スポーツ異見

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 スポーツが嫌いだ。特に野球・サッカーなどの球技は大嫌いだ。

 球技選手のスターは尊敬され、大金持ちになるばかりか、偉人伝にさえ収載されることはイチロー何某(なにがし)の例を見るまでもあるまい。

 こうしたスターになるべく、個人は絶えざる研鑽、修練、鍛錬、訓練を積む。

 これを基盤として、集団となって訓練に次ぐ訓練を重ねる。勝敗のためには自己犠牲を(いと)わず、チームのため徹底的な献身を強いられる。多少の怪我など我慢してチームのために頑張り抜くことが美徳とされる。この美徳から外れた者は排除されるべき弱者であって物笑いの種となる。

 これは軍隊だ。

 恐ろしい。こういう個の抑圧を繰り返し、それを尊ぶようなことを当たり前だと思うように洗脳されると、その集団は戦争をする国を作り上げてしまうだろう。

 平和な社会を作るためには、憲法だのなんだのを論議する前に、まず、これら恐るべき洗脳カルト集団、プロ野球、プロサッカーをはじめとする抑圧的スポーツを廃止することが肝要ではなかろうか。

 護憲論者はまずスポーツの抑圧・廃止から手を付けてはどうか。

殺し合いはここにも

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 様々な物には、人間同士の血みどろの殺し合い、闘争の歴史が隠されており、平和のうちに発達してきたものは意外に少ない。

 例えば、平和で長閑(のどか)に見える農村の、田圃(たんぼ)や畑の広がる風景だって、太古の人類が狩猟・採集生活の頃の殺し合いと奪い合いの歴史を逃れるべく、流血の闘争から編み出した稲作文化の最終形であるかも知れず、かつ、その稲作も土地の奪い合いと覇権につながっていき、更なる流血と闘争を生んでいったことは、考古学者も()うところである。

 世界の人々を自由に交流させ、その文化の発展を急速ならしめる人類の画期的叡智の所産の一つに航空機技術がある。これはあたかも、ライト兄弟が完全に軍事と独立した技術的興味の向かうところに完成されたものの如く考えられがちである。しかしさにあらず、もし航空機がライト兄弟の作成した姿のままであったら、素人が凧揚げを楽しむ程度の意味しかなかったであろう。航空機は第一次、第二次の世界大戦の殺し合いがもたらした強烈な技術的洗礼を受けて現在の姿になっていったのだ。

 また、インターネットが核戦争の歴史につながることも、知る人ぞ知る。のみならず、現在の我々の生活になくてはならない通信や測位を支える人工衛星は、ICBMを敵国に叩き込んで皆殺しにする技術の延長上にできていることは、現在の北朝鮮のなすところなど見るまでもなく、60年も前、とっくの昔に冷戦中の米ソがやってのけてあることだ。

 そのようなことを踏まえつつ、ネットの広告を見ていると、こういうのがあった。

 米国の軍事研究の中には当然合成樹脂の研究もあり、ラップフィルムはその中で生み出されたフィルムなのであるという。

 食品用ラップフィルムは、家庭のお料理の風景になくてはならない、また、家族の団欒のテーブルにも楽しげに置かれる料理の一皿に、当たり前のようにかけられているフィルムだ。

 だが、実はそれは、上陸用舟艇に乗り込んで敵国の海岸に押し寄せる将兵の戦力を大いに発揮させるために開発されたものなのだ。小銃に巻き付けて潮気(しおけ)()かしめるのである。

 このような平和な物にすら殺し合いと闘争の暗い影が入り込んでいるなどということは、日々の安寧な生活を享受する現在の私たちには、簡単に想像することは難しい。

やくざとか犯罪人とか朝鮮のロケット大将軍でも殺せばいいのに

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 アメリカの乱射事件がまたニュースになっている。

 外国のこととはいえ、亡くなった方には哀悼を捧げたい。

 日本でも時々、無差別殺人はある。数年前の秋葉原の事件など、いたましい限りである。

 遡れば、大阪・附属池田小事件なども、思い出して背筋が寒くなる。

 さておき……。

 頭がおかしくなってブチ切れた奴が人を殺して回るというのは、実は昔からあった。その昔の津山30人殺しなどは、横溝正史の「八つ墓村」のモチーフとなって有名だが、後年オーストラリアやアメリカの同種事件に抜かれるまで、戦争以外の大量殺人の世界記録であったという。日本人としては恥の大記録だ。

○ 津山三十人殺し(無限廻廊)

 そのたびに思うのは、なんでコイツら気狂(きちが)いは、抵抗する(すべ)のない弱い者へ向かうのだろう、ということだ。

 どうせ大量殺人をするのなら、小学生やら女なんかではなく、どこか、暴力団とか愚聯隊の事務所などへ殴り込み、全員刺し殺すとか、そういう行動はとれんのだろうか。あるいは、テロリストのアジトへ殴り込んで全員殺すとか、北朝鮮へ旅行して自称大将軍もろとも爆死するとか、もうちょっとできることがあるだろ、と思うのである。赤ん坊とか小学生なんか射殺しててどうするんだ、他に殺す奴いるだろ、ということである。

 殺すんならもうちょっと、殺して世のため人のためになるような奴を殺せよ、何やってんだカスが、と、本心からそう思う。

愛の知能

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 漫然とネットを見ていたら、ネアンデルタール人の頭骨と、現代人の頭骨の写真が出てきた。

 ネアンデルタール人の頭骨は、意外に大きい。脳も現代人より100~200ccほど大きかったという。

 つらつら思うに、ホモ・サピエンスが殺し合いをするのは、ネアンデルタール人の知能を失ったからではないか?ネアンデルタール人の脳は、ホモサピエンスより1割も大きかったが、その知能は、協力、愛、共生といったことに向けられていたのではないだろうか。

【妄想】戦場から差別をなくすことにより社会の差別も消える

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PHM15_0922 ジェンダー・フリーは急進してダイバーシティになり、これがラジカルな色彩を帯びるとGLBT礼賛というようなことにどうやらなるようだ。

 さてそこで考えたのである。戦場がダイバーシティないしGLBTオリエンテッドでないのは、差別であり、人間性に対する挑戦である。

 体が不自由な者、体力が劣る者、性的マイノリティなどが楽に戦闘できるような兵器の開発が急務である。これは将来の戦(しょう)獲得、戦場よりする人類そのものの進歩のため、必ず達成されなければならない。

 戦車の車椅子対応、盲人用小銃、聾人用無線機、GLBT教範、老人用戦闘機、家庭用コンバット・システムなど、日本の科学技術を余すところなくつぎ込み、戦場を多様化するわけである。多様な戦闘力は将来の戦場を支配するであろう。

 小銃一つとっても、「人と環境にやさしいエコモード」とか、女性向けの柔らかいストック、これならメイクも落ちずに安心、フェザータッチのトリガーでらくらく連射、と言ったダイバーシティ&エコ志向が求められる。指向、ではない、「志向」だ。

 人間の歴史は戦争の歴史であったが、その舞台である戦場から差別をなくせば、おのずと社会の差別も将来の歴史から消滅するというものである。

 戦前の研究者は、戦場空間は点から線、線から面、面から体へ進化し、時間軸は(べき)乗に比例して短くなり、そして、その参加者は武士や軍人から、殺される者として一般人までが幅広く参加するようになる、と予言したのであったが、シリアやパリの惨状を見るまでもなく、その言う所の中に的中したものは少なからず含まれる。既にGLBTまでが戦闘に参加する時代が到来したものと考えられる。

 

祝いまつれ畏みまつれ13日の金曜日

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PHM04_0714 キリスト教が嫌いである。

 であるにもかかわらず、クリスマスにはクリスマスツリーを飾って子供にプレゼントをやるという、思えば私も変ちくりんな仏教徒である。

 さておき、昨日は13日の金曜日であった。ゴルゴダの丘に磔刑(たっけい)のあった日ということで、この日をキリスト教徒は忌み嫌うという。その嫌い方は、日本人が病院の病室番号や車のナンバーに「四」(死)や「九」(苦・柩)を嫌うのと同じくらいに縁起を担ぎ、いろいろな番号に「13」が入るのを避けるのだという。

 しかし、変じゃないか?

 キリストは磔刑にかけられて、確かに母や友の眼前で苦しみ死にしたが、それは人間・ナザレのイエスその人の災難であって、救世主(メシヤ・キリスト)の立場でなら、それは聖なる事象であるはずだ。磔刑あってこそ敬虔なる復活の聖蹟があったわけだし、石抱き十露盤(そろばん)とか獄門台などと同列の拷問道具である「十字架」は、今や陰惨な責め具の位置をはるかに遠く離れ、キリスト教の聖なるシンボルになってさえいるではないか。

 してみれば、キリスト教徒は13日の金曜日を花火を上げて祝ってもいいくらいで、むしろ祝祭日ではいか。なぜ聖人の聖人たるべき所以の日、神の神たるべき聖なる日を忌み嫌うのか。まったく、キリスト教徒ってやつは、意味がわからん。

 まあ、そのまた逆に、こうしてキリスト教が起こったからこそ、いまだにキリスト教徒はイスラム教徒と戦争で殺し合いを続けなければならず、もともとそんなことに無関係であった日本でさえもがそのお先棒を担ぎかかっている昨今の世相を考えれば、確かに、人類にとって不吉な日かもしれないが……。

 ちなみに、Wikipediaにはこれは俗説であると書かれている。

正義は子供の術語

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 PHM11_0038 「『正義』なんて胡散臭い言葉は、子供の使う言葉ですな、それは」

……と、もののはずみで某所に書いた。

 書いてしまってから、我ながらなかなか思ったことが言えたよな、と感じた。

 正義、なんてチャラチャラした言葉は、人を騙すときに使う言葉だ。

 フランス革命の殺戮の嵐は正義のために吹きまくったのであり、原爆だってパレスチナだってアフガンだってイラクだって、どいつもこいつも聞く方の耳が麻痺するくらい正義正義言ってるではないか。正義はスプラッターとか血みどろ、殺し合い、ウンコの仲間の言葉だ。

 「正義は戦争の属だから、俺は嫌いだ」みたいなことを言ったのは、誰だっけ、坂口安吾だっけ……。

 「正義」に比べると、「性欲」などはむしろ清潔な言葉だ、とも書いた。正義よりも苦悩、正義よりも煩悶、正義よりも堕落、正義よりも罪。

 なんというか、「正義」と言われると、子供の頃の同級生の、体力があって頭がよく、友達の面倒見がよくて女にモテ、みんなから好かれているリーダー役のA君に、「おい佐藤ッ!お前最近、ダラけてへんか!?しっかりせいや!」と責められている気がする。しんどいのである。「ケッ……」と吐き捨てたくなるのである。

 世の中、正しけりゃアいいってモンじゃない。「馬が屎まる泥の沼に……」こそ、蓮華の花はひらくのである。そういうクズのような人間を、認めなきゃアカン。

Youtubeその他の好戦動画に注意せねばならぬ

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 アホがテレビのチャンネルをガチャガチャやるがごとく、Youtubeやらニコニコやらを口をあけて鼻水たらしてボンヤリ見ていると、

「中国や北朝鮮や韓国の兵器はこれだけカスだアホだ役立たずだ!それに比べて、わが国自衛隊の装備はハイテクで優れていて無敵だ!!ここにスーサイド・アタックの伝統が加われば、我が国の防衛力は盤石だ!!!」

……というような、えっらい勢いのタイトル、ドガチャカ撃ちまくって連戦連勝、みたいな迫力動画に行き当たる。

 みなさんね、釈迦に説法ってものかもしれませんが、これ、「もうスゴい神技の域に達してるからこれ以上防衛力を増強させる必要はありませんよ」って言ってるようなモンだから、鵜呑みにしちゃあいけませんよ。逆謀略ですよ、こんなの。

 バカ言っちゃいけませんよ、保守のフリした革新に決まってるでしょ。

 使うことができない、ぶっ放してはいけないことになっているミサイルや大砲や戦闘機、何千丁、何百機持ってたって、そんなもん、ゴミにしか過ぎないに決まってるでしょうが。

 戦争したこともないような、イジメで自殺が続出するような、逆に言ったらそんな程度の脆弱な武装組織がさ、鎧袖一触だとかなんだとか、そんなハズねえじゃん。

 安心してないで、もっと緊張感を持たなくっちゃいけませんよ。……法律?何言ってンですか、こんなくらいの改正で、何ができるワケもありませんよ。バカ言ってちゃいけませんよ。

遊びの姿とマゾヒズム

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 遊びは必ずしも遊びの姿をしておらず、苦しみは苦しみの相貌を持っているとは限らない。

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 昔、コピーライターの糸井重里であったか、「まじめ・ふまじめ、ふまじめ・まじめ」と言ったもので、不真面目な態度で真面目ぶるくらいなら一生懸命に不真面目をやったほうがまだしも……、というような意味のことを言っていたように思う。

 そこからすると、マジメはマジメの姿を持っていない場合があり、同様にして不真面目は不真面目なように見えない場合もあるということになろうか。

 民主的で自由そうな雰囲気を持っているくせに、その実、内容は抑圧的でファッショなもの(野球などのスポーツとか)も、世の中には多い。モノもコトも、見たまま感じたまま聴いたままの姿をしていないのだ。

 耳鼻舌身意(じびぜっしんに)(これ)を疑えなどとまで言ってしまうとあまりにも抹香臭くなって来るから、そこまでは言うまい。だが、官能と真意が乖離することは大して珍しいことではない。さなきだに、われわれは表向きエコだ平和だと言っておきながら、電気も油も使いまくり燃やしまくり、グローバルと称して特定の国家に依拠することによって片側では戦争による殺戮に(くみ)している。

 そんなちぐはぐで出鱈目な人間だからこそ、苦しみや悩みの中に意味を見出すストイシズムだって(うべな)ってよい。それはマゾヒズムとは違う。マゾヒズムは官能へ語るが、ストイシズムは精神に語る。

フォン・ブラウン略伝

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 フォン・ブラウン――正しくはヴェルナー・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル・フォン・ブラウン Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun という名前だそうだ――はロケットの父として有名だ。少年時代からロケットづくりに打ち込み、ついには人類を月面にまで送り込んだ稀代の技術者である。

 その人生は劇的で、記すに余りある。

 フォン・ブラウンは、明治45年(1912)、プロイセンの男爵家に貴族の子として生まれた。

 少年時代はガラクタを収集してはこれにロケットを取り付けてぶっ飛ばすという、世界中の多くの男性が身に覚えのある、工学少年を地で行く子であった。廃品置き場から自動車の壊れたのをくすね、これに火薬ロケットを取り付けて点火、爆走するガラクタは八百屋の店先に飛び込んで騒ぎになり、賠償だの父の仕置きだの、大変な少年時代だったという。

 その一方で、堅信礼(コンファメーション)(子供の宗教的な節目で、無理に例えるなら七五三とでも思えばよかろうか)のプレゼントに貰った天体望遠鏡で星を眺めては、宇宙に思いを馳せる思惟的な一面のある少年でもあった。

 算数が苦手な彼だったが、中学生の頃、「惑星空間へのロケット」という本に出合う。この本に載っている方程式を理解できなかった彼は、教師の勧めに従い、一転、数学に打ち込むようになった。はじめ「数学不良点」の評価であったにもかかわらず、1年間一心不乱に数学に打ち込んだ結果、教師の代役で数学の授業を受け持つまでに至った。

 勉強の甲斐あって学校を繰り上げ卒業したフォン・ブラウンであった。第1次大戦の敗戦後の復興期にあたるこの頃、ドイツにはSF小説などの影響で一種の「ロケット・ブーム」が到来しており、「ドイツ宇宙旅行協会」なる団体が結成されていた。「ロケット」という雑誌がこの協会から発行され、人々の夢をかき立て、実際に小さなロケットを組み立てて発射することが行われていた。これは今の「メイキング・ムーブメント」にも少し似ている。

 フォン・ブラウンはまだ高校生なのにこの協会に入会し、級友たちを糾合して手作りの天文台を建設するなど、活発な青春時代を送った。この頃、ある公開実験の説明スピーチで、彼が「皆さんが生きている間に、人間が月面で仕事をするのを見ることができるでしょう」と言ったとする記録があるという。

 ところが、不況のため、こうした趣味のことはあまり自由にはいかなくなっていった。日本でいえば昭和ひと桁、1930年頃のことである。この頃、フォン・ブラウンは周囲に「もう、陸軍の援助を貰うしかないかな……」と漏らしている。すでに戦争の世紀なかば、世界のいかなる国も、莫大な予算を使えるのは軍隊のみであった。

 不況のために学費もままならず、貧乏学生となった彼は、それでも余暇のすべてをロケットづくりに打ち込んでいた。いつの日か、幼い頃からの確信、宇宙旅行を実現するためである。

 貧しいため、学費を稼ぐのにタクシーの運転手をするようになった彼は、ある日声高にロケット談義をする二人の客を拾う。客どうしの論議についくちばしをさしはさんだフォン・ブラウンだったが、この客たちこそ、リッター・フォン・ホルスティヒ大佐と、ヴァルター・ドルンベルガー大尉の二人で、陸軍のロケット開発の中心人物たちであった。

 「君、明日、参謀本部へ来て、ちょっと話を聞かせてくれないか」

 運命の出会いである。

 フォン・ブラウンの話を聞いたドルンベルガー大尉は、彼の上司のカール・ベッカー大佐を連れて協会を訪ねてきた。軍と宇宙旅行の利害は急速にその辻褄を整えていった。

 この頃、ドイツは敗戦による厭戦気分の只中にあった。「軍隊の援助など……」と、宇宙旅行協会の人々が軍との関係を嫌うのは当然である。今の日本でも、あらゆる科学技術は軍事への応用を嫌う。この頃の敗戦ドイツもそれは同じだ。ところが、フォン・ブラウンは決然として軍と手を結ぶ。20歳の若者のことだ。夢のためなら思想的な頓着などどうでもよかったのであろう。

 はじめ難航し、陸軍も渋い顔をしたロケット開発だが、フォン・ブラウンの熱情は怯まず、何度目かのロケット実験はついに成功した。A-2と呼ばれるこのロケットの成功で、陸軍から多くの予算を引き出すに至る。昭和10年(1935)頃のことだ。

 こうして貧乏なロケットマニアの学生は、一躍ドイツ陸軍の隠し財産となったばかりか、空軍からも注目され、破格の予算が与えられたのである。フォン・ブラウンは、水を得た魚のようにロケット開発にいそしむことができるようになった。

 フォン・ブラウンの母、エミーからヒントを得て、後世知られる僻村「ペーネミュンデ村」というところに、ドイツのロケット開発の本拠が設けられた。

 しかし、彼の思いと戦争は表裏一体である。軍の目的は兵器を開発することであり、宇宙旅行とは違う。彼もまた時代の子であり、古今未曽有の兵器「弾道ミサイル」の開発に自分の夢を仮託せざるを得なかった。

 科学技術に優れたドイツは、大戦前・大戦中を通じて、驚くべき技術開発を行っている。既にテレビ放送があり、お料理番組などが放映されていた他、街頭公衆テレビ電話などという信じられない物までベルリンの街なかにはあった。電子顕微鏡も既にこの頃ドイツで作られている。もちろん、軍でも今日(こんにち)の地対空ミサイルの原型など、多くのものを開発していた。さまざまな無人兵器も開発されていたが、その中の一つに、今日(こんにち)の「巡航ミサイル」のさきがけ、「V1」がある。

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米国アラバマ州ハンツビルに展示されているV1号

 V1は無人の有翼機で、パルスジェットエンジンにより時速600kmで飛行する。対気速度を積分して飛行距離を測定し、敵国の上空に達したと判断するや、自動的に落下して、1トン近く積んだ多量の爆薬により大被害をもたらす。

 古今未曽有の新兵器ではあったが、無人で、自律式、慣性誘導のいわゆる「打ち放し」方式であるため、敵の戦闘機に迎撃されてしまうことが防げない。多くのV1はイギリスの名戦闘機「スピットファイア」に追撃され、あるいは高射機関砲による対空砲火で撃墜された。

 ところが、ロケットにはこうした欠点がない。ロケットは垂直に打ち上げれば、戦闘機などが追及可能な高度をたちどころに突破し、上空数万メートルの宇宙空間にまで達することができる。自由弾道をもって落下し、再び戦闘機や高射砲が効力を持つ大気圏内に入って来た時には、その速度は音速の数倍から十数倍にまで達し、空気との摩擦によって赤熱しつつ、落下音よりも先に地表に達して炸裂する。これを巧みに制御して敵地に落下させれば、度を外れた高速のため、火器によっても戦闘機によっても迎撃は不可能である。

 これが「弾道ミサイル Ballistic Missile」の本質だ。現代においてなお、安全保障上私たちを悩ませる弾道ミサイルの脅威は、すでにしてこの頃、科学技術に優れたドイツと、夢に憑かれたフォン・ブラウンによって構想・実現されていたのであった。

 しかもなお、当時は「加農(カノン)砲」と言われる大砲が長射程火力の主流であり、この砲はベルサイユ条約によってドイツには保有数に制限がかけられていた。だが、条約には、その頃存在しなかった兵器である「ミサイル」については触れられていない。つまり、ロケットによる長射程火力は、条約の抜け道でもあり、陸軍にとって都合がよかったのである。

 なればこそ、ドイツ陸軍はフォン・ブラウンの開発するロケットに大いに期待した。

 昭和17年(1942)に発射に成功したロケットは高度8万5千メートルに達し、190キロメートル彼方のバルト海に狙い通り落下した。電波誘導システムを備え、液体酸素冷却装置、ターボポンプなど、近代的ロケットが備えるべきすべてを備えていた。

 少しばかり成功した技術には、虫のように権力者が群がる。武装親衛隊や空軍が群がってきて、彼の技術獲得のための駆け引きが始まった。とうとう、どうにもならぬ成り行きのどさくさに巻き込まれ、フォン・ブラウンはゲシュタポに逮捕され、収容所に放り込まれるという憂き目まで見た。しかし、この危機は、大尉から順調に少将にまで栄進していたドルンベルガーの働きによって回避され、なんとか釈放された。ドルンベルガーは陸軍の高官筋から党に働きかけ、ついにはヒトラーの口添えまでとることに成功し、フォン・ブラウンを釈放させたという。

 こうして、フォン・ブラウンの手によって完成された必殺兵器、世界初の弾道ミサイル「V2」はイギリスを襲い、大被害をもたらした。一説に、1万人を超える死者があったと言われる。あの戦争中のことだから、数字の上では東京大空襲や原爆の比ではないが、現代の9.11同時多発テロ事件の死傷者数と比べれば大変な人命が損なわれているということは間違いなく言える。

 しかし、これはフォン・ブラウンの本意ではなかったことも、後世よく喧伝されるところだ。彼曰く「ロケット・システムは完璧に作動した。しかし、間違った惑星に落下した」と。

 新型兵器を用いた優れた戦術も、誤った戦略に振り回されれば畢竟(ひっきょう)戦勝には寄与しない。このような未曽有の兵器をもってしてもドイツの敗色を拭い去ることは不可能であった。歴史のとおりドイツは敗北し、フォン・ブラウンは自らの去就を選ばねばならなくなった。

 彼は知恵を巡らせ、ソ連ではなくアメリカに投降するというシナリオを作って実行した。きわどい行動で、彼が500人ものロケット技術者と、疎開・隠匿した膨大な技術資料を引っ提げて米軍に投降したことも知られるところであるが、実際にアメリカに渡ることができたのは100人を超える程度であったという。

 あっさりとアメリカに投降したフォン・ブラウンは、変節を(なじ)られるのもものかは、彼が有するロケット技術が何を可能にするかを供述調書にしたため、嬉々として提出している。いずれ人工衛星も、月旅行も火星旅行も実現する、それが如何に人類を進歩させるか。……何、軍事技術への応用?そんなものは、惑星旅行のおまけにいくらでもこぼれ落ちる、くだらん枝葉末節だ、私の言う事を信じておとなしく待っておればよろしい、……と。

 だが、戦後というのは簡単なものではない。大戦争が終わった後のアメリカも、軍事に金をつぎ込む余裕はなく、フォン・ブラウンの夢も一時は遠のいた。しかも、フォン・ブラウンもまた、現代の日本で見られるように、ナチスに苦しめられた人々に対して責任を負い、しかるべく賠償を負担すべしとの論に、長い間苦しめられた。一つ一つの難詰(なんきつ)に、また彼も、時間を割いて一つ一つ応えていかなければならなかった。

 朝鮮戦争が始まり、宇宙旅行につながる大出力のロケットよりも、中射程の精度の良いミサイルが求められた。「レッドストーン」と呼ばれるこのミサイルを開発するため、フォン・ブラウンは彼のチームとともに、後世知られることになるアラバマ州ハンツビルに引っ越した。

 当時のハンツビルは、「アメリカの哈尔滨(ハルビン)」みたいなところだ。大戦中は「レッドストーン兵器廠」と呼ばれる広大な軍用地で毒ガス製造が行われていた。南部の寂れた田舎町だ。

 ここで開発された弾道ミサイル、「レッドストーン・ロケット」は、電波誘導を持たず、ジャイロを使った完全な「打ち放し」の慣性誘導ミサイルである。射程約300キロ強、核弾頭を搭載できた。

 次いで、予算不足にもめげず、ロケットを多段化し「ジュピターC」として順次発展させ、大気圏再突入による高温加熱の問題を「アブレーション技術」により解決した。アブレーション技術とは、熱に頑固に抵抗するのではなく、保護材を計算の上で少しずつ溶損させ、これによりかえって内部の重要物を熱から守ろうとするものだ。この技術で一挙に2000キロメートル近い射程が実現された。

 勿論、思うに任せぬ障害もあった。この頃、アメリカのロケット開発は、陸・海・空軍がそれぞれバラバラに行っており、似たようなものを複数の予算で冗長に開発していた。フォン・ブラウンは陸軍所属であったから、海軍・空軍の軍事力整備も図らねばならない国防総省の采配に悩まされることもあった。同時にそれは、アメリカ全体の宇宙開発の足枷でもあった。

 こうした内部牽制で曲折するうち、敵国ソ連が着々と宇宙に布石を始めた。

 アメリカの宇宙開発情報は基本的に公開され、ソ連もその状況をつぶさに入手可能である。しかし逆は違い、ソ連は手の内を簡単には明かさない。

 鉄のカーテンで閉ざされたソ連の宇宙開発状況がどのようになっているのか、アメリカにはよくわからぬうち、突如、怪電波と地球軌道を周回するその発信源の詳細がソ連から発表されたのだ。人工衛星スプートニク1号の成功がそれである。昭和32年(1957年)のことだ。

 後世よく知られるとおり、これは「スプートニク・ショック」と言われる一種のパニックをアメリカに引き起こした。不倶戴天の敵、共産主義者の巣窟、ソビエト連邦は、好きな時にいつでも、迎撃不可能な大陸間弾道弾によって、アメリカ合衆国の頭上に、史上最悪の巨大水爆「ツァーリ・ボンバ(Царь-бомба)」を叩き込む自由を得た、というのと、地球軌道をぐるぐる回るスプートニクの存在は、技術的には(ほぼ)等義だからである。ヒロシマ・ナガサキの惨劇を見るのは、次はニューヨークかワシントンか、というわけである。

 こうしたことも動機となり、ソ連への対抗意識から、次第にアメリカの宇宙開発は一枚岩になっていった。無論その中核に、フォン・ブラウンはいた。

 先行するスプートニクに目にもの見せんと猛追を開始したフォン・ブラウンたちではあったが、走り出しは拙速に過ぎた。大急ぎでとにかく打ち上げた「ヴァンガード1号」は、数センチも飛ばずに地上で爆轟、四散した。

 ロケットが火を吹いた途端、発射がうまくいったと勘違いしたアナウンサーが、「アメリカの誇る人工衛星第一号、美しい打ち上げです。目に見えぬほどの速さで宇宙に向かって飛んでいきました!」と実況中継してしまった、という笑い話が伝わる。地上で爆発炎上してしまったロケットが目に見えるわけがないのは当然だが、今でも「人工衛星・光明星1号」などと称して北朝鮮当局が似たようなことを言っているのを思い起こしてしまう。

 昭和33年(1958年)の年明け、フォン・ブラウンたちのチームはようやく「ジュノーI」と呼ばれるロケットにより人工衛星を軌道に投入することに成功した。成功してから、この衛星は「エクスプローラー1号」と名付けられた。

 陸・海・空軍がそれぞれ勝手にロケットを作っては飛ばすという無駄の多い宇宙開発を集約・一本化し、今も知られる「NASA」が新編されたのもこの年である。そして、この次の年(昭和34年(1959年))、ドイツ・ペーネミュンデ村以来の同志を含むフォン・ブラウンたちのチームは、丸ごと陸軍からNASAに移籍することが決まったのであった。ドイツからやってきたのは100人前後であったが、この頃には5000人近い強力な集団に膨れ上がっていた。陸軍としては「陸軍の国防予算を使いつぶすこの連中」が出て行ってくれてせいせいした、などという話もあったようだ。

 それまでフォン・ブラウンは、建前の上では「陸軍のミサイルを開発し、技術の余力をもって宇宙旅行の研究も黙認される」という立場でしかなかったが、NASAは軍と密接な関係を保つとは言うものの、非軍事の宇宙開発の中心だ。ついにフォン・ブラウンは堂々と胸を張って、少年時代からの確信、「宇宙旅行」を追及していける立場を得たのである。そして、引き続き使われることになったアラバマ州ハンツビルの彼らの本拠地は、新たに名将軍ジョージ・マーシャルの名をとって「マーシャル宇宙飛行センター」と名付けられた。そのセンター長は、もちろんフォン・ブラウンである。

 だが、それから数年の間、アメリカは常にソ連の後塵を拝しつづけた。月に探査機を最初に到達させたのはソ連である。ソ連は悠々として月の裏側に探査船「ルナ3号」を送り込み、人類がいまだ一度も見たことのなかった月の裏側の写真を撮って全世界に発表した。ついには「ルナ9号」を月面に軟着陸させ、月面のパノラマ写真を撮ってみせた。この間、フォン・ブラウンたちのロケットは失敗続きで、爆発炎上ばかりしていたのである。どれほど悔しかったか思いやられる。

 それでも、フォン・ブラウンたちはじりじりと間を詰めていった。

 有人宇宙飛行を行い、その延長として月へ人間を送り込む。この過程を()むことはもはやアメリカとソ連の、言外の競争コースとなっていた。

 ケネディが大統領になったのは、昭和36年(1961年)のことである。この頃、フォン・ブラウンたちは有人宇宙飛行に向けて着々と研究を積み重ね、宇宙飛行士を訓練し、準備を行っていた。

 そこへ突如、またしても宿敵・ソ連の驚天動地の成果がニュースとなって世界を飛び回る。

「赤軍中尉ユーリ・ガガーリン、有人宇宙飛行船ボストーク号に搭乗し、地球を一周、無事帰還」

 また出し抜かれたのだ。もちろん、フォン・ブラウンたちも黙ってはおらず、すぐに、(かね)て訓練済みの宇宙飛行士アラン・シェパードを、実績があり安定しているレッドストーン・ロケットに搭乗させて打ち上げ、弾道飛行の後、無事帰還させている。しかし、「打ち上げて落ちてきただけ」の弾道飛行と、地球周回軌道を一周することでは、その意義は大きく異なる。如何にせん、ソ連との差はこれでは覆うべくもない。

 この事態が若い大統領の尻を痛烈に殴打したため、かの有名な施政方針演説がなされたのである。「10年以内に人間を月に立たせる。カネに糸目はつけぬ」と。

 これを受け、ついにフォン・ブラウンは、その人生最大の作品、人間を月に送り込むための超巨大・超強力ロケット、「サターン」の建造に着手することを得たのである。

 フォン・ブラウンはサターンを「I」「IB」「V」と順次進歩させた。最終型のサターンV型は、高さ100メートルを超えるロケットであり、I型の2倍の高さ、6倍の重さを持っていた。運搬能力に至っては10倍に達し、129トンを地球軌道に投入する能力があった。

 ケネディ大統領は昭和38年に撃たれて死んだ。だが、はずみのついたアメリカの宇宙開発計画は、もう止まらない。

 フォン・ブラウンたちは、月を目標にしたサターン・ロケットの建造と並行して、有人宇宙飛行の成果をマーキュリー計画・ジェミニ計画と、着々蓄積していった。無論ソ連も猛然と仕掛けてくる。ついにはソ連、次いでアメリカと、人間の宇宙遊泳が行われた。また両国とも、宇宙空間でのドッキング技術を確立していった。

 しかし、ソ連は少しづつ疲労してきた。それは、ソ連の宇宙開発をただ一人で牽引してきた不屈の男、セルゲイ・コロリョフが昭和41年(1966年)に死去したことが大きく影響している。求心力を失ったソ連の宇宙開発は、徐々にアメリカの追随を許すようになった。

 爆発事故で何人もの人命を失いながらも、フォン・ブラウンたちは前進し続けた。ついに、アポロ8号では月の軌道を有人で周回することに成功し、ソ連に水をあけることができた。

 ソ連はあたかも人間を月に送り込むことは目標としていないように装いながら、それでも実は人間を月面に送り込もうとしていたことが、ソ連崩壊後の資料公開で判明している。しかし、次第に技術でアメリカに後れを取るようになり、失敗が目立つようになっていった。

 昭和44年(1969年)7月20日。3人の大男を乗せたフォン・ブラウンの作品は、無事に月への往還を果たすことを得た。人間が月に降り立ったこの有名な一部始終は、もはやここに書くことを要しないだろう。当時3歳だった筆者も、おぼろにこの時のニュースを記憶している。

 アポロ計画はこの後3年間にわたって行われ、終了した。しかし、これで前進にピリオドを打つフォン・ブラウンではない。逆風の中、スペース・シャトルの基本構想を確立し、それを練り上げていった。しかし、生粋の技術者である彼は、徐々に自分の考えと、政府の宇宙政策とのずれを覚えるようになった。また、次第に意思決定の場から遠ざけられるようになったのである。

 フォン・ブラウンは昭和47年(1972年)、アポロ計画終了の年にNASAを退職し、民間企業で通信衛星を手掛けるようになった。巨大なアポロ計画とは違い、世界の隅々に知識を送り届けることのできる通信衛星は、彼のあらたな生き甲斐となった。だが、この頃からフォン・ブラウンは体調がすぐれなくなったようだ。

 昭和52年(1977年)、フォン・ブラウンはバージニア州アレクサンドリアの病院で癌のため死去した。65歳であった。

 彼が多年にわたり働き、月面に人類を送り出した地、アメリカ合衆国アラバマ州ハンツビルの宇宙センターに、その人生のすべてを賭した作品「サターンV型ロケット」の実機が国宝として手厚く保管されている。また、書斎の復刻や胸像がここに記念されている。

フォン・ブラウンの胸像と筆者
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ハンツビルの宇宙センターにあるフォン・ブラウンの書斎の記念展示
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ハンツビルの宇宙センターに展示されている実物大のサターンV型ロケットの模型
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ハンツビルの宇宙センターには実物のサターンV型ロケットが丸ごと記念館の中に保管され、国宝に指定されているが、大き過ぎて全容を写真に収めることは難しい。下の写真はエンジン部分を根元から見上げて撮ったものだ。

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