしたと言う所であった。

 むしろ、こんなことで大慌てし、藤野何某ごときを叱りつけて責任を取らせる共産党の執行部には問題がないか?これはもう、すぐ眼先に控えた参議院選挙の一票に汲々としている哀れな姿と言うより他にない。

 確かに、防衛省職員は自衛官だけでも22万を超える。これらには家族や親戚もおり、ひとり当たり5人ほども勘定すれば100万人近い一大票田である。これらの気分を損なって票を失うことが手痛いことだと言うのはわからぬでもない。

 だがしかし、これしきで(せつ)を曲げるとは。たとえ左翼と言えども、代議士たるもの、正々堂々と大声で、己の信じるところを曲げず、主張し続けてはどうか。それで選挙に落ちるなら、潔くそれを受けとめて頭からダイビングで落ちるべきなのだ。敵ながらそれでこそ男らしい態度だ。むしろ、共産主義者がこんな弱腰では、自衛隊は「無言の数の力で自由な言論を圧殺した」と言われかねず、それこそ自衛官にとって卑怯の誹りとなって逆に迷惑だろう。

 与党もこんなことで大騒ぎしてると、「揚げ足取りの応酬」を呼んじまう。ウカウカしてると誰かの失言を針小棒大に取り上げられちまうぜ。気をつけなよ。

バイデン米副大統領「一夜にして……」発言

 日米同盟の妙味。「ツー」と言えば「カー」というような絶妙な掛け合いですなあ。日本から中国にこんなこと言ったり、あるいは日本から米国に「そういうふうに中国に伝えてくれ」とは、それこそ口が裂けても言えない。平和主義が国是だ。そんな恫喝はわが政府にできるはずもないのである。

 ところが、バイデン氏にはまるでテレパシーで伝わったかのようである。よくぞ言ひたり、ってなものだ。大統領その人に言わせるわけにもいかないし、まさに「言うのに適任」の人である。

 なんというか、拈華微笑(ねんげみしょう)、というのはこういう感じか?ちょっと使うところが違うか。マアエエワ(笑)

 あと、念のために書いとくと、これ、昔からよく米国が使ってた言い方なんですよね。特に核抑止ドクトリン全盛時代には。

「ヘル朝鮮」てw

 韓国も熱い国で、しかも文明国なので、若者言葉が面白いようだ。「就職やくざ」とか、笑ってしまった。

 韓国頑張れ。……以前と違って、私は実はあまり韓国が嫌いではなくなった。同源の友邦であるという気がしている。安全保障上、常備70万、動員で150万になんなんとする兵力は無視できない。……まあ、腹の立つ厄介親戚だが。

プリンタ電源入れ忘れが原因で一億円の二重支払処理

 この件、なかなか味わい深い。

 送信確認が印字出力の有無だけでなされていたのか?まさかそんなこともあるまい。多分、「それ使うようになっていた」のだろうけれども。

 ささやかながら不肖・私こと佐藤、経済産業大臣認定「ITストラテジスト」以外に、「テクニカルエンジニア(システム管理)」の資格を持っている。(この資格、今は名称が変わり、「ITサービスマネージャ」と言う。)

 その立場からの感想だが、この一件は単純なようで、その実、システム設計から運用管理に至るさまざまなところに考察要素がある。1万円の処理ではなく、1億円の処理ともなると無視はできまい。取り急ぎ短期の対策と長期の対策の二本立ては必要だろう。この役所ではとりあえず複数職員が立ち会うことにしたようだが、これは短期対策だ。

 システムの運用管理には、この件に関係しそうなところを思いつくまま挙げれば、他にも「構成管理」「資産管理」「性能管理」「稼働管理」「変更管理」「問題管理」「障害管理」「マニュアル管理」「施設・設備管理」など、さまざまな分野がある。この一つ一つがまた、いろいろな手段からなる大分野なのである。石巻市のこの件は、こうした分野分野のどれにも、打つべき手が見出せるだろう。

Facebookは老害爺ぃ婆ぁ(失礼)の巣窟ってかw

 はははっ、笑っちまった。そりゃそうだよなあ。親とか上司とか先生にず~っと見られてるような感じになるもの。

 ……と自分のFB友達をあらためて見てみると、私のFB友達は爺ぃと美熟女のオンパレードで、一番若い人でも30代後半だわ。大人やねぇ~。そんなに友達の人数いないんですけどね。

 職場関係はそんなにフレンドにしてないんだけど、キッカリ線引きしてるわけではなく、例外も何人かいる。

プログラミングを知らない人がプログラミング教育をする危険性

 いやぁ~、仰せ御尤(ごもっと)もだが、こりゃあ、チト意地悪で、可哀想だろうぜ。

 思いもかけない有名技術者の社長にいじめられる、そのRuby On Railsのお兄ちゃんたちが哀れになって、逆に痛々しくて同情で涙が出てきた(笑)。

アルビン・トフラー死去の報

 祈冥福。

 10代の頃、「第三の波」と、もう一つ、ガルブレイスの「不確実性の時代」読んどけ、なんて上司や先生が言ったもので、あんな浩瀚(こうかん)な大著、そうそう多くの人が読破理解したとも思えず、実のところ私も読んでない。


 「第三の波」が文庫で600ページ近く、「不確実性の時代」が同じく500ページ超。なかなか、そんな、ねぇ。

ダッカ

 恐ろしい。引き続き要注目である。

一歩後退したのは何

投稿日:

 伊勢志摩サミット出席のため来日中のアメリカ合衆国大統領バラク・オバマは、昨日夕刻広島に立ち寄り、献花し、スピーチした。

○ ニュース(産経のコラム)

 世間の評判は概ね良いようだ。

 だが、私は釈然としない。

 なんだろう、この嫌な感じ。

 気安く詫びなんか入れてほしくない、謝罪など受け付けてやるもんか、というような気持ちに近い。近いが、何かそれとも違う。

 だが、そんなごく一部の気持ちなんか米国には当然何の関係もなく、当たり前だが大統領は謝罪をしたわけでもなんでもない。用意してきた原稿に従って、淡々と感懐するところを述べただけである。また、スピーチの中で真珠湾がどうとかというようなことを持ち出す不見識なことはしなかったし、事前に騒がれたような、元米兵捕虜を推し立たせるという悪趣味極まることもしなかった。

 スピーチの内容は概ね真摯かつ人道的で、万人に受け入れられるものではあった。

 つまるところ、朝鮮人が日本人に求めるような種類の謝罪を米人に乞うているわけでもなければ、そんな謝罪をされたところでそれを受け入れたいわけでもなく、かつ、向うだって簡単に謝罪なんかしたわけでもない、という、なにやら中途半端な落としどころなのだ。

 果たして、広島は、長崎は、中途半端な落としどころなんかでめでたしめでたしになるような、ここらで手打ちにしときまひょ、ほんならこれからはお互い(あきな)い一直線で額に汗してまいりまひょ、よろしくたのんまっさ、儲かりまっか、ぼちぼちですわ……そんな気楽な土地であったか?

 そんなことになるくらいなら、鎮魂のための永遠の静謐のほうがまだしもの救いであるはずだ。

 多分、総理大臣と大統領がしたことは、幾多の魂魄(こんぱく)をざわめかせただけではなかったか。

 アメリカ合衆国大統領の、広島での感傷程度のことで世界の核兵器が廃絶できるなら、こんな無数の核爆弾実験痕など最初から作らないはずのものではないか。

 そんなセンチメンタリズムで揺らぐ程度の覚悟で、こんな大それた文明への挑戦、自分たちが崇める神をも踏みにじるようなことをやってのけてきたのか?そんな程度の覚悟で、あんな虐殺をしたのか?広島はその程度のものなのか?それくらいの値しか、十有余万の広島県民の魂にはなかったというのか?

 だったら核兵器なんか今すぐ捨てろよ。だけど、できないんだろうが。口先で言うだけで、やる気だってハナからあるまい。欧米人なんぞ、そんなものだ。

 まあ、だからと言って「ええ、ええ、そうですか、そうですか、じゃあ、わかりましたよ。核兵器、捨てません。最初からそんな気持ちありません」と広島で言い放たれてもハラ立つけどな……。

 世の中の人たちは、本当に、オバマの訪問で、これでよい、一歩前進した、と思っているのだろうか。

 ……いや、多分、思っているんだろう。新聞読んでテレビ見て、なるほどなるほどって言うような、素直で頭の良い人たちばっかりだから。学校の先生のご高説で脳味噌を染めて、それを洗脳だとは思いもよらず、自分が偏った考えを持っていない中立な人物だと信じているような、立派で賢い人たちばっかりだから。

 嫌だな、一歩後退したな、と思っているのは、多分、私だけなんだろう。

 私は素直に納得なんかしてやらないぞ、知性ゼロだから。オバマを広島に来させることが知性だと言うなら、知性なぞ糞くらえだ。