読書

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 「(くらら)」を読み終わる。

 「眩」は、江戸時代の絵師、葛飾應為(おうい)がモデルの小説だ。図書館で借りた。

 葛飾應為は葛飾北斎の娘である。應為の作品として残されているものは少ないが、数少ないそれら作品からは、父北斎を凌ぐとも言われるほどの実力が窺われるという。

吉原格子先之図(よしわらこうしさきのず)

 應為の代表作は何と言っても「吉原格子先之図(よしわらこうしさきのず)」だ。應為の特徴と言われる陰翳と光のコントラストの技法が遺憾なく発揮され、暗夜の吉原が活き活きと表現されている。この作品は小説「眩」の装丁にも使われている。

 作品は葛飾應為の少女時代から始まり、最晩年までを一気呵成に描き切る。作品の中の葛飾應為は、老いるほどにまるで小娘のように研ぎ澄まされていく。もし、眼を見開き目標へ没入するその姿が無垢で純真で真摯で、そして天才であるなら、それは物語にはならない。市井のはざまで汚れ、恋し、苦しむ。それゆえ自由であり、だからこそ物語となるのだ。

言葉

 いろいろな言葉が出てくる小説で、筋書きとは関係なく勉強になる。

伝法

 「伝法な口のきき方」というと粗っぽい、ものに(こだわ)らない、はすっ()な言葉(づか)いのことだ。

 だが、「伝法」は仏教の教えを師匠から弟子に伝えることをいうもので、浅草にある「()法院」だってそういう寺である。

 なぜ乱暴なことを伝法と言うのかと言うと、どうも、この浅草の傳法院の「寺奴(てらやっこ)」が乱暴だったことから来ているらしい。

炬燵弁慶(こたつべんけい)

 内弁慶と同じような意味で、内弁慶よりも更に範囲が狭い弁慶だ。

唐子(からこ)

 昔、私の家にも父が頒布会などで揃えたという陶器の(そろい)、白地に青で図柄が描かれた小鉢や小皿、湯呑が多くあった。これらには支那の服を着た辮髪(べんぱつ)の子供が毬突きをしているような図柄が描かれていた。

 ああいう図柄のことを何というのかこの歳になるまで全く知らなかったが、アレを「唐子(からこ)」というのだそうである。

区々(くく)

 「まちまち」とも「ばらばら」とも()むそうである。

墨ばさみ

 左のような道具である。チビた墨を()る時に、これに(はさ)んで磨り易くするわけだ。

 物語中では下地を塗った紙をぶら下げて乾かすのに使っていた。洗濯ばさみのかわりである。当時洗濯ばさみなんてものがあったのかどうかはよくわからないが……。

 小さい頃「鉛筆ホルダ」なんてものがあり、大概の子はこれを持っていて、短くなった鉛筆に取り付けて使いやすくしていた。まあ、それと同じようなものだろうか。

(うちかけ)

 「襠」。実はこの漢字の一般的な読みは「まち」だが、小説「眩」では「うちかけ」と()ませている。

礬水(どうさ)

 絵の具の滲み止めに紙や絹布に塗る液である。これを塗ったものや、これを塗ることを「礬水(どうさ)()き」という。

 こんな単語は聞いたことがなかった。よほど珍しい言葉なのだろうと思ったのだが、今この稿を書くのに「どうさ」と入力して変換すると、きちんと「礬水」と出る。IMEの標準辞書にはこれがあるのだ。へえっ、あるんだ……と驚いた。

 ともかく、礬水は明礬(みょうばん)を水で溶いたものに(にかわ)を混ぜて作る。

 「礬」と言う字の音読は「バン」であり、「礬水」をそのまま音読すれば「バンスイ」であって、どう読んでも「どうさ」にはならない。他方、礬水には「陶砂(どうさ)」という表記もある。この「陶砂」のほうが「どうさ」と読むには自然と言える。しかし、礬水の化学的な来歴から言うと「礬水」と書いたほうがより正確な感じがする。それらの状況から考えて、「陶砂」の自然な読みが「礬水」のほうに移ったのかな、と思える。

更科堀井の年始品

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 去る1月4日、旧友にして畏友のF君と蕎麦屋の梯子(ハシゴ)をしたが、その時の2軒目、麻布の総本家更科堀井を出る時、帳場(レジ)に出ていた店主さんから「これは御年始に」と小さな箱を貰った。

 家へ帰って開けてみると左の写真の通り、私も常日頃愛用している浅草・やげん堀の七味唐辛子であった。

 気が利いていて、うれしい。饂飩(うどん)、蕎麦、鍋物、関東煮(おでん)など、何に振りかけてもぴりっと旨い。さすがは更科堀井。

立春の丸一日の散歩

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 旧正月も節分も過ぎた。まだまだ寒さ厳しい折柄とは言え、暦の上では新春、しかも今日は既に立春である。近所の日当りのいいお宅の庭では、そろそろふくらみはじめている梅の蕾もある。

 時節、であろうか。

 なにやら物の気配に誘われるような、そぞろ落ち着かぬ気持ちもしていたところ、日本ITストラテジスト協会で知り合いになったHさんからお声がかかる。ひとつ今度の休日を共に散歩でもして楽しもうではないか、とのお誘いである。Hさんは同郷の先輩でもある。

 興が乗り、二人して数週間前から何をしようかと相談した。

 Hさんは「池波正太郎的な世界観の散歩をしようよ」とおっしゃる。なるほど、よしきた、合点というものだ。私も池波作品については鬼平犯科帳から仕掛人梅安から剣客商売から、多少ほどは読んでおりますからね、ええ、ええ。

 Hさんが「これは外せない」とする要素は、「池波正太郎」「舟」「蕎麦」「風呂」だという。

 はて、「池波正太郎」「蕎麦」はよしとして、「舟」「風呂」はどうしたものかな、と考えあぐんでいると、Hさんが「今回はひとつ、噂に聞く『矢切の渡し』に乗ってみようよ」と言った。

 なるほど、江戸のむかしから矢切の渡しというものは伝えられているが……。しかし、今でもあるのだろうか。……と、そんな風に不審を覚えるのは取り過ごしで、これが実は、まだあるのだ。江戸時代から伝えられたそのままの姿で、今も()()ぐ川船で江戸川を渡している。

 Hさんと交々(こもごも)相談し、散歩コースを決める。

 それで、今日、2月4日の土曜日に散歩しようと言う事になった。

「野菊の墓」文学碑

 今日の散歩のスタートは「矢切の渡し」である。矢切の渡しというと、時代劇や細川たかしの演歌でも知られるが、知る人ぞ知るのは名作文学「野菊の墓」の舞台であることだ。

 私は「野菊の墓」の題名は知っているが、実は恥ずかしながら読んだことがなかった。映画では、最も近いところで若い頃の松田聖子が主演したり、それ以前にも何作か別の女優で制作されていたことも知ってはいるが、これがまた、どれも見ていないのである。テレビドラマでは山口百恵主演のものをはじめ、他にも何作かあったように思うが、やはりどれも見ていない。

 原作を読まなくっちゃいけないでしょう、こうなれば。

 で、作者の伊藤佐千夫は没後長く経つので、既に著作権は切れており、青空文庫で読むことができる。無料だ。

 青空文庫はKindleでも読める。そこで、Kindleで0円購入してこれを読みつつ、家を出発する。短編だから、2時間ほどもあれば読み終わるだろうとばかり、Hさんと落ち合う約束の10時に先立ち、8時に家を出、読みながら電車に乗る。

(伊藤佐千夫「野菊の墓」冒頭から引用・昭和38年(1963)日本法著作権消滅)

 のちの月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼いわけとは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないではないが、むしろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味をむさぼって居る事が多い。そんな訣から一寸ちょっと物に書いて置こうかという気になったのである。

 僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切やぎりわたしを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈かいわいでの旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るようなしいの樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森いもりで村じゅうからうらやましがられて居る。昔から何ほど暴風あらしが吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根をがれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまたすすやらあかやらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目もくめも判らぬほど黒い。それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠くぎかくしなども打ってある。その釘隠が馬鹿に大きいがんであった。勿論もちろん一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。

 僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、この戦国時代の遺物的古家を、大へんに自慢されていた。その頃母は血の道で久しくわずらって居られ、黒塗的な奥の一間がいつも母の病褥びょうじょくとなって居た。その次の十畳の間の南隅みなみすみに、二畳の小座敷がある。僕が居ない時は機織場はたおりばで、僕が居る内は僕の読書室にしていた。手摺窓てすりまどの障子を明けて頭を出すと、椎の枝が青空をさえぎって北をおおうている。

 母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の従妹いとこになって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。僕が今忘れることが出来ないというのは、その民子と僕との関係である。その関係と云っても、僕は民子と下劣な関係をしたのではない。

 僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れがおそいから、十五と少しにしかならない。せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味あかみをおんだ、誠に光沢つやの好い児であった。いつでも活々いきいきとして元気がよく、その癖気は弱くて憎気の少しもない児であった。

 さすが、夏目漱石をして「何百編よんでもよろしい」と激賞されたというだけのことがある美しい文章である。少年と少女の清純な恋情を美しく、精密に、それでいて簡潔に描き出したすばらしい小説であり、泣ける。

 さて、矢切の渡しの最寄り駅は北総線の「矢切」駅で、渡し場は駅から歩いて3~40分というところだ。

 駅前でHさんを待つ間、野菊の墓を読み耽る。9割ほど読み終わり、物語の山場で感極まって涙目になっているところへ、丁度待ち合わせ時間の10時きっかり、Hさんが到着する。

 挨拶もそこそこに「HさんHさん、渡し場に行く途中に『野菊の墓』の文学碑がありますから、是非寄って行きましょう」と誘い、Hさんも文学碑が気になっていたとのことで、さっそく出発する。

 庚申(こうしん)塚と(やしろ)のある曲がり角が目印で、そこから丘に続く道をたどる。

 江戸川を西に見下ろす高台に文学碑があり、先に挙げた「野菊の墓」の冒頭の一節、「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切やぎりわたしを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。」という書き出しを刻んだ石碑がある。

 この石碑の建つ場所は眺めが非常によく、遠く富士が望め、小説の中に登場する通り、上野・浅草のあたりまでが霞んで見える。今は東京スカイツリーが屹立しており、浅草・業平橋の方向はすぐにそれとわかる。

矢切の渡し

 「野菊の墓文学碑」の丘を西に下り、地元の名物「矢切(ねぎ)」の畑の間の長閑(のどか)な道を15分ほども歩けば、江戸川の岸に出る。

 「矢切の渡し」は高い旗が目印になっていて、すぐにそれとわかる。

 江戸時代、川に橋を架けることや、勝手に渡しを営むことは主として軍事上の理由から幕府によって厳格に禁じられ、これを破る者は「関所破り」として厳罰に処せられた。しかし、川のそばで生活を営む農民たちが、営農のために小舟で細々と往来するようなものまで禁じられていたわけではなく、何か所かは渡し場が許されていた。これを「農民渡船」という。さもあろう、幕府の収入はすべて農業から得られており、ならばこそ農民を武士に次ぐ地位と位置づけていたのだ。営農を妨げることは自らの収入を制約することにもつながるのであるから、このようなものが許されていたのであろう。

簡素な渡し場の乗り合い口

 明治維新後、架橋がなされたり鉄道が開通したりする中、渡し舟は不要となって(すた)れていったが、この「矢切の渡し」だけは地元民の足として、また今では柴又~矢切の間のなくてはならない観光名物として唯一現存しているのだ。

 矢切側の乗り合い口には簡素な甘味品の露店があり、飲み物や焼き芋など売っている。

 舟の運航はおおらかで、何分おきというようなものではなく、客がほどほどに乗れば随時出してくれる方式だ。手漕ぎの()舟で、渡し賃は一人200円だ。

 船頭さんは若く見える人だったが、静かな口調で、多少の観光案内などもしてくれつつ、のんびりと()を操る。

 立春らしい陽気の下、まことにゆるゆると舟は対岸に漕ぎ進められていく。

ご一緒したHさんと私

 僅々(きんきん)5分ほど、すぐ対岸の柴又に着く。

柴又見物

 柴又見物をする。

 そりゃもう、「寅さん」「帝釈天」「門前で買い食い」、これでしょう。

有名な山本亭

 帝釈天では燈明を上げ、唱えごとなどもモゴモゴと口ごもっておく。

 通称「柴又帝釈天」は日蓮宗の寺で、本当の山号寺名は経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)という。庚申に縁が深く、この地域一帯にも庚申塚などが多くあるようだ。

煎餅買い喰い

団子買い喰い

高木屋老舗でおでんにビール

 「とらや」で団子を立ち食いし、「高木屋」でおでんにビールなんかをとる。

 この「とらや」は、元は「柴又屋」という名前だったが、「フーテンの寅さん」の最初の方でロケ地に使われたので、それにあやかろうとてか、「とらや」という屋号に改名したのだそうな。そのせいか、映画の中では、寅さんの家の団子屋ははじめは「とらや」という名前だったのに、途中から「くるまや」に変わったという。屋号をめぐっての争いを避けるためだったのか、どうだか。

青天白日と寅さんと私

 そして、現在の「とらや」でロケをしなくなってからは、その向かいにある「高木屋」をモデルにした撮影所のセットを使って映画が撮られたそうだ。そのため、二つの店がどちらも「フーテンの寅さんの団子屋はこちら」と言っているようだ。

亀有公園

 柴又門前を抜け、京成柴又駅まで歩いて寅さんの銅像など写真に撮る。京成に乗って次に行こうかという時、Hさんが「ここはひとつ、『こち亀』を探訪しようよ。亀有公園へ行って見よう」と言う。

 なるほど、これは面白そうである。

 柴又から亀有公園までは3キロほどある。40分か50分程度、変哲もない街道沿いを西へ西へ進み、中川を渡って環七通りまで歩けば着く。常磐線葛飾駅の近くである。

 亀有公園は取り立てて特別なこともない公園で、子供たちが元気いっぱいに走り回っている。ああ、日本にはまだまだ子供がいてよかった、などとも思う。

 しかし、入ってみると、やはりゆかりということで、「両さん」の銅像なんかがベンチにドッカと座っている。

 走り回る子供たちに入り混じり、「ひとつ『リア充写真』でも撮っておこうか」とでもいう風情の観光客が、てんでに撮影したりスマホを操作していたりするのも、いとをかし、である。……私たちもその例に漏れないが(笑)。

 私も一応「お(しるし)」ということで、写真なんか撮る。

駅の北側の派出所

 漫画の舞台は「公園前派出所」だが、実際には公園前に派出所はない。その代わり、駅の南北両方に派出所がある。さして大きい駅でもないのに、2か所派出所があるというのは珍しい。

 駅の南側には両さん一同の等身大フィギュアなどがあって、観光客が嬉々と写真など撮っている。

神田連雀(れんじゃく)

 さて、柴又~亀有の散歩から、電車に乗って河岸を変える。常磐線亀有から電車に乗って西日暮里まで行き、山手線に乗り換え、秋葉原で降りる。秋葉原の喧騒を通り抜けて、神田連雀(れんじゃく)町へは万世橋を渡ってすぐである。

 神田連雀町、とは言うが、連雀町という地名を地図で探しても見つからない。今は「須田町」「淡路町」と言う一画が、昔は連雀町と呼ばれていたのだ。背負子の肩掛けの「連尺」を作る職人がこの一画に住み着いていたところから、字を変えて「連雀町」と呼ぶようになったという。

 「かんだやぶそば」は惜しくも数年前の火災で建て替わり、昔の古い建物ではなくなってしまったが、それでも、戦災で焼けなかった古い建物や店が連雀町にはまだいくつか残り、今も営業中であることは池波ファンならずとも知るところだ。これらの店を池波正太郎はこよなく愛した。
 
 花野さんを「かんだやぶそば」をはじめ、「いせ源」「竹むら」「ぼたん」などの文化財建屋に案内する。

 それから靖国通りへ回り、池波正太郎が愛したとっておきの蕎麦(みせ)「まつや」へ行く。

 まつやの通しものは固練りの蕎麦味噌だ。器の縁に塗って出してくれる。まずはそれを舐めつつ、焼き海苔に板わさでぬる燗を一合。

 盃一杯ほど酒の残っている頃おい、「もり」を頼む。

 いつもはあまり大きなものは頼まない私なのだが、少し歩いて腹も減ったので、今日は「大もり」を頼んだ。蕎麦の香りのいい、まつや独特の蕎麦を堪能する。

 手繰(たぐ)り終わって、蕎麦湯をたっぷり飲む。

稲荷湯

 Hさんは「シビれるような熱い銭湯にヤセ我慢で入る、これがやりたいなあ」と言う。

 神田連雀町付近で銭湯を探すと、「神田アクアハウス 江戸遊」というのが見つかる。銭湯で、入浴料も公定料金の460円だ。連雀町からはすぐである。

 ところが、Hさんは「どうも小奇麗っぽくて情緒のないのがいかん。やはり『銭湯らしいところ』がいいかなあ」と言うのである。

 そこでさらに探すと、10分ほど歩いた先に稲荷神社があり、そのそばに「稲荷湯」という銭湯がある。

 稲荷湯は浴場内の「富士のペンキ絵」もなかなかそれらしく、「銭湯銭湯している……」ようなので、そっちへ行くことになった。

 皇居に近いせいか、最近流行の「皇居ラン」の帰りにスポーツウェア姿でひと風呂浴びていく人が多いらしく、今日もちらほらそういう人の姿が見られた。

 Hさんの希望通り、「なかなかシビれるような熱い湯」で、我慢して入るうち、ホカホカに温まるのであった。

鳥鍋「ぼたん」

 稲荷湯を出て、神田連雀町へ引き返す。

 もとは「池波正太郎的には、鬼平犯科帳に出てくる名物軍鶏鍋『五鉄』のモデルを探してそこへ行くべきだろう」というアイデアだった。「五鉄」のモデルは「玉ひで」という実在の店だ。だが、日本橋の方なので、ちょっと遠い。

 そこで、池波正太郎が同じく愛した連雀町の老舗、「ぼたん」で鳥鍋をつつくことにしておいたのだ。

 「ぼたん」の看板の品書きは「鳥すき」だ。一人前7,300円(税込)で、「ちょっと高い」ようにも思えるが、「払えぬというほどでもない」値段で、それよりもなによりも風情があって、一度は行かなくてはならない店の一つである。

 実は私こと佐藤、連雀町の店は「竹むら」にも「いせ源」にも、「まつや」や、焼ける前の「かんだやぶそば」にも、何度も入ったことがあるのだが、この「ぼたん」だけは入ったことがなかった。なぜかというと、「お一人様はご遠慮ください」という店だからだ。さりとて、職場がらみの人を誘おうとすると、少し高いので値段が折り合わない。妻を連れて来ようとすると、妻は主婦の経済観念で「高いなあ」がまず出てしまうから興醒めである。そんなわけで一緒に来てくれる人がなかなかいない。

 しかし今日は、「池波正太郎的な世界観」がテーマで二人は一致しているから、私もHさんを引きずり込むのに躊躇がない(笑)。

 「二人なんですが、かまいませんか」と玄関を入ると、下足番の人が愛想よく招じ入れ、すぐに和装の仲居さんが出てきて案内してくれる。

 静かな奥の方の座敷に通される。腰を下ろして、鳥すきを2人前にビールを頼む。風呂上がりのビールがうまい。街全体が広大な温泉旅館として楽しめるところであるような気がする。

 銅板で葺いた炭櫃によく(おこ)った炭火が入って出てくる。仲居さんがそこへ鉄鍋を乗せて油をひき、(かしわ)の正肉、もつ、葱、豆腐、白滝などを手際よく盛って調えてくれる。

 煮えるのにほどよく時間がかかるから、ゆっくりとつつきながら話したり飲んだりするのにちょうどよい。

 しっかりした濃い味付けで、溶き卵によく馴染んでうまい。

「卵とじ」を作ってもらったところ

 最後にお(ひつ)に入ったご飯と香の物が出てきて、雑炊が楽しめる。また、仲居さんに頼むと、鍋の残りを卵とじにして、ご飯にそれをかけまわして「親子丼」のようにして食べることもできる。

 そこで私たちも、卵を二つずつ、たっぷりととじて貰って、お櫃のご飯を全部平らげた。

 水菓子(みずがし)がついて来る。冬なので、大粒の蜜柑(みかん)が出た。二人とも満腹である。

 ちょっぴり高いが、払えぬという程でもなく、意外に分量もあり、堪能できる。

神谷バー

 Hさんは「電気ブラン」は是非飲まねばならぬ、と言う。

 電気ブランと言えば「浅草・神谷バー」で、神田からは少し離れているが、ここは再び河岸を変え、浅草まで電車に乗る。

 神谷バーはいつもながら大変な混雑だが、人を掻き分け掻き分け、席を取って、「電気ブラン」を4杯、5杯。
 

夜の仲見世~浅草寺

 以前に一度、物知りの人が「夜の浅草寺」を案内してくれたことがある。仲見世通りの商店が閉まってシャッターが閉じた後に行くと、開いている昼間には見られない「シャッターのペンキ絵」が見られるのだ。このペンキ絵は季節ごとに()き変えていて、その時季その時季の行事の絵などになるのだ。

 これをぜひHさんにも見てもらおうと、神谷バーを出て案内した。

 季節らしく、火消しの(まとい)梯子(はしご)乗りの絵などが見られた。写真は「神輿を取り巻く群像」である。

 それから、ライトアップされた伽藍を一回り見物する。

 本堂はとうに閉まった後だが、いちおう賽銭を寄進して、少しばかり拝む。

「並木藪蕎麦」と「駒形どぜう」の場所だけ

 もう、自分が知っているだけのものを総(さら)えで案内したようなことだった。

 最後に、やはりこの名店だけはHさんに把握していただきたい、とばかり、「並木藪蕎麦」と「駒形どぜう」の場所をご案内した。

 もとより、老舗の店仕舞いは意外に早く、両店とも既に閉まっているが、どちらも建物が味わい深く、外から見るだけでも面白いのだ。

 この2店をご案内したところで、もう上弦の月が西へ傾きはじめ、はや22時を過ぎる時間にもなった。

 昼は早春らしい(うらら)かさ、夜は都会にもかかわらず星空に恵まれた今日一日のことを謝しつつ振り返り、Hさんとお別れした。

 飲み食いに散歩に、面白い一日を過ごすことができた。

徘徊

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 徘徊する。

 と言って、今日は徘徊するつもりでもなかった。子母澤寛の「ふところ手帖」を読みたかったから、図書館に行って、いつものように赤坂の砂場で蕎麦でも、と思っていた。

 その前に、床屋に寄る。正月用に調髪するにはまだ早いが、如何(いかん)せん髪が伸びすぎている。

 行きつけの床屋さん「ファミリーカットサロンE.T 南越谷店」の、顔見知りの理容師の女性は私よりうんと若い人だ。明るい美女で、よく話しかけてくれる。今日はひとつ話題でも、と思い、自分の薄くなってきた頭髪をネタに、

「抜け毛、ハゲというものは、これは俳句の季語になってましてね、『木の葉髪(このはがみ)』と言って、冬の季語なんですよ。有名な俳人、中村草田男の句に、『木葉髪(このはがみ)文芸長く(あざむ)きぬ』なんてのがありましてね」

……などと、無駄な知識を押し付けて差し上げる。……理容師さんには意味が解らなかったかも知れないが、まあ、理容師さんという職業上、髪の毛ネタというのは多い方がよかろうと思ったようなわけである。

 新越谷の自宅からは、半蔵門線に乗っていけば国会図書館のある永田町まで直通一本なのだが、通勤定期で市ヶ谷まで行けばそこから永田町まではふた駅で、この方が安くつく。それで、平日の通勤と同じように日比谷線経由で遠回りしていく。

 日比谷線の上野まで来てふと、床屋に行って頭もスースーするし、そうだ、この前愛用のカスケット無くしたんだった、同じようなやつをアメ横の同じ店で買おう、と思った。

 アメ横と言う所は、意外に店の入れ替わりが激しい。無くしたカスケットを買った店に行ってみたら、とうに別の、何か中華料理屋みたいな店に代わってしまっていた。

 おっさん向けの帽子を置いているところというのは少ない。しかたなしに他の帽子店を探して入ってみたのだが、どうも、1万円とかいう値札が付いていて手が出ない。贅沢をして1万円の帽子なんかかぶったら、もったいなさのために頭皮がかぶれ、ツルッパゲになる恐れがある。

 帽子を買うのをあきらめて、さてどうしようか、と思う。時間も中途半端である。昼近くなってしまったので、今から図書館へ行っても、文庫本1冊全部は読めないし……。

 神田へ行って「やぶ」か「まつや」に行こう、と思い立った。上野から神田はすぐである。秋葉原で降りれば(ふた)駅だ。

 ところが、いざ「やぶ」の前へ行くと、いつも以上の長蛇の列だ。辟易して、並ぶのをあきらめる。それでは、というので「まつや」に行って見たが、「やぶ」以上の行列で、更に気持ちが萎えてしまう。

 うーん、どうしよう。目先を変えて、日本橋のあたりまで出て、虎ノ門・大坂屋砂場へ行って見ようか、と考えを変える。

 新橋の駅で降りて、通りを歩いていく。烏森(からすもり)口というところから出たのだが、大坂屋砂場に向かってしばらく行くと、右手に色とりどりの(のぼり)が並び立っていて、その奥の方に、なにやら鳥居と燈明がゆかしげに鎮座している。

 覗いてみると、「烏森神社」とある。幟には「心願色みくじ」と書いてあって、なんなんだろう、と惹かれた。

 さほどゆかしいところでもないように見えたが、その実、創建縁起を辿(たど)ると、遠く平安時代に遡る古社で、祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)だという。倉稲魂命というのは俗に言う「お稲荷(いなり)さん」のことだが、普通の稲荷社とはたたずまいが少し違っている。普通の稲荷社は赤い鳥居が何重にもなっていたり、狐の使者(おつかい)が殊更に赤い前掛けをして狛犬(こまいぬ)座に据えられていたりするものだが、全然そういうことがない。

 沢山の人が参拝していたので、寄ってみた。

 さっそく名物らしい「心願色みくじ」というのへ初穂料を納める。神職さんの説明によると、祈願したいジャンルごとに色分けされた御神籤(おみくじ)をひくというものだ。ではひとつ、今日は金運を祈願してみようと思いつき、それをお願いする。金運は黄色の御神籤だ。

 「中吉」をひきあてた。頂いた(くじ)には、心願をジャンルと同じ色のペンで書き込んで、奉納するのである。私は金運祈願であるから、黄色いペンで願いを書き入れ、奉納処へ結びつける。ヒッヒッヒ、儲かるといいなあ。

 さて、そんなことなどありつつ。

 そのまま通りをまっすぐ西へ行けば、数分で東京屈指の蕎麦(みせ)、虎ノ門・大坂屋砂場に着くのだが、着いてみて残念、休みであった。良く確かめずに来たもんなあ。

 一度蕎麦に決まった口腹の欲求はなかなかひっこめられない。ではというので、スマートフォンでGoogle Mapsにアクセスして、すぐ近所の「巴町・砂場」を検索したら、これがまた、Google Mapsの優秀さ、「今から行っても閉まっています」と即座に警告してくれる。

 うーん。

 そうだ、浅草に行くと、仲見世に帽子専門店が何軒かあったなあ、と思い出す。それなら帽子を買って、それから浅草の並木で蕎麦を手繰(たぐ)ればいいじゃないか、と思いつく。都営浅草線で一本、数駅だ。

 着いてみると浅草は相変わらずの混雑っぷりだ。外国人の多いこと多いこと。紺碧の空にスカイツリーの屹立、そりゃあ観光にもってこいだ。

 人をかき分けて新仲見世通りを歩いていくと、「銀座トラヤ帽子店」の浅草店があった。

 こういう帽子専門店は値段が高い。だから立ち寄ってもダメかな、うーん、どうかな、と思ったのだが、年末らしく表に「2千円から」の札の出たワゴンがあって、形の古いものなどがたくさんある。二~三ひっくり返してみると、下のほうから軽くて黒いカスケットが出てきた。思いがけずなかなかいい品物で、縫製も布もしっかりしている。

 カスケット(キャスケットとも)というのは、ハンチングの一種だ。普通のハンチングは前後にまっすぐ縫い目が通り、「3枚はぎ合わせ」が普通だ。ところが、この「カスケット」と呼ばれる帽子は、中心から放射状に6枚はぎ合わせになっているのが特徴だ。戦前の公務員などがよくかぶっていたこと、また、有名なところでは「レーニン」がカスケット好きで、これをかぶった写真が多く残っている。

 乃木将軍と東郷提督が二人でカスケットをかぶった写真も有名だ。

 で、おお、これこれ、こういうのが欲しいんだよな、と手に取っていたら、店員さんが出てきて、「お客さん、掘り出しましたねえ。これ、処分品なんですけど、カシミヤで、なかなか出てない帽子なんですよ。お安くなってますから、いかがでしょう?」と薦めてくる。もとより、これは大変気に入ったので、即決、3千円で買う。かぶって帰る旨伝えると、きちんと値札を切り取り、袋をつけずに手渡してくれる。

 所詮(しょせん)、飛び込みでヒョイと買った安物だ、と気楽な気持ちでいたのだが、後でタグをひっくり返して見たら、この帽子は大掘り出し物だった。「ボルサリーノ」の銘品なのである。

 この帽子の型番は「BS249」というのだが、後でネットで検索したら、なんと1万6千円である。これはまったく、掘り出したものだ。

 ボルサリーノのカシミヤのカスケットが3千円というのは安かった。

 それから、並木通りの方へ出て、「並木藪蕎麦」へ行ったのだが、もう14時過ぎにもなろうというのに、(みせ)前は行列である。驚いた。

 それでも、15分ほど並んでいたら入ることができた。

 ぬる燗で酒を一本。ここの通しものは固く練った蕎麦味噌で、辛口の菊正宗によく合って、うまい。

 いつもなら蕎麦屋の酒は一合くらいにしておくのだが、なんだか(あきた)りない感じがして、焼海苔でもう一合。ここの焼海苔も火の(おこ)った炭櫃(すみびつ)で出してくれ、ホカホカのパリパリに乾いていて旨い。

 一杯ほど酒の残っている頃おいに、「ざる」を一枚。並木藪蕎麦独特の塩辛い蕎麦(つゆ)は、何度来ても飽きないおいしさだ。

 蕎麦湯をたくさん飲んで、ホカホカに温まって舗を出る。今日は冬麗(とうれい)にも拘わらず気温が低いが、それすら快く感じるほどの酔い心地と温まり方である。

 自作「東京蕎麦名店マップ」に写真を足す。

 せっかく浅草にきたのだから、と神谷バーに寄る。

 電気ブランを一杯。肴に枝豆を頼んだら、店員さんが「すみません、今日枝豆ないんです」と珍しいことを言う。仕方なしに、たまたま目についた「公魚(わかさぎ)の天婦羅」を頼む。単に安いから頼んだだけだったのだが、これがなかなか大ヒットの旨さで、よく揚がっているし、種も美味しく、思いがけない口福が得られたことであった。

 酔っ払って帰宅。

初冬の駒形どぜう

投稿日:

%e9%a7%92%e5%bd%a2%e3%81%a9%e3%81%9c%e3%81%8628%e5%88%9d%e5%86%ac 同期生たちと、浅草「駒形どぜう」へ泥鰌(どじょう)(なまず)をつつきに行った。珍しい料理で面白おかしく飲んで、大いに笑いあった。

 そのあと、神谷バーで電気ブランをてんでに注文し、楽しい宵だった。

 (写真は、中央が鯰、右が泥鰌。泥鰌は本当は夏が旬なので、今の時季は多少はずれているが、鯰は寒くなってきた今頃が時季だ。)

浅草・並木藪蕎麦

投稿日:

 忙中有閑。

 最近、蕎麦と言うと赤坂の室町砂場へばかり行っていたが、今日は久しぶりに浅草・並木籔蕎麦へ行った。平成26年の3月以来だったか。ほぼ3年ぶりだ。

 昼時は混んでいるから、行くなら14時半ごろが適当だ。これは東京の蕎麦名店全部に言えることである。この店は中休みをとらないので、なおのこと午後の遅い時間に行くのが良い。

img_4886 とりあえず酒を一合。通しものは固く練った蕎麦味噌で、これが案外に甘く、香ばしい。

 以前は浅い青磁の盃を出してくれていたように思うが、今日は切子硝子(きりこガラス)の盃で出してくれた。酒はいつも通りの菊正宗、落ち着く旨さだ。

 以前に来たときは、客の世話をしていたのはすべて女の人ばかりだったが、今日は若いお兄さんが一人いたのも興味を惹いた。

img_4887 肴に焼海苔をたのむ。この店も下に熾火の入った炭櫃で出してくれる。乾いていてうまい。ごく濃い口の醤油と山葵を添えてくれる。

img_4888 盃に一杯ほど残っている頃おいに、「ざる」を一枚たのむ。

 この(みせ)の最大の特徴は、東京随一とも言える、この辛汁(からつゆ)だろう。だが、単に醤油がキツいとか、塩辛いというのとは違う。複雑な味が様々に溶け込んでいて、旨い。

 蕎麦湯は土瓶で出してくれる。(つゆ)の塩気がきいているので、蕎麦湯に少しずつ差せば全部飲み切ってしまえる旨さだ。

菊正宗 1合 750円
焼海苔 750円
ざる 750円
合計 2250円

 この店の値段は、更科と砂場のちょうど中間ぐらいである。50円ほど値上げしたのかな、と思ったが、記憶違いかもしれない。

 のんびり飲み、藪蕎麦ここにあり、というほどの蕎麦を名代(なだい)辛汁(からつゆ)で手繰って、まあ、安いという程ではないにもせよ、「そんなに高くない」のであるから、まことに幸せである。

 自作「東京蕎麦名店マップ」に写真を足しておく。

出掛ける

投稿日:

 金~土にかけてまた忙しかった。だが土曜には引けた。秋らしいよい天気で、空の青さが美しい。

 今日はじっとしていなくても良い日だったので、最近の(なら)いで出掛ける。

 だが、特に大切な用があるわけでもなし、何をしようと言う目的もなく家から出てしまった。妻子もそれぞれに用事があるので、自分一人である。

 駅のスターバックスで10時ごろまでコーヒー飲んで読書。本はヒョイと持って出てきた、田形竹尾の「空戦 飛燕対グラマン 戦闘機操縦十年の記録」というもので、題名から見てわかる通り、言わずと知れた光人社文庫である。

 著者の田形竹尾氏は、私がこの本を買った時にはたしかまだ存命だったが、7年前の平成19年に81歳で亡くなった。この人は存命の間はむしろ右翼活動や「チャンネル桜」の設立で有名だったが、実は先の大戦中は知る人ぞ知る神技パイロットだった。活躍時の階級は准尉だったが、陸軍の保有するほとんどすべての機種の操縦資格を持っていたと言う信じがたい一事をもってしてもその熟練の程がしのばれる。この本の中にも、連絡機や、重爆などの専門外の機種まで実際に乗りこなし、単に経験するのみならずそれで任務を遂行しているところが出てくる。そのせいもあってか、「陸軍の至宝」の別格扱いで、何かと大事にされ、結果として死なずに済んでいるが、逆にそのせいで多くの特攻隊員を教育して送り出す羽目ともなり、その苦悩がこの本には色濃く(にじ)み出ている。

 専門は三式戦「飛燕」で、この本の最も手に汗握るところは、部下の軍曹とたった2機で36機のグラマンF6F「ヘルキャット」と互角に渡り合った記録である。

 そこのシーンを懐かしく拾い読みするうち、丁度ドリップのグランデ・アイスが空になる。

 スターバックスを出て、思い出して圧着クリンパーを買いに秋葉原へ行く。実はこの前、圧着クリンパーを使うことがあり、その時に少し困ったのだ。

 圧着クリンパーには「オープンバレル用(電装用)」「絶縁被覆用(電気器具用)」「裸端子用」と3種類がある。「電装用」というのは自動車の内装用のもののことだ。

 全部同じようなモンだと思うかもしれないが、実は圧着する刃口、「ダイス」と呼ばれる部分が大きく異なる。オープンバレル用というのは「ふた瘤らくだ」の背のような形で、両側から金属のハネを巻き締めるようなカシメになるし、絶縁被覆用は「目」のような刃口で、絶縁のための樹脂を傷めずに上下にカシメる格好になる。裸端子用は端子の部分を強くへこませてカシメるようにできている。

 先日ちょっとした修理で、絶縁被覆の圧着スリーブを使ったのだが、裸端子用のクリンパーしか持っておらず、電圧が弱いところだったので、「まあいいか」で、絶縁被覆を破らないよう、裸端子用のダイスを注意深く使って修理した。

 それはそれで済んだが、「適正工具を使わない」というのは、実は技術者としては落第である。よく見られることだが、ペンチの柄やレンチの頭を金槌がわりに使って釘を打ったり、ドライバーで缶のふたをこじ開けたり、ということをすると、若い頃は職場の先輩からビンタを喰らったものだ。私は若い頃、バイオレンスでガテンな職場のフィールド・エンジニアだったのだ。

 釘を打つときには金槌や玄翁(げんのう)を、ふたをこじ開けるのには「割柄(わりえ)」やバールを用いるのが適正である。そうしないと工具も材料も傷めてしまい、場合によっては怪我をしたり、人の命にかかわる場合すらある。

 千石電商で絶縁被覆用と裸端子用のダイスが両方ついたのを買う。マーヴェル製で、1800円。

 最近千石電商は店の品物配置が相当変わったので、目当てのものに行きつくのに少し迷う。

img_4619 店を出ると、前から気になっていた「スキットル」が今日も店先に置いてある。千石電商は時々こういう「なんで?」というようなものを置くことがあるから好きだ。このスキットルも、電子部品関係者の間では以前から「なんで千石電商がスキットル?」と話題になっていた。

 そんなに高くないので、どれ、ひとつ、と買ってみた。600円ほど。他に、専用漏斗と薄手のステンレスのショットカップがそれぞれ100円とか60円で置かれているので、それも買う。

 何か面白いものでもないかな、とウロつくうち、はや昼時となる。神田~秋葉原の辺りに来ると、このところ毎週のような気もするが、口舌が「まつや」か「籔」の蕎麦と酒を求めるのである。

 神田川を昌平橋のほうから渡って「籔」に行って見るのだが、開店10分前から行列だ。ウンザリして、たしかもう開いている「まつや」を覗くと、これがまた一杯である。

 なにか、変わったところへでも行くか、と思いつき、たしか、「大坂・砂場」の総本家みたいなのが、三ノ輪のあたりにあったんじゃなかったっけ、とググると、たしかに、出てくる。日比谷線で三ノ輪まで引き返して行ってみた。

三ノ輪・砂場総本家
三ノ輪・砂場総本家
 砂場の総本家というのは三ノ輪のアーケード商店街「ジョイフル三ノ輪」の中にある。店構えは古く、戦後すぐの築だそうである。

img_4568 神田・籔やまつやのような店ではなく、実に静かな、「街の蕎麦屋」の風情の店である。

 黒松剣菱を一合、蕎麦味噌で飲んで、「もり」を一枚手繰る。蕎麦湯は蕎麦粉を濃厚に溶かし込んであって、濃い。

img_4569 店を出て、少し歩いてみるものの、三ノ輪、入谷という辺りは旧吉原の界隈で、ここらへんをうろついたからと言って、今の私にはそう楽しいこともない。

 そういえば七味を切らしていたな、と、電車で浅草へ行く。「やげん堀」で山椒多い目の大辛と、陳皮多い目の大辛を調合してもらう。

img_4573 ふらふらしていると神谷バーが目についたので、入って枝豆なんか摘みながらよく冷えた「電気ブラン」を一杯。

うんこ
うんこ
 国際通りの交差点に立ち、隅田川の向うに堂々と鎮座する「うんこ」の様子を眺めていたら、先々週乗ったばっかりなのに、また船に乗りたくなった。観光船の乗り場は「うんこ」の手前、吾妻橋のたもとの北側にビルがあり、そこから乗れる。

img_4579 今日は「ホタルナ」という最新型のクルーズ船に乗った。バーボンのポケット瓶を一本買い、用もないのに飲みながらお台場まで行く。

img_4590_trim まことによく晴れた秋空の下を、船は揺れもせず淡々と水を切ってゆく。いつもと同じで、外国人観光客が多いようだが、今日は特に中国・朝鮮の人が多かった。先日と違って今日は白人があまりいなかった。米国やヨーロッパでは、もう夏休みも終わりなのだろう。

 お台場海浜公園で船を降りる。酒ばかり飲んでいたので腹が減り、「よってこや」というところで煮卵入りのラーメンを食う。

 用もなく船に乗っただけだから、別にすることもなく、お台場からゆりかもめに乗り、新橋から京成に乗った。押上で降りてスカイツリーラインに乗り換えて帰ろうと思ったら、酔っ払っていたので寝てしまい、「高砂」とかいう知らん駅まで乗ってしまった。どこだココ。

 北千住へ引き返し、普通に帰宅。

川を気まぐれ

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 昨日の金曜日から泊まり込みだった。盆明けとは言え、まあ、こうなってくると、精霊のみならず人間様も木仏石仏金仏(きぶつせきぶつかなぼとけ)みたいな扱いである。いやはや。

 土曜日の今朝終わって、ヤレヤレと帰りかけた。曇り空、天気図には台風が三つも太平洋上を(うごめ)いている

 ともかくも帰宅しようと電車に乗る、すると、ようやく中央線秋葉原まできたかな、と言う辺りで沛然(はいぜん)たる豪雨。稲妻、雷鳴。もとより徹夜でくたびれ切ってしょげかえっているところへこれはなかなか辛い。コーヒーでも飲んでいくか、とJR秋葉原「atre(アトレ)」の3・4階にあるスターバックスでアイスコーヒーなんか飲んでいるうち、あんなに不機嫌だった空が、まったく無邪気に晴れ出した。

 まず、「女心と秋の空」とはよく言ったものだ。怒らせちゃアいけませんよ女の人は、ええ、ええ。

IMG_4178 さておき、既に11時くらいにはなってしまっていたから、じゃあ気晴らしに好物でお昼にしよう、と神田の「やぶ」へ行き、火災以来建て替わってからできた、窓際のカウンター席に陣取る。

IMG_4180 とりあえず、菊正宗を一合、それから焼き海苔をとる、酒を頼むと蕎麦味噌がついて来るからそれで半合飲んで、それからホカホカのパリパリに乾いた焼き海苔でもう半合飲む、そうすると、ささくれ立つどころかもうトゲなんか全部抜けちまってハゲみたいにつるつるになった陰惨な心が、ほんわりとピンク色にあたたまって、気持ちよくなってくるでしょ。

IMG_4183 まず、そうしたところへ好きな食べ物をしたためるのはまことによろしい。杯に一口ほど酒の残っている頃おい、(おもむ)ろに「お姉さん、せいろをひとつ」と頼む、実にいい間隔を置いて、神田・やぶの独特の緑色の蕎麦が運ばれてくる。これは新蕎麦の具合をいつも楽しめるよう、青い蕎麦の搾り汁で香りを付けてあるんだそうであるが、それを、やあ、来た来た、とさっそく手繰り込もうとしたら、隣に白人の夫婦が座り込んでしまった。

 東京の名店なので、今の時季、白人の観光客は多い。日本に大いに親しんで貰いたいので、これは結構なことなのだが、蕎麦屋では白人・英語圏の客は困る。なぜかというと、彼らは蕎麦を啜ると文句を言うからだ。以前、上野の籔で気分よろしく「もり」をズゾーッ……と啜ったとたん、隣の白人の女が聞こえよがしに「Ooops!……Headache,disgasting, Oh, Oh……No!」などとつぶやいて見せたことがあり、その時はせっかくの北海道・江丹別産の蕎麦が台無しに思えたことだった。あのなあ、蕎麦ってモンはなあ、ずぞぞぞーっ!!と啜るもんなんじゃい!!覚えとけ夷狄(いてき)めらが。

 その時の気分の悪さを思い出したのだが、そうはいうものの、こっちも別に、遠い国からわざわざやってきた見ず知らずの善良な相手に不愉快な思いをさせて喜びたいわけではない。相手にもうまい物を食って喜ぶ権利があるのだ。そんなコッチの葛藤など知ってか知らずか、隣の白人夫婦はまことに旨そうに釜揚げうどんや蕎麦寿司を食っており、静かそのものであって音なんかもちろん立てるわけではない。それに、神田「やぶ」で蕎麦寿司と菊正宗をオーダーするとは、なかなか趣味のいい白人じゃあないかい。

 ぬぅ……。しかたがない。

 その白人夫婦に気をつかい、あの濃いそばつゆで、名店・かんだ「やぶ」の、あの蕎麦を、無音でちるちる~……と一枚食った私である。

 ああ、こういう、なんだか胸につかえる食い方を強制されたような感じで、蕎麦を食った気がせず、無駄なお金を使ってしまったような気さえした。

 だが、まあ、しょうがない。白人夫婦も行儀のよい知らない日本人のオッサンの隣席で、気分の悪い思いをせずにうまい蕎麦料理を楽しめて、よかったこっちゃ、感謝しやがれ。……コッチはなんだか胸糞悪いが。

 そんなことがあって、だが外に出ると、雨上がりで濃青(のうじょう)の空に、近づく台風の影響か、雲が速く飛び去って行くのがなんともすがすがしい。寝不足で、微醺(びくん)を帯びた五体にはなおさらである。

 なんとなく、隅田川のあたりの、回向院だとか、吾妻橋だとか、そういうところへ行って、「♪遠~く~ゥちぃ~らあちら明かりが揺れるぅ~ぅう~うううう~」と、三門博の一節(ひとふし)、有名な「唄入り観音経」でも唸りたいような、なんだかそういう気持ちになった。いつもならこれで、秋葉原から日比谷線に乗ってまっすぐ帰る。だが今日はなんとなく、JRのほうの改札を再び入り、浅草橋まで乗ってみた。浅草橋の駅は隅田川のすぐそばにあるのを思い出したからだ。

IMG_4184 川べりまで出てみると、繁華な両国の国技館のあたりがチラッと見え、川向うには東京スカイツリーがそびえている。面白そうだなあ、と思ってそっちのほうへ歩いていく。屋形船や観光船が隅田川を上り下りしていて、大きなものの何艘かは接岸して(もや)われている。

 あんなに降っていたのに、嘘のようにケロリと晴れている。

 少し川上へ上って橋を渡り、国技館のあたりへ出てみた。ちゃんこ屋や相撲茶屋が並んでいて、なかなかそれらしい雰囲気だ。向うの方に大きな山門で「回向院」とある。

IMG_4189 山門の脇に立札があり、「旧蔵前国技館より前の、旧々両国国技館は回向院の境内にあり、1万3千人を収容できる壮大なドーム型の建物だったが、戦前戦後にかけて紆余曲折を()、戦後は取り壊された」という意味のことが書かれている。それとともに、「このすぐ後ろの、マンションの中庭に円形の枠取りがあるが、それが旧々国技館の土俵跡だ」みたいなことが書かれてあった。

 珍しいからそこへ行って写真を撮った。IMG_4187

 なるほど、舗装のデザインが少しずらされており、金属製の枠取りが丸くかたどってある。たしかに、相撲の土俵くらいの大きさだ。

 こういうものを、こういう形で保存した関係者の心を思う。昔を惜しみ、だが、新しい時代へ進んだ、という、そこのところだ。それが大事だ。

 写真の、土俵の丸い形がわかるだろうか。今は自転車置き場になってはいるが、丸く土俵をかたどってあるのだ。

IMG_4192 再び川べりへ出ると、さっき観光船が(もや)われてあったところに行き当たった。これは「水上バス」の乗り場だ。

 これはだいぶ前に聞いたことがあって、一度乗ってみたいものだと思っていたのだ。たしか、幕張とかお台場のあたりまで行く筈だ。

IMG_4203 チケットカウンターは乗り場のそばにあり、そこで聞くと、さきほど昼の便は出たばかりで、次の便は14時10分だという。お台場までいく便で、片道でもいいし、往復でこの乗り場に帰ってくることもできるという。片道なら1,130円、往復なら2,160千円だそうな。

IMG_4210 面白そうだから、近くのコンビニでポケット瓶を一本買い、往復チケットで両国まで戻ってくることにして、乗ってみた。

IMG_4214 船は空いていて、音声案内を適宜流しながら、まずゆっくりと浅草まで隅田川を上る。それから今度は引き返して下る。

 浅草に向かう間、それから引き返す間、例の「浅草ウンコ」やスカイツリーもよく見えて、楽しい。IMG_4205

 隅田川には沢山の橋がかかっているが、それらは江戸時代から同じ場所にかかっている橋もあり、逐次アナウンスしながら下っていく。

 「佃煮」で有名な佃島のあたり、佃大橋をくぐると、「佃煮と言うのは大阪の佃村から江戸へやってきた上方の人々の保存食で、もとは関西由来、今のように甘じょっぱく煮絡めるのではなく、塩茹でが元の姿であった」というようなアナウンスが流れてきて、おうおう、それそれ、ソレよ、と楽しい。

IMG_4248 松尾芭蕉ゆかりの地に建つ芭蕉記念館や、築地の卸売市場、勝鬨橋や浜離宮を通り、レインボーブリッジの下を通り抜ける。

 浜離宮の松林から下手を見ると、東京タワーがすっくと屹立している。スカイツリーの威容ももちろん堂々たる最新鋭だが、今となっては古色もゆかしくもの寂びてさえ見える東京タワーが、かえって確固たるものにも見えてこようではないか。IMG_4284

IMG_4264 お台場のフジテレビの社屋は、観光客、特に白人観光客には大ウケで、みな船の屋上へ飛び出して、「自撮り棒」を取り出しては写真撮影に余念なく、中にはこのクソ暑いのにニッチョリと抱き合ってディープキスをヌチョヌチョとぶちかましている連中もおり、まあ、しょうがないか、と。
 
IMG_4310 そうやってなにやら楽しく帰ってきたら、楽しいのもそのはずで、安バーボンのポケット瓶は、2時間ほどもあったものだから、すっかり空になってしまっているのだった。

 帰りは錦糸町あたりへ回ってもよかったが、通勤定期がもったいないので、両国からおとなしく秋葉原へ引き返す。

IMG_4315 バーボン・ウィスキーがほどよくまわって、ゲラゲラ笑い転げたいような気分で新越谷の駅を降りたら、忘れていた、今日は「南越谷阿波踊り」の初日で、大変な人出だ。私の住む越谷市は、地元名士の建設会社の社長が徳島出身とて、阿波踊りの普及に力を入れており、阿波踊りが非常に盛んなのである。

 帰宅してちょうど日暮れ時、まあ、眠さもあったが、ダラダラと脱力した、楽しい一日だった。

 

今日の成り行き

投稿日:

 今日は休みであった。

 先日、職場で廃棄ハードディスクドライブが2台ほど出てしまった。

 もともと壊れてしまったのはRAID5の中の1ドライブだ。わざわざRAID5にしているのはここで、これならデータの損失はないし、これまでの使用時間から言ってもやむを得ない。処置して事なきを得るかに思われた。サポートを頼み、ドライブを交換してもらった。

 ところが、である。最近の工業製品の余命というものは、複雑緻密きわまりない設計と驚くほど精密な製作によって、計算通りにピタリと尽きる。まるでタイマーでも仕込んであるようで、逆に感嘆せざるを得ない。つまり、同じ製品は同じ時期に壊れる。所謂(いわゆる)、「MTBF」(Mean Time Between Failure、平均故障間隔)が同じだからだ。

 そういうワケで、私の職場のRAID5も、ドライブ1本を差し替えた途端、冗長ディスクのもう1本が時をほぼ同じうしてイッてしまった。そりゃ、そうだろ、同じ時期に製造された品物を同じ時期に購入して、まったく同じ時間運転してきた同じMTBFの機材なんだから、似たような時期に壊れるのは道理というものだ。

 これは「よくある」けれども「最悪」である。リビルドする前にドライブ2台がイッちまったんだから。RAID5のドライブ2台が同時にイッちまうのは泣くに泣けぬ。「よくある」ってのは、基本的にRAIDは同じ銘柄、同じ種類のハードウェアで構成しなければならないが、先に述べた如く、同じ時期に調達したドライブは当然同じMTBFである。しかも、これは新規調達時期でないと手に入らない。というのも、最近のIT業界の経営スピードたるや、ほんの10年前の10倍には達しており、去年発売のドライブなど、市場で調達しうるかどうかも心もとない、という状況にあるからだ。

 幸い、運用の裁量の範疇で、テープにバックアップを取ってあったから、すぐに両ドライブとも交換を命ずることができた。

 ゴロン、と、ハードディスクの廃品が二つ出た。

 私の勤め先は大組織だが、私の一次所属先はまことに小さなところで、こうしたことは自分たちで始末しなければならない。

 製品の利用条件通り、製造元に持って帰ってもらうとマズい。故障品とはいえ、いろいろとデータが入っていたドライブだ。仮にイッちまったのが電子回路のみだったとしたら、引き渡したドライブのプラッターを取り出せば、いろいろと読み取られてしまう。そういうことが起こって責任問題となり馘首(クビ)になるというのなら潔く馘首にもなってやるが、賤職ごとき、免職になったからと言ってそれで済むのは私だけで、たくさんの人たちが(こうむ)る迷惑は(あがな)えない。責任の取りようがない。

 しかたがない。製造元と調整して、こちらで廃品ドライブを破壊して返却することを了承してもらった。

 最近はこういう調整もなかなか簡単ではない。昔なら、業者さんも「ああ、いいですよ、ドライブの二つや三つ」と鷹揚だったが、故障を偽って正常なドライブを交換し、横流しして懐に入れるというようなことがままあったものだから、交換した古品は持って帰って調べを受けなければならず、それが故意に壊されていたとあっては、フィールドエンジニアさんも独断では説明することが難しい。しかし、そこはよく頼んで調整してもらい、了承を得た。

 さて、そうなったらそうなったで、破壊、ったって、私の職場は工場ではないので、工具なんかない。下部には大工場もあるが、なにぶん大組織で、しかも腐っているので、私の立場から系統を通じてハードディスクドライブの破壊処理を命じたら、書類の始末だけで2年くらいはかかってしまう。そんなばかばかしい調整など、ハナからする気にもなれない。Fuck’in(笑)。

 それで、私物の電動ドリルと鉄工用のドリルビットを職場に持ち込んで、破壊処理をすることにした。普段、家の修繕などに使っているドイツ・ボッシュのインパクト機能付きのやつと、適当に選んだ5ミリほどの鉄工用ビットを職場に持って行ったのである。プラッターのところや緊要なコントローラのところを狙って、10か所も穿孔すれば、たとえ分解して磁気顕微鏡で解読したところで、ろくな情報は読み取れない。

 職場に私物工具一式を持ち込み、もくろみ通りダークな情報を飲み込んだドライブはズタズタに破壊できた。

 だが、私物ビットもズタズタになってしまった。そりゃそうだ、如何に長年愛用の鉄工用ドリルビットと言えど、完璧を期して、プラッターだけではなく、中心部の回転軸までバスバス穿孔したのだ。現代の超高速高密度のハードディスクドライブの命脈である回転部には超硬度のベアリングが仕込まれており、私ごときが私物で持っている程度のドリルビットでは歯が立たないのである。それを無理やり力任せに穿孔破壊したのだ。破壊中には火花が散り、刃先が赤熱して下に敷いていたダンボールに引火したほどであった。結果、十分に塗油していたにもかかわらず、刃先はナマクラ、加えてビットの根方が折損してしまった。ぬぅ、結構高かったんだがコレ。しかし、古いものだからあきらめるよりほかにない。

 ドリルビットは家で修繕や工作をするのによく使うから、ないと困る。

 前置きが長いが、今日秋葉原に来たのは、これを買いなおすためだ。

 千石電商に行くと、目当てのスチール用のフルセット、21本組が2千円くらいである。これと、ドリルビット用の研ぎ工具も買った。他に、自転車用のLEDランプなんかが300円とかで売っているからこれも買った。こういうものがいくらでも売っているから秋葉原は好きだ。

 さて、秋葉原と神田は隣街とは言うも愚か、ほとんど完全一体不離の街と言ってよい。そりゃあ、せっかく来たのだから、昼めしは蕎麦に決まっとる。

IMG_3994 「神田・やぶ」も、もちろん見捨てるわけにはいかないが、ついこの前も行ったばかりだから、今日は御無沙汰している「まつや」だろう。

 まつやで焼き海苔を肴にとって、蕎麦味噌と一緒に一合、それから「もり」を一枚。かー、やめられまへんて。IMG_3995

 蕎麦を手繰ったらさっさと帰ろうと思っていた。万世橋の方向へだらだら歩き、神田川のきらめきを見ていると、ああ、そう言えば(つば)広の中折れ帽を長女に取られたんだったと思い出した。コッチはだんだんハゲてきてるっていうのに、長女のヤツぁ、親父の帽子を無心するとは。今日はだから、素頭(スアタマ)で出てきたのだ。愛用のカスケットは夏には暑いし。

 暑いし、ハゲに悪いし、思わず旧万世橋駅の煉瓦ガード、「mAAch エキュート」へ逃げ込む私であった。ここはひんやりと涼しいし、静かで、飲み物も食い物も、商品も洒落ている。IMG_3996

 上野へ行って帽子を買おうかと思ったのだが、面白そうだから浅草へ行ってやれ、と思った。

 押上の駅で降りて、ダラダラ歩いていく。吾妻橋の向うに名物「浅草ウンコ」が見えるから、橋のたもとで自撮りしたら、頭にウンコがくっついたヒドい写真になってしまった。IMG_4004_arrow

 ここまで来たのだから、「業平橋(なりひらばし)」を見てみようと思った。東武スカイツリーライン・東京スカイツリー駅というのは、これができる前は在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの地で、「業平橋駅」という小さな駅だったのだ。だが、この業平橋そのものの実物はついぞ拝まずに過ごしてきてしまった。いい機会だ。

 業平橋は本当に小さな橋だ。橋のたもとは、子供たちが遊べる親水公園になっている。IMG_4008

 小倉百人一首に

 ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くゝるとは

 また古今集に

 名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

 いずれも業平これを(つく)るとされる。

 業平橋を渡って隅田川の向うに下ったら、やっぱり威容を誇るスカイツリーの野太さが私を呼ぶ。実は愚娘(ぐじょう)どもが小さい頃から、何度も東京スカイツリーには来ているのだが、やっぱり「アホと煙は高いところが好き」なのである。そして私は、アホだ。

 たまたま小遣いを持っていたものだから、つい数千円払って、てっぺんまで上った。

 かねてから、今日は玉音放送があることを思い出していた。ぬぅ。

 スカイツリーのてっぺんに上ったのが14時30分頃。玉音放送は15時ちょうどから予定されていた。

 まず皇居の見えるスポットを探し、そこに位置を占め、宮城遥拝を実行する。IMG_4018周囲の観光客(鮮支英欧米ほか各人種多し)には、あらぬ方(皇居方向)に向かって深々と頭を下げている私がよっぽど変な人に見えたに違いないが、そんなもん知るかボケ。人が何しようがほっとけやアホンダラ。

 スカイツリーから遥拝する宮城は今日も緑の中におさまり、右に屹立する防衛省の電波塔、左に繁栄を謳歌する都心のビル群に囲まれ、今日も静謐に鎮座まします。

IMG_4021 愛用のスマートフォンのワンセグは、さすがに電波発信源の直下で受信しているわけであるから、もう、溢れんばかりのビンビン感度である。

 で、遥かに皇居を眺めながら、玉音放送をすべて見たのであった。

 畏し。謹んで大御心(おおみこころ)を承り、なんとしても国民一丸、挙げてこの問題に取り組むことこそ、御言葉に沿い、かつ国民にとっては「老齢化」ということへの対策となることでもあろう。

IMG_4034 御言葉に打たれたようになって粛々とスカイツリーを下り、押上駅から帰ろうと思ってフラフラ川沿いに出たら、橋のたもとで若いお兄さんが「十間(じっけん)川を船でご案内しますよ~、50分のクルージング~」と売り込んでいる。「川にスカイツリーが逆さに映るから、面白いですよォ~」という文句につられた。船着き場の近くにセブンイレブンがあり、そこでI.W.ハーパーのポケット瓶を買って乗ってみた。

IMG_4046 無邪気で気楽な昼の川見物で、鬼平犯科帳に出てくるような十間川を旧中川まで、ゆっくりと下るのだ。

 おお、確かに、これはスカイツリーが晩夏の暮れ加減の逆光の中、逆さに水面(みなも)に写って、まことに面白い。川風を胸元に入れながら、ハーパーのポケット瓶は瞬く間にカラになった。IMG_4038

 船着き場に帰り付いて、スターバックスでドリップのトール、冷たいハウスブレンドを一杯。

 今日はそんなことをして、なんだかダラダラと無計画に日を送った。