「後の月」は一昨日、旧暦九月の十五夜は今日、天文学上の満月は明日の昼。
タグ: 満月
旧暦一月十五日
二日ずれ望
仲秋の名月は旧暦八月十五日で、今年は一昨日の9月15日だった。
だが、天文学上の朔望は、完全なものは日本では夜ではなかったり、日の境を超えたりするので、最大2日弱ずれる。
このため、旧暦八月の本当の「望」、すなわち満月は、仲秋の名月から二日後の今日である。
このあたりは国立天文台の暦要項に計算の上で端的に記載されている。
- 国立天文台・平成28年暦要項(国立天文台サイト、PDF)
これによれば、本当の望は今朝の未明4時5分なので、いつの夜に近いかと言うと今夜と言うより昨夜に近い。
今、外に出てみれば、秋らしくもなく
今日はだいぶ涼しい
昨日の埼玉は暑いところでは35度にも達し、病院に担ぎ込まれる人が数十人も出たという。たしかに、昨日、私は自宅で静かにしていたのだが、夕刻外出する頃にはなにやら目が回る心地がした。「なぁに、気のせい、気のせい」くらいのことで済んでしまったが、35度にもなろうという室内に一日もじっとしておれば、そりゃあ、
さておき、今日は打って変わってだいぶ涼しい。旧暦五月十五日とはいうものの、望月は明日だ。晴れれば煌々と明るい夜だろうが、この涼しさと引き換えの曇りなら月は見えまい。
いつも通り氷を砕き、とろとろとウィスキーを
月は忌むべきものではない
秋の名物と言えば月である。しかし、「中秋の名月」が終わった途端、誰も月を見なくなってしまうのは残念なことだ。人々が三々五々祭りの喧騒から帰ってしまうような感じは、なんとしても惜しい。
最近は欧米白人の言説に惑わされてか、「月の光を浴びると狂気が生じ、犯罪が多発する」なぞと言いふらす輩が増えているが、古来日本人は四季のはっきりとした日本の風土とともに独自の文化をはぐくみ、月を美しいものとして鑑賞してきたのであって、月を見たからと言っていちいち欲情したり犯罪に走っておっては身が持たぬ。
一般ピープルは中秋の名月を見終わってサアヤレヤレ、ほなサイナラ、と月から去ってしまうが、私のような玄人(マテ(笑))は、ここからが違う。万事、「人のゆく裏に道あり花の山…」なのである。
中秋の名月にしても、私なぞ、十五夜で大騒ぎはせぬ。まず、その前日、「十四夜」で騒ぎ始める。十四夜は「
さて、そうして十五夜を迎え、人々の喧騒が去った翌夜、また私の出番(笑)となる。
十五夜の翌夜は、そのまんま「十六夜」と言う。これは
この次もまだある。中秋の名月の二日後の月を「
これくらいかというと、まだまだ月は終わらない。その翌晩の月を「
まだありますよ(笑)。十九夜、つまり四夜後の月、もうこうなってくるとだんだん下弦に近づいてくるのであるが、この月を「
これで終わりかと思ったら、まだまだ引っ張りますとも、ええ。二十夜の月を「
で、二十夜も過ぎると、見えるところに月が上がってくるのは、午後九時ほどにもなってしまう。こうなると、月のことを言っているにもかかわらず、月を指して言わずに「宵闇(よいやみ)」なぞと言ってみたりする。
さて、中秋の名月に続く夜々はこんな具合だが、まだ秋の月は終わらない。なかなかシツコイ(笑)。そのひと月後、つまり旧暦九月十五日(今年は10月19日(土)にあたる)も、当然満月である。これを「
豆や栗を供え、「中秋の名月」のように月見をする。中秋の名月にだけ月見をして、この十三夜に月見をしないと、「片月見」と言って縁起がよくないものだそうな。
なんにせよ、月は美しい。カレンダーというもののない昔の、文字の読めない人たちでも、「空にカレンダーがかかっているように」、月の満ち欠けで日にちを知ることができるという実用上の意味も月には大いにあった。妖怪や犯罪、性欲なぞ言う無粋なことはこの際置いて、かぐや姫のおとぎの居所を眺めてしみじみしたいものである。