正義の人を(いな)

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 一昨日だったか一昨々日だったか。

 通勤のために東武線北千住駅で日比谷線に乗り換えた。いつものことだ。北千住は半蔵門線や日比谷線など、地下鉄の始発駅なのだが、日比谷線のホームは最上階にある。線路は錯綜(さくそう)して下の東武線と入れ替わり、地下へ(もぐ)っていく。

 混雑のため乗り込むドアを物色しなければならない。少しでも空いているところに乗り込まないと、不本意ながら他人を押しのけることになる。

 そんなわけでホームを暫時(ざんじ)逡巡(しゅんじゅん)しているうち、変な人がいるのを見た。(すなわ)ち、標記「正義の人」である。

 その「正義の人」は、聞こえよがしに「チイィィィィッ!!」と舌打ちしつつ、外側から電車の窓を15センチばかり開けた。ガタピシャと、舌打ち同様の大きな音を立てて、である。

 恥ずかしながら、私は電車の窓が外側から開けられることを知らなかった。「新型コロナウイルス感染防止の観点から、換気のため電車の窓を開けさせて頂いておりますことを御了承下さい」と駅構内や車内でアナウンスが流れる折柄だ。その人にとって、換気は正義なのであろう。

 その正義の人は、これみよがしにやかましく外側から電車の窓を開けたが、しかし、料峭(りょうしょう)かつ余寒の折、その開けた窓からは二つほど進行方向に離れたドアから乗車した。

 まことに笑うべき正義と言えよう。

 ホームにいた人々皆に聞こえるほどの舌打ちをして、力任せに電車の窓を開けるアピールに、何ほどの意味があるか。それが人に何の感化を与えるだろう。ただの不愉快、嫌悪しか与えない。

 「正義は戦争の眷属」、と吐き捨てたのは、はて、どの左翼作家であったか。私は共産主義者など大嫌いだが、正義は戦争だけでなく、差別と圧制と窮屈と不愉快と、その他もろもろ、害毒以外のなにものも(もたら)さない。

 私も「電車窓開け不愉快正義男」を他山の石とし、軽々しく正義を標榜(ひょうぼう)することはすまい。

不快な正義

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 正義が心地よいものであるか否かは、例えばアメリカ人の正義が、核爆弾で敵はおろか人類の文明をすら破却するような類いのものであることを想像するとよくわかる。一言で表現するのに、「戦争の名分は大抵、正義だ」と言うと多くの人は頷いてくれる。

 正義は不快だ。

 しかし正義の不快さを想像するのに、何もアメリカ人の核爆弾と文明の破却の例を持ち出すまでもない。日常生活のあらゆる時と場所に、正義の不快さを納得できる場面が転がっている。

 私は先輩が運転する自動車の助手席に乗っていて、15km/hほどのスピード違反を注意したところ、「うるせえな!嫌なら降りろ!」と怒鳴り付けられたことがある。この先輩はよほど不快だったのだろう。だが、正義はいずれにあったかというと、こんなことは考察するまでもない。

 この例えによらなくても、スピード違反で検挙された人が、警察官に食って掛かって怒鳴っているというような図式はしょっちゅう見かける。

 こういう人にとっては警察官なぞというものは人々を苦しめる圧政の手先、腐った公務員の代表であって何ら従うべき余地はなく、ナニヲ、道路設計上の安全限界だと!?馬鹿馬鹿しい、そんなものは怠慢な自治体や官僚が、面倒臭くて適当に40km/hと決めただけだろうが!…というようなことなのであろう。

 あるいはまた、これは最近見かけないから例えがよくないかもしれないが、人の家の玄関先で立ち小便をしているオッサンに「ダメですよ立小便なんかしたら」と注意したら、オッサンがブチ切れて怒鳴りだした、というのもある。変なものをまろび出させたまま怒鳴り、詰め寄ってくるわけだから、あともう一歩間違うと変質者で、これは相当に紙一重だ。

 任務放棄や遅刻を叱ると怒り出す部下、というのも、少なからずいる。

 往来で煙草を吹かしているヤンキーの高校生に注意すると、「なんやとオッサンこらいっぺんシメたろか!」と殴りかかってくるだろう。昔はカミナリ族という言葉もあったそうだが、これだと文字通り桑原(クワバラ)、である。

 どちら側が正しいとかなんとか、そんなことはまったく関係ない。問題は正しさの量なんかではないからだ。

 ただ、これらのいずれの例も、「まぁ、そりゃ、ヤッコさんも怒るわなあ、ああ言われたら」という、それを(うべな)う気分も私にはある。それが、「正義は不快だ」という、そのことなのだ。

 では、正義のほうで不正義に(おもね)り、申し訳なさそうに「すみませんがスピードを落としていただけないでしょうか」とか「ごめんねえ、ここは職場だからできれば遅刻はしないようにしてもらえるかなあ、悪いねえ」などと、まるで正義が快適なものであるかのようなふりをして言わなければならないのだろうか。私はそれは否であると思う。怒るのも無理はない、と感じる気持ちと同じくらいの強度で、またこれを(いな)むのである。

 正義は不快で、厳しいのが当然なのである。そして、不快で厳しいものを持ってこられたら怒り出すのも、また当然なのだ。正義は姿のない金属や岩石に似ているが、人間は金属や岩石ではないから、もとより正義なんてものは馴染(なじ)まないのである。

 その、馴染まない、変な、不快なものにぶら下がっていかないと、生きていけない。怒り、衝突しながらでないと、社会は作れない。

 正義のことを「ジャスティス Justice」と英語で言ってみると、途端に、なんだか胡散臭い、異質で不快なエグ味が滲み出して来るように感じられる点も、ちょっと脱線して考察してみたい枝道である。