皇居一般参賀~明治神宮初詣

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 去年の正月、皇居の一般参賀に行ったが、今年も行くことにした。

 9時頃自宅を出、東京駅丸の内南口が10時半頃。

 ゆっくりと行列の尻に取り付いたが、なんと混雑すること。

 後でニュースを見たが、平成最多の13万人近くが訪れたというのだから、さもあるべし。


 そうは言うものの、せいぜい3時間待ちというところで、12時40分頃には長和殿前広場に入ることができた。午後最初の御光臨は13時半で、それに先立つ50分ほど前だから、まあ、丁度良いというところだろう。

 それにしても人、人、人の波である。

 天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下、皇族方が定刻にお出ましになり、巨大な波のように人々がどよもす。

 私も感極まって「天皇陛下万歳!」と、肺腑も破れよとばかり絶叫し続けていたら、すっかり喉が枯れ、ルイ・アームストロングか浪花亭綾太郎ばりのシヴい声になった。

 しかし、去年のように周囲に面白いおじさんや迷惑な男女がいるわけではなく、まあ、至って平静な感じの参賀であった。()いて言うなら私の他にも天皇陛下万歳を叫び続ける人が数列ほど後ろにいたことと、私の万歳につられて左隣にいた年配のご主人が天皇陛下万歳を叫び出したことと、右隣にいた白人の夫婦が異物でも眺めるような視線で私を凝視していたことだろうか。

 今年はたまたま、背伸びなどしなくても長和殿のバルコニーが直視可能なごく近いところに位置することができたのだが、残念ながら逆光で、しかも皇居の豊かな緑がガラスに照り映え、御龍顔(ごりゅうがん)御光顔(ごこうがん)は全然見えなかった。だが、これは「無月、あるいは雨月の月夜」と同じで、「そこに在らせ(たも)う」のが良いのである。

 遠回りして乾門まで散歩する。

 竹橋まで歩く。東西線・竹橋から飯田橋、JRに乗り換えて代々木、代々木から原宿まで行く。

 明治神宮に参拝するのだ。今上天皇を参賀したら、今度は明治大帝を偲び、(おそ)(ぬか)づこうというわけである。

 こっちも大変な混雑。

 ともかく参拝を済ませる。わずかな奉納で聖寿万歳から世界平和から自分の生活までよろしくと神頼みするのだから、そりゃまあ、虫の良すぎる話ではある。

 お守りに鏑矢(破魔矢)を一つ頂き、御神籤をひく。明治神宮の御神籤は吉だの凶だのとは一切書いておらず、明治大帝の「おおみこころ」が書き記された誠にありがたいものである。

 朝から何も食わずに家を出、新越谷のスタバでコーヒー一杯飲んだだけなので、夕方にもなってくるとさすがに腹が減り、北参道(JR代々木駅側)を出たところの露店でお好み焼きなぞ喰う。たまには良い。

 家に帰り、御重のもので一杯。

 酔っ払ってベランダに出てみると、思った通り、今日の月齢は望で、大きな大きな、明るく真ん丸のお月様である。

 今日いただいてきた明治神宮の鏑矢と、多摩陵・多摩東陵両陵墓印(大正天皇・貞明皇后)・武蔵野陵・武蔵野東陵両陵墓印(昭和天皇・香淳皇后)を並べてみて、また今日参賀してきた今上天皇陛下・皇后陛下の聖寿万歳を思い、前世紀と今世紀について深く考えるのである。

 (ちな)みに右が今日のGPSトラックである。

コッホと悦痴(エッチ)

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 今日の「Doodle」は、ローベルト・コッホ祝福、とある。明日12月11日がローベルト・コッホの生誕日であるかららしい。

 改めて言うまでもなく、コッホはドイツの医師であり、結核菌の発見者として知られる。だが、その赫々(かくかく)たる業績とは裏腹に、彼は最初から学者として約束されたレールを歩んだ人ではなかった。村の若い開業医として、彼にもまた、蹉跌(さてつ)し、迷い、求道する日々があった。それを乗り越えて、世界に燦然(さんぜん)と輝く微生物学の金字塔を打ち立てたのがコッホその人なのである。

 そうしたことを、私は子供の頃、ド・クライフの古典的名著「微生物を追う人々」で感動とともに知った。

 この本は、実は今でも私の愛読書で、大阪の実家から持ち出して手許に置いている。

 ISBNもない時代の本で、もはや「古書」の部類に入るから、改めて探しても手に入らないと思う。その代わり、岩波文庫から、「微生物の狩人」という題で、同じ原書の別の翻訳が出ている。翻訳者は同じ秋元寿恵夫という人なので、確かめてはいないけれども、題が違うだけで中身は同じなのかもしれない。

 この「微生物を追う人々」/「技術のあけぼの」の合本と、イリーンの「燈火の歴史」、ファラデーの「ろうそくの語る科学」と言ったところが小学生の頃の私の読み物だった。「燈火の歴史」は岩波の文庫本で読んだ記憶が強いのだが、今調べると「微生物を追う人々」と同じ平凡社の世界教養全集に「ろうそくの語る科学」と一緒に収められているから、多分両方を読んだのだと思う。

 子供の頃の私の実家は、今から思うと容赦もなく大人向けの本ばかり本棚に並んでいる家だった。大して裕福でもない割には、家族5人が(ひしめ)いて住んでいる6畳と4畳半の間取りに、ところも狭しと本棚が並んでいた。この40巻近くもある平凡社の世界教養全集もズラリと本棚に収められていた。そんな中に交じって、瀬戸内晴美の「妻と女の間」などというエロ本(まが)いの本や、野坂昭如の「エロ事師たち」だの筒井康隆の「アフリカの爆弾」などというナンセンス小説の類まで、臆面もなく雑然と並んでいたから、小学生の私はそれらを覗き読んで育ったのである。

 一体どういう奮発であったか、父は平凡社の世界大百科事典も全巻揃えて並べていた。当時の大人は、よく頒布(はんぷ)会で逐次刊行の全集ものを揃えたり、月賦(げっぷ)で百科事典など買ったりしたもののようで、私の父もそうしたうちの一人であったらしい。私はこの百科事典で人体解剖図を引き、女性の解剖図の裸体や性器付近の断面図を見て興奮するという、けしからぬ小学生であった。

 変な子供だったんですね、と言われるところだろう。実際そういう、大人の本ばかり読むような子供や友達は私の身の回りにはいなかったから、ある意味孤独でもあった。

 そんな私だから、小学校の性教育など受けるよりはるか以前の、小学校の3、4年生と言った頃から、生殖の秘密などとうに知悉(ちしつ)していたものであった。

 当時の小学校の性教育は、遠回しだったり、伏せられていたりする謎の部分が多く、そのくせ、高学年になり、先に女の子のほうへ性徴が訪れ始めると、生理や月経について教育しておくべき実際上の教育現場としての必要にせまられてか、女の子だけの「別建て授業」の性教育があったものだ。担任の先生が「今日は女子だけ集まりなさい」などと講堂へ女の子たちだけを連れて行き、男の子たちは適当に放置されるのである。

 そんな授業の後、男の子たちの間でちょっとした議論や論争が起こる。女子は一体何を習っておるのか、というのが焦点である。しかし、男の子たちだけで妄想の域を出ない推測や論争をしてみても決着するはずもなく、さりとて女の子に聞いてみたところで、皆フンと無視するか、せいぜい含羞(がんしゅう)の表情でプイとあっちへ逃げてしまうばかりで教えてなどくれない。

 (らち)が明かず、遂に意を決した代表の男の子、頭はいいのだがどうも子供じみた級長格、今現在この場の、センシティブな空気を読むことなぞ到底できそうもない、糞真面目で幅のない性格の何某(ナニガシ)君が、調子ッぱずれに顔を紅潮させ、

「先生、女の子だけで何を習ってるんですか、なんで僕らは()け者なんですか、なんの説明もなしに、女の子だけ不公平やないですか、納得いきません」

……などとしつこく問いただし、ウンザリした先生から

「ガキのくせにウルサイっちゅーねんっ、じゃかましいわアンタらッ!!」

と怒鳴りつけられたりするという一齣(ひとこま)もあった。

 そうした場面で、私はというと、小グループの真理探究派男子に対して排卵、子宮、性行為、男性の肉体とその果たす役割等々、小声かつ滔々と該博な性知識の一端を披歴に及んでいたものだから、この精密な知識が男子女子問わず子供たちの耳から口、口から耳へ、「佐藤君説」として伝播し、自分のお父さんやお母さんに「佐藤君がこんなん言うてるんやけど、ホンマか?」と確かめるような子もいたのだったかどうだったか。どうやらそれが本当の事らしいと判明し始めるや、児童生徒、また父兄の間においてさえ「佐藤君は物知りやけど、悦痴(エッチ)や」ということになってしまい、女の子たちからは「エロ野郎」ということに決めつけられていて、スカート(めく)り常習犯の前科もこれあり、サイテーな(さげす)まれ方をしていたのであった。

 そんな該博な性知識を持つにもかかわらず、あべこべに私の肉体は晩熟で、中学校の2年の終わりくらいまで「声変わり」がなく、発毛その他の性徴は更にその後、中学校3年にもなってからのことだったから、とても恥ずかしかった。回りの皆がニキビだらけになってむくれ返っている頃、私はいつまでたっても色白のプニプニ肌スベスベ()ッぺの痩せぎすで、これは大人になってもあまり変わらなかったが、そんな男らしくない自分がほとほと嫌であった。

 さて、話を読書に戻す。 

 私は頭はあまり良くないから、学問などには不向きで、中学校を出てさっさと給料取りになった。

 職場は、本を読もうなどと言う習慣のない男がほとんどの「DQN(ドキュソ)」職場である。だから、私はそこでも悶々鬱然と孤独であった。

 朝から晩までプライバシーもまったくない職場で、朝晩、仕事、眠っている間も常に上司・同僚・部下と起居しているから、余暇に変な本なんか拡げて読んでいるのを見られたりすると目立ち、「気取った嫌な野郎だ」ということになって標的となり、いじめられてしまいかねない。その頃周囲の者が読んでいたのはエロ本か漫画雑誌で、多少字を読む部類の者でも、せいぜいスポーツ新聞を広げるのが関の山であった。なので、私もその頃はよく漫画やエロ本を読んだ。無聊(ぶりょう)な時には煙草を()うぐらいしかすることがなかった。

 しばらく経って、私は当時の職場があった旭川市の郊外に一人でアパートを借りた。そこでは人目につくことなく、本当にたくさんの本が読めた。「IKコーポ」というそのアパートのことを懐かしく思い出す。また、その一室に自分の電話を引き、当時大きくなり始めたところだった「Nifty Serve」でパソコン通信を楽しんだことも懐かしい。

 そのアパートを借りていたのは20年以上前の事なのだが、Google MapsのStreet Viewで見ると今もまだある。もう行くこともないし、自分が借りていたあの部屋へ入ってみることなど絶対にないのだなあと思うと、少し感傷する。

言葉
孜々(しし)として

 「マキマキとして」とか「ボクボクとして」「マイマイとして」などと読む人がいそうで、実際そういう風に読んだ人がいたような覚えもあるが、これは「シシとして」である。

 普通は「孜々として勉学に取り組む」などというふうに使う。上掲の「微生物を追う人々」の111ページ、ローベルト・コッホの章の冒頭、前半生の学生時代の描写で

(上掲「微生物を追う人々」から引用)

 パストゥールが酢製造業の危機を救ってやったり、皇帝一族をびっくりさせたり、カイコの病気の原因をつきとめたりしていた1860年から1870年にかけてのあの驚天動地ともいうべき興奮にみちた年代に、ゲッチンゲン大学では一人の小がらなきまじめな近眼のドイツ人がドクトルを目指して孜々として勉学にいそしんでいた。彼の名はローベルト・コッホといった。

(下線筆者)

 
孜々汲々(ししきゅうきゅう)として取り組んだが、甲斐もなかった」という書き方にも使われるところからすると、「孜々として」というのは、どちらかというとポジティブなイメージの言葉ではなく、貧乏くさくコツコツと不器用にまじめにやるようなイメージだろう。

 「孜」という漢字そのものは、「子供を督励して勉強させる、努力させる」という意味らしい。つくりの「攵」というのは「攴」という漢字の異体字で、同じ漢字だそうだ。これは「ボク」と読み、擬音である。「孜」は「子供をポカッ(ボク)と殴って頑張らせる」という、今の私達からすると児童虐待と感じられてしまうような、オッソロシイ意味なのだそうな。……まあ、今と違って、昔は、子供と言うのは殴られるものと決まっていたので。

徘徊

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 徘徊する。

 と言って、今日は徘徊するつもりでもなかった。子母澤寛の「ふところ手帖」を読みたかったから、図書館に行って、いつものように赤坂の砂場で蕎麦でも、と思っていた。

 その前に、床屋に寄る。正月用に調髪するにはまだ早いが、如何(いかん)せん髪が伸びすぎている。

 行きつけの床屋さん「ファミリーカットサロンE.T 南越谷店」の、顔見知りの理容師の女性は私よりうんと若い人だ。明るい美女で、よく話しかけてくれる。今日はひとつ話題でも、と思い、自分の薄くなってきた頭髪をネタに、

「抜け毛、ハゲというものは、これは俳句の季語になってましてね、『木の葉髪(このはがみ)』と言って、冬の季語なんですよ。有名な俳人、中村草田男の句に、『木葉髪(このはがみ)文芸長く(あざむ)きぬ』なんてのがありましてね」

……などと、無駄な知識を押し付けて差し上げる。……理容師さんには意味が解らなかったかも知れないが、まあ、理容師さんという職業上、髪の毛ネタというのは多い方がよかろうと思ったようなわけである。

 新越谷の自宅からは、半蔵門線に乗っていけば国会図書館のある永田町まで直通一本なのだが、通勤定期で市ヶ谷まで行けばそこから永田町まではふた駅で、この方が安くつく。それで、平日の通勤と同じように日比谷線経由で遠回りしていく。

 日比谷線の上野まで来てふと、床屋に行って頭もスースーするし、そうだ、この前愛用のカスケット無くしたんだった、同じようなやつをアメ横の同じ店で買おう、と思った。

 アメ横と言う所は、意外に店の入れ替わりが激しい。無くしたカスケットを買った店に行ってみたら、とうに別の、何か中華料理屋みたいな店に代わってしまっていた。

 おっさん向けの帽子を置いているところというのは少ない。しかたなしに他の帽子店を探して入ってみたのだが、どうも、1万円とかいう値札が付いていて手が出ない。贅沢をして1万円の帽子なんかかぶったら、もったいなさのために頭皮がかぶれ、ツルッパゲになる恐れがある。

 帽子を買うのをあきらめて、さてどうしようか、と思う。時間も中途半端である。昼近くなってしまったので、今から図書館へ行っても、文庫本1冊全部は読めないし……。

 神田へ行って「やぶ」か「まつや」に行こう、と思い立った。上野から神田はすぐである。秋葉原で降りれば(ふた)駅だ。

 ところが、いざ「やぶ」の前へ行くと、いつも以上の長蛇の列だ。辟易して、並ぶのをあきらめる。それでは、というので「まつや」に行って見たが、「やぶ」以上の行列で、更に気持ちが萎えてしまう。

 うーん、どうしよう。目先を変えて、日本橋のあたりまで出て、虎ノ門・大坂屋砂場へ行って見ようか、と考えを変える。

 新橋の駅で降りて、通りを歩いていく。烏森(からすもり)口というところから出たのだが、大坂屋砂場に向かってしばらく行くと、右手に色とりどりの(のぼり)が並び立っていて、その奥の方に、なにやら鳥居と燈明がゆかしげに鎮座している。

 覗いてみると、「烏森神社」とある。幟には「心願色みくじ」と書いてあって、なんなんだろう、と惹かれた。

 さほどゆかしいところでもないように見えたが、その実、創建縁起を辿(たど)ると、遠く平安時代に遡る古社で、祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)だという。倉稲魂命というのは俗に言う「お稲荷(いなり)さん」のことだが、普通の稲荷社とはたたずまいが少し違っている。普通の稲荷社は赤い鳥居が何重にもなっていたり、狐の使者(おつかい)が殊更に赤い前掛けをして狛犬(こまいぬ)座に据えられていたりするものだが、全然そういうことがない。

 沢山の人が参拝していたので、寄ってみた。

 さっそく名物らしい「心願色みくじ」というのへ初穂料を納める。神職さんの説明によると、祈願したいジャンルごとに色分けされた御神籤(おみくじ)をひくというものだ。ではひとつ、今日は金運を祈願してみようと思いつき、それをお願いする。金運は黄色の御神籤だ。

 「中吉」をひきあてた。頂いた(くじ)には、心願をジャンルと同じ色のペンで書き込んで、奉納するのである。私は金運祈願であるから、黄色いペンで願いを書き入れ、奉納処へ結びつける。ヒッヒッヒ、儲かるといいなあ。

 さて、そんなことなどありつつ。

 そのまま通りをまっすぐ西へ行けば、数分で東京屈指の蕎麦(みせ)、虎ノ門・大坂屋砂場に着くのだが、着いてみて残念、休みであった。良く確かめずに来たもんなあ。

 一度蕎麦に決まった口腹の欲求はなかなかひっこめられない。ではというので、スマートフォンでGoogle Mapsにアクセスして、すぐ近所の「巴町・砂場」を検索したら、これがまた、Google Mapsの優秀さ、「今から行っても閉まっています」と即座に警告してくれる。

 うーん。

 そうだ、浅草に行くと、仲見世に帽子専門店が何軒かあったなあ、と思い出す。それなら帽子を買って、それから浅草の並木で蕎麦を手繰(たぐ)ればいいじゃないか、と思いつく。都営浅草線で一本、数駅だ。

 着いてみると浅草は相変わらずの混雑っぷりだ。外国人の多いこと多いこと。紺碧の空にスカイツリーの屹立、そりゃあ観光にもってこいだ。

 人をかき分けて新仲見世通りを歩いていくと、「銀座トラヤ帽子店」の浅草店があった。

 こういう帽子専門店は値段が高い。だから立ち寄ってもダメかな、うーん、どうかな、と思ったのだが、年末らしく表に「2千円から」の札の出たワゴンがあって、形の古いものなどがたくさんある。二~三ひっくり返してみると、下のほうから軽くて黒いカスケットが出てきた。思いがけずなかなかいい品物で、縫製も布もしっかりしている。

 カスケット(キャスケットとも)というのは、ハンチングの一種だ。普通のハンチングは前後にまっすぐ縫い目が通り、「3枚はぎ合わせ」が普通だ。ところが、この「カスケット」と呼ばれる帽子は、中心から放射状に6枚はぎ合わせになっているのが特徴だ。戦前の公務員などがよくかぶっていたこと、また、有名なところでは「レーニン」がカスケット好きで、これをかぶった写真が多く残っている。

 乃木将軍と東郷提督が二人でカスケットをかぶった写真も有名だ。

 で、おお、これこれ、こういうのが欲しいんだよな、と手に取っていたら、店員さんが出てきて、「お客さん、掘り出しましたねえ。これ、処分品なんですけど、カシミヤで、なかなか出てない帽子なんですよ。お安くなってますから、いかがでしょう?」と薦めてくる。もとより、これは大変気に入ったので、即決、3千円で買う。かぶって帰る旨伝えると、きちんと値札を切り取り、袋をつけずに手渡してくれる。

 所詮(しょせん)、飛び込みでヒョイと買った安物だ、と気楽な気持ちでいたのだが、後でタグをひっくり返して見たら、この帽子は大掘り出し物だった。「ボルサリーノ」の銘品なのである。

 この帽子の型番は「BS249」というのだが、後でネットで検索したら、なんと1万6千円である。これはまったく、掘り出したものだ。

 ボルサリーノのカシミヤのカスケットが3千円というのは安かった。

 それから、並木通りの方へ出て、「並木藪蕎麦」へ行ったのだが、もう14時過ぎにもなろうというのに、(みせ)前は行列である。驚いた。

 それでも、15分ほど並んでいたら入ることができた。

 ぬる燗で酒を一本。ここの通しものは固く練った蕎麦味噌で、辛口の菊正宗によく合って、うまい。

 いつもなら蕎麦屋の酒は一合くらいにしておくのだが、なんだか(あきた)りない感じがして、焼海苔でもう一合。ここの焼海苔も火の(おこ)った炭櫃(すみびつ)で出してくれ、ホカホカのパリパリに乾いていて旨い。

 一杯ほど酒の残っている頃おいに、「ざる」を一枚。並木藪蕎麦独特の塩辛い蕎麦(つゆ)は、何度来ても飽きないおいしさだ。

 蕎麦湯をたくさん飲んで、ホカホカに温まって舗を出る。今日は冬麗(とうれい)にも拘わらず気温が低いが、それすら快く感じるほどの酔い心地と温まり方である。

 自作「東京蕎麦名店マップ」に写真を足す。

 せっかく浅草にきたのだから、と神谷バーに寄る。

 電気ブランを一杯。肴に枝豆を頼んだら、店員さんが「すみません、今日枝豆ないんです」と珍しいことを言う。仕方なしに、たまたま目についた「公魚(わかさぎ)の天婦羅」を頼む。単に安いから頼んだだけだったのだが、これがなかなか大ヒットの旨さで、よく揚がっているし、種も美味しく、思いがけない口福が得られたことであった。

 酔っ払って帰宅。

東京蕎麦名店マップ

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 蕎麦道楽が昂じて、東京の名店をマップにまとめてみた。

 この中で行ってないのは、巴町・砂場と、麻布・布屋太兵衛の2店だ。

5月のYoutubeの儲け

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 5月の儲けがやっと出た。

 どうも、例の「世界核実験場探訪」という動画が収益差し止めになったせいで、4月の半額ぐらいしか儲かってない。うーん。やっぱり、Google Mapsそのまんまで小遣い貰おうとしたあさましいところが×なんでしょうね。Google Mapsの地図画像には、細か~く権利が設定されてるもんな。

 しっかし、「アンタの動画はこれこれこうこう、こういう理由で収益差し止め」っていう案内とか情報とか連絡がまったくないんだよな。これじゃ、何をどう気を付けろと言うのか、サッパリわかんねえ。

これはですね、

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 ニュースでこういうことを言っているわけだが……

 コレは、ココである。

 (ちな)みに、核実験場はこの谷を北へ遡っていったところ、ここにある(と言われている)。

上空

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 Google Maps/Earthで遊んでいて、ふと思いついて、去年の秋に飛行機の窓から撮った写真と、Google Earthの鳥瞰画像とを比べてみて、ソックリ同じなのを見てなんだか嬉しくなる。

IMG_3524飛行機から撮った写真

シカゴ上空Google Earthのキャプチャ

風景の映り込みもなかなか侮れない

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 いや驚いた。

 一般のネットユーザが、雑誌の写真記事に写り込んだ立ち木の画像から、Google Maps street viewでそれがどこか突き止めたというのだが、なんともはや、びっくりだ。

その画像
雑誌の立ち木
立ち木と元少年A

 何の変哲もない立木の画像だが、それを照合するとは、ねえ。なんというか、その鬱屈した情熱と言うか。

 私としては、こういうものは話題にすればするほど悪人が儲かる理屈になるのでスルーすべきと言うのが信条なのだが、まあ、今回は、つい。

 というか、なんか、これ、週刊文春がヒントをダダ漏らしして話題を撒いてるような気もするな。その瞬間だけそれこそ「焼き畑農業」的に部数は伸びるもんなあ。世の中の人の屈折した見たがり心理を突けば、さ。

Google Mapsで横須賀あたりの

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 Google Maps~Earthの3Dビューで横須賀の港内なんかを見ると、イージス艦なんかがあったりして、これがなかなか面白い。

乳守(ちもり)」片聞

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 同窓生と雑談チャットをしていて、「堺・乳守(ちもり)」というゆかしい地名を聞いた。

 私は大阪・堺、世界最大の陵墓として有名な伝・仁徳天皇陵や、東京・府中に次ぐ規模の巨大刑務所、大阪刑務所に程近い、田出井町というところの生まれ育ちである。

 乳守。乳守と書いて「ちもり」と読む。たしかに、聞き覚えがある。昔、大人たちの雑談の端にあらわれていた。「堺の旦那衆」の御大尽な遊びの話の中に「戦前にナ……」などという前置きとともに語られていたものだ。

 だが、忘れていた。だから、「乳守」は、同窓生にほとんどはじめて教わった地名と言ってよい。

 遊里である。同窓生によると、京・祇園よりもまだ古い、鎌倉・室町のむかしにまでさかのぼる遊郭(正しくは花街(かがい))であったそうな。堺の古い遊里は高須、乳守の両地区が渾然一体となっていたようだ。

 だがさきの大戦は由緒にも容赦なく、乳守は戦災で壊滅し、今はその片鱗すらもない。現在の地図ではこのあたり(Google Maps)である。

 かの一休禅師宗純が傾城(けいせい)地獄太夫に会ったのは、乳守の(くるわ)であるようだ。一休は堺の名刹・南宗寺に住んだので、乳守の遊里に遊んだとしても不思議はなかろう。「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という歌や、「聞きしより見て美しき地獄かな」「生き来る人の落ちざらめやも」という歌が乳守と一休の由緒として伝えられてあるようだ。

 上方落語に「すみよし茶屋」という噺があり、その中に、この地獄太夫と一休禅師の話がでてくるらしい。また、「三枚起請(きしょう)」という(はなし)にも出てくる。三枚起請のほうは、舞台を吉原に直して、東京でもかかるという。手元の蔵書「上方落語」(ISBN4-06-203330-5)を繰ってみると、「すみよし茶屋」は載っていないが、「三枚起請」は載っている。だが、この蔵書では由緒のある乳守ではなく、「堺の新地から難波(なんば)の新地へ移った(こども)」ということになっているようだ。

 この「三枚起請」のサゲは、「別に(からす)に怨みはないけども、あたいも勤めの身。世界中の烏を殺してゆっくり朝寝がしてみたい」となっている。東京では高杉晋作の作と言われている都都逸「三千世界の烏を殺し(ぬし)と朝寝がしてみたい」にからめて語られるようだ。

 子供の頃の私などが度々耳にすることがあった遊所というと、旧軍隊の衛戍(えいじゅ)地にはつきものの「新地」(『青線』であったろうか)、「信太山(しのだやま)新地」などである。乳守は、いわゆる「新地」の信太山などとは比べものにならぬ、「一見さんはお断り……」の、由緒と格式を持ったれっきとした遊里であったものであるらしい。