花一杯

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 家内を誘い、花を見に行った。

 私の住まいの近所には「葛西用水」という用水が通っている。この用水に沿って「谷古田(やこた)河畔緑道」というささやかな園地が造られており、季節には桜が咲き誇るのだ。

 春の午後、よく晴れている。

 桜の他にも地域の人々が手入れをしているらしい様々な花卉(かき)(じゅ)がある。今の季節のことであるから、どれも盛りだ。椿(つばき)水仙(すいせん)鈴蘭(すずらん)酢漿草(かたばみ)、桃……。

 もとより混雑する場所ではないが、それでも例年ならば今の時季は花見気分を盛り上げるべく、近隣町内会の手で提灯などが吊るされ、弁当や酒肴を楽しむ人たちがシートを敷いたりテーブルを据えたりして思い思いに楽しんでいる姿が見られる。しかし、悪疫(あくえき)(しょう)(けつ)の折柄、いつもとは異なって人影も閑散(かんさん)とし、提灯もない。静かな緑道はリタイアしたらしい老人や中年の女など、齷齪(あくせく)しない種類の人達ばかりがゆっくりと歩いている。

 家内とのんびり桜を眺めた。

 帰り道、セブンイレブンで娘二人への甘味のお土産を買い、稲荷の古社((のぼり)()稲荷宮)へ立ち寄って(とな)えごとなどして帰宅。

惜春

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 街路の花水木やそこここの植栽の躑躅(つつじ)が咲き始めた。家々のプランターにはパンジーがにこにこと笑っており、野生化した雛罌粟(ひなげし)が側溝の脇に咲いている。知らぬお宅の庭の椿もまだまだ赤々と美しく、(よそお)った女の唇のように視覚に響く。小粉団(こでまり)馬酔木(あせび)が白く上品に咲いている庭の広いお宅もある。

 百花繚乱の候、である。こういう華やかな風景であればこそ、惜春の情も一入(ひとしお)であり、恬淡(てんたん)とは春を去りがたい。

 私は実は植物の俳句を()むのが苦手だ。花や木の名前をあまり知らないからである。植物を見て「これは何の花だ、何の木だ」と言い当てるのは、音楽で例えると、ピアノで弾かれた和音を「レ・ファ・ラです」と言い当てるソルフェージュを音感のない者がするのにも似て、なかなか修行のいることだ。

 「百花繚乱」というのは実は俳句の季語だ。私のような植物に(くら)い者が花咲く時季を詠むのに便利な言葉でもある。ただ、この季語は常用の歳時記には載っていない。が、「花」が一般に春の季語なので、その一点によって季語とするのも間違いではなかろう。

 花に心を動かされながら街を歩いたりなどすると、なんだかむしろ老け込んだような気がして、我ながら少し可笑(おか)しい。人間、年齢と共に動から静へと好みが変わるという。すなわち、子供の頃は動物や乗り物が好きだが、次第に花を好むようになり、次いで樹木、はては盆栽など、動きの少ないものへと好みが移る。ついには流木や水石・庭石などに凝るようになり、石庭を眺めて()()れするようになると人間もお(しま)いなのだそうな。

 さすがに私はまだまだ修行が足らないようで、盆栽に興味は湧かないから、まだ幾分若いのだろう。

 中国の五行説に曰く、春夏秋冬には色があり、それぞれ青赤白黒であるという。青春・朱夏・白秋・玄冬というのがこれであって、言葉として今でも最も使われているのは「青春」である。

 私なぞはどうなのかと言えば、まさか50歳で青春にあたる(はず)もない。と言って玄冬というわけでもなかろうから、多分、白秋くらいにあたるのだろう。

 石庭を眺めて惚れ惚れとはしないが、惜春という意味では、自分の春を惜しんでいる歳ではない。ただ、職場に配置になった新人や、自分の子供たちの春を惜しく思う。

皇居の周りは七分咲き~室町砂場・赤坂店~東急ハンズ

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 仕事が早く引けたので、皇居の西側、千鳥ヶ淵あたりから半蔵門、最高裁あたりまで、桜など見に行く。折から天気は良くなかったが、そこそこ咲いている。椿も美しい。国立劇場の前の桜は満開。

 そのまま歩いて赤坂へ行き、室町砂場・赤坂店で一杯。

 帰り途、北千住の東急ハンズへ寄り、五勺の蛇の目猪口(じゃのめじょく)を買う。200円。そいつで晩酌。

椿

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