(じん)(ちょう)()馬酔木(あせび)

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 赤花の沈丁花が咲き始めた

白花沈丁花赤花馬酔木

 一方、同じく庭に植えた白花の(じん)(ちょう)()と赤花の馬酔木(あせび)は、今日はこんな様子だ。

 春と言うのは、本当に嬉しいものだ。

(かん)()

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 昨夜思い付いたとおり、朝から庭に出て、花壇の敷砂利と防草シートを上げ、(かん)()を施した。

 躑躅(つつじ)皐月(さつき)(じん)(ちょう)()馬酔木(あせび)の紅白それぞれ、それから枯れたかに見える矮性の百日紅(さるすべり)の根元の周囲にも肥料を()き込み、乾き気味の土にたっぷりと水をやった。

 残念ながら、5株の折鶴蘭(オリヅルラン)は枯れたかに見える。根からまた生えればよいのだが、とわずかに希望を残し、抜かずそのままにする。

 不食(クワズ)(イモ)の葉がすっかり萎れてしまったのを鋏で伐る。これは放っておいても暖かくなるとまたニョキニョキ大きくなることは、多年にわたり実証済みである。

 白花のほうの馬酔木に少し元気がなく、ちょっと心配な感じがする。

 紅白それぞれの沈丁花は、はや、なかなか大きな芽をつけている。春が楽しみだ。

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 涼しくなったので、庭木に「お(れい)(ごやし)」をやることにした。

 庭には皐月(サツキ)躑躅(ツツジ)沈丁花(ジンチョウゲ)馬酔木(アセビ)百日紅(サルスベリ)などを植えたが、思いがけず見事な花をつけた百日紅(サルスベリ)などは急激に葉を落とし、まるで枯れ木のような趣になってしまっている。体力を消耗したのであろう。

 化成・有機の混合肥料、5kg入りのものを一袋(もと)め、それぞれの株の周囲に()き込み、タップリと水をやった。

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花壇上の段、左が皐月、右が白花(ジン)(チョウ)()。白い()入りは折鶴蘭(オリヅルラン)
下の段、折鶴蘭と赤花馬酔木(アセビ)。花壇の外の大きな葉は不食(クワズ)(イモ)

 庭に皐月(サツキ)を植えようと(かね)てから考えていた。

 先週そう思っていて、近所のホームセンター「ケイヨーデイツー」の園芸売り場へ行ったのだが、生憎(あいにく)なかった。

 しかし、今日行ったら置いてあった。品種は「(おお)(さかずき)」というそうだ。品札にそう書かれていた。

 花壇の左の奥に植えた。

 庭に植えたいと思っていた庭木の類は、これで全部である。あとは宿根草・多年草、一年草の類を少しだけ、気の向くまま植えようと思う。

日曜日

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 昨日の雨はカラリと上がり、今朝は真っ青な空になった。気温は22℃ほど、爽やかだ。

 冷房を止め、窓を開け、久しぶりに熱いコーヒーを()れる。トーストにバターとチョコレート、ジャムを添えて朝食にする。

 YouTube Musicで機嫌のよい音楽を聴く。「涙のアベニュー」「ラチエン通りのシスター」。

 最近、Google Play Music が「近々サービスやめるから、アップロードした mp3 やなんかは YouTube Music に移行してくれ」みたいなことを言ってきて、ワン・クリックの移行(マイグレーション)サービスを推奨(リコメンド)してきた。まあ、音楽ビデオも時々YouTubeで楽しんでいるので、それと一緒に楽しめるならこれは結構なことであるとも思う。これからはコッチを使うとしよう。移行はボタンをクリックしてしばらく待つだけだ。さっさと移行し、最近買った「Google Pixel 4a」にも、YouTube Music アプリをインストールした。

 妻とシリアスな話をし、そのあと一緒に庭の百日紅(サルスベリ)を見に行く。

 この百日紅は8月末の土曜日に植えた。もう花は終わっていたのだが、先週の日曜日、チラリと一つ、花をつけた。見守っていたら、1週間でこんなに咲いた。

 百日紅の花季は(さん)()九十日、今はもう立秋も遠く過ぎて秋も半ばであるから、今時分にこんなに咲かせるのは良くないかもしれない。もう少し涼しくなったら(こやし)をやってほめてやらねばならないだろう。

 秋と言えば、植木の植え替え時である。

 近くのホームセンターへ行って、日向(ひなた)むけに久留米(クルメ)躑躅(ツツジ)をひと鉢、日陰むけに馬酔木(アセビ)の白花のものと桃色のものとを、それぞれひと鉢ずつ、買ってきて、植えた。

 久留米躑躅の品札には「(ちく)()(べに)」、桃色の馬酔木には「クリスマスチェアー」と品種が書かれている。白い馬酔木はそのまんま「白花あせび」と書いてある。

 庭の南東角の花壇に久留米躑躅を、2段になった中央の花壇の下のほうに桃色の馬酔木を、南西角の花壇に白花の馬酔木を、それぞれ植えて、柄杓に2杯ずつ水をやった。

 あちこちにチラホラ顔を出す藪枯(ヤブガラシ)(ドクダミ)に、霧吹きでグリホサート剤をチョイチョイとかけて回る。先週かけたところは黒く、あるいはすっかり薄茶色に枯れて、ところによっては消滅している。

 昼めしに焼きそばを食べる。青海苔と妻の手作りの紅生姜がたっぷり乗っている。妻によると、最近、蒸し麺の使い方に得るところがあったそうで、安物の麺なのに味も(コシ)も良い。キャベツの歯応えもよく、鮮やかな味で、旨い。

 近所のスーパー「ビッグA」に行ってウィスキーとジンを買う。ウィスキーは久しぶりに「ブラック・ニッカ リッチブレンド」を1本と、いつもの「ティーチャーズ」を1本。それぞれ979円と889円。ジンはニッカの「ウヰルキンソン・ジン」、こっちは799円。ジンは実は妻の飲み(しろ)である。

 熱い風呂を沸かすのも浸かるのも面倒(めんど)(くさ)い。給湯器のスイッチを切り、冷たい水で早々と行水を使う。汗と(あぶら)がすっかり流れ、涼しく気分が良い。

 冷蔵庫から氷の塊を取り出し、かち割りをたくさん作る。普段、氷は製氷皿ではなく、手頃な大きさの樹脂製密閉容器で氷塊を作り、アイスピックで割り削っている。このほうが飲み物がよく冷えるし、旨い。先日、妻が冷蔵庫の自動製氷装置の内部を観察したら、うわっ、と悲鳴を上げてしまうくらい汚れており、しかも手入れの出来ない手の届かないところだったため、自動製氷機能を使うのを止めてしまった、ということもある。

 一杯。ブラック・ニッカをほどほどに注ぐ。先日亡くなった中学校の同級生のことを想う。

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 5月の末頃から長い間かかって家の周囲の砂利の下に防草シートを施工し、ジャングルのように荒れ放題だった庭の雑草を全部抜いて砂利を除け、こっちにも防草シートを施工し、砂利をふるい分けて敷き直した。荒れ放題だった花壇をきれいにして、防草シートを敷き、バークチップや砂利で覆った。

 煉瓦(れんが)やモルタルを買い込んできて、新しい花壇を3つ積み、(ふる)った土を入れた。余計なところには砕石を詰めて突き固めた。

 今日の午後までかかってやっと考えていたところまでできた。結構な重労働で、一人で運び入れた砂利やセメントは合計300kgほどにもなり、反面、私の体重は5キロも減って56kgほどになってしまった。まるで中学生だ。タニタのヘルスメーターで計ると、体脂肪が9%くらいになってしまった。

 余談だが、ダイエットに悩む向きは、めしを食わずに庭でもいじるといいと思う。

 長年空き地だった庭側の裏によそ様の家が建ち(写真の左)、庭は日陰になった。庭づくりには今一つ面白くないが、こういう庭はシェード・ガーデンと言って、日陰だからこそ楽しめる植栽もあるという。

 八手(ヤツデ)や龍の髭、雪ノ下、石蕗(ツワブキ)沈丁花(じんちょうげ)馬酔木(あせび)など、日陰ならではの植物があるというから、ひとつ今度はこれらを試してみよう。

惜春

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 街路の花水木やそこここの植栽の躑躅(つつじ)が咲き始めた。家々のプランターにはパンジーがにこにこと笑っており、野生化した雛罌粟(ひなげし)が側溝の脇に咲いている。知らぬお宅の庭の椿もまだまだ赤々と美しく、(よそお)った女の唇のように視覚に響く。小粉団(こでまり)馬酔木(あせび)が白く上品に咲いている庭の広いお宅もある。

 百花繚乱の候、である。こういう華やかな風景であればこそ、惜春の情も一入(ひとしお)であり、恬淡(てんたん)とは春を去りがたい。

 私は実は植物の俳句を()むのが苦手だ。花や木の名前をあまり知らないからである。植物を見て「これは何の花だ、何の木だ」と言い当てるのは、音楽で例えると、ピアノで弾かれた和音を「レ・ファ・ラです」と言い当てるソルフェージュを音感のない者がするのにも似て、なかなか修行のいることだ。

 「百花繚乱」というのは実は俳句の季語だ。私のような植物に(くら)い者が花咲く時季を詠むのに便利な言葉でもある。ただ、この季語は常用の歳時記には載っていない。が、「花」が一般に春の季語なので、その一点によって季語とするのも間違いではなかろう。

 花に心を動かされながら街を歩いたりなどすると、なんだかむしろ老け込んだような気がして、我ながら少し可笑(おか)しい。人間、年齢と共に動から静へと好みが変わるという。すなわち、子供の頃は動物や乗り物が好きだが、次第に花を好むようになり、次いで樹木、はては盆栽など、動きの少ないものへと好みが移る。ついには流木や水石・庭石などに凝るようになり、石庭を眺めて()()れするようになると人間もお(しま)いなのだそうな。

 さすがに私はまだまだ修行が足らないようで、盆栽に興味は湧かないから、まだ幾分若いのだろう。

 中国の五行説に曰く、春夏秋冬には色があり、それぞれ青赤白黒であるという。青春・朱夏・白秋・玄冬というのがこれであって、言葉として今でも最も使われているのは「青春」である。

 私なぞはどうなのかと言えば、まさか50歳で青春にあたる(はず)もない。と言って玄冬というわけでもなかろうから、多分、白秋くらいにあたるのだろう。

 石庭を眺めて惚れ惚れとはしないが、惜春という意味では、自分の春を惜しんでいる歳ではない。ただ、職場に配置になった新人や、自分の子供たちの春を惜しく思う。