春の皇居あたりをうろつく

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 今日はお世話になった方の壮行会があった。

 壮行会は夕刻からで、市ヶ谷見附で開かれる予定だ。

 朝起きてみると、大変良い天気だ。そろそろ花の頃である。それなら、と、カメラでも持って、繚乱直前、花の咲き始める皇居を歩いてみようと思った。

 先月、同期生のO君と東御苑を歩き回ったところだったが、今日は大手町から桜田門、引き返して大手門から入り、東御苑を抜けて、永田町まで歩き、赤坂へ行って、取って返して市ヶ谷見附まで行った。

 料峭(りょうしょう)そのもの、肌を打つがごとしではあったが、それだけにいい日だった。

 春は去る人来る人、さまざまにドラマもある。去る人にはどうか体に気を付けて、健康に日々を送っていただきたいと思う。

梅松論、赤坂・千早城の戦い

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 「梅松論」は「太平記」と並ぶ南北朝時代の軍記で、太平記は南朝・後醍醐天皇寄りだが、この梅松論は足利寄りである。特徴的なのは、太平記・梅松論のどちらもが、楠正成に関しては同情的に記していることだ。

 これを借りて(めく)ってみる。

 ムックでこういうのもあり、これも繰ってみた。

徹夜明けふらりへろり

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 最近続いているパターンだが、今週末も金曜日から泊まり込みで徹夜仕事、土曜日の今朝(けさ)引けた。疲れた。まあ、大変だがこれで口を糊しているのだからしかたがない。稼ぎの分は働く。

 朝9時頃に「七里蹴ッ灰(けっぱい)……」くらいの荒涼たる気持ちで職場の門からまろび出て、帰途についた。秋色が濃い。天気は曇りで、陽光が散乱し、却って眩しい秋の朝だ。樹葉もそろそろ緑に倦み飽いているように見える。

 すっかり涼しくなった風の中を歩く。

 職場近くのスターバックスでコーヒーなど飲んでいるうち、せっかく国会図書館の近くにいるのだから、もう少し「太平記」でも読んでみようか、という気になる。

 無論、あの日本最長の古典文学を今日一日で全部は読めない。だが、国会図書館の活用法として、すばやく資料を調べる、ということがあるから、ひとつ、太平記全40巻、岩波文庫では全5巻だが、このなかから、もともと興味を持った()()けの、楠正成に関する記述の部分ばかり抜き出した目録でも作ってみようではないか。

 市ヶ谷の職場から国会図書館のある永田町までは3~4km程で、さほど遠くない。秋色など味わいつつ歩いても構わないが、どうせなら開館間もない午前9時半の()いているうちに入りたいから、有楽町線か南北線で(ふた)駅、地下鉄で行く。

角川俳句大歳時記でさえずり季題

 先日も書いたが、国会図書館はWiFi完備で、閲覧室ではコンセントも使える。

 そこで閲覧室の机にさっそく店をひろげていると、Twitterの俳句知り合いの@donsigeさんからリプライが来た。「来週の『さえずり季題』出題よろしく」とのことである。

 無論応諾、なんと都合のいい時に国会図書館に来ていることか。いつもは使っていない歳時記をここで借りて、そこから出題しよう、と思いつく。

 私が所有している歳時記は、角川の合本、それから同じく文庫、平凡社のポケット、他にノーブランドのものが一つ二つ、そんなものなのだが、今日は前から手元に欲しいなあと思いつつも高価だから手を出しかねている、あの浩瀚な「角川俳句大歳時記」の秋の巻を借り出して、そこから知らない季語を拾って出題しようではないか。

 さっそく借り出して捲ってみると、あるある。いろんな季語があるじゃあないのグフフフ、というわけで、その中から面白そうなのを選び、来週の出題を作った。

 来週の出題をお楽しみに、というところである。

太平記・楠正成登場の段の題目録

 さて本題の、今日国会図書館へ来た目的、標記のまとめをした。

 次のとおりである。


岩波第1巻

第三巻 笠木臨幸(かさぎりんこう)の事 1

第三巻 (くすのき)謀反(むほん)の事、(ならびに)桜山(さくらやま)謀反(むほん)の事 3

第三巻 赤坂(あかさか)(いくさ)の事、(おなじく)(しろ)()つること 8

第七巻 千剣破城(ちはやのじょう)(いくさ)の事 3

岩波第2巻

第九巻 千剣破城(ちはやのじょう)寄手(よせて)南都(なんと)に引く事 8

第十一巻 正成(まさしげ)兵庫(ひょうご)(まい)る事 5

第十五巻 (おな)じき二十七日京合戦(きょうかっせん)の事 7

第十五巻 (おな)じき三十日合戦(かっせん)の事 8

第十五巻 手島(てしま)(いくさ)の事 11

第十五巻 湊川(みなとがわ)合戦(かっせん)の事 12

岩波第3巻

第十六巻 正成(まさしげ)兵庫(ひょうご)下向(げこう)子息(しそく)遺訓(いくん)の事 7

第十六巻 尊氏(たかうじ)義貞(よしさだ)兵庫湊川(ひょうごみなとがわ)合戦(かっせん)の事 8

第十六巻 正成(まさしげ)討死(うちじに)の事 10

第十六巻 (かさ)ねて山門(さんもん)臨幸(りんこう)の事

第十六巻 正行(まさつら)(ちち)(くび)()悲哀(ひあい)の事 14


 多少漏れがあるかもしれないが、太平記には楠正成に関する記述がこれだけの段にわたって含まれていることがわかった。

 調べながら楠正成の人生を読み、いやもう、涙、涙。

東京・日本橋 室町砂場

 朝からそんなことで、徹夜明けの目をムリヤリ見開いて本なんか(めく)った。

 昼過ぎて腹も減ってきた。

img_4631 図書館を出て、いつもあまり気にしていない、ベンチに座っている銅像にからんでみたりなどする。

img_4635

 もう昼も遅い。そこで、今日はひとつ、前から行こうと思っていた、砂場御三家の一軒、「室町砂場」に行ってみようと思い立った。

 この木曜日にも代休で午後がヒマだったから、虎ノ門の砂場に行ったのだ。なんだか、毎回毎回蕎麦ばかり手繰って、我ながら好きだなあ、と思う。先週行った三ノ輪の砂場総本家を勘定に入れるなら、東京の砂場御三家はコンプリートということにもなろうか。

 室町砂場は日本橋に本店、赤坂にもう一軒支店がある。国会図書館のある永田町からなら、赤坂の方が歩いて行けるくらい近いのだが、室町砂場自体に行ったことがないので、今日はひとつ、半蔵門線に乗って日本橋まで行ってみようではないか。

 室町砂場の最寄駅は、神田か、三越前、あるいは大手町である。

 今日の場合、永田町から半蔵門線に乗れば、皇居の北ッかわをぐるりと回り、三越前までものの10分ほどで着く。

img_4648_tern 地下鉄「三越前」の駅の、「A10」という出口から、国道17号線に出られる。「室町砂場」までは歩いて3~4分もかからない。

 奥に坪庭、その左に別仕切りの小部屋、奥に入れ込みの座敷があり、テーブル席が十幾つか。せせこましくなく、ゆっくり座れる。

img_4641 今日も焼海苔に酒をたのむ。これは単純に好物だから。

 チョンと赤いものが乗った小鉢は通しもので、海月(くらげ)を梅肉で()えたものだ。塩気が効き過ぎず、紫蘇(しそ)のいい香りがして、海月はほどよい大きさと歯ごたえだ。飲もうと思えばこの小鉢だけで五合くらい飲んでしまえる気がする。店員さんに訊くと「これだけでお肴のご注文もできますよ」とのことであった。

 この肴と焼海苔、酒を交々(こもごも)やって、杯ひとつ分の酒が残った頃に(おもむ)ろに「もり」を一枚注文する。

img_4646 この店の蕎麦は白くて歯ごたえの良い「さらしな粉」で、つゆは濃いめ、まことに品のある、旨い蕎麦だ。

 薬味の葱は他所でよくあるようなビショビショしたものではなく、香りがよく、しかもシャキッとしていて旨い。栞を見ると、「当店の葱は千住の葱で、水で晒さないようにしています」という意味のことが書いてあって、なるほどと思った。

 テーブルに置かれている栞に、「当店は『たぬき』と『きつね』を置いておりません。それは、お客様を『ばかす』のもいかがなものかという考えからです」という意味のことが書いてあり、なかなか洒落が効いていて、いいなあ、と思った。

 東京屈指の綺麗な名店で気持ちよく一杯飲み、上等の蕎麦を手繰って、全部でちょうど1700円だから、これはそんなに高くない、実に楽しい飲み食いだと思う。

 火災に遭う前の連雀町「かんだやぶそば」、閉める前の上野「池の端藪蕎麦」、それから今も盛業の浅草「並木籔蕎麦」、それぞれ既に行った。

 つまり、これで、東京の蕎麦の名店のうち、籔・砂場と、コンプリートしたわけだ。次は麻布十番の更科(さらしな)、これは3店あると聞くが、この3店へ順番に行って見ようと思う。

 焼ける前の「かんだやぶそば」と、閉店した「池の端籔蕎麦」は、惜しいところでギリギリ滑り込みだったな、という気がする。先日池の端へ行った時、思いがけず重機で取り壊しているのを見て、愕然としたものだ。

道路原標

 微醺(びくん)を帯びて室町砂場を後にし、川沿いに日本橋のほうへ歩く。

 東京・日本橋の名物といえば、かの有名な「道路原標」というものがある。残念なことに、今までにこれを見たことがなかった。実は先日神田川クルーズに乗船してみた時に日本橋に来ていて、その時見れば良かったのだが、道路原標のことは全く念頭になく、すっかり忘れていた。

 この「道路原標」は、日本の道路里程はすべてここから測られるという原標で、日本橋の中央の道路表面に埋め込まれている。いつもは車がビュンビュン通るので、実物は遠目にしか見られない。観光客は橋の北詰めにある複製の道路原標を見学するのがならわしだ。

 ところが、今日日本橋まで来たそのとき、たまたま、日中にもかかわらず、信号の成り行きで自動車が日本橋上から一台もいなくなった。北の信号も南の信号も赤で、車が入ってこない。交通量は結構多かったのに、本当にたまたま、そういう瞬間が訪れた。

 今だ、というわけで、ゆっくりと日本橋の真ん中まで歩き、落ち着き払って、真正の「道路原標」を写真に収めることができた。これはラッキー。

img_4651 これがその写真である。

 

代休・免許・蕎麦・図書館・無月

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免許更新でどうも釣り銭200円貰ってないみたいで腹立つ

 代休をとり、越谷警察署へ運転免許の更新に行く。

 交通安全協会には5年分気前よく支払った。手数料等と合わせて4800円。

 5千円渡したのだが、お釣りがないようなので、「あのう、お釣り貰いましたかね?」と訊くと渡しましたよと言う。

 どうも貰ってない気がするのだが、窓口が混雜していてこちらもそれに気をとられ、はっきりしないし証拠も根拠もないので、釈然としないまま、後ろに他にも人がいたこともあり、そのまま窓口をはなれた。

 講習を受けている間、「やっぱりお釣り貰ってないよなァ」と思えてきて、腹が立ち、講習に集中できず、講習内容にまで腹が立った。しかし今更窓口に蒸し返しに行ったところでどうにもならないことも見え透いている。

 多分、朝の時間特有の窓口の混雑だったし、出納をしていた職員の手元を見るともなしに見ていると、収授の順序を混交してしまったり、札をかぞえる手が慌てたりしていたので、それで私の釣りを渡したことにしてしまったのだと思われる。

 折角交通安全協会費を気前よく5年分も払ったのに、そんな自分が馬鹿に思えてきて、余計腹が立った。

虎ノ門・大坂屋砂場へ行ってみる。

 そのような事などありつつも10時過ぎには免許の更新が終わる。仕事に行ったところで通勤時間を含めると中途半端で仕事になんかならないことはハナから分かっていたから、今日は無駄に丸一日代休を取ってある。だから午後はヒマ。

 気をとりなおし、出かけることにする。

img_4622 ひとつ、前から食ってみたかった蕎麦を食ってみよう、というわけで、エッチラオッチラ、平日の虎ノ門まで出てきた。もちろん目当ては「虎ノ門・大坂屋砂場」だ。

img_4625 混んでいたので私は2階へ通され、知らない人と相席になったが、広い座卓だったのでどうということもなく、私は背後に見返り美人図のかかったところへ座を占め、ゆっくりすることができた。店内には他にも古い額などがかかっており、清潔で、サービスもよかった。

img_4627 お安いところで「澤ノ井」の純米を1合と焼海苔を頼む。酒の通しものは藪などの蕎麦みそとは違い、昆布の佃煮が出る。いい感じの塩加減で、酒に合う。焼海苔は藪と同じように炭の熾った小さい炭櫃に入れてくる。

img_4628 ほどよく飲んだ頃に「もり」を1枚。旨い。酒と蕎麦はそんなに高くない。一品500円~600円がところである。今日も酒と肴と蕎麦で1500円と少しというところであった。

img_4630 「砂場」を出て、駅までの間に金刀比羅宮を見つけたので拝んでいく。

国会図書館へ寄る

 そういえば、と思いつき、国会図書館に行くことにする。この前三ノ輪の砂場総本家でゆっくり読めなかった「新撰 蕎麦事典」というのをもう一回確認してみようと思ったのである。それから、岩波の太平記も(めく)ってみたい。

 虎ノ門から国会図書館までは銀座線渋谷行きで溜池山王まで一駅、南北線に乗り換えて永田町まで一駅である。

 以前の国会図書館は「デジタル」の持ち込みに非常に厳しく、メモなんか取るためのノートパソコンもダメだったが、最近は大躍進しており、利用者登録がしてあれば自宅からコピーを頼むことも可能だし、館内のどの端末からも非接触IDカードで申し込んだ図書の到着状況などを確認可能で、インターネットも利用できるし、なにより自分のPCが持ち込み可能、しかも5GHz帯のWiFiが無料で使えるのである。

 早速、「新撰 蕎麦事典」を探し出す。この前三ノ輪の砂場総本家で見かけた本には確かにISBN-10で「ISBN 4879931011」と奥付に書かれていたのだが、帰宅してからネットで検索しても見つからなかった。

 国会図書館で探すとすぐに見つかり、本を開けば三ノ輪・砂場総本家で見たのと同じものであることが一目でわかったが、こちらにはISBNがついていなかった。こういうことというのは、あるものである。

 その中に、次のような項目があった。

(以下 「新撰 蕎麦事典」(新島繁 編、平成2年(1990年)11月28日初版発行、(株)食品出版社)から引用)

(「さ」項の中に)

さらしな 更科 更科の総本家は東京・麻布十番にある永坂更科。寛政2年(1790)に初代太兵衛(8代目清右衛門)が「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板をかかげた。これよりさき寛延(1748~51)ごろ、すでに横山町甲州屋が「さらしなそば」、浅草並木町斧屋の「更科そば」のほか、店名の上に「信濃」「戸隠」「木曽」「寝覚」などを冠するほど信州ソバの名声が高かった。永坂更科の看板商品は一番粉を使った白い御前そばで、本店のほか神田錦町・銀座・有楽町更科などが身近かな系列店として知られる。更科の屋号は、更科そばが喧伝されて生まれた俗称であろう。現在麻布十番には、永坂更科布屋太兵衛(小林正児社長)、麻布永坂更科本店(馬場進社長)、更科堀井(8代目・堀井良造社長)の3店がある。

(「す」項の中に)

すなばそば 砂場蕎麦 元祖の和泉屋の創業は定かではないが、絵師長谷川光信の享保15年(1730)版『絵本御伽品鏡』下巻に「いづみや」の暖簾をかけた店頭図がのせてあり、当時すでに営業していたことがわかる。江戸時代、大坂新町遊郭の旧西大門のあった新町二丁目と同三丁目の境にあたる南北筋の南側小浜町は、俗に砂場と呼ばれていた。土地のものは砂場にあるそば店というわけで「砂場そば」略して「砂場」といった。当初はうどんの方が有名だったようである。幕末には衰退しはじめ廃業の年代は未詳。

 一方、江戸では寛延(1748~51)のころ、薬研堀の大和屋が「大坂砂場蕎麦」の看板をかかげていた。砂場そばが江戸へ進出した経緯は明らかではないが、和泉屋の一族よりもそこで修業したゆかりの者が、砂場の盛名にあやかるための名目だったかも知れない。その後、浅草黒船町角・砂場重兵衛、糀町七丁目・砂場藤吉、茅場町・砂場大坂屋、久保町・砂場長吉などの名店があらわれた。

 文化(1804~18)のころ評判の高かった麹町七丁目砂場から慶応年間に室町砂場、明治5年に虎ノ門砂場がそれぞれ独立した。巴町砂場は前記久保町・砂場が立退き命令によって天保10年(1839)に巴町に移転した老舗。大坂に源を発した砂場そばは江戸に根をおろし、現在は砂場の暖簾会を運営するなど繁栄を続けている。

【挿絵】

大坂砂場のそば店和泉屋の図。広い店内とうしろの「かつお蔵」「そば蔵」「むぎ蔵」「醤油蔵」「臼部屋」が目を引く
竹春朝斎(信繁)画『摂津名所図会』より

(「や」項の中に)

やぶそば 藪蕎麦 雑司ヶ谷鬼子母神の東の方の藪のなかにあった百姓家の「爺が蕎麦」が藪そばの元祖。現在の雑司ヶ谷1丁目付近と思われる。当時「藪の内」とも呼ばれた。寛政10年(1798)版『若葉の梢』下巻によると「藪の内そば切はぞふしがやの名物にて、勘兵衛と云ける。参詣の人行がけに誂えて、戻りには出来して置けり。百姓家にて、商人にてはなかりしが、今は茶屋(てい)(なる)。諸所に其名を出すといえども、元来其家の徳なるべし」とある。寛政当時その盛名にあずかろうと、藪蕎麦を名乗る店が方々にあらわれた。その一つに深川藪の内(現江東区三好町4丁目に開店した藪蕎麦(薮中庵とも)は、文化12年版の番付「名物商人ひゃうばん」にあげられたばかりでなく、幕末の江戸切絵図にものるほどの有名店になった。

 その後、駒込千駄木町の団子坂藪下にあった蔦屋も藪蕎麦とも呼ばれて大いに繁盛した。その蔦屋が神田連雀町(現神田淡路町2丁目)に支店を出していたが、明治13年に砂場系の浅草中砂4代目堀田七兵衛が譲り受けた。七兵衛は経営の才に恵まれ、団子坂の本店なきあと藪の暖簾をあずかり、名実ともに藪の本家として現在に至っている。この本店のほか浅草並木藪、上野池之端藪があり、いわゆる藪御三家となっている。藪そばは藪之内・藪下から名づけられた俗称。江戸っ子は正式な屋号より俗称で呼ぶことで親しみを感じていた。

【挿絵】

駒込団子坂(東京都文京区)にあった藪蕎麦「蔦屋」。離れ座敷もしつらえてあった。

(以上引用)

 この前三ノ輪の砂場総本家で見たこの本は、もうこれでもかというくらい一杯書き込みや付箋があり、傍線が引かれて表紙もボロボロになっていたのだが、上に引用した「砂場蕎麦」のページに付箋が打たれ、「糀町七丁目・砂場藤吉」のところに傍線が引かれて、「当店のことです」と鉛筆の書き込みがあったのである。

 それから、岩波の「太平記」を借りる。

 右のように全部で5巻ある。国会図書館では一度に借りられるのは3冊なので、分けて借り出す。この前まで確か5冊まで借りられたのだが、なんだか利用者が増えたのか、3冊までになってしまったようだ。

 もちろん、いかに不肖・私こと佐藤といえども、文語体のこんな分厚い本を四半日(しはんにち)で全部読めるわけはなく、確かめたかった楠正成に関するところの記述を拾い読みするだけである。

 私が(めく)ってみたいと思っていた「湊川の合戦」は、

  •  「太平記 第十六巻 尊氏(たかうじ)義貞(よしさだ)兵庫湊川(ひょうごみなとがわ)合戦(かっせん)の事 8」(岩波文庫で第3巻p.65~)、
  •  「同 正成討死(まさしげうちじに)の事 10」(同 p.77~)

……というあたりにあることがわかった。

 しかし、ゆっくり読んでいる暇はなく、また国会図書館はどんな本でもある代わりに、館内閲覧のみで、「借り出し退出」はできず、閲覧時間切れとなってしまったのだった。

 ただ、「新撰 蕎麦事典」とは違って、「太平記」は最近発売された岩波文庫のラインアップなので、借り出しのできる近所の図書館にもあるだろう。

 ただ、これ、手に入れて所蔵したいのもやまやまなんだよねえ。

無月

 更けてきて帰る。今日は旧八月十五日で「中秋の名月」だが、月は見えない。どうやらいわゆる「無月(むげつ)」というやつだ。

 月は見えなくても、雲の裏には月がある。ないけど、ある。むしろその方が月の存在感は増す。それで「名月」とか「十六夜」などという言葉とともに、この「無月」も秋の季語として「月」の傍題になっている。

いくたびか無月の庭に()でにけり 富安風生

太平記読みたいけど、う~ん……

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 昨日思い付きで楠公(なんこう)像の前で記念写真など撮ったのだが、ふと連想して、「太平記」を読んでみたいなあ、などと思ったのだった。楠正成伝を辿りたいなら、なんと言っても、太平記でしょうからね。

 古典だから、青空文庫かどこかにフリーテキストでもないかな、と思ったのだが、意外に、ない。

太平記1ページ Kindleではバラ売りで1冊108円のがあるが、これがなんと国会図書館所蔵の写本をデジタル化したというしろもので、原典通り40巻もある上、写真の通り変体仮名のオンパレード、これでは不肖この私といえども読むのに倍も3倍も時間がかかってしまう。Kindle Unlimitedの会員なら30日間無料だというから、その間に全巻ダウンロードしちまう、というテがあるが、なにしろ、写本をそのままデジタル化したやつだからなあ……。

 岩波で出てないのかなと思って検索したら、なんと、岩波でも文庫化したのはやっと一昨年の春のことらしい。全6巻だそうだ。……そうすると、古本市場にも美本はまだまだ出ていなさそうだ。この前までの「千一夜物語」みたいに都合よく手に入らないかな、とチラリと頭をかすめたものの、こういう状況だから無理だろう。

 図書館で借りて読む、というのが、妥当なところかなあ……。しかし、手に入れて愛蔵したいのもやまやまだし、岩波の6巻モノを図書館通いで読めるほど暇でもないし。通勤電車で読むのが性に合っているが、図書館貸出の本を満員電車に持って入るとモミクチャになって傷めてしまうし。

 吉川英治の「私本太平記」は著作権切れで青空文庫入りしてるから、Kindleでも0円なんだが、どうも、原典のほうを読みたいんだよなあ……。

前倒し靖国参拝~楠公(なんこう)

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 例年なら終戦日の8月15日に靖国神社に参拝するのだが、今年はどうも行けそうにない。そこで、終戦日間近の今日、参拝してきた。

IMG_4092 終戦記念日は、大鳥居から拝殿まで軽く2時間は並ぶが、さすがに今日来てるのは物好きな外国人くらいなもので、まことに神域にふさわしい静謐さだった。今年の終戦記念日は多分、閣僚の参拝がどうのこうので、いつもにもまして混雑するに決まっている。今日はそれを避けることができた。英霊やすらかにあれ、と、それのみを念じて参拝した。

IMG_4093 遊就館を拝観することにし、入ってみると、いつもは満席ばかりの茶寮「結」がすいている。カツカレーを注文すると「ルーは横濱カレーと海軍カレーどちらかからお選びいただけます」と言う。海軍カレーを選んだところ、「このカレーは明治時代軍発行の公式レシピに従って忠実に再現したものです」みたいな栞が一緒についてきた。なかなかうまかった。IMG_4094

 遊就館の特別展示は「軍人とともに歩みし軍属たち」というテーマだった。軍属とはいうまでもなく、事務官・文官・技官・従軍看護婦と言った、軍に奉職しているが軍人ではない人たちのことだ。先の大戦中、この軍属たちも多くが亡くなった。靖国神社には、特に看護婦の御祭神が多い。また、船員などの軍属であった御祭神が多く祀られている。

 遊就館はこれまでにも何度も拝観しているのだが、何度見ても涙を抑えるのに苦労する。今日も、涙を(こら)えて上辺(うわべ)は平静、しかし胸の底は慟哭である。これまでに何度も見た常設展も隅から隅まで、たっぷり3時間ぐらいかけて拝観した。

 今日はよく晴れていたが涼しい日だった。靖国神社を出て、皇居の北の丸公園、武道館のほうへ回ってみた。何か、学生弓道大会をやっており、袴・道着の楚々とした女の子たちが長い弓を持って大勢歩いている。科学技術館を回り、近代美術館のほうへ行って、そうだ、そういや近代美術館見たことないなあ、と思い、寄ってみたが、今日は別館の工芸館だけが開いているようだ。

IMG_4108 国立近代美術館・工芸館は、旧近衛師団司令部庁舎の煉瓦造りを使用している。今日は特別展「ナニデデキテルノ」というのをやっていたが、タイトルはさておき、館所蔵の選り抜きの工芸品を展示していて、こじんまりとした展示の割には大変見ごたえがあり、よい拾いものをした。これで210円は安い。

 美術館を出て、皇居周りを時計回りにだらだら歩いていく。いつもなら東御苑なども拝観できるところだが、今日は時間も遅く、閉まっている。

IMG_4124 そうだ、二重橋まで行って、大楠公(だいなんこう)像の記念写真でも撮ろうか、と思い、だらだら歩いた。この像を見に来るのなんて、それこそ35年ぶりというところで、10代の頃見たっきりだ。

 楠公(なんこう)の精神力にあやかりたいものだ。この私も、ひょっとすると定年前に「湊川(みなとがわ)」めいた無理なことを命じられるかもしれないし。その時、バカな要求にも楠公のように承詔必謹(しょうしょうひっきん)、粛々と突進できるかどうか、だな。IMG_4131

 東京駅ナカでなにか酒でも、とも思わなくもなかったが、今日はさっさと帰ることにする。新越谷駅のカルディ・コーヒーファームでフラスカーティ1本買って、家で一杯。IMG_4143

非理法権天って、実は上下逆じゃない?

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PHM08_0858 「非理法権天」の(のぼり)は楠正成の戦支度(いくさじたく)であり、ダンディズムというかストイシズムというか、そういうものが横溢していてカッコイイ。

 少し検索してみたところでは、楠正成の時代にはこの言葉はなく、後世の創作かもしれない、という。

 だが、いいではないか、それが楠正成を表す記号なのだ。私たちはそれにシビれ、酔うのであって、創作であろうがどうだろうが、そんなことはどうだっていいのである。

 だが、理非曲直を超えたところに死命を見出し、それに殉じた楠正成にして、「非理法権天」は、順序がなんだか変な気がするのである。
 
 天権法理非、と書けば、その直接的な意味は通る。すなわち、「天は権にまさり、権は法に、法は理に、理は非にまさる」というのである。ところが、「非」を一番上に置いた、というところに、楠木正成の忍従・屈従の思いと、それでもこれをよしとする思いを、後世の人がこめようとしたのではあるまいか、湊川で非天これ逆の戦いに負けたことを象徴して、後世そういうふうに流布したものではあるまいか。